■ 紅→黄→白→紅(中編)




 薔薇さま二人が乃梨子ちゃんを連れたって薔薇の館に来たのは、放課後になって小一時間だった頃だった。
 
「ごきげんよう、お姉さま」
「ごきげんよう、乃梨子」
 
 祐巳は令さまをお姉さまとよび呼び、志摩子さんは祥子さまをお姉さまと呼び、由乃さんは乃梨子ちゃんを呼び捨てにする。
 この呼び方というのは、間違えたら即怪しまれてしまうので、絶対に間違えてはいけない。
 基本的な事だけど、ついいつも通り「令さま」と呼んでしまいそうになるので、これが結構難しい。
 
「階段の手すりが壊れていたけれど、何かあったのかしら?」
「すいません。私が手をついたら、根元から取れてしまって」
 
 祥子さまは席に着くなりそう訊いたので、志摩子さんは事情を説明した。
 勿論、手すりを壊したのは祐巳で、志摩子さんではない。でもここで祐巳が謝ったら、由乃さんのせいになってしまう。
 瞬時にそこまで計算してしまえる志摩子さんは、ゆったりしているようで中々機転が利く。
 
「そう。怪我はしなかった?」
「はい。見ての通り、五体満足です」
 
 志摩子さん申し訳なさそうにしながらも、祥子さまに小さく笑顔を向けた。
 
「ならよかったわ。後で修理の依頼を出しておきましょう」
 
 そう言って祥子さまは、祐巳の姿をしている志摩子さんに優しく微笑した。
 お姉さまが自分以外の誰かに向かってあんなに優しい笑顔を見せるなんて、と祐巳は思いかけたけど、相手が自分の姿をしているんだから素直に嫉妬も出来ない。
 まったく、不便な身体になったものだ。
 
「どうしたの、由乃。祥子の方ばっかり見て」
「いえ、何でもありません」
 
 言った後、しまったと思った。
 不意に令さまに話しかけられたものだから、ついいつものように敬語で返してしまった。
 
「何よ、手芸部に連れて行かなかった事、怒ってるの?」
 
 しかし令さま。敬語になったのは不機嫌なせいだと思って、そんな事を訊いてくる。
 そんな事ない、って祐巳は言いながら、心の中で胸を撫で下ろした。気を付けてないと、本当にボロが出まくりそうだ。
 
「あっ」
 
 ふと乃梨子ちゃんが呟いた。
 席を立って流しの方に行くから、お茶がまだだった事に気付いたんだろう。
 
「あ、私も手伝うわ」
 
 そして言いながら立ち上がったのは志摩子さん。
 祐巳の姿をしながらも乃梨子ちゃんの近くに行こうっていうんだから、志摩子さんったら大胆だ。
 乃梨子ちゃんが席から立って表情を和らげた由乃さんは、祐巳と同じ苦労をしていたらしい。
 
「さて、じゃあ続きを頑張りますか」
 
 やがて紅茶を受け取った令さまは鞄を探り出したので、祐巳も由乃さんの鞄の中を探った。
 由乃さんは施設の使用許可とか、施設使用のタイムスケジュールを組んだりするのが、学園祭での主な仕事だった。
 祐巳はと言うとそれに準ずる備品・資材の搬入の段取りが仕事だったけど、志摩子さんならきっと上手くやってくれるだろう。
(令さまは従姉妹で、私は由乃さん。令ちゃんは従姉妹で、私は由乃)
 祐巳は鞄から取り出した書類に目を通しながら、そう自分に暗示をかけた。
 何をやっていいのかさっぱり分からなかったけど、少なくとも仕事をしている間はおしゃべりも少なくなる。
 その間はポカをやる可能性も低くなるし、集中していれば時間も早く過ぎてくれるだろう。
 
「うーん」
 
 隣で数字の羅列と戦う令さまの唸り声を聞きながら、祐巳は下校時間を待ちわびた。
 

 
「ねえ志摩子さん、ちゃんと聞いてる?」
「え? ええ……」
 
 由乃は曖昧に頷きながら、決して感情を気取られないように微笑した。
 リリアン女学園前からバスに乗ってまだそう時間は経ってないのに、もうこれだ。
 
「それでね、その瑞雲作の如来像の一つがその寺院に――」
 
 乃梨子ちゃんの仏像好きは勿論知っていた。
 話の内容から察するに、由乃が富士登山を計画している時期に寺院・聖堂巡りをする事も分かった。
 最初乃梨子ちゃんが話してた寺院とかは比較的富士山に近かったから、ガイドブックに載っていたささやかな知識で対応できていたけど。
 流石に何たら如来だの何々菩薩だのって聞いているうちに、由乃はもう何が何だか分からなくなってしまっていた。
 
