■ 第六話 『祥子、いきます』




 水曜日の放課後。
 山百合会の一年生は、薔薇の館の一階の部屋にて着替えていた。
 着替え、と言っても、劇用の衣装にではない。それぞれが持ち寄った、男物の服に、だ。
 どういう話の流れなんだか、お祖母さま(もしくはお姉さま)指令で、一年生は今日の放課後、男になりきるのである。
 
「祐巳さんの服って、ご兄弟の?」
「うん。弟がいるんだ。由乃さんのは?」
「私のは、お姉さまのお下がり。ところで……」
「……うん」
「志摩子さん、どうして着物なの?」
 
 志摩子さんの着ている服は、間違いなく和服。
 地味目で男物の、志摩子さんにはかなり大きめな着物だった。
 
「父は、着物かスーツしか持っていないから」
「そ、そうなんだ」
 
 まあ、各家庭の事情には深く踏み込むべきじゃない。
 それにしても。と、着替え終わった三人は、お互いを眺めた。
 
「なんで私たち、着替えなきゃいけないのかしら」
「少しでも男っぽく見せるため?」
 
 志摩子さんの疑問に、由乃さんは疑問符を付けて返す。
 正直自分たちが何をやっているのか、そろそろ分からなくなってきた。ただ分かっているのは、祥子さまのために何かしなければという衝動だけだ。
 
「とりあえず、最終確認ね。挨拶は『ごきげんよう』じゃなくて『うっす』。『祥子さま』じゃなくて『祥先輩』。OK?」
「オ、オーケー」
 
 祐巳は昨日弟に教えてもらった、男子校の挨拶やら風習やらを、志摩子さんたちに伝授する。
 これが中々不可解なものだった。
 
「『ご一緒しましょう』は『ツラ貸せや』。『よろしくお願いします』は『ヨロピコリン』。目が合ったら会釈するんじゃなくて、襟元をつかむ」
「……何か、間違ってない?」
「私には、よく分からないわね」
 
 皆口々に言うけれど、もうここまで来たら実行あるのみ。
 一年生は勇んで階段を上り、ビスケットの扉を勢いよく開けた。正面には、練習前のお茶を飲む祥子さま。
 祐巳たちは声を揃えて、大声で言う。
 
「うっす! 祥先輩!」
 
 祥子さまはごとりと紅茶のカップを落として、楕円のテーブルに赤茶色の海を作った。
 水曜日――大失敗。
 
 

 
 
 木曜日、失敗。
 金曜日、失敗――
 
 忙しい時の時間の流れとは早いもので。
 気付いたら、もう土曜日。学園祭は、明日に迫っていた。
 この一週間というもの、祥子さまの男嫌いを直そうと頑張りながら、劇の練習にも精をだしてきた。
 お陰でダンスは大分様になってきたと思うし、台詞を間違える事もほとんどなくなった。
 祥子さまも劇の練習に重点を置きながらも、祐巳たちの克服作戦に付き合ってくれていたけど、はっきり言ってずっこけるばかりで上手くいっていない。こちらばかりは何をした所で、成果は上がらなかった。
 
「いよいよ、明日だね。頑張ろう」
「はい」
 
 こんな風に、ただ手を取り合うだけ。たったそれだけなのに、祥子さまにはそれが出来ない。
 祐巳が未だに慣れる事の出来ないヒールで、あんなに優雅に舞う事が出来るのに、手を取る事が出来ない。
 
「どうしたんだい、余所見ばっかりして」
「あ、いえ。すいません」
 
 柏木さんは一見気の使い方の上手い人だけど、本当は逆。表面上は相手の事を考えていても、中身までは考えない。
 言い方は悪いけど、軽薄な人。けれど祥子さまの男嫌いを克服する鍵を握っているのも、またこの人なのだ。
 
 もし、祥子さまが舞台でこの人の手を握れたら。
 男嫌いになった原因になった、この人の手を。
 
 きっと祥子さまは変われる。でもそれはありえない選択肢なのだ。
 劇でシンデレラの役を務めるのは祐巳。今更、配役変更など出来ない。
 学園祭当日まで、もう後数時間。
 
「ありがとう、祐巳」
 
 改札口で別れ際に言った祥子さまの声が、祐巳の耳に寂しく聞こえた。
 
 

 
 
