≫04■■
さよならと、何度も唱えた。誰よりも別れを告げたいのは、自分にだと知りながら。
* * *
一度は深い眠りに就こうとして、それが出来なかったのは喉の渇きと身体の熱さのせいだった。
いつの間にか掛けられていたコンフォーターを跳ね飛ばすと、視界が不安なことに気付く。枕元を探すと、すぐにそれは見つかった。
ベッドライトの薄い光の中、鮮やかに浮かんだ光景は現実だ。佐藤さんは、この部屋から出て行った。
「……何考えているのよ」
それは彼女に対してであり、また自分に対しても言える言葉だ。酒に酔って記憶をなくすのも散々な話だと思うけれど、何もかもを鮮明に覚えていると言うのも酷だ。
落ち着け。自分に言い聞かせながら、彼女が用意していってくれたのだろう水を飲んだ。水はまだほのかに人工的な冷たさを残していて、私は一気にそれを飲み干すと部屋を出た。足は思ったよりも軽快に、地面を蹴り飛ばした。
『友達甲斐のない人よね、あなたは』
自分のセリフを思い出して、大きく苦笑した。学校は勉強しに行くところ、馴れ合いの場所じゃないなんて、一体どこの誰が言っていたのやら。
今私にあるのは、友情なんかじゃない。ただ病床に臥せった父を見舞い、心配していたあの時のような強い感情があった。
間違えたのは、私の方だ。彼女との線を引き間違えてしまった。ボーダーラインを踏み越えて、琴線に触れた咎は、あまりにも業が深い。
遺跡の街が、スライドしては後方に消えて行く。いつしか息が切れて、足が疲労と痛みを訴えた。
それでもは走り続けたのは、きっと怖かったからだ。何もせずに失ってしまうのが、どうしようもなく怖かったから。
* * *
大通りの先にはトレヴィの泉がある。明日の日中にでも行こうかと話していたのに、私一人で来てしまった。もっとも、私は既に一度来ているから、抜け駆けも何もないだろうけど。
泉のまわりには、名所というだけあってこの時間でも人はいた。というか、まだそれほど深い時間でもない。
宮殿の壁から張り出すようにして存在するそれは、昼間見るのとはまた違った顔を見せてくれる。深い造形のレリーフはより陰影を濃くして、雑踏の中に隠れてしまっていた神聖を呼び戻していた。
――何と言ったらいいのか。
私は神を敵視したことのある人間だというのに、神の息吹がかかった場所にどうしようもなく惹かれるのだ。お聖堂や、教会や、それに準ずる神聖な場所。その場所に宿る感情がいかに鋭い棘を持っていようと、光を求める夏の虫のように吸い寄せられてしまう。
心が洗われるようだとは思わない。神の慈愛を受けたいとも思わない。ただ神経が研ぎ澄まされる音を聴いているのが、心地よいだけだ。
「はぁっ」
大きく息を吸って、一気に吐いた。つまらない音は、水の流れる音に消える。
またやっちゃったな。そんな後悔だけ沸いて出て、流されていく。何て卑怯な、逃げ道だろう。
「……佐藤さん」
早い靴音と、荒い息と、そんな声が聞こえても、私はすぐには振り返れなかった。彼女がどんな顔で私を見るのか、それを知るのが怖かった。
「やあ、加東さん」
振り返ると同時に作った笑顔は、恐らく今までのどんな笑いより軽薄になってしまっただろう。
これじゃ逆効果だ。――そう思った瞬間、彼女の表情を知覚して、私の笑みは引っ込んだ。迷子になった子供を見つけた母親のような顔をしている。それに酷く動揺した。
「ずるいわね、あなた一人だけで夜のトレヴィの泉を楽しんでいるだなんて」
ついさっきまで嘆きの言葉を吐き出しそうだった口は、本当に何気なくそう言った。だから私は、彼女から目を逸らした。
「加東さんが潰れなかったら、二人で行こうと思ってたのよ」
「嘘よ。トレヴィの泉は明日行くって話してたじゃない」
それから暫くの沈黙の後、加東さんをもう一度見ると、彼女は笑っていた。目尻に憂いが乗った、悲しそうな笑みだった。
「……ごめんなさい」
謝ったのは彼女の方だった。その意味が理解できる分、堪らなくなって胸を引っ掻き回したくなる。
――もういいだろう。
自分に言い聞かせる。自分が今最も恐れていることは、目の前にいる人を傷つけることだと、充分理解していた。
「少し私の話を聞いてくれる?」