「そう。それは是非とも行ってみたいわね」
 
 だから由乃は、そんな当たり障りのない返答しか出来ない訳である。
 勝手に話を進めてしまうのは志摩子さんに悪いけれど、この際仕方ない。ただでさえさっき、「今日の志摩子さんは落ち着きが無い」って言われたばかりなんだから。
 
「うん、きっと志摩子さんも気に入ってくれると思うの。それで……あっ」
 
 乃梨子ちゃんは突然言葉を切ったかと思うと、バスの停車ボタンを押した。
 なるほど、次が乃梨子ちゃんの下車する停留所であるらしい。バスはそれから三十秒とせずに、ゆっくりと止まった。
 
「それじゃあこの話はまた明日。ごきげんよう、お姉さま」
「ええ、ごきげんよう。乃梨子」
 
 乃梨子ちゃんは最後だけ由乃の事をお姉さまと呼ぶと、少しだけ名残惜しそうにバスを下りていった。
 由乃がここで下車しない事を訝しがらないのを見る限り、まだこのバスの乗っていてもいいらしい。
(ああ、疲れた……)
 バスが緩やかに発車したのを感じながら、由乃はぐったりと力を抜いた。
 自分ではない誰かになりきるという事を、少々甘く見ていたみたいだ。この気疲れと言ったら、今まで一度も味わった事がないぐらい。
 素直に感情を出せないというのは、由乃にとってはかなりの重労働だ。
 
「はあ……」
 
 座席に思いっきり身体を預けて、大きく息を吐く。でもバスには志摩子さんと祥子さまも乗っているのを思い出して、由乃は慌てて姿勢を正した。
(駄目だ、もっと前向きに行かないと)
 身体は気だるさを訴えているけど、それに負けるわけにはいかない。幸い、視界に映った信号は青。黄色で点滅させているなんて、居心地悪いったらありゃしない。
 もう徹底的にポジティブに行かないと、現実に潰されてしまいそうだ。
 
 それにそう、思い出して見れば色々収穫はあった。
 一つは志摩子さんの前での乃梨子ちゃん。いつもはお姉さまと呼んで敬語を使っているけど、二人だけになると友達口調になるらしい。この点は自分たち姉妹に共通する部分なので、中々興味深かった。
 他には志摩子さんも最近仏像鑑賞に目覚め始めている事とか、乃梨子ちゃんの家はどの辺りにあるのかとか。もろにプライベートを侵害している気がするけど、この状況下では言いっこ無しだ。
 
「さて」
 
 バスがM駅に着いたので、紅薔薇姉妹と一緒にバスを降りた。
 
「祥子さま、祐巳さん。また明日」
「志摩子? これからどこかに寄るの?」
 
 祥子さまの発言から推理するに、由乃が今足を向けている方向は、志摩子さんの帰り道とは違うらしい。
 その証拠に、祥子さまの横で志摩子さんが不安そうな顔をしていた。
 
「ええ。書店に用事があるので」
「そう。それじゃあ気を付けてね」
 
 二人にもう一度ごきげんようと挨拶すると、志摩子さんは少しだけ表情を和らげていた。きっとこっちの意向を分かってくれたんだと思う。
 由乃は早足で駅ビル内にあるブックセンターへと向かった。志摩子さんの家は小寓寺だという事を知っているので、場所を調べて帰ればいいわけだ。
 
「あった」
 
 案の定、小寓寺の所在地はすぐに判明した。
(それにしても……志摩子さん)
 あなたはどれだけ遠い所から来てるんだ、って。自宅から徒歩十分の由乃は途方にくれた。
 

 
「まるで今日の祐巳は、志摩子みたいだわ」
「え――」
 
 祥子さまはバスの座席に座るなりそう言ったので、志摩子は思わず硬直してしまった。
 だが、聞き違えてはならない。祥子さまは「あなたは志摩子ね」と言い当てたわけではないのだから。
 
