■ 手をのばして -Courage to love somebody-



 
 
 歪んだ情愛をいくら叩こうが、これ以上歪みはしない。
 叩いて、叩いて――壊れてしまえばいいのに。
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 祐巳さまは、花寺の学園祭に行ってしまった。
 私は哀訴は聞き届けられることなく、無様に散ったのだ。
 
「……っ!」
 
 今日、私は花寺学院の敷地に入って行く山百合会のメンバーを見てきた。
 その中に祐巳さまの姿もあったのだ。
 もはや、私になす術はない。
 
(どうして)
 
 ベッドの上で、一人歯を食いしばる。
 あれほど私は忠告したのに、祐巳さまは行ってしまった。
 言っても無駄だったということだ。
 
(どうして、どうして)
 
 祐巳さまには綺麗なままで居て欲しいのに。
 自己中心的な願いだとは分かっていても、それが祐巳さまには一番だと思ったのに。
 
(どうして、どうして、どうして――!)
 
 私がベッドに当り散らすたび、スプリングは悲鳴じみた音を立てる。
 
 あそこに行かれたら、私はもう祐巳さまを守る事ができない。
 もし祐巳さまに何かあったらと思うと、背筋が冷たくなる。
 
 もしも祐巳さまが壊されてしまったら――きっと私も壊れてしまう。
 逃げ道は、一つしかない。
 
 偶像崇拝の偶像を、捨てるしか――ない。
 
 

 
 
 花寺の学園祭が終わってから、私は祐巳さまを避けた。
 銀杏並木で見かけた時も、廊下ですれ違いそうになった時も、私はひたすら祐巳さまから距離をとった。
 私は自分の中から彼女を切り離すことでしか、身を守ることができないのだ。
 
 祐巳さまは、私にとって特別でもなんでもない上級生。
 私にとって、どうでもいい人。
 
 そうなれば、私は祐巳さまの安否を気遣う必要もなければ、傷つく心配もない。
 
(祐巳さまは、私にとってどうでもいい人)
 
 何度も自分に暗示をかける。
 慕う気持ちがこれだけで収まるとは思わない。
 それでも会ったり話したりしなければ、時間とともにこの気持ちも風化するだろう。
 
 今の状態が異常なのだ。
 また他人と干渉しない自分に、戻るだけ。
 それだけだというのに――
 
 
 
「可南子ちゃん」
 
 花寺の学園祭が終わって、二日後の火曜日。
 休み時間に、祐巳さまが私の教室を尋ねてきたのだ。
 
「……何か、用でしたか」
「話をしたいんだけれど」
「私には話すことなんてありません」
 
 私は切り捨てるように言った。
 私が祐巳さまについてまわっていた時は、まず自分から声をかけることなんて無かったのに、どういう風の吹き回しなのか。
 
「あなたにはなくても、私にはあるの。聞いてくれるわね?」
 
 しかし祐巳さまは、毅然と言い放った。
 祐巳さまは二年で、私は一年。上級生にここまで強く言われては断れない。
 上級生下級生の関係というのは、本当に厄介だ。
 
「……次の授業がありますので、今はちょっと」
「じゃあ、あらためて時間を作ってちょうだい。放課後でも昼休みでも、好きな方を選んで」
「今日ですか」
「そうよ」
 
 どうした事か、いつもの祐巳さまのような柔らかい雰囲気はない。
 有無を言わさない調子というか、驚くほど押しが強いのだ。
 
「……では放課後に」
「場所は土曜日と同じでいいかしら?」
「はい」
「じゃあ、約束したわよ」
 
 祐巳さまは最後に「ここにいるみんなが証人だって、忘れないでね」と言って、教室を去った。
 どうして、私が望んでないことばかり次々に起こるのだろう。
 私は心の中で、頭を抱えた。
 