「ついに本番ね。劇、絶対に見にいくから」
 
 珍しく銀杏並木で出会った桂さんは、朝からテンション高めで祐巳にエールを贈ってくれた。
 とうとう来てしまった、学園祭当日。ありがとう、って桂さんに微笑でお礼を言うと、不意にシャッターを切る音が聞こえた。
 
「勿論、私も見に行くわよ。カメラ持参でね」
「蔦子さん、劇は撮影禁止なのよ」
「あら、私が許可を取ってないと思って? ちゃんと卒業アルバム用の写真という名目で、実行委員会には許可を貰っているわよ」
 
 言って蔦子さんは鞄から腕章を取り出して、腕に巻きつけた。緑のビニール製の腕章には、白い文字で『撮影係り』
 
「出来れば、楽屋の中とか、舞台裏も撮ってみたいなぁ」
「わ、私にそんな権利はないからね」
 
 そこを何とか。いや無理です。
 そんな押し問答を繰り返していると、やがてマリア像の前にでる。
 今日は特別な日だから、祐巳は少し長めのお祈りをした。
 今日も正しく生きられますように。どうか無事に、学園祭が終わりますように。どうか祥子さまの男嫌いが直りますように。
 って、そこまでいくと、少し欲張りすぎか。劇はともかく、今日この日になっても紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)から承った仕事を完遂できなかったのは、単に祐巳の責任だ。マリア様にお願いしていい事じゃない。
 
「祐巳」
 
 マリア像から目を逸らした瞬間に、凛とした声が聞こえた。
 まるで二週間前に繰り返しのようだ。祐巳は身体全体で振り返って、やがて視界に捕らえるだろう人よりも早く、口を開く。
 
「ごきげんよう、お姉さま」
 
 目の前に現れた祥子さまは、満足そうに祐巳たちを見て、「ごきげんよう」と微笑んだ。
 
「祐巳、よかったら今日は、一緒に学園祭をまわりましょう」
「はい、もちろんです」
「よかったわ。先約が入っていることは無いのよね?」
 
 祥子さまは微笑をくずさないまま、蔦子さんたちを見た。
 
「ええ。祐巳さんは祥子さまとご一緒するだろうと思っておりましたので、敢えてお誘いしていません」
「気を使わせてしまって、申し訳ないわ」
「いえいえ。私たちはそんな野暮ではございませんので」
 
 ひらひらと手を翻していう蔦子さんと、頭をヘッドバンキングするみたいに縦に振る桂さん。
 祥子さまにお誘いを受けたのも嬉しかったけど、二人の気遣いも嬉しかった。
 だから祐巳は、少し浮かれていたのかも知れない。
 そんな小さな気の緩みが、あんな大事になるとも知らずに――
 

 
 祐巳のクラスの出し物は、教室展示だった。
 展示内容は、『十字架の道行』。午前の当番の祐巳が上がる十一時頃には、祥子さまが迎えに来てくれていた。
 
「いってらっしゃい」
 
 優しく背中に触れた桂さんの手が、とても暖かに感じる。
 祐巳は祥子さまと教室を出て、色んな出し物を見て回った。輪投げや射撃と言ったゲームもあれば、食品販売や作品展示。放送部は飛び入り参加OKの公開放送、バスケ部はバスケットボールみたいに着色した、ヨーヨーすくい。
 どれも、きっと二人じゃなければ、こんなに楽しく感じることはなかったはずだ。時間を忘れてしまうほど、楽しい時間。お陰で本当に時間の事を忘れてしまっていて、祐巳たちは十分ぐらい、劇の集合時間に遅れてしまった。
 
「遅い!」
 
 お妃さまの衣装をきた紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)が、すごい形相で叫んだ。
 
「十二時半までに集合って、言っておいたでしょう?」
「まあ、怖い。まるで白雪姫のお妃さま」
「……遅れたら、まずは?」
「ごめんなさい」
 
 紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)は本気で怒っているようだったので、祐巳たちは素直に謝った。
 
「ほら二人とも急いで、今日はお化粧する時間も要るんだから」
 
 黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)に急かされて、祐巳急いでシンデレラの衣装に着替える。途中で祥子さまに、「ずれると悲惨だからこれを使いなさい」ってブラジャーを貸してもらった。躊躇(ちゅうちょ)していると無理矢理ブラジャーを着けさせられて、急設化粧台の前に着席。ささっと髪をまとめて、お化粧をして、はい完成。
 