「お姉さま、それはどういう事ですか?」
 
 凍りかけていた思考を強制解凍して、志摩子は祥子さまに尋ねた。
 
「何て言うのかしらね。あなた、今日は妙に落ち着いているのよ」
「はぁ」
 
 バスが発車したのを全身で感じながら、志摩子は生返事を返した。
 祥子さまはよく祐巳さんに「落ち着きが足りない」って言っていたというのに、いざ落ち着いたら怪訝がる。
 
「きっと今まで色々あったから。反動で気が抜けて、そう見えるのかも知れません」
「そう……。なのかしらね」
 
 祐巳さんたちの身に何が起こっていたかは、直接本人から聞いたので知っていた。
 だがいい訳としてはかなり厳しかったかもしれない。現に祥子さまは、どうも釈然としないようだった。
 
「……」
 
 無為に会話が途切れたので、志摩子はチラと由乃さんの方を窺ってみた。
 見る限りでは、乃梨子が殆ど喋っていて、由乃さんは時折相槌を打つ感じ。表情が今にも冷や汗をかきそうだったから、相当苦労をかけているに違いない。
 志摩子は心中で密やかに「ごめんなさい。もうちょっと頑張って」とエールを贈った。
 
「体調が悪いんじゃないでしょうね?」
 
 急に祥子さまに話しかけられて、慌てて視線を戻した。
 どうやら、さっきの話の続きで間違いないようだ。
 
「お姉さまには、体調が悪いように見えます?」
「そうは見えないけど」
 
 何かひっかかるのよね、と祥子さまが言った所で、離れた席に座っていた乃梨子が立ち上がった。出て行く間際に「ごきげんよう」と挨拶されたので、志摩子と祥子さまもそれに倣って返す。
 いつもだったら「ごきげんよう」の後に「お姉さま」が付くのに、それが無いだけで凄い寂寥感が押し寄せてきた。こんな時、自分がどれだけ乃梨子に依存してしまっているかよく分かる。
 
「……」
 
 それからまた暫く沈黙が続いて、M駅に着いた。
 
「祥子さま、祐巳さん。また明日」
 
 すると由乃さんは、そう言って志摩子の家に向かうのには見当違いの方向に足を向けた。
 よくよく考えて見れば、それも無理はない。由乃さんは志摩子の実家がお寺である事は知っていても、場所までは知らないはずだった。
 
「志摩子? これからどこかに寄るの?」
「ええ。書店に用事があるので」
「そう。それじゃあ気を付けてね」
 
 由乃さんの話を聞いて、少し安心する。寺の名前から住所を割り出せば、後は何とか帰れる事が出来るだろう。
 由乃さんを見送ってから、改札口に向かって歩く。
 すると不意に、横から声をかけられた。
 
「あっれー、もうすっかり仲直りしてる」
「あら、聖さま。ごきげんよう」
「ご――ごきげんよう」
 
 駅の外回りから歩いてきて、片手に買い物袋を持っている事から察するにお買い物の帰りらしいその人は、紛れもなく志摩子のお姉さまである、佐藤聖さまだった。
 あまりにも自然に、かつ突然に声をかけられたものだから、背筋がぴんと伸びてそのまま凍って動かない。
(どうしてこんな時に)
 何故、どうして、と志摩子は頭の中で連呼した。どうして久しぶりに会えたというのに、それがよりによってこんな状況でなんだ、と。
 
「いや、良かった良かった」
 
 聖さまはリリアン伝統の挨拶を片手を上げて受け止めると、そのまま並んで歩き出した。――のはブラフだったらしい。
 志摩子が半歩前にでた隙に、聖さまは志摩子に抱きついた。それはもう、自然かつ突然に。
 
「お、おね――!」
「なあに祐巳ちゃん。怪獣の子供の次は『尾根』? 相変わらず面白いなあ」
 
 志摩子のお姉さまという人は、こと祐巳さんに抱き着く技術に関しては、右に出るものを許さない。
 思わず「お姉さま!」と叫びそうになるのを手で押さえ、志摩子は素直にそう思った。
 何故かと言えば、他の通行人にはじゃれているように見せているから注目されていないし、祥子さまは三歩歩いてから気付いたぐらいだからだ。
 