 
 放課後になって温室に行くには、多大な労力を要した。
 クラスメートたちが、私が逃げないかどうか尾行してくるのだ。
 
「祐巳さまがあんなことを言うから、クラスメートをまいてくるのが大変でした」
 
 だから私は、祐巳さまが温室に入ってくるなり不満をぶつけた。
 
「逃げると思われたんだ?」
 
 言って、祐巳さまは笑った。
 
 ――まったく、止めて欲しい。
 どうして距離を置こうとしている時に、こうも無防備に笑うのだ。
 
「まあ、待ち合わせの場所をはぐらかしてくれたのは助かりましたが。……それで、話とは」
 
 私が問うと、祐巳さまはすぅ、と息を吸い込んでから言った。
 
「私、可南子ちゃんとこのままにしたくない」
「……何を言っているんですか」
「以前のように仲よくなんて無理だとは分かってる。でも、やっぱり今のままでは嫌なの」
「もはやあなたは、私の憧れていた紅薔薇のつぼみ(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)ではありません。私の理想の人のイメージを打ち壊しておいて、今更仲良くしようなんて、よく言えますね」
「いや、仲よくしろとまでは言わないけど」
「じゃあ、もういいでしょう? 私に構わないで下さい。私のことは、放っておいて欲しいんです」
 
 暫く、そんな問答が続いた。
 干渉して欲しくない私に、仲よくしたいという祐巳さま。
 真逆の意見は、決して解け合う事はない。
 
 いいかげん無意味なやり取りに辟易した私は、温室の出入り口へと足を向けた。
 
「逃げるの?」
「逃げる……?」
「私のことが、そんなに怖い?」
 
 この人は、一体何が言いたいのか。
 あまりに突飛な意見と見下ろすような態度に、私は顔を歪めた。
 
「不快なだけです。憧れの祐巳さまが、ある日とつぜん別の人格に乗っ取られたんですから」
「乗っ取られた……?」
 
 そう――乗っ取られた。
 私より男の言葉の方を信じて、男の事なんか弁護して。
 祐巳さまは何かに乗り移られたように、私の理想を瓦解(がかい)させた。
 
「消えた方の福沢祐巳は双子で、今頃宇宙飛行士になって火星に行っている!」
「は?」
「……そう思う事にして、私と新たに関係を築かない?」
「ふざけないで下さい」
「私は大真面目なんだけど」
 
 頭が痛い。
 時折突拍子もない言動をとる所まで、夕子先輩にそっくりだ。
 それが、酷く私の胸を締め付ける。
 
「じゃあ手始めに、学園祭の手伝いをしてくれない? 山百合会の、劇の」
「何故、私が」
「部活やってないんでしょ? クラスの出し物の合間にでもさ」
「そんな義理はありません。まるで罰ゲームじゃないですか」
「分かった、じゃあ罰ゲームにしよう。可南子ちゃんが負けたら、手伝ってね」
「はぁっ?」
「何で勝負したらいいかな。……そうだ。近いところだと、もうすぐ体育祭があるわね」
 
 祐巳さまは一人ごちるように言うと、矢継ぎ早に勝負の内容を決めていく。
 
 これは勝負というより、ギャンブルに近い――と祐巳さまは言った。
 それぞれが自分のクラスに賭け、勝つように個々が努力する。
 私のクラスが祐巳さまのクラスより上位になれば私の勝ち、その逆なら私の負け、というわけだ。
 
「分かりました」
 
 私は、その賭けにのった。
 学園祭では私の組が赤、祐巳さまの組が緑。例年最下位争いをしていると聞いたから、力はほぼ互角のはずだ。
 しかし祐巳さまの出る種目は『借り物競争』で、私は『色別対抗リレー』。得点配分が高い分、私の方が賭けに勝てる確率は高い。
 それに勝負なのだから、私たちは堂々と敵対できる。ここで勝負から逃げて、また今日のように接触してこられるより、幾分気持ちが楽だ。
 
「それで。赤が勝ったら、祐巳さまは何をしてくださるんですか?」
「え?」
「私だけ罰ゲームのリスクを負うのはおかしいです。勝負というのは、互いの条件が釣り合った状態の時に成立するものではないのですか」
「もっともな意見ね」
 
 しかし、私もただで山百合会の手伝いをするリスクを負いたいわけじゃない。
 対等な条件が必要だ。真逆の意見を押し潰すような罰ゲームに、対等な条件が。
 
「分かったわ。可南子ちゃんの言うことを、何でも一つだけ聞く」
 
 ――提示された条件に、心が震える。
 言うことを何でもきく、という事は、祐巳さまを私の好きにできると言う事だ。
 心の最奥(さいおう)に潜んでいた独占欲が蠕動(ぜんどう)する。
 これほど魅力的な条件は、他にない。
 
