異国の空
 
 
執筆:滝(流れ落ちる何か

≫03
 日常の欠片に、あなたの残滓を見るたびに胸が痛んだ。
 その痛みすら愛しいと感じる私は、きっとまだ。
 
*        *        *
 
 彼女の異変には、既に気付いているはずだった。ただ今まで、気付かないフリをしてきただけなのだ。
 高い陽の下、サン・ピエトロ寺院はその白さでまわりを照らしているようにも見える。その中に入ろうと並ぶ人たちの列は、その光に導かれているようだった。
「人が並んでる……ってことは、まだ入れるみたいね」
「まあ、並んで入れるかどうかは分からないけどね」
「どういうこと?」
「見てれば分かるって」
 佐藤さんがそう言って一分もしない内に、入場を待っていた一人が入り口で追い返されているのが見えた。極彩色のサマーセーターを着た、派手な若者だ。
「なるほど。高級レストランみたいなものなのね」
 ならば私たちは、というと二人ともシックな色合の服だから問題ないだろう。肌の露出もほとんどない。
 やがて私たちが入場する段になると、すんなりその門を通ることが出来た。少し緊張してしまったのは、言うまでもない。
 中は、想像できていたことだけど荘厳で壮大だった。大聖堂と呼ばれるに相応しい装飾。本当に『緩い』と称されるイタリア人が作ったのか、疑いたくなるほどだ。
「ねぇ――」
 中に入って、五分ぐらいたった時だった。やっと声を出すことができた私は、佐藤さんの方を見て一瞬固まった。
「ん? 何?」
 彼女がそこらに佇立している彫刻のように見えたのも大きな要因の一つだったけれど、それだけじゃない。どこからか溢れた光が憂いの陰を強調したのか、一瞬佐藤さんが泣いているように見えたのだ。
「……佐藤さんは二回目でしょ? やっぱり、懐かしい?」
「そうねぇ、懐かしくもあるし、新鮮だよ。あんまり覚えてないのとか、見たことないのもあるし」
 私はなんとか動揺を隠して続けたけれど、敏感な彼女は気付いていただろう。そしてそれに気付かないフリをするのは、優しさなのか気まずさなのか分からなかった。
 それから見た彫刻や美術品の類は、どれも表面的には見えない悲しみがあるような気がして、不意に胸を掻き毟りたくなる。あるいは絶望とすら称せるような渦巻いていて、神聖な聖堂の中だと言うのに薄ら寒く感じたりもした。
「加東さん、顔色悪くない?」
「え? 気のせいでしょ、別に何ともないわよ」
 挙句、原因であるはずの佐藤さんに心配される始末。あなたが悲しそうにしてたから、なんて言えるわけもない。ついさっきまでそんな顔をしていたのに、人を心配する時だけ急に表情を変える人に、言えるわけが。
「そう? 寒かったら何か貸すよ」
「気持ちだけ受け取っておくわ」
 ――だから、逆だって。
 私は心中でそう嘯いた。出来ることなら私のシャツを貸して上げたいぐらいだと、本気でそう思っていた。
 