「……聖さま」
 
 祥子さまはさも呆れたというように、溜息混じりに言った。
 
「何よ。私だって心配してたんだから、祝福の気持ちぐらい体現したっていいでしょう?」
 
 今度は仕方ないって顔をして、祥子さまはもう一度大きな溜息。
 梅雨の時期の出来事について、聖さまが関わっていた事は知っている。でもそんな簡単に諦めてしまって、いいものだろうか。
 
「それで。その体現はいつ終わるのでしょう?」
 
 しかし祥子さまは、今度はきっちり条件を出してその行為を止めさせようとしている。
 仲直りしたての姉妹の片割れを可愛がるなんて、聖さまはやっぱり鈍感なところがある。
 
「そうだなー。熱くなってきたからこのぐらいにしといてあげよう」
「あ――」
「……祐巳ちゃん。服離してくれないと、離れられないんだけど?」
「えっと、すいませんっ」
 
 指摘されて、慌てて手を離した。まったくどうして、服の端なんか握ってしまっていたんだろう。
 
「祐巳ったらボケっとして。やっぱり体調良くないんじゃなくて?」
 
 祥子さまは、今度は呆れるでも諦めるでもなく、本気で心配そうな顔をした。
 祐巳さんになりきろうとは思っていても、肝心の所で地が出てしまうらしい。努めて冷静に対処してもそれが違和感を呼んでしまうんだから、墓穴は深まるばかりだ。
 
「まあ、私は二人がちゃんと仲直りできたなら、これ以上のお邪魔虫は遠慮するとしよう。それじゃね、二人とも」
 
 志摩子のそんな気も知らず、聖さまは波乱を起こすだけ起こして颯爽と去っていった。
 
「私たちも行きましょうか」
「あ、はい」
 
 祥子さまがそう言うので、志摩子も返事をして歩き出す。
 人の流れを避けるように歩いていく祥子さまに付いて行くと、やがて祥子さまは立ち止まって振り向いた。
 
「じゃあ、気を付けて帰るのよ」
 
 祥子さまがそう言うという事は、祐巳さんと祥子さまはいつもここで別れるらしい。
 志摩子はそこまで推理すると、背筋を一層伸ばして祥子さまに向き直った。
 
「はい。ごきげんよう、お姉さま」
「ごきげんよう」
 
 祥子さまは大して乱れていないタイを直しながら微笑えんだ後、くるりと踵を返して歩いていった。
 
「はあ……」
 
 途端に、気が抜けた。今まで色々あり過ぎたのだ。
 祥子さまを「お姉さま」と呼ぶのにも後ろめたさが付きまとっていたというのに、その上本当の『お姉さま』が現れて、さんざかき回して行ったんだから。
 志摩子の心労といったら、絶えることがない。現にまだ大きな問題が残っている。
(私はこれからどこに行けば……?)
 今まで色んな事が起こっていたから考える時間がなかったが、志摩子は祐巳さんの家を知らなかった。
 自分の今置かれている状況を考えると、何故だか迷子になった時みたいな気持ちになってしまう。いや、「帰る家の場所が分からない」のだから、迷子で間違いないのだ。
 
 さっきまで聖さまがいたせいだろうか。人の流れを見ながら、志摩子は酷く寂しくなった。
 思えば、『とりあえず暫くこのままで様子を見よう』という作戦は、非常にいい考えだった。何故なら、身体の持ち主になりきっている間は、その事で頭がいっぱいになってしまうから、別の事は考えないで済む。これからどうなってしまうのか、何て不安に押し潰されずに済むのだ。
 しかし今はどうだろう。なりきる必要はなく、ある意味解き放たれた状態。改札口を行き交う人々の一体何人が、祐巳さんの人格まで知っているのだろうか。
 不安で、不安で押し潰されてしまう。志摩子は無性に乃梨子の顔が見たくなった――その時だった。
 
「祐巳? 何ボケッと突っ立ってるのさ」
 
 不意にかけられた声にも驚いたし、その声の主の顔を見て更に吃驚した。
 何せ、一日で二度も自分の顔をした人間(・・・・・・・・・)と出会ったのだから――
 

 
「それでね、オーブンを見ていた同じ班の人が『あー!』って叫び声を上げたの」
 
 由乃さんの家に帰る道すがら。祐巳は令さまと喋りながら、「これならいけるかも」と思っていた。
 何しろ黄薔薇姉妹というのは、祐巳が一番よく見てきた姉妹なのだ。由乃さんの家にもお邪魔した事があるし、志摩子さんや由乃さんに比べたら気持ちも楽だった。
 