「熟考してお返事いたしますわ。お陰で体育祭までの楽しみができました」
 
 私は久しぶりに、祐巳さまに笑顔を向けた。
 
 

 
 
 翌日から私は、クラスの体育祭の練習に参加し始めた。
 今まで練習をサボっていた私に、文句の一つも言わないクラスメートたちには感謝しなければいけない。
 こそこそと私が祐巳さまに何かを言われたからだ、とか言っていたが、事実なので訂正はしなかった。
 兎角(とかく)、体育祭は勝つだけだ。
 
 勿論文句は言って来ないにしろ、不満そうな顔はある。
 縦ロールこと松平瞳子は、時折何か言いたげに私を睨め付けていたが、これだから彼女は嫌だ。
 平素は「協力的じゃない」と言うくせに、いざ協力的になったら不満らしい。
 
 
 
「お疲れさま。ごきげんよう」
 
 今日も夕暮れ時まで、クラスメートたちと自主練習。
 祐巳さまとの賭けは、ギャンブルの要素が強い。
 しかし当日までの準備のしようによっては、勝率五十パーセントが六十パーセントになる事だってあるのだ。
 
「はぁっ」
 
 家に帰るなり、ベッドに倒れる。
 流石に朝、昼休み、放課後と練習を立て続けると、疲れる。
 しかしその疲れが心地いい。身体を動かすのが、楽しい。
 練習の間は、まるで中学時代に戻ったかのような気分だった。
 
 もうすぐ体育祭。
 私はまだ、祐巳さまの罰ゲームを決めあぐねていた。
 
『金輪際私に関わらないで下さい』
 
 言ってしまうのは容易い。
 それが私にとって、最良の選択なのだと分かっている。
 それでも――心の根元の部分が、それを拒否するのだ。
 
 ベッドから立ち上がり、私は壁にあるコルクボートへと指を這わす。
 その中にある、未だ取り外れることのない祐巳さまの写真。
 ――これは未練だ。さっと外してしまえばいい。
 何度もそう思って画鋲に手を伸ばすのに、指先に力が入らない。
 写真を止めている画鋲は、例えるなら『棘』だった。
 私の心に刺さったまま、抜けてくれない棘。
 
 もう一度、まじまじと写真たちを見る。
 夕子先輩と一緒に写っている写真、お母さんと一緒に写っている写真、部活の仲間と写っている写真、祐巳さまが写っている写真。
 
(今更、どうして)
 
 どうして、私は。
 祐巳さまと写っている写真が欲しいだなんて、思っているのだろう。
 
 

 
 
 想い描く理想と現実は、ことごとく齟齬(そご)する。
 
「あ、ちゃんと来たね」
「……約束ですから」
 
 体育祭の賭けに負けた。五点差という僅差だったけど、気持ちの上では惨敗だった。
 だから私はこうして、二度と敷居を跨ぐまいと思っていた薔薇の館を訪れなければいけないわけである。
 
「よかった。これでもしサボられたりしたら、私には打つ手がないからね」
「祐巳さまは本当におめでたいですね。どうして敵に弱点を教えるのです?」
「敵? 違うよ。山百合会の劇をやり遂げようという仲間じゃない。仲間に弱点を教えても、何も問題ないわよ」
 
 そうでしょう? と祐巳さまは笑った。
 この笑顔はよくない。私の心を、かき乱してしまう。
 一瞬で、全てのガードを解いてしまいそうになる。
 
「ごきげんよう、祐巳さま、可南子さん」
 
 ビスケットの扉を開け、救世主のように登場したのは乃梨子さんだった。
 急いできたのか、息が上がっている。
 
「ごきげんよう、乃梨子ちゃん。急いできてくれたところに悪いけど、早速行きましょうか」
「はい」
「それじゃあ可南子ちゃん。今から花寺の方たちを迎えに行くけど、ちゃんとお留守番していてね」
「……はい」
「逃げちゃ駄目よ?」
「逃げません」
 
