■ 第五話 『一年生諸君に告ぐ』 『私と踊って頂けませんか?』 王子は恐る恐るという風に、シンデレラに声をかける。 対するシンデレラは、彼に負けないぐらい恐る恐る、口を開く。 『申し訳ないのですが、私は踊りを踊った事がありません』 『心配しないで。私がリードしましょう』 優しく言って、シンデレラの手を取る王子。 ――劇の練習は、つつがなく進行している。 「はい、ストップ。それでは次、舞踏会のシーンに」 「あ、祐巳ちゃん、ヒール脱がないと」 「え?」 「ほら、今日初合わせでしょ? 足を踏んだら、かなり痛いと思うから」 「ああ、それはそうですね」 周りを見てみれば、誰もヒールを履いていなかった。確かに、祐巳なんか踊っていなくても、ヒールを履いただけでヨタヨタと足元が危うかったのを顧みると、ヒールは危険すぎる。 祐巳がステージの中央に立つと、 そんなに長くやっても仕方ないから、という理由で三分に短縮されたBGMが途切れると、約一分間の空白の後、また音楽がかかる。それに合わせて五回ほどダンスの練習をした所で、やっと 「それじゃあ十五分後までに、ステージに戻ってくるようにお願いしますわ」 祐巳は視線だけ動かして、時計を見た。 ――さて、これからが勝負である。 作戦の内容は簡単だった。 まず休憩という事で皆が散り、柏木さんに不自然に思われないように少しずつ体育館を出る。この時当然祥子さまは体育館の外に出ている。出ていてもいなくても、祥子さまはきっと時間どおりに帰ってくるはずで、それは柏木さんも同じ事。 結果として、体育館には柏木さんと祥子さましか居なくなる――という段取りだったが、『祥子が柏木さまを警戒して体育館に入ってこないかも』という 『祥子さまの男嫌いを直すためホモ・ザ・カシワギー氏でちょっくら慣れて貰いましょうか大作戦』 略して『祥男ホモ慣れ大作戦』。略称だけ聞くと大変誤解されそうな作戦名である。 「全員揃ったわね。そろそろ動きがあるかしら」 どうしようもなく楽しいという 今祐巳たちがいるのは、体育館の扉の中で最もステージに近い扉の前である。同時に祐巳たちが抜け出してきた扉の反対側であり、下駄箱のある側と違うので、あまり使われない扉だった。 (それにしても) こんな事をして、大丈夫なのか? 祥子さまを裏切っていうような事をして。 この作戦の発案者だというのに、祐巳は葛藤していた。いや、発案者だからこそ、か。 祐巳は作戦の意味を反芻する。 [作戦] 戦う際の計画。敵に対する計画。 つまりは対象を陥れ、欺くこと。 祐巳が、祐巳の考えた計画で、祐巳が自ら、祥子さまを。 お姉さまを陥れる。 お姉さまを欺く―― 「お姉さ――」 「駄目よ」 扉を開こうとした手を 「祐巳ちゃんの気持ちは分かるわ。でも、こんな荒療治でもね、祥子の為なの」 「でふへほっ!」 「祐巳ちゃんは真面目で素直で、それでいて祥子が好きだから。だから出来ないかも知れないけどね、祐巳ちゃんが出来ないのなら、私たちがやる」 毅然と、 誰かが、いつかやらなければいけない事。それが例え良心を痛め、自らの大切なものを苛む事であったとしても――それをやって見せると言い切ったのだ。それが世間でいう、『汚れ役』ってやつでも。 「柏木さまの方が動いたわ」 二人っきりにしてお話を、という作戦だったけど、当然完璧に二人っきりにするわけにはいかない。いくら柏木さんが同性愛者と言えど、何か間違いがあったらいけないからだ。 「……」 柏木さんは祥子さまに近づいていく。 さて、どう出る。友好的に『ダンス、お上手ですね』か、それとも冗談めかして『ごきげんよう』か。 しかし、柏木さんの口から発せられた言葉は、祐巳の予想とは全く違ったものだった。 「久しぶりだね、さっちゃん」 久しぶり。 さっちゃん。 どちらも、全く予想できなかった言葉。 そのたった二言から分かるのは、二人は 「驚いたよ。絶対きみがシンデレラ役だと思っていた」 「……私の妹では、ご不満かしら」 「そんなことはない。さっちゃんが選んだ妹なんだから、文句なんてあるはずがないだろ?」 「……そう」 「人においての好みっていうのは、僕と似ているらしい。