■ 紅→黄→白→紅(前編)




 何か大きな事が起こる日は、そんな予感がするとはよく言うけれど、どうやら祐巳にはその才能は無いらしい。
 祥子さまにタイを直して貰った時もそうだったし、今日だってそうだった。
 だからもうちょっと注意していればとか思っても後の祭りで、後悔なんて役に立たない。
 目の前にある問題は刻一刻として、祐巳を追い詰めていっているのだから。
 
「じゃあ私は、祐巳さんでいればいいわけね」
 
 薔薇の館の二階で定位置に腰かけている、髪をリボンで二つ分けた少女が言った。
 
「そして私は志摩子さん、ね。ふふ、何だか面白くなってきたかも」
 
 そう言って不適に笑ったのは、ふわふわ巻き毛の少女。
 
「なんか、凄い事になっちゃったなあ……」
 
 はあ、と溜息を吐きながら弄った髪の毛は、長い髪を三つ編みにしたものだった――
 

 
 事の始まりは、何でもない放課後からだった。
 じわじわと暑さを増す七月の上旬。からりと晴れ渡った空は見るだけで清々しい気持ちになれて、掃除を終えた祐巳は機嫌良く薔薇の館に向かっていた。
 その途中で由乃さんと志摩子さんに会って合流。二人とも梅雨を終えて青く輝く今日の空みたいな表情をしていたので、祐巳もつられて笑顔が五割増しになった気がした。
 実際、山百合会には梅雨の時期が訪れていたようなものだった、とその時に初めて知った。
 志摩子さんには乃梨子ちゃんを(スール)にするかっていう問題があったし、由乃さんは剣道部に入るにあたって令さまと一論議。
 そして祐巳はというと、お姉さまである祥子さまと大いにすれ違ってしまったという事件があったわけだけど、それはもう終わったこと。
 三者三様の問題は、気候と一緒に“梅雨明け”したのだ。
 
「朝言ってたんだけど、令ちゃんと祥子さまは手芸部との打ち合わせがあるから来るのが遅れるって」
「多分学園祭の事でだよね。何で志摩子さんには、その話をしなかったんだろう?」
「私に話すと不都合があるからでしょうね。でも、どうして令さまは由乃さんには話したのかしら」
 
 話題は専ら学園祭のこと。
 薔薇の館の二階に上る急階段の手すりに手を置きながら、祐巳は振り返りながら言った。
 
「もしかしたら、志摩子さんが劇の主役だからかも」
 
 だけど、それが悪かった。
 
「手芸部と打ち合わせって時点で今年も劇で決まりみた――」
「祐巳さん!!」
 
 振り返りながら階段を上ろうとしたものだから、祐巳は階段から足を踏み外した。
 体勢を崩した祐巳は手すりに背をあずける格好になって――視線が一気に上に向かう。
 ミシって音を立てて、背中から手すりの感覚が消えた。
 
「うわっ、わっ!」
 
 前にいた由乃さんは祐巳の右手を掴み、後ろにいた志摩子さんは左手を掴んだ。
 でも、時既に遅し。万有引力の法則は祐巳の小柄な身体にもしっかり働くし、祐巳の手を掴もうとした二人にも慣性の法則が働く。
 ついに視界は薔薇の館の天井を捉え、どんどん遠くなっていく。その代わりに近づいてくる、由乃さんと志摩子さんの顔。
 祐巳はその時になって初めて、自分が階段から落ちている事を理解した。
 
「あっ……つぅ」
 
 気が付いた時には、山百合会の二年生全員が床に倒れ込んでいた。
 一番最初に目に映った、手すりの無くなった部分は、幸いながら階段の半分ぐらいの高さの所であるらしい。
 それでも全身を床に打ちつけた事には変わりないわけで、所々が痛い。痛みの他に暖かい感触があって、三人もつれて落ちてしまったみたいだった。
 
「ごめんっ! 私の不注意のせい……で……」
 
 起き上がりながらそう言って、祐巳は口に手を当てた。
 違う。声が違う。この声は、私のものじゃない、って。
 
「っつ……いいのよ。それより祐巳さんも由乃さんも大丈夫?」
 
 そして次に起き上がった人の姿を見て、祐巳は心臓が喉から出てしまうかと思った。
(幽体離脱!?)
 だってそこには、祐巳がいた(・・・・・)のだから。
 
「いったた……。ねえ、大丈夫だった?」
 
 そう言って起き上がったのは志摩子さんで。少し口調がおかしい。何と言うか、喋りのイントネーション志摩子さんらしくない。
 考えてみると、さっきの祐巳(の姿をした人物)も、自分の声なのにどこか違和感があった。
 違和感、というのは声だけじゃない。頭が少し重たいし、身体も自分の物じゃないみたいだった。
(何、これ)
 祐巳が考えるのに一杯いっぱいになっている間、もう一人の祐巳と志摩子さんは口を押さえて目を白黒させていた。
 知らず知らずのうちに、祐巳もきっと同じ行動をしているに違いない。
 