 花寺の面子と会うのはこれで二度目だ。
 初めての衣装合わせの時にそうしなかったのだから、今回だって逃げるはずがないというのに、祐巳さまは心配している。
 私があの時、「やりたくありません」なんて駄々をこねたから、そう危惧してしまうんだろう。
 
 しかし、元より私に逃げるという選択肢はない。
 約束した以上、約束は守る。逃げるなんて情けない姿を祐巳さまに晒す事は、私のプライドが許さない。
 
「うん。よしよし」
 
 私の答えに満足したのか、祐巳さまは事もあろうに、私の頭を撫でた。
 うーん、と言いながらつま先立ちになり、身体を密着させて。
 
「や、やめて下さい」
「嫌がることないのに」
 
 咄嗟に身を引いた私に、祐巳さまは頬を膨らませた。
 祐巳さまは、無防備すぎる。私はまだ仮面を取ろうとしないのに、祐巳さまは早々に仮面を外してしまった。
 だから拗ねた顔も、心配そうな顔も、顔一杯の笑顔も。無垢すぎて、私の心を鷲掴みにしてしまう。
 
(祐巳さまは、私にとってどうでもいい人)
 
 そうであるはずなのに。
 そうでなければいけないのに。
 

 
 二十余分経って、祐巳さまと乃梨子さんが花寺の男連中を連れてきた。
 それと同時に、私は彼らをシャットダウンする。居ないものと、決め込むのだ。
 そう、だから今薔薇の館には私と祐巳さまと乃梨子さん。それについさっき来た由乃さまと志摩子さましか居ない。
 
「可南子さん、ちょっといい?」
 
 その五名の内の一人、乃梨子さんが私に言った。
 
「あのね、学園祭のチケット余ってない? 中学の時の友達が、来たがってるんだ」
「余っているわよ。何枚欲しいの?」
「な、何枚あるの?」
「二枚……いいえ、四枚までならいいわよ」
 
 私は鞄の中にしまってあった五枚のチケットを取り出し、一枚だけ抜いて乃梨子さんに広げて見せた。
 来ないかも知れないけど、お母さんの分を取って置かなくてはならない。
 
「いいの?」
 
 乃梨子さんは四枚受け取って、しかし何を思ったか二枚は私に返した。
 
「どうしたの。二枚じゃ足りないでしょう?」
「……うん。でも後は自分で何とかするからいい」
 
 どうして乃梨子さんは、二枚だけ返したのか。
 私が疑問に思っていると、乃梨子さんはおもむろに口を開いた。
 
「可南子さん。とりあえず送ってみるのも、一つの道だと思うよ」
 
 乃梨子さんの言わんとしている事は、すぐに理解できた。
 どこから聞きつけたかは知らないが、乃梨子さんは私が父と別居している事を知っているんだろう。
 
(送ってみるのも、一つの道……か)
 
 乃梨子さんは、私の何を知っているというんだろう。
 いや、きっと何も知らないからそんな事を言えるのか。
 
 確かに彼女の意見は、一般的に見れば正しい。
 別居していても父親だから、ちゃんとチケットを送るべき、というのは全くもって正論だ。
 
「……」
 
 チケットの入った、鞄を見詰める。
 思いだしてみれば、どうして私は最初チケットを出した時に、「二枚」と言ってしまったんだろうか。
 
 

 
 
 華美に装飾された教室。
 雑多なポスターと、それぞれの出し物をアピールする看板。
 学園祭当日、リリアン女学園は人いきれに熱されていた。
 
 私のクラスの出し物は、『他教のそら似』展。
 乃梨子さんの趣味である『仏像』からヒントを得て、キリスト教と仏教の相違点・類似点をレポートにまとめたものが、教室展示されているのだ。
 正直言って、私はみんなほど気合を入れて臨んでもいなければ、内容もいまいち理解していない。
 よって、私の仕事は当然のように入り口の受付だった。
 