あの子がきみの妹だって知った時は、何だか妙に納得してしまったよ」 柏木さんは矢継ぎ早に言葉を紡ぎ、対する祥子さまは殆ど生返事と言っていいほどの反応。 完全にシナリオと違った展開に、扉の前の薔薇さま方は顔を見合わせた。由乃さんと志摩子さんは『どうなっているの?』って顔で祐巳を見たけど、そんなの祐巳だって知ったことじゃない。 「最後に会ったのはさっちゃんの入学式の時だったかな。僕はきっと花寺の学園祭で会えると思っていたんだけど、きみは来なかったしね」 尚も柏木さんは、軽薄に言葉を投げかける。 しかしそんな柏木さんの言葉を両断したのは―― 「優さん」 ――他でもない祥子さまの、いつも通りの凛とした声だった。 「婚約、解消して頂けないかしら」 その言葉を聞いた全員が、はっと息をのんだ。 婚約――現実感に乏しい響きが、頭の中でわんわんと鳴り響く。しかし祥子さまはそう言ったのだ。さっきまでの会話とは何の脈絡もない話を、ずばりと言い放った。 周りの人達が目を丸くしている中、祐巳なんかは祥子さまが柏木さんの事を「優さん」と呼んだ事と、婚約していたという事実でダブルショックだ。 「なん、だって?」 その婚約解消宣言をされた柏木さんは、 いきなり会話を別の話にねじ換えた挙句、婚約を解消するっていうんだから、彼が態度を変えるのは当然だろう。 「どうしていきなりそんなこと。僕がきみを大切に思っていること、知っているだろう!?」 「大切にしていれば、結婚できるとでも? 愛する事もできないくせに、軽々しくそんなことを言わないで」 「さっちゃん!」 柏木さんが祥子さまの肩を掴む。祥子さまは身をよじってそれから逃れる。 走り出す祥子さまと、その腕を捕まえようと伸びる手。そして―― 「そこまでよ!」 その場を凍らせたのは、 予想外の方向からの声に柏木さんが固まり、その隙に薔薇さま方が彼を取り囲む。続く 「祐巳ちゃんは、祥子を」 今から追いかけて追いつけるのかだとか、追いついてどうするかなんて、全然分からなかった。 だからってじっとしているなんて、祐巳にとっては拷問だから。祥子さまを追い込んだのは、間違いなく祐巳なのだ―― 体育館を出た頃には、すでに祥子さまの背中は 当然角を曲がられてしまえば、見失う。祐巳は祥子さまが向かった方向だけを頼りに、ただ走った。 酸素の足りない頭で推理する。 その場に居る事を苦痛に思った人間が行くところはどこか? 当たり前だけど、人気の多いところは避け、一人っきりになれる場所を探すはず。 祥子さまの向かった方向は講堂やお聖堂のある方だから。 (講堂の裏!) 志摩子さんに教えてもらった、あの場所。銀杏並木に桜の木が一本だけ混じっている、人通りの少ない場所だ。 「はぁ、……っく」 しかし。 これしかない、と勇んで向かったはいいが、そこに祥子さまは居なかった。 息切れが、激しい。夢中で走ってきたせいで、随分と銀杏を踏み潰してしまった。後で、志摩子さんに謝っておかなければいけない。 それにしても。ここに居ないとなると、後はお聖堂。 考えるやいなやお聖堂の方に足を向けると、何十人という生徒がお聖堂から出てきた所だった。手に楽譜をもっている所を見ると、ミサで歌う聖歌を練習していた、っていう事か。 なら、祥子さまはどこに? 大勢の人がいる所にかけ込むとは思えない。あとこの辺りある人気のない場所と言えば、古びた温室ぐらいしかなかった。 溺れる者は藁をも掴む、とはよく言ったもの。しかし祐巳の掴んだ藁は、果たして祥子さまの物だったのである。 「――お姉さま」 円柱のようなドーム型の温室で、祥子さまはただ立ちつくしていた。 「ああ、祐巳」 声が、弱々しい。 狼狽とか、憔悴とか、脆弱とか。祥子さまに似合わない言葉たちを詰め込んだみたいな、そんな声。 「ごめんなさい」 祐巳は祥子さまに向かって、深く頭を下げた。 祥子さまを思ってやったこと。でもそれは不首尾に終わり、あまつさえ祥子さまを追い詰めてしまった。 その事への謝罪。それと、祥子さまを欺いた事への謝罪。 「……どういうこと」 祥子さまはキッと睨んで、言葉と視線で祐巳に問う。 怒るのは当然だ。あんな話、誰にも聞かれたくなかっただろうし、その状況を祐巳が作ってしまっただなんて。 「お姉さまと柏木さんを二人きりにしようとしたのは、私だからです。