「あの、志摩子さん?」
 
 このままでは埒があきそうになかったので、祐巳は思いきって志摩子さんに声をかけたら、志摩子さんはへたり込んだまま後ずさりした。
 何と言うか凄い怯えようで、後ろに何かあるのかと思って振り返って見たけど、壊れてしまった手すりの残骸があるだけだった。
 
「わ、私が喋りかけてきた」
「志摩子さん、何言ってるのよ。私は志摩子さんじゃないわよ」
 
 この声では自分であるかどうかも自信がないけれど。
 それにしたってこの声。自分のものではないけど、聞き覚えがありすぎやしないだろうか。
 
「嘘よ! どうして私がもう一人いるの。あなたは誰!?」
「だから私は――」
「あの、ちょっといいかしら」
 
 はい、と挙手したのはもう一人の祐巳。
 
「由乃さん。質問があるのだけど」
 
 もう一人の祐巳は、祐巳の方を向いてそう言った。後ろにいるのかと思ってもう一度振り返って見たけど、やっぱり誰もいない。
 そう言えば由乃さんはどこに行ったんだろうと考えながら視線を戻すと、もう一人の祐巳はしっかりとこちらの方を見ていた。
 
「……私?」
「そう、あなたで間違いないわ。あなたの名前は?」
「私の名前は祐巳。福沢祐巳。あなたの方こそ、誰なの?」
 
 するともう一人の祐巳はおもむろに身体をまさぐったり、髪の毛に触れたりした。
 
「私は、志摩子。藤堂志摩子……」
 
 ぼそりと呟かれた言葉は、どこか自信なさげだったけれど、よく聞こえた。
 祐巳の姿をした人が「私は志摩子」って。もう何が何だか分からなくなって、頭の回転が止まりそうだった。
 
「するとあなたは由乃さん?」
 
 今度は志摩子さんに向かって言うもう一人の祐巳。
 
「そうよ。もしかして祐巳さん、落ちたショックで私の顔を忘れちゃった? 自分の事を志摩子さんだ、なんて」
 
 志摩子さんは由乃さんで、祐巳は志摩子さん。
 じゃあ今ここにいる私は? って考えたところで、視界に見覚えのある三つ編みがあるのに気が付いた。それは他の誰でもなく、自分の頭からぶら下がっている。
(まさか、まさか、まさか)
 志摩子さんは由乃さんで、祐巳は志摩子さん。
 じゃあ残りは、由乃さんが祐巳(・・・・・・・)じゃないか。
 
「私は由乃。島津由乃。間違いないわよ」
 
 やれやれ、と肩で息をしたのはふわふわ巻き毛の少女で。
 
「私は志摩子。藤堂志摩子……」
 
 そう言ったのは、間違いなく祐巳の姿をした人物で。
 
「そして私は、福沢祐巳――」
 
 そう呟いた声は、確かに由乃さんのものだった。
 

 
 とにかく落ち着いて話をしましょう。
 祐巳の姿をした志摩子さんがそう提案したので、一先ず祐巳たちは二階に上がる事にした。勿論、階段から落ちないよう、慎重に。
 
「とりあえず、今の状況を一言で言ってみてもいいかな」
 
 祐巳は少しでも心を平静にする為に、と淹れた紅茶を一口飲んでから、二人の顔を交互に見ながら言った。
 
「これは世間一般でいう所の、『人格交換』ってやつに当てはまるのかな?」
「それは違うわよ、祐巳さん。だって『人格交換』は一対一で行われるものでしょう? 私たちは三人それぞれの人格が別の人にシフトしていっちゃったんだから、『交換』じゃないわよ」
 
 そうビシリと指摘するのは由乃さん。
 志摩子さんの姿をしたままズバリと言われると、やっぱり凄い違和感。
 
「じゃあ、この事は『人格転移』と呼べばいいのかしら」
 
 志摩子さんは祐巳の髪型に違和感があるのか、右の髪束を弄りながらそう言う。
 自分が喋っているのを客観的に見るというのは、どうも気恥ずかしい。
 
「まあ、呼び方はそれでいいとして。どうしてこうなっちゃったんだろう。やっぱりお約束通り、階段から落ちた事が原因?」
「絶対そうとは言い切れないけど、それ以外考えられないんじゃないかしら」
「そうよね。原因があるとすればあれ以外ないし、多くの作り話でもそう。大抵なんらかの衝撃で入れ替わっちゃうって話だけど、私は納得がいかないの。私たちの人格は知識とか経験とかで成り立っているわけで、それらの記憶は大脳皮質に確かな質量として存在しているわけでしょう? それがどうやって転移するのって話なのよ」
 