「ふーん。じゃあその焦げたメイプルケーキ、食べられなかったんだ?」
「うん。だって本当に真っ黒で、食べられる部分なんてなさそうだったんだから」
 
 徒歩で約十分とい短い道のりでの話題は、専ら今日の調理実習の事だった。
 剣道部の話題を持ち出されたらどうしようかと思っていたけど、調理実習なら由乃さんと同じ班でケーキを焼いていたので、その終始はきっちり記憶している。それに由乃さんとお菓子作りの話ができるのが嬉しいのか、令さまは上機嫌。祐巳がちょっと「由乃さんらしくないかな」って発言も、全く気に留めない。
 
「じゃあ、今日作ってあげようか?」
「へ?」
「あ、その返事、なんか祐巳ちゃんみたいだね」
 
 矢継ぎ早に出てくる令さまの言葉に、祐巳は仰け反りそうになった。勿論、「祐巳ちゃんみたいだ」って言われたのにも驚いたし、その前の言葉も十分祐巳に衝撃を与えてくれた。
(令さまの、手作りケーキ)
 なんて甘美な響きだろう。しかも出来たてを届けてくれるっていうんだから、由乃さんの立場が羨ましくて仕方ない。
 
「で、でも、もうすぐテストだし」
「まあそうだけどさ。こういう部活にない日にしか出来ない事でしょ? まだテストまで日もあるんだし、由乃も何を遠慮してるんだか」
 
 そういうと令さまは晴れやかに笑った。表情から察するに、もう作る気満々らしい。
 話しながら歩いていると、もう由乃さんの家が見えてきた。徒歩十分なんて、あっと言う間だった。
 
「それじゃ、持っていくのは少し遅めの時間になると思うから。叔母さんたちに話を通しておいてね」
 
 門をくぐりぬけてから「うん」と返事をして、島津家の前に立って、そこで重大な事に気付いた。
 
「あーっ!」
「な、何?」
 
 全くこう、どうしてこんなに自分はうっかりしているのか。
 
「由乃?」
「あ、えっと。学校に忘れ物したのに気付いて」
「じゃあ一緒に取りに行こう」
「う、ううん、大丈夫。よく考えてみれば、今から必要って物じゃないし」
「そっか。ならよかった」
 
 令さまは自分の事でもないのに胸を撫で下ろして、「また後で」って支倉家の方に歩いていった。
 勿論「忘れ物した」というのはその場を誤魔化す為の口実だ。本当の忘れ物っていうのは、もう取りにいけない場所にある。
(私、志摩子さんに家の場所教えてない)
 これは何とも。
 取り返しのつかない忘れ物をしたものである。
 

 
「やっと着いた……」
 
 大きな山門の前まで来て、由乃はへたり込みたい衝動を抑えてそう言った。
 寺の名前も所在も把握していたけれど、ここまで大きな寺だとは知らなかったのだ。
 路線バスで『小寓寺・中央』と『小寓寺・北回り』とあるんだから、どれだけ大きな寺だって話である。
 しかも知らずに乗った北回りのバスは正面の山門とは違う場所に着いたので、結局寺の回りを半周する事になってしまった。
 
「さて、これからが本番」
 
 初めていくお宅に、そこの住人であるがの如く進撃……もとい帰宅する。
 これがもう少し小さなお寺とかだったら良かったのだけど、あまりの大きさに由乃は押され気味だった。
 
「おかえりなさい」
「た、ただいま」
 
 寺の敷地に水を撒いてまわっているらしい寺男に声をかけられたので、由乃は少し硬くなって挨拶を返した。
 軽く会釈したから、多分この人が志摩子さんのお父さんというわけではなさそうだ。
 
「おかえりなさいませ」
 
 とりあえず本堂らしき場所に足を向けると、今度は三十代前半と見受けられる女性から声をかけられた。
 この人も口ぶりから志摩子さんのお母さんというわけでないらしい。すると志摩子さんの家にはお手伝いの人が通っているという事だろうか。
 