「はい、じゃあ次は変身シーンの最終練習」
「え? 劇の練習じゃなくてですか?」
「当然。劇で少しぐらい台詞をとちってもいいけどね、あの変身シーンだけは失敗できないんだから」
 
 紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)の言葉に「ああ」って納得していると、祥子さまはもう準備万端のようだった。祥子さまの演じる姉Bは、シンデレラの変身シーンで、仕掛けの紐を引っ張る役目もあるのだ。
 
「祐巳、早くなさい」
 
 祥子さまったら、祐巳と一緒に遅刻してきたのに。
 なんて考えつつも、祐巳の頬はどうしても緩んでしまうのだ。
 
「はいっ」
 
 化粧台から元気に立ち上がって、小走りで更衣室の――
 
「あっ」
 
 一歩踏み出して、違和感。
 そうだ。今祐巳の履いているのは、普通の上履きではなくてヒール。
 バキッ――と嫌な音がして、右足に痛みが走って、視界が九十度回転して。
 
「祐巳!」
 
 祐巳さん! 祐巳ちゃん! と名が連呼される。
 何だ、そんなに酷いこけ方をしたのだろうか。今の所、右足と右肩が少し痛むだけ。
 
「大丈夫で……っ」
 
 立ち上がろうとして、右足に鋭い痛みが走る。
 延髄反射で右足にかかろうとしていた体重を消そうとして、尻餅をついた。
 
「祐巳ちゃん、動かない方がいい。きっと足を挫いたんだ」
 
 柏木さんはそう言って祐巳の元に駆け寄り、屈み込んだ。
 ――と思った瞬間には、祐巳はふわりと宙に浮いていた。
 
「え?」
 
 いや、浮いているのではない。これは、抱き上げられているというのだ。いわゆる、お姫さまだっこという格好で。
(ちょ、ちょっと待った)
 でもそんな事に躊躇(ためら)っている場合じゃないっていう迫力で、柏木さんは言った。
 
「保健室は!?」
「こっち!」
 
 更衣室の扉に駆けながら言ったのは、祥子さまだった。
 

 
「捻挫ね。少なくとも、中等症以上の」
 
 養護教諭の保科栄子先生は、衣装を着込んだ山百合会メンバーたちを見渡しながら言った。
 祐巳が連れてこられたのは、当然の如く保健室。保科先生がたっぷり一分以上かけた診断の結果は、誰にとっても思わしくないものだった。
 
「それじゃあ、劇は!?」
「捻挫してすぐに、動き回るなんて出来るはずないでしょう。支倉さん、そこにある包帯とってくれる?」
 
 保科先生は令さまから包帯を受け取ると、祐巳の右足をぐるぐると包帯で固定した。それからベッドに横たわって患部に氷嚢(ひょうのう)を当て、三つに折った掛け布団を二つ重ねて、その上に足を置いた。
 まるで、骨折をしたみたいな処置。それが祐巳に、事の重大さを教えてくれた。
 
「困ったわね」
 
 白薔薇さま(ロサ・ギガンディア)の深刻な声に、山百合会メンバーたちは俯く。
 その光景に、酷く心が痛んだ。
 どうしよう、っていう顔。心配そうな顔。泣きそうな顔――
 それは全部、祐巳の不用意な行動のせい。『祥子さまの男嫌いを直す』って大見得きった上にことごとく失敗して、そのくせ祥子さまに学園祭を一緒に周ろうと誘われて、手放しで喜んでいた罰。
 
「とにかく、戻って対策を考えましょう。ここに大勢居ても、迷惑がかかるでしょうし」
 
 紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)は皆に向かって言い、部屋を後にした。令さまは由乃さんに、祐巳の付き添いをするように言ってから部屋を出て行く。
 それに続いて皆が出て行く中、由乃さんと祥子さまだけは保健室に残っていた。
 
「……ごめんなさい、お姉さま。私、最後の最後でこんな」
「祐巳」
 
 祥子さまは祐巳の言葉を遮って、強く手を握ってくる。
 祐巳を見詰める目には、怒りも、心配も、諦めもなく。
 ただ強い意思だけが宿っていた。
 
「私が、シンデレラをやるわ」
 

 
 シンデレラの衣装は祥子さまが着ていったので、祐巳は必然と姉Bの衣装を着ていた。
 保健室のベッドの上に横たわって、台本のページをめくる。視線でひたすら、姉Bの台詞を追いかける。
 