「可南子さん、交代よ」
 
 やっとか、と私は胸を撫で下ろしながら席を立った。
 仕事とは言え、やはり男の相手は苦痛だった。
 
「山百合会の劇、頑張ってね」
 
 無愛想で社交的じゃない私にも、交代にきたクラスメートはエールをくれた。
 
 はっきり言って、私は劇にあまり自信がない。
 私の役である大納言の台詞が、私にとって酷い苦痛なのだ。
 
『私はなんて幸せ者なんだ。二人の妻に娘と息子が生まれた。愛しい子ら、どちらも妻に似て美しい』
 
 この台詞はあまりにも、私の父の状況に重なり過ぎている。
 私があの人の台詞を言えるわけがない。不愉快さが募って、暴れだしたいぐらいの衝動に襲われるというのに。
 
「……ええ、ありがとう」
 
 しかし、祐巳さまとの約束がある以上、私はベストを尽くさなければいけない。
 流石に何も言わずに去る事もできず、私は礼を言うと教室の扉を開ける。
 
「―――」
 
 その瞬間、松平瞳子とすれ違った。
 相変わらず、射抜くような強い視線。
 私が冷ややかに口端をつり上げると、その分だけ彼女の眉はつり上がった。
 
 この頃になると、私が松平瞳子を厭う理由が一つ増えていた。
 何を思ったか、私が劇の為に再度薔薇の館を通うようになると、彼女まで劇に参加すると言い出したのだ。
 明らかな対抗心。その目的が祐巳さまである事など、火を見るより明らかだった。
 祐巳さまが好きなくせにそれを必死に押し込めようとしている姿が、私に重なって一層不快だった。
 
 
 
 教室を出る。
 交代を心待ちにしていた私だったが、別に行く当てはない。
 私の仕事は、山百合会の劇を残すのみ。
 そういえば祐巳さまのクラスの出し物は何だっただろう、と無為に考えた所で、私の視界に驚くべき姿が映った。
 
「可南子っ!」
 
 ――夕子先輩。
 いや、そんなはずはない。
 私は父や夕子先輩にチケットを送ろうかと迷った挙句、結局送らなかったのだ。
 するとこれは幻影か。最近祐巳さまの事で頭を悩ませていたから、ついにノイローゼになってしまったのかも知れない。
 
「可南子、待って!」
 
 私は駆けた。
 幻影にしても、幻影じゃないにしても、今は会いたくない。
 ただでさえ自分の心を持て余している状況なのに、今夕子先輩にあったらパンクしてしまう。
 
「可南子ってば!」
 
 それに、あんなスピードで飛びついて来られたら、私は間違いなく吹き飛ばされる。
 現役時代からみると大分遅くなっているようだったけど、あの勢いを正面から受ける事は、全身でドロップキックを受け止める事に等しい。
 
 人ごみの中を縫うように奔り、駆ける。
 階段を下りて、渡り廊下から中庭をつっきり、また校舎の中に入る。
 紆余曲折の鬼ごっこは、一向に終わりを見せる気配がない。
 
「……っ!」
 
 私は丁度人が居て、後ろから入り口が見えなくなっている教室に飛び込んだ。
 バレたらお終いの、賭けだった。
 
「可南子ちゃん?」
「ゆ、祐巳さまっ」
 
 私が逃げ込んだその教室には、何故か祐巳さまの姿。
 それにあの日の雨の中、祐巳さまに傘を傾けていた大学生らしき人と、どこか怜悧(れいり)な印象の受ける知らない人。
 私が入って来た時にみんな反復横飛びやら上体反らしをやっていたのを見ると、ここは体力測定の出し物らしい。
 
「すいません、まぜてください」
 
 すでに三人が入っていて狭い反復横飛びのスペースに身を投じて、私は反復横飛びを始めた。
 私は元からここにいましたよ、というブラフだ。
 
「ど、どうしたの?」
「いいから、知らんぷりしてください」
 
 私が祐巳さまにお願いすると同時に、バタバタと廊下を駆ける音が聞こえてくる。
 私は出来る限り身を低くし、目立たないように努めた。
 一瞬、教室の前まできて足音が止まる。それからまたバタバタと廊下を走る音がして、私はやっと安心できた。
 
「助かりました」
「待って。何があったの?」
 
 礼を言って教室を出ようとすると、祐巳さまに呼びとめられる。
 私が会いたくない人と会ってしまったと説明していると、紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)が教室に入ってきた。
 
「……可南子ちゃん、どうして」
 
 すると紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)は、祐巳さまではなく私の元に歩みよってきて言った。
 