 そう言われても、それが分からなくて困ってるからとりあえず落ち着こうとこうしているわけで。
 いけない。ここで由乃爆弾が爆発したら、収拾がつかなくなってしまう。
 
「と、とにかく対策を考えよう。どうしたら元に戻れるのかな」
「どうしたら、かぁ」
 
 祐巳の提案を聞くと、由乃さんはぐでっと机に突っ伏してウェーブのかかった髪の毛を広げた。
 何だかよく分からないけど、一時的に沈静化しているらしい。
 
「その事、あんまり考えたくないかも」
「どうして? 私たちが元に戻るには、必要な事なのよ?」
「だって、大抵の答えは『原因と同じ行動を取る』、でしょ? それじゃまた階段から落ちなきゃ駄目じゃない」
 
 まあ確かに、行く着く先はそうなるかも知れない。
 そう思うと祐巳は居た堪れなくなった。自分がちゃんと前を向いて階段を上っていたら、こうはならなかったはずなのだ。
 
「……ごめんなさい。私がちゃんと前を向いてなかったから、こんな事に」
「祐巳さん、それは言いっこなしでしょ? 私なんて一年以上にここに通っていながら、館の老朽化を見過ごしてきたんだから」
「そう、祐巳さんは悪くないわ。私と由乃さんが落ちたのは、自分の意思で祐巳さんに手を伸ばしたからなのだから、これは選りすぐった結果なのよ」
 
 だから気にしないでって、二人は祐巳に優しく微笑んでくれた。
 それでも原因は祐巳にあるっていうのに、そのせいで大変な事になったっていうのに。
 笑顔で許してくれる二人の温かさに、祐巳は思わず涙ぐんでしまった。
 
「で、これからどうするかだけど」
 
 だけどそこは由乃さん。祐巳に感動する暇なんか与えずに、ずんと現実を突きつけてきた。
 
「これから……ね」
 
 志摩子さんは髪の毛を弄るのは飽きたのか、両手でカップを持ったまま考え込んでしまった。
 多分、この場で一番冷静にこの事象を見ているのは彼女だろう。
 
「どうする、って。やっぱりお姉さまに相談するべきじゃない?」
 
 志摩子さんの言葉を待っていても続かなかったので、祐巳はそう提案する。
 由乃さんはうーんと唸って、やがて祐巳を真っ直ぐ見て言った。
 
「私もそれは考えたんだけどね、ちょっとマイナス要素の方が大きいのよね」
「マイナス要素?」
「そう。きっと令ちゃんも祥子さまも乃梨子ちゃんも、真剣に話したらこの事は信じてくれると思う。その場合を想像してみて」
 
 由乃さんがそう言うので、祐巳は志摩子さんの真似をして、斜め上を向いたまま考えた。
 祐巳たちが真摯に訴えたら、きっと祥子さまは信じてくれるだろう。そしてその後祥子さまなら、きっと祐巳たちを病院に連れて行くはずだ。階段から落ちたという事もあるし、色々な検査をして原因を解明しようとするはず。
 
「私の場合、令ちゃんは凄く驚いておろおろすると思う。それで散々慌てふためいた後、病院に連れて行くと思うの」
「そうね。一般的な考え方なら、病院に行こうとするでしょうね」
「うん。祥子さまもそうすると思う」
 
 という事は、三人の姉妹(スール)はまず病院に連れて行こうとする、って事で一致らしい。
 乃梨子ちゃんなら志摩子さんを仏像の前まで引っ張って行って手を合わしそうなものだけど、あまりに失礼な意見なので祐巳は黙っておく事にした。
 