聞き苦しいいい訳かもしれませんけど、私、お姉さまに男嫌いを克服してもらいたくて、それで」 「ああ、そのこと」 「え……?」 だけど、どういう事か。 祥子さまは表情から怒りをすっと消し、代わりに呆れたような顔。 「どうせお姉さまの差し金で、祐巳も巻き込まれたのでしょう? 私の男嫌いを直して、って」 「それは、……そうですけど」 「だけど祐巳は、最後の最後でそれを止めようとした。違う?」 「……お姉さま、聞こえてたんですか」 「ええ。お陰で皆が、あの扉の向こうにいるって分かったわ。だから私、優さんにああ言ったのよ」 「ああ言った、って……。婚約解消のことですよね。でもああいう話、他人にはあまり聞かれたくない話じゃありませんか?」 「勿論、お姉さま方や皆には言うまい、って思っていたわ。厄介な話、持ち込まれても困るでしょうし。でも状況が変わって、私の考えても変わったわ。皆が心配してくれてるって分かったし、それに私を騙そうとした事のお返しも含めて、婚約を解消してって言ったのよ」 中々どうして、祐巳の想像はことごとく外れるのか。 祥子さまは実にさばさばとした態度で、あの時の心境を語ってくれた。 という事は、祐巳が祥子さまを追い込んだわけではない。だけどそう思った矢先に、祥子さまの表情は一転した。 「けど、駄目ね」 「……お姉さま?」 「私は結局、……弱かったのよ」 祥子さまは跪いて、花壇に植えられた薔薇のつぼみを撫でた。 また弱々しくて儚い、さっきの祥子さまに戻ってしまった。 「言いたい事だけ言って、私はまた逃げてしまった。祐巳に主役を押し付けたときみたいに」 くずおれていく様に言う祥子さまに、祐巳はかける言葉を持っていない。 だけど、それでいいと思った。妹に慰められたりしたら、きっと祥子さまのプライドを傷つけてしまうだろうから。 「彼は、従兄なの。親の決めた結婚だったけど、以前は嫌じゃなかった」 「――それって」 「彼の事、好きだった。少なくとも、一年半前までわね。でも私の入学祝を持って訪ねてきた時、何て言ったと思う? 『悪いけれど、男しか恋愛の対象にはならない。きみは外に恋人を作って、子供を産んだらいい』って、馬鹿にするにも程があるわ」 自嘲するように言う祥子さまが、悲しかった。本当に祐巳の読みは、とことん外れてくれる。 容姿端麗、頭脳明晰、物腰も柔らかく、社交辞令も忘れない。それで、男色家。 祥子さまの男嫌いを直すのに、揃うものが揃っている何て思っていたけど、大間違い。揃うものが揃いすぎていて、駄目だったのだ。 わずか十五歳にして好きな人に想いを伝える事を遮断され、『男しか恋愛対象に見れない』と事実上の「ごめんなさい」。そりゃ『男なんて』って思いたくもなるだろう。 「今からでも、私はシンデレラをやるべきなのかも知れないわね」 「えっ!?」 立ち上がって言った祥子さまの言葉に、祐巳は敏感に反応した。 シンデレラの役をやろうなんて、それじゃ―― 「何を驚いているの。ロザリオ返せなんて言わないわよ」 「は、はぁ……」 安心した。――って、こんな事で安心している場合じゃない。 例えロザリオを返せと言われなくても、それじゃあ祥子さまの妹になった意味がないじゃないか。 「きっと今からでも間に合うわ。祐巳と出会う前まで、シンデレラ役で練習していたのだか――」 「いいえ」 祐巳はきっぱりと、祥子さまの言葉を遮った。 「私は祥子さまの妹として、与えられた仕事をやり遂げます。 「……祐巳」 「ですから、どうか私の仕事をとらないで下さい」 きっと、怖かったのだ。 祐巳が祥子さまの傍に居られる理由が、なくなる事。 祐巳が祥子さまと一緒に、歩けなくなる事が。 「男嫌いの解消法?」 「うん」 翌週の月曜日。 祐巳は早速、祥子さまの男嫌い克服のため、行動を起こしていた。 だからこうして 一人で悩むより、二人。二人よりは、三人。多ければ多い程道が拓けるはず――と少々他力本願かも知れないが、もう手段は選んでいられないのだ。 「そうね……。男嫌いっていうのは、男性に対して悪い印象があるからでしょう? 男の人の印象を良くすればいいわけよ」 「うんうん。具体的に、どんな方法があると思う?」 「うーん。