「ちょっといらっしゃい」
「は……? どこにです」
「保健室よ」
「何故です」
「道々話すわ。祐巳もついてらっしゃい」
 
 それから紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)は私の知らない大学生らしき人を「お姉さま」と呼んでいたので、この人が先代紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)だというのは分かった。
 しかし、何故私が紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)に保健室に連れて行かれるのかが分からない。
 
「さっき、保科先生に呼ばれたの。保健室に、父がきているっていうのよ」
 
 歩きながら、紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)は説明してくれた。
 紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)の父親は先日海外に出る事が決まっていて、ここにいるはずがない事。
 妹も来ていると言われて祐巳さまの事かと思ったけど、違うと言われて隠し子かとひやひやした事。
 しかし行ってみたら、紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)のチケットを誰かから譲り受けた人が待っていたという事。
 
「どうしたの、可南子ちゃん」
 
 そこまで聞いて、私は足を止めた。
 保健室まであと三メートル。
 私が紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)に連れてこられた意味を、理解してしまった。
 
「まさか」
「そうよ。保健室にいたのは、可南子ちゃんのお父さまだったの」
 
 祐巳さまが大声をあげて驚く。
 私の中に、冷たい血が流れていくのが分かる。
 
「可南子ちゃん。私は無理に会えとは言わないわ。中に入るのも、引き返すのもあなたの自由よ。でも、これだけは言わせてちょうだい。こういう機会は、滅多にない。もし今会わなければ、一生会えない場合だってあるのよ。離れて暮らしているなら、尚更ね」
 
 私の事情というのは、思った以上に周囲に知られているらしい。
 紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)の言葉は、その上での事なのだ。
 
 こんな時でも、紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)の口から発されるのは正論。
 今会わなければ、一生会えないかも知れないというのも正論だ。
 
 葛藤が、生まれる。
 私は、父なんかに会いたくないはずなのに。
 迷う余地なんて、どこにもないはずなのに。
 
「父は、どうして保健室にいるんです?」
「さあ。ただ保科先生の話では、真っ青な顔をして保健室に飛び込んできて、ベッドを貸して貰えないかって」
 
 今会わなければ、一生会えないかもしれない。
 紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)の言葉が、脳裏に木霊する。
 
「お父さんっ」
 
 私の中の、迷いが消えた。
 

 
 にわかに保健室の扉を開けて駆け込むと、果たしてそこには父がいた。
 
「可南子……?」
 
 ベッドには寝て居ない。
 顔も青くなっていなければ、椅子に座って保科先生と雑談してる始末だ。
 
(……やられた)
 
 担がされたのだ。
 紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)は、父に頼まれたああ言ったに違いない。
 嘘をついてまで私に会おうとするなんて――
 
「お、お父さんは最低よ」
 
 私は口を開いて一番に、父を罵った。
 
「可南子ちゃん、私たちはこれで」
「いいんです。お二人とも聞いて下さい。この人が、どんなに酷い人間なのか」
 
 保健室を去ろうする二人を、私は引き止める。
 嘘をつかせてまで私を騙す父が、いたく憎かった。
 
「この人は――」
 
 昔の栄光にしがみついて生きていて、いつもはお母さんに働かせるばかりで自分はゴロゴロして、たまに気が向いたらコーチに出るだけで。
 私がそう一気に言うと、父はうな垂れて黙っていた。
 
「反論、ないの?」
「……うん。その通りだから」
 
 その姿が、私をさらに苛立たせる。
 誇りに感じていた父が、貶され、それを認めてしまっている。
 貶したのは私自身であるというのに、それを認められてしまうと信じていた頃の父が嘘のように思えて、腹立たしかった。
 
「そうよ。お母さんがお酒に逃げるのも、私の身長がこんなに伸びたのも、劇の台詞が言えないのも、全部お父さんが悪い」
「あの、細川さん。それを全部お父さんのせいにするのは、どうかと思うわ」
「全部、全部お父さんが悪い!」
 