呆れるぐらい優しい声色は、まるで自分の物ではないように慈しみで満たされていた。
「私ね、色んな芸術品を見ながら、ちっともそれを見てなかったんだ」
私の隣で、彼女は頷いた。二人が二人とも、光を照り返す泉を見ていた。
「凄く好きだった人のことをね、考えてた。この景色を見たらなんて言うのかな、どんな顔するのかなって」
瞳を閉じれば、目蓋の裏に線が描かれる。笑った顔。心配する顔。慈しむ顔。
「どうして過去系なの?」
「だって――」
口を噤む。言いたくないと、肉体が精神を否定した。それでも、言わなければならないことだった。
「過去にしなきゃいけないから」
胸の奥に、鈍い痛みが響いた。その声さえ泉の水は飲み込んで、悪戯な静謐さを揺蕩わせていた。
一人、一人。また泉から人が離れていく。美しさだけ胸に仕舞いこんで、後ろ向きにコインを投げてまた訪れたいと願いながら。
それでいいと思った。忘れたいわけじゃない、忘れられるはずがない。ただ仕舞っておければいつか色褪せて、目を細めて懐かしいと思える気がした。
「……何よ、それ」
仰々しいまでに感情がのせられた声に、私ははっとして加東さんを見た。薄っすらとした彼女の目は、さらに鋭くなって私を刺していた。
「あなた本気でその人のこと好きだったんじゃないの?」
「そうよ、本当に本気で好きだった。愛してたって言ってもいいよ」
「またそうやって過去形にしようとする。本当に本気だなんて、軽々しく言ったものだわ」
彼女の言葉に、私ははっきりとした苛立ちを感じた。自分の内にある感情を、全て否定されるみたいだった。
「昔、ってことはずっと前からなんでしょ。それなのに今の今まで思い続けてる。それぐらい好きなのに、どうしてそれを箱に仕舞おうとするのよ」
真っ直ぐに私を攻める言葉に、すぐには答えが思い浮かばなかった。バシン、と両手で頬を押さえられて、ようやく自分が逃げようとしていることに気付いた。
「本当にそれができるぐらいの感情なら、あなたはもうそれを過去に出来ているはずじゃないの?」
私の瞳がガラスになって、全て透かされているような錯覚。ずっと恐れていたその感覚は、酷い怯えを呼び起こしたと思ったら、反発するような強さに変わる。
心のどこかで、こうなることを望んでいたのだろうか。彼女は誰かに似ているから、きっとこんな状況になるとは予測できていたはずだけど、心を抉る深さは変わらない。
「本気で愛してるんなら、その気持ちから逃げちゃ駄目よ。痛くて辛いだろうけど、でも」
鋭利な目はいつしか優しく歪んでいた。暗い暗い、薄い光さえ届かない心の奥底まで響いてくる感情が、確かに私に向けられていた。
「気持ちを消して、楽になろうとしちゃ駄目よ。本気で人を愛せるってこと、誇りにしてよ」
私は臆病だからもう、出来ないかも知れないけれど、あなただけでも。小さく呟かれた言葉に、私は彼女を力一杯抱き締めて上げたい衝動に駆られた。だけどそれは私の役目じゃないと、心のどこかで知っている。
「……ありがとう」
抱き締められない代わりに、私は彼女の肩に額を置いた。そっと背中に触れる手は優しさだけ滲ませて、私を包んでくれる。心の底から心地よいと、気持ちを預けられる。
「くすぐったいわよ、もう」
幽かに彼女の身体が揺れて、真っ黒な毛先が首筋に触れた。
「加東さんは、厳しくて優しいね」
それだけ言って、私は身体を離す。ニカッと笑って、彼女の瞳の中の私は屈託なく。
今一度トレヴィの泉と向き合うと、私はポケットをまさぐった。チップ用に入れておいたコインは、薄暗い中で鈍く光っている。
「よーし」
「ちょっと、トレヴィの泉にコインを投げる時は、後ろ向きにでしょ?」
「ううん、いいんだよ。これで」
トレヴィの泉を真正面に捕らえて、コインを握り込む。そのまま振りかぶる。
「二度と来るかーーっ!」
投げられたコインは天高く、空を穿って落ちていく。クルクルと回り踊り、光を撒き散らしながら。
――栞!
もうあなたから逃げたりなんかするものか。気持ちに嘘を言い聞かせたりなんか、するものか。
ぱしゃん、と、小さな水音。コインが泉に飲み込まれる、本当に小さな音が聞こえた。
泉に映るのは、黒く塗られた異国の空。その空にコイン一枚分の穴が開くのを、私は確かに見届けた。