「お食事の用意が出来てますので」
 
 その女性は僅かに顎を右に向けて言ったので、住居は当然本堂とは違う所にある、と。
 由乃は「ありがとう」と一言告げて、女性が来た方向に向かって歩き出した。案の定、『藤堂』と表札のかかった玄関らしきものが見えてきたので、これで間違いなさそうだ。
 玄関の戸を開けると、灯りが消してあるのか薄暗い。
 
「おかえり、志摩子」
「ひっ――!」
 
 靴を脱いで廊下に一歩踏み出した所で、突然扉が開いて声をかけられたから、由乃は小さく悲鳴を上げてしまった。
 それにいきなりスキンヘッドの中年男性が現れたんだから、これで驚かないはずがない。
 しかしそのスキンヘッドの頭と口ぶりが、志摩子さんのお父さんであると確証をもたらしてくれたわけだけど。
 
「何だ、そんなに驚くことか?」
「い、いえ。ただいま戻りました」
 
 そう言った後、失敗したと思った。
 お父さんに向かって、こんな堅苦しく「ただいま」って言うものか。つい初めて訪ねるお宅という事もあって、中途半端に礼儀正しくなってしまっていた。
 
「もう食べれるから、着替えたらすぐ来いよ」
 
 しかし志摩子さんのお父さん。その口調の事を全く気にしていない。
(もしかして、これがこの家での普通……?)
 門構えが荘厳なら家柄は厳格、っていう事なのか。
 
「……」
 
 さて。どんな家庭であるか大雑把に分かった所で、その他の所に疑問が行く。一体志摩子さんの私室はどこなのか。
 玄関に近い大きな部屋は応接間と踏んで、由乃は黒光りする廊下を歩いていった。
 いきなり襖をあけて中に人がいたらまずいから、適当な襖をコンコンとノックしてみる。返事が無かったので開けて見ると、学校で使っている教科書が目に付いたので、ここで間違いないらしい。一発目で当たりなんて、中々ついている。
(ここが志摩子さんの部屋、か)
 部屋は中々に広かった。当然和室で、部屋の中央には黒くて立派な机が一つ。クローゼットの代わりに、タンスがあった。
 とりあえず着替えて晩御飯、という事なので、由乃は頭の中で「ちょっと失礼」と志摩子さんに言いながら、おもむろにタンスを開けた。
 
「……着物だ」
 
 開けた引き出しには、着物が綺麗に折りたたまれて仕舞ってあった。
 由乃も着物を持っているけど、滅多に着ないのでカビとか変色の事を考えてパックしてある。いちいちパックしないというのは、志摩子さんは着物を着る機会が多いという事だ。素人目にも、ちゃんと手入れしているって分かる。
(……って、こんな事してる場合じゃない)
 志摩子さんのお父さん(いや、『お父さま』か)に、すぐ来るように言われていたんだった。
 由乃はタンスの中から洋服を見つけると、着替えて部屋を出た。
 台所がどこか分からなかったけど、空腹時の鼻というのは、本当に役に立つ物である。
 
 
 
 食事の並べられている部屋に入るなり、志摩子さんのお父さんと、お母さんらしき人は不思議そうな顔で由乃の方を見た。
 しかし何も言わずに手を合わせたので、由乃は二人に倣って「いただきます」と呟いた。
(もしかして、着物を着てないから……?)
 あのタンスに入っている着物の量からして予想がついていた事だけど、もしや志摩子さん。家での普段着は着物なんだろうか。
 
 それから志摩子さんのお父さんが学校の事とかをポツポツ訊いてくるのを、志摩子さんの視点に立って話しているうちに食事の時間が終わった。
 途中で志摩子さんのお母さんに「何だか落ち着きがないわね」って突っ込まれたけど、それ以外は順調だったように思える。
 勿論、心労が絶える事はなかったけど。
 
「あ」
 
 何かこの状態をもっと緩めてくれる手立てはないだろうか、と思案しながら廊下を歩いていた時だった。
 行きの時には気付かなかったけど、志摩子さんの部屋の近くには電話があった。
(そうだ。電話があるじゃない)
 今志摩子さんは祐巳さんの身体にあるわけだから、志摩子さんと話すには福沢家に電話をかければいい。
 幸い、祐巳さんとは電話で話すことが多いから、電話番号はそらでも言える。
 祐巳さんの電話番号をダイヤルしながら、由乃はふと思いついた。
 そういえば、志摩子さんはちゃんと家に帰れているのだろうか? と――。
 
 

 
 
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