 保科先生が宥めたけど、私の怒りはおさまらなかった。
 子供みたいに床を踏み鳴らして、肩で息をして、やっと少し落ち着いたぐらいだ。
 
「うん。お父さんが悪いな」
 
 俯いたまま、父はポツリと言った。
 
「可南子の言うとおり、全部お父さんが悪かった」
 
 不意に悲しくなった。
 子供の頃、泣き止まない私を宥めてくれた時の、お父さん(・・・・)の声。
 私が勝手に泣き喚いているだけなのに、全てを許し、包み込んでくれるような、懐かしい声。
 どうしてこんな時に、私を全て許容するような声で話すんだ――
 
「可南子ちゃん?」
 
 祐巳さまが心配そうに私の名を呼んでくれたけど、堪える事ができずに涙が零れた。
 
「わ、私だって――分かっていたわよ」
 
 分かっていた。
 仕事に生きがいを感じるお母さんの意見を聞いてあげて、育児をお父さんが引き受けたことぐらい。
 お父さんが家を出ていったのは、このまま一緒に暮らしていても、お互いに傷つけあうだけと判断したことぐらい。
 私は全部、分かっている。
 
「私、お父さんのことが大好きだった。背が高くて、バスケが上手で。お父さんのこと、凄く自慢だった」
 
 全部分かっていて、お父さんの事が大好きで。
 だからこそ――私はあの事が許せない。
 
「でも私、お父さんが夕子先輩にしたことだけは、絶対許さない。無理矢理妊娠させて、折角入った高校辞めさせて――!」
「ちょっと待て。お父さんが全面的に悪いけど、無理矢理ってところだけ訂正させてくれ」
「嘘。夕子先輩はずっと男嫌いだったんだよ。いつも『男なんていらない』って言っていた人が、半年やそこらで何が変わるっていうのよ。絶対お父さんが何かしたに決まってる」
「……夕子に聞いてくれ」
 
 ここまできて、嘘を重ねる父が憎い。
 いつしか私は、魘魅(えんみ)するぐらい強く父を睨んでいた。
 
「聞いたわよ。お母さんに離婚するって言われて、信じられなくて。それで私、夕子先輩に聞きにいったら、夕子先輩泣いていたもの。お父さんが、夕子先輩の人生をメチャクチャにしたのよ。そうでしょっ!?」
「違うわ」
 
 不意に声がして振り向くと、夕子先輩が立っていた。
 他にもさっき会った大学生二人がいるようだったけど、そんな事を気にしている余裕は、私にはなかった。
 
「可南子。ごめん、違うの。全部誤解なの」
「違うって、どこが違うの?」
 
 私は冷たい視線で、夕子先輩を見た。
 今更父を庇うなんて、きっと心まで犯されてしまったのだ。
 私は一人置いて行かれたみたいで、また愁眉(しゅうび)を浮かべた。
 
「どこから話したらいいかしらね」
 
 それから夕子先輩は、子供に諭すように私に話した。
 高校に入ってすぐ、足に怪我をした事。医者からバスケは止めた方がいいと言われ、顧問にマネージャーをやらないかと言われた事。もし怪我をせずに続けていても、レギュラーは厳しかったと言われて、昔怪我で引退を余儀なくされた父にならと思い、連絡を取った事。
 ――それから、たまに会うようになった事。
 
「こんなはずじゃなかった、っていうのはね、妊娠したことでも高校を中退したことでもないの。可南子を悲しませてしまったこと。他の女に父親をとられるという悲しみを知っている私が、可南子を悲しませてしまった、そのことを悔やんで泣いたの。私は二つ下の可南子が可愛くて、妹みたいに可愛くて。でもバカな私は、よりによって可南子のお父さんなんか好きになってしまった」
「好きに、なった……?」
「そう、だから可南子が私のことでお父さんが許せないのだったら、私が悪いの。私があの時、逃げずにちゃんと話していたらこんな事にはならなかった。嫌われても、恨まれてもいいから、ちゃんと話すべきだった」
 
 私はまるで、心の大半を持っていかれたような気分になった。
 ――こんなのって、ない。
 逃げたのは私の方だ。泣いている夕子先輩に耐えられなくなって、逃げたのは私。
 夕子先輩が言えなかったのではなく、私が言わせなかった。夕子先輩がその事で心を苛んでいたのだとしたら、私はなんてバカなんだろう。
 