「祐巳さん」
 
 不意にこの台本の持ち主・由乃さんに声をかけられて、祐巳は視線を声のした方にスライドさせた。
 
「……何?」
「劇、出るつもりなのね」
 
 祐巳は台本に視線を戻して、無言で頷いた。
 
「無茶よ」
「ううん、大丈夫。もう大分痛みもなくなってきたし。それにこのままじゃ私、正真正銘の役立たずになってしまう」
「……そんな事言ったら、私は? 私がもっと身体が丈夫なら、劇に必要な人数は足りていた。祐巳さんが姉Bをする必要だって――」
「そう思うなら、協力して」
「え……?」
 
 祐巳は台本を閉じて、ベッドから下りた。
 足を着いた時少し痛んだけど、普通に歩けるぐらいにはなっていた。
 
「お願い、由乃さん。私のわがまま、きいて」
「……」
 
 由乃さんは、黙り込んでしまった。
 考えて、考えて、考え込んで。
 由乃さんはベッドの周囲を囲うカーテンを開けて、保科先生に言った。
 
「保科先生。祐巳さんがお手洗い行きたいそうなんで、連れていきます」
「そうなの? じゃあお願い」
 
 由乃さんに肩をかりて、祐巳は保健室を出た。
 
「ありがとう、由乃さん」
「……凄く不本意。私は、止めたんだからね」
 
 拗ねたように言う由乃さん手は、しっかりと祐巳の肩を支えてくれていた。
 

 
「ご心配をおかけしました」
 
 祐巳は更衣室に入るなり、深々と頭を下げた。
 
「祐巳ちゃん!?」
 
 紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)が、駆け寄ってくる。
 だけど、もう心配はいらない。祐巳は両足を床に着き、自分の力で立っているのだ。
 
「何を考えているの。動いちゃ駄目でしょう」
「いいえ、心配する程のものではありません。ダンスは無理でしょうけど、姉Bの役の穴埋めぐらいなら」
「今から姉Bの役を? 何を無茶なこと言っているの」
 
 無茶では、決してない。
 確かに一歩踏み出すたび、痛みがある。でも何とか頑張れば、気取られないぐらいにはなるはずだ。
 それに比べれば、姉Bの役を演じるなんて簡単な事。祐巳はただひたすら、祥子さまを見てきたから。台詞も、立ち回りもよく覚えている。完璧にはこなせないかも知れないけど、やりきる自信だけはあった。
 
「姉Bの役は覚えています。ですから」
 
 祐巳はシンデレラの衣装を着た、祥子さまの前に立つ。
 
「私を、劇に出させてください。このままじゃ、私」
「祐巳――」
 
 祥子さまの慈悲深い表情が、すぐ目の前にある。
 祐巳は今置かれている状況も忘れて、ふっと身体が軽くなったような気分になった。
 だけど、祥子さまが次に放った言葉は――
 
「お戻りなさい」
 
 祐巳の浮わついた思考を、奈落の底まで叩き落とした。
 
「お姉さまっ!」
「捻挫をして、氷嚢まで当てていた人間が劇なんかできるはずないでしょう。保健室に戻って、安静にしていなさい。これは、あなたのお姉さまとしての命令よ」
 
 祥子さまは祐巳の顔を正面に捉えて、全員に聞こえるぐらい大きな声で言った。
 
「――嫌です」
 
 それでも祐巳は、抗った。
 お姉さまの言いつけを破るのは、これで二度目だ。
 一回目は、シンデレラの役をする事が不可能になった時。そして二回目が、今。
 
「祐巳。いいかげんに――」
「わかった、こうしましょう」
 
 祥子さまの口に蓋をして、白薔薇さま(ロサ・ギガンディア)が言った。
 
「祥子以外の誰かが、祐巳ちゃんの劇の続行が不可能と判断した場合、祐巳ちゃんは絶対に舞台を降りる。そう約束できる?」
「はい」
 
 祐巳は強く返事をした。
 きっと、今まで一番いい返事。
 
 山百合会の劇は、成功する。
 絶対に、成功させてみせる――
 
 

 
 
前へ  トップ  次へ

...Produced By 滝
...since 04/11/13
...直リンOK 無断転載厳禁