■ 最終話 『ロザリオを返す刻(とき)』 グラウンドの真ん中では、赤い炎が 学園祭恒例のファイヤーストーム。きっと他の学校でもこんな風に、祭りの後の寂しさを紛らわせているんだろう。 備品や木材は、今後使えそうな物以外、すべてこの場で焼かれる。かくいう祐巳も、さっき台本を火に 山百合会の劇は、無事に終わった。 無事、というのには少し語弊があるかも知れない。 少なくとも祐巳は捻挫していたので無事とは言い難いし、ダンスのシーンはこっそり抜けていた。 でも劇は、文句なしの大成功だった。嵐のようなカーテンコールが、今でも耳に残っている。 「こんな所にいたのね」 不意にかけられた声に振り返ると、祥子さまが立っていた。 「お姉さま」 「隣、いい?」 祥子さまは、返事をまたずに祐巳の隣に腰を下ろした。 グラウンドの周りの土手には、ほとんど人がいない。 「終わったのね」 祥子さまの言葉に、祐巳は小さく「はい」と答えた。 ファイヤーストームの周りに、人が集まり始めている。やがてマンドリン部だと思われる生徒たちが、オクラホマミキサーを奏で始めた。 「気が付いた? 私、ダンスの時にね、優さんの足を十七回も踏んで上げたのよ」 踏みすぎです、お姉さま。 そんなつっこみする気力も、今の祐巳にはない。 「元気がないのね」 祥子さまはそう言って、祐巳の手にジュースのパックを握らせてくれた。 少し温くなっていたから、これを買ってから随分長く祐巳を探していてくれたのだと分かった。 「舞台成功おめでとう」 紙パックを触れ合わせて、乾杯。 劇が終わってから何も飲んでいなかったから、すぐに中身は空になった。 「あら。元気がないわりには、いい飲みっぷりね」 ズズッ、とストローが空気を吸う音を聞いて、祥子さまは笑った。 祐巳もつられて笑ったけど、きっと上手く笑えていない。 「どうも疲れているみたいね」 祥子さまは自分の分のジュースを飲み干すと、さっと立ち上がった。 「祐巳、立てる?」 祐巳は祥子さまの手をかりて、ゆっくりと立ち上がる。 右足を着いた時、また痛みが走った。劇が始まる前より痛くなっているみたいだったけど、祐巳は根性でそれを顔に出さないようにした。 「帰りましょうか」 「……はい」 祥子さまは肩をかしてくれようとしたけど、祐巳は丁重にそれを断った。 そんな事をしてもらえる価値が、自分にはないと思ったから。 とぼとぼと二人歩いて、マリア像の前にでた。 にわかに祐巳は、足を止めた。足の痛みを気取られないように歩くのも、限界だった。 「祐巳?」 だけど、丁度いい。 マリア様の見ている前で、きっちりとケジメをつけよう。 「 祐巳はまっすぐ祥子さまを見ながら、首にかかっているロザリオを外した。 「ロザリオ、お返しします」 祥子さまから頂いたロザリオ。 祐巳はそれを両手で差し出しながら、祥子さまに向かって礼をした。 「――どういうこと」 祥子さまの美しい顔が、驚きと義憤に歪む。 「私、やっぱり祥子さまの妹に相応しくなかったんです」 ロザリオを差し出したまま、祐巳は続けた。 「……私は祥子さまからの言いつけを何一つやりきれなかった。結局私は、祥子さまのお荷物にしかなれなくて、……だからお返しします。このロザリオは、そこにいた誰かではなくて、相応しい人に渡されるべきなんです」 ――この二週間は、夢みたいだった。 憧れの祥子さまの妹にして貰って、いっぱいお話して。ダンスを教えてもらったり、一緒に劇の練習をしたり、全部楽しかった。台詞を中々覚えられない時も、男嫌いを直そうと奔走している時も、少しも辛いなんて思わなかった。 祥子さまの隣にいるだけで、幸せだった。けれど祐巳には、祥子さまの隣に居ていい資格がなかったのだ。 「祐巳……」 祥子さまは悲しそうな顔で、差し出されたロザリオを受け取った。 それが、嬉しかった。 祐巳がロザリオを返す事に悲しんで貰えるのが、嬉しかった。 嬉しくて、嬉しくて――だけど、悲しすぎて。 涙が、止まらなかった。 「どうして、あなたが泣くの」 「もう、……もう祥子さまの側に居られないからっ」 嗚咽はやがて泣き声になり、泣き声はやがて慟哭に変わる。 優しい祥子さまは、妹でもなんでもなくなった祐巳を抱き締めて、背中をさすってくれた。 祐巳が泣き止むまでずっと、そうしてくれていた。 「ばかね、祐巳は」 抱き締めていた祐巳から、祥子さまはそっと身体を離した。 「祐巳は、私が嫌いになったの?」 「そんな事ありません! 私は今でも、祥子さまのことが好きで――」 「そう。よかった」 祥子さまは微笑して、手に持ったロザリオの輪を広げた。 「なら、このロザリオを受け取って」 「え――?」 「私は私なりにこの二週間、祐巳を見てきたわ。祐巳が私の為にどれだけ一生懸命やってくれているか、よく分かった。私は祐巳選んでよかったって、何度も思った」 祥子さまの言っていることが、すぐには理解できなかった。 祐巳を選んでよかったって、そう言ったのだ。 「それに」 祥子さまは跪いて、祐巳の右足に触れた。 「――あっ!」 痛みが右足を駆け抜けて、とうとう声と表情に出てしまった。 「ほら。触れられただけでも痛むのに、祐巳は劇をやり遂げたのよ。誰があなたを役立たず呼ばわりするっていうの」 祥子さまは一層大きく、ロザリオの輪を広げる。 慈悲深い微笑みは、いつしか懇願するような表情に変わっていた。 「そこにいた誰かじゃなくて、祐巳がいいの。祐巳じゃなくては、駄目なのよ」 「……お姉さま」 「だからこのロザリオ、かけていい?」 祐巳が大きく「はい」と頷くと、また涙が落ちていく。 祥子さまのロザリオを拒む理由は、もうどこにもない。 祐巳は祥子さまが好きで、祥子さまは祐巳を選んでくれた。 姉妹になるには、それで十分だと思った。 顔を、上げる。 首に優しく、ロザリオがかけられる。 「ありがとう」 嬉しくてまた泣き出した祐巳を、祥子さまは抱き締めてくれた。 ――マリア様が微笑む、その前で。 この時初めて祥子さまの妹になれたのだと、祐巳はそう思った。
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