「ごめんね、可南子」
 
 優しく、抱き締められる。
 ずっと忘れていた、深い安堵――
 
 私はずっと誤解していた事を謝る事もできず、ただ夕子先輩の名を連呼した。
 涙で視界が霞んでいて、色々ありすぎてまともに思考も出来なくて、ただ子供みたいに泣く事しか出来なかった。
 
 
 
 それからみっともなく号泣するお父さんを諌めると、今度は別の泣き声が聞こえた。
 保健室の奥の、ベッドの方からだった。
 
「しまった、忘れていた」
 
 お父さんが慌てて衝立の向こうへ行くと、すぐに赤子を抱いて戻ってきた。
 
「おむつを替えるためにここを貸して貰ってたんだけど、そうしたら気持ちよくなってきたのか寝ちゃったんだ。きっとお父さんの声で起きちゃったんだな」
 
 お父さんが照れくさそうに笑って言った。
 
次子(ちかこ)。次の子って書くんだよ」
 
 お父さんは、バカだ。
 どうして一々、私の琴線に触れるような名前をつける――
 
「抱いてみて」
 
 夕子先輩がお父さんから次子を受け取って、私に差し出した。
 
「む、無理よ」
「大丈夫。首はすわってるんだから、ちょっとやそっとじゃ壊れないって。わかった、手を添えていてあげるから」
 
 気を利かせてくれたのか、祐巳さまたちは保健室を出て行く。
 私はゆっくりゆっくり、次子に手をのばす。
 
「ほら」
 
 私がしっかりと次子を抱いたところで、夕子先輩は手を離した。
 そっと腕にかかる体重と、確かな温かさ。
 キョトンとした次子と目が合うと、私は泣きながら笑いかけた。
 
(ごめんね――)
 
 言葉にしても伝わらないだろうから、私は心で謝った。
 私は心のどこかで、まだ見た事もない次子の事を、『この子さえいなければ』と思っていたかもしれない。
 
(こんなお姉ちゃんで、ごめんね)
 
 勘違いして、人を恨んでばかりで、卑屈で――歪んでしまった私で、ごめん。
 
 強く抱き締めたい衝動を抑えて、私はゆっくりと次子を揺すった。
 次子は望まれずに生まれてきた子なんかじゃない。
 きっと誰からも愛され、未来を掴むために生まれてきたんだから。
 
「次子……」
 
 私は愛しむように、妹の名前を呼ぶ。
 その想いが、届いたんだろうか。
 次子は私の腕の中で、キャッキャと笑った。
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 学園祭が終わった、後日。
 私の部屋のコルクボードには、二枚の写真が加わっている。
 
 一枚は一体何時どこで撮ったのか、私とお父さんと夕子先輩、それに次子が写った、学園祭の時の写真。
 もう一枚は、私と祐巳さまのツーショット。
 私は本番の劇でも、やはりあの台詞を上手く言えなかったけど、それでも祐巳さまは一緒に写真に写ってくれた。
 
 あの日から、私の心は随分と軽い。
 過去のしがらみから抜け出せて、私はかなり楽になった。
 
 ――でも。
 
 写真の中で笑う私の笑顔は、まだぎこちない。
 私に抱き着いてくる祐巳さまは満面の笑みを浮かべているというのに、私の顔と言ったら恥じらいと照れ笑いの表情。
 
 人は、すぐには変われない。
 例えしがらみから抜け出せたからと言って、変わる事はそんなに簡単じゃない。
 私に根付いてしまった男嫌いは、すぐには直らないだろう。
 
 それでも――と私は思う。
 私の中に降る雨は、もう止んだのだ。
 いつまでも雨に怯える子猫ではいられない。
 私は、変われる。変わってみせる。
 
 
 ――ねえ、祐巳さま。
 
 
 私は写真の中の彼女に問いかける。
 宝物にふれるように、ゆっくりと優しく――手をのばして。
 
 
 
 
 
 
 
――ねえ、祐巳さま。
 
いつか私も、あなたのように素敵に笑えますか?
 
あなたが私に、笑顔をくれますか?
 
あなたはまだ、私に笑いかけてくれますか?
 
 
 
 
まっすぐ、まっすぐ。
 
 
 
 
――あなたを好きでいて、いいですか?
 
 
 
 
 
 

 
 
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