「さて、じゃあここで二人に問題。この先の学園生活で、私たちにはどんなイベントがある?」
 
 そう由乃さんが新たな話題を提起したので、祐巳は一呼吸分考えてから言った。
 
「夏休み」
「期末テスト」
 
 当然前者が祐巳で、後者が志摩子さん。
 
「はい、どちらも正解ですが、一番問題があるのはどっちでしょう?」
「期末テスト」
 
 祐巳がそう答えると、由乃さんは満足そうに「正解」と言った。
 
「そう、問題はそれなのよ。この時期に病院でごたごたしてる暇、ある?」
「ない。まったく全然ない」
 
 祐巳が強くそう主張すると、志摩子さんも「そうね」って頷いた。
 志摩子さんだって、勉強なしでクラストップレベルを維持してる訳じゃないんだろう。
 
「そこで先人達の歩いた道を辿ってみましょう。人格転移とは違うけど、人格交換という事象が起こった人々というのは、そんなに遠くない未来に元に戻ってるわ。話によっては、何年も元に戻らなかったり、一生そのままだったりするみたいだけど」
 
 さらりと、由乃さんは恐ろしい事を言ってのける。
 するとそこで志摩子さんが、由乃さんの話の続きを語るように言った。
 
「だから暫くこのまま過ごして、様子を見よう。って言うことね」
「……そう。早ければ明日ぐらいに、ひょんな事で元に戻るかも知れない。とにかくここは事を大きくせずにいた方が、周囲にかける迷惑も最小限で済むと思うの」
「それは……。うん、確かにそうかも知れない」
 
 由乃さんの言う事は、理解力に多少の問題がある祐巳にもよく分かる。
 じたばた足掻(あが)いてみても、周囲を混乱させるだけ。それにテストも近いから、ごたごたに巻き込んでは多大な迷惑をかけてしまう。
 病院に行った所で解決するとは思えないし、そうなるぐらいならいっそ暫くこのままで行ってみよう、って事だ。
 
「じゃあ私は、祐巳さんでいればいいわけね」
 
 志摩子さんは制服のタイを正しながら言った。
 
「そして私は志摩子さん、ね。ふふ、何だか面白くなってきたかも」
 
 由乃さんは髪をぱっと後ろに払って、不敵に笑う。
 
「なんか、凄い事になっちゃったなあ……」
 
 はあ、と溜息を吐きながら、手持ち無沙汰な祐巳は三つ編みにされた長い髪を触った。
 
「でもお姉さまや妹だったら、人格が替わっている事に気付いたりしないかな?」
 
 例え気付かなくたって欺きながら生活するわけだから、後ろめたさが無いわけが無い。
 それにもし気付かれなかったとしても、寂しいものがある。
 
「それは無いわよ。だっていつもと違うって感じても、その中にいる人が違う、なんて答えに行きつくような人がいる?」
「……いないね」
 
 もしその答えに行きついたとしたら、それは本物のエスパーか。いや、そもそもエスパーはそんな事を見抜く為に超能力を持っているわけじゃない。
 そうなると、露骨に自分らしい行動を取ったりしない限り、まず感づかれる事はないだろう。
 
「ところで、お二人に訊きたい事があるのだけれど」
 
 志摩子さんは温くなってしまった紅茶を飲み干して、音を立てずにカップを置いて言う。
 
「こんな事を訊くのは本当に失礼なのだけど。二人とも、何かマリア様のお心に(そむ)くような事をした?」
 
 突然の質問に、祐巳と由乃さんは顔を見合わせた。
 それから示し合わせたわけでもなく、「いいえ」が綺麗に重なった。
 だって心当たりがないのだから。
 
「そうよね。ごめんなさい、変な事を訊いて。でも安心したわ」
 
 そう言って柔らかに微笑する志摩子さん。
 祐巳も元の身体にいる時、こんな風に上手く笑えているんだろうか。
 
「安心した、って?」
「だって、正しく生きてきたのでしょう? なら、きっと元に戻れるわ」
 
 志摩子さんはそっと目を閉じると、胸の前で十字を切った。
 マリア様がそこに居るような容姿の志摩子さんは、残念ながら今は祐巳の姿をしているけれど。その言葉は、無条件に信じることが出来た。
 
「そうだよね。絶対に、戻れる」
「そうよ。だからこの状況を楽しむぐらいの気概で行かないと!」
 
 由乃さんは拳を握って立ち上がる。
 こんな時でも青信号(イケイケ)な由乃さんは、普段の志摩子さんでは絶対にしないような格好を見せてくれるから、何か新鮮。
(あれ?)
 いつの間にか、『違和感』が『新鮮』に代わっている。
 つまりそれだけ気持ちが前向きになれた訳で、志摩子さんの言葉は魔法みたいだった。
 
「うん。頑張ろう!」
 
 由乃さんに釣られて祐巳も席を立ったので、志摩子さんも合わせてくれたのか席を立つ。
 何だかもう、円陣を組んでしまいそうな勢いだった。
 
 

 
 
トップ  次へ

...Produced By 滝
...since 04/10/10
...直リンOK 無断転載厳禁