*        *        *
 
「加東さん、イタリアでは水よりお酒の方が安いって話、覚えている?」
 私はレストランの席に座るなり、目の前の加東さんに向かってそう言った。夕食時のことだった。
「覚えているけど、どうしたのよ急に?」
「私は日中歩き通しで凄く喉が渇いている。そしてこのレストランには、アルコールメニューが沢山ある」
「佐藤さん、まさか」
 加藤さんは怪訝な顔つきになって私を見た。だって仕方ないじゃないか。この季節とは言え、あれだけ歩けば汗もかく。
「あのね、未成年者の飲酒はイタリアでも一緒で――」
「はいはい、それは分かってる。けど加東さんは下調べが甘いわね」
「……どういうこと?」
「イタリアの未成年っていうのはね、日本とは違って十八歳未満のことを言うのよ」
 その上未成年者にアルコール類の販売を規制するような法律はない、という豆知識をひらかすと、加東さんは軽いカルチャーショックを受けていた。
「あ、ビール二つね」
「カチコマチマシター」
 丁度通りがかった店員に指を二本立てて言うと、日本人慣れしているのか妙な返事が返ってきた。日本語上手いね、と笑いかけようとしたけど、加東さんの表情が怖かったので止めた。
「あー、しまったなぁ。この店、水よりビールの方が高い」
「佐藤さん、私お酒なんて飲んだことないのだけど」
「あー、うん。それは私も一緒。安心して」
「余計不安よ。バカじゃないの」
 バカじゃないの。私がふざけすぎた時に言う、お決まりのセリフだ。流石にやりすぎたか、と思ったけれど、もう注文してしまったから引っ込みはつかない。
「分かった分かった。じゃあ私が二杯とも飲む」
「あのね、もしそれだけのお酒であなたが潰れたら、誰が介抱すると思ってるの?」
「じゃあどうしろと?」
「……私も飲むわよ。仕方ないから」
 ちょうど届いたビールを見ながら、加東さんは言った。何だかんだ言って、最終的には私の思った通りになるのはいつものことだ。
 まあ、私が喉が渇いている一因として、彼女の我侭もあったからだろう。どうしてもボルゲーゼ公園を見たいと言って、わざわざ昨晩泊まったホテルの近くまで舞い戻った経緯がある。
「それじゃ……えーっと、何について乾杯しよう」
「美しいイタリアに、でいいんじゃない?」
「おっけー、それで行こう。美しいイタリアに、乾杯!」
 カチンと、大きな音を立ててジョッキが当たる。その音は店内のBGMに溶けて、何かの効果音みたいに聞こえた。
 ちなみに私は、お酒を飲んだことはないと言って置きながらビールを舐めるぐらいのことはしたことがある。子どもの頃、興味本位で父のビールに手を出して痛い目にあった。
 今なら飲めるだろう。確信めいたそれが私の後ろを突付いて、グイとジョッキを傾けた。炭酸に舌が驚くようなことはなかったけれど、やはり苦味を感じた。
「意外と苦くないのね。みんなは苦い苦いって言うけど」
 本来なら私が言うはずだった台詞を、加東さんが言った。彼女の舌は、子供のそれのように敏感ではないらしい。
 その上加東さんは、余程喉が渇いていたのか私よりも早いペースでビールを飲み干した。まだ頼んだ料理も届いていないというのに。
「あ、ビール二つ追加」
 料理をテーブルに並べるウェイターに向かって、加藤さんは先の私のように指を二本立てた。カチコマチマシター。私のジョッキは、まだ空いていない。
「加東さん、ペース早くない?」
「そう? 喉乾いてるし、別に大丈夫よ」
 別に酔っ払っている感覚もないし、という彼女の顔は、確かに赤くなってもいなかった。目が座っているわけでもないけど、もし加東さんが後からガクンと酔いが回るタイプだったらどうしよう。
 そんな心配を他所に、加東さんは届いた二杯目も勢いよく飲んだ。このペースは、ひょっとしてザルかと思わせるものがある。
 ――しかし、だ。
 そしてそれが大きな間違いだと気付いたのは、飲み始めて十分もした頃だった。
 
 店を出る時には、流石に私も頬を赤くしていた。加東さんはと言えば、足取りはしっかりしているものの目が座っていて怖い。
「さ、帰ろう」
「待って」
 ホテルへの帰り道、加東さんは私の袖を引っ張った。そしてそのまま私にしなだれかかるように歩くと、ディスカウントショップのような場所の前に出た。
「喉渇いた」
「駄目、加東さん飲み過ぎ。明日に残ったらどうするのよ」
 ほら、と振りほどいて加東さんをちゃんと立たせる。いくらまともに歩けるぐらいだからと言っても、初めてでこれ以上飲ませるのは駄目だと思った。
「佐藤さんは、いっつもそれなんだから」
「え?」
 先を歩き出した加東さんは、表情を見せないまま言った。
「いっつもふざけてるクセに、肝心なところは抑えているのよ。ふわふわしてたと思ったら、急にしっかりした足場に変わっている感じ」
「あ。……加東さん、ひょっとして惚れた?」
「私がどうしようもない駄目男だったら、惚れてたかもね。そうやってはぐらかすところも、いつものことだけど」
 ずるいんだから。彼女はあからさまに拗ねてそう言った。それが面白くて、小さく声を出して笑うことしかできなかった。
「友達甲斐のない人よね、あなたは」
 酔いに任せて、言いたい放題だ。苦笑していると、既に今日宿泊するホテルが見えていた。
 まだ何かを愚痴愚痴と漏らしている彼女を引っ張って、部屋へ押し込んだ。彼女は自分からベッドへダイブすると、顔だけ横にして突っ伏した。
 メガネぐらい取りなさいよ、と手を伸ばすと、彼女の口がモゴモゴと動く。
「どうしてイタリアに来たの?」
 それは二度目の質問だった。薄っすらと目が開いて、また閉じる。
 ――言えるか、そんなこと。
 私は黙って、彼女の髪を撫でた。おやすみなさい。眠り姫になろうとしている彼女に向けて、本当に小さくそう言った。
「私がどんな気持ちであなたとイタリアを見てきたか、分かる?」
 目を閉じたままかけられた言葉の響きが寂しげで、私は酷く動揺した。目を凝らせば彼女の涙が見えそうで、それが無性に嫌だった。
 ならば加東さんは、どんな私と、どんなイタリアを見てきたのだろう。私は彼女からメガネを外すと、先セルを耳の裏に押し込んだ。
 度数の合わないメガネは当然私にはキツすぎて、加東さんの横顔がどこか遠くの景色のようにぼやけた。
「ああ――」
 思わず息が漏れた。彼女はこんなもどかしさと一緒にあったのかも知れない。
「……ごめん」
 そこに思い至ると、軋むように胸が痛んで謝ることしかできなかった。
 それはどこか空虚な痛み。もう二度と味わうまいと思った痛みに似ていて、私は思わず天を仰いだ。そこには当然、空の欠片も見当たらなかった。
 
 
 
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