ボーイズラブの本とか、どう?」 「……あ、あはははは」 「あ、酷い。笑う所じゃないのに」 大却下、である。 柏木さんが同性愛者だから男嫌いになったというのに、そんな本見せてどうする。 というか桂さん、趣味だけは並じゃなかったのね。 「という事で、蔦子さん。何か男性の印象をよくするような写真はない?」 並はやはり、並以上にはなりえなかった。という事で、たまたま祐巳の席の近くを通りかかった蔦子さんに訊いてみた。 「祐巳さん、何を言ってるの!?」 だけど蔦子さん、どうした事か半ギレだった。 「私は女子校生専門なの! どうして男の写真なんか撮っているっていうのよ! どうして、どうして男の写真なんかっ!」 「あ、もういいです。さよなら」 こりゃ蔦子さんも重症なようである。あまり彼女の事情に触れるまい。 とりあえず『男性の印象を良くする』というヒントを手に入れただけでも、よしとしよう。 昼休みの薔薇の館には、祥子さま以外のメンバーが集まっていた。 「それで祐巳ちゃん、首尾の方は?」 「はい。『男性の印象を良くする』、というのが手掛かりかと」 別にこれは劇の打ち合わせでも何でもない。 ただ土曜日の作戦が大失敗に終わった今、皆何とかしなければと思っているのだ。 「具体的には?」 「そうですね……。いきなり男の人と会わせるのは前回の失敗例がありますし、ここは男の人の印象がよくなるような読み物とか、どうでしょう?」 「なるほどね。誰か、いいの持ってない?」 「それなら、私が」 彼女の手には、一冊の文庫。 「この本なら、凄く男性の方が格好よく描かれていますし、印象もよくなるかと」 「由乃ちゃんが読んでいる本なら、安心ね。それでいってみましょう」 そして、放課後。 「……」 祥子さまは二、三ページ読んだ所で、無言で文庫を投げ捨てた。 拾い上げて見てみた文庫本は、実は文庫サイズのマンガで、タイトルは『北斗の剣』。 話の内容は、200X年に世界は核の炎に包まれ、何故か日本人が巨大化。やたらと筋肉質な主人公が剣でばっさばっさ斬って、決め台詞は『お前はもう、斬れている』。斬った後なんだから、当たり前だって。 「……確かに格好いいけどさ」 月曜日、失敗。 火曜日。 「やっぱり、フィクションじゃ影響力が足りないのかしら」 「いや、由乃さんの本の場合、内容が」 「じゃあ、池波正太郎?」 「いきなり性描写があるような小説、読ませる気?」 昨日と同じく、薔薇の館では祥子さま男嫌い対策会議が行われている。 放課後は劇の練習があるから祥子さまが来るし、昼休みだって来ないとは言い切れないけど、この時間ぐらいしか皆集まれないのだ。 「それじゃあ……フィクションが駄目なら、本物」 「祐巳ちゃん。本物って、ちょっと刺激が強すぎるんじゃない?」 「じゃあ、刺激の少ないのから試していけばいいんです」 「刺激の少ないの、って?」 令さまの質問に、祐巳は目を側めた。 それに反して薔薇の館の住人は、令さまを見詰める。 「……」 「な、何で私を見るの」 「刺激の少ない、本物」 「いや、それ以前に私は女ですし。それに毎日のようにあっていて刺激なんて」 「じゃあ、男になればいいのね。令、性転換手術」 「お姉さま……」 「性転換手術なんて、無茶です」 「あ、じゃあ由乃ちゃんが性転換手術。女の子っぽい由乃ちゃんの方が男になった方が、刺激の少ない本物になれるわ」 「どうして私が。というか、わざわざ性転換手術する意味あるんですか」 「それもそうねぇ、じゃあ男装して。それで、男っぽい振る舞いをして、祥子を慣らす」 「男っぽい振る舞い……。斬ってもいいんですか!?」 「いや、由乃さん、斬るのは駄目だよ……」 男っぽい=斬る、なのか、由乃さん。 由乃さんってもっと大人しい女の子かと思っていたけど、中身はかなりアグレッシブである。 「 そう言って祐巳の肩に置かれた 「え、え?」 「そうとあっちゃあ、こっちも一年生を出すしかないわよね」 そして立ち上がった 「という事で、一年生諸君」 薔薇さま方は、声をそろえて言った。 「あなた達には明日、男になって貰うわ」 火曜日、保留――
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