異国の空
 
 
執筆:滝(流れ落ちる何か

≫02
 今でもあなたの夢を見るよ。
 あなたの温もりも、柔らかさも、肌の滑らかさも、全てがあの時のまま。
 懐かしくて嬉しくて、目が醒めるといつも泣いている。
 
*        *        *
 
 どこか寝呆けた頭のままで、遠いシャワーの音を聞いていた。午前八時五分。清々しすぎるイタリアの朝は、眩しすぎて逆に不快に思う。
 加東さんは八時にしゃきっと起きると、お先と言ってシャワーを浴びに向かった。何も聞こえてこないけど、きっとバス・アメニティの使い難さに四苦八苦していることだろう。
 懐かしい朝だ。確かちょうど二年前も朝にシャワーを浴びることにして、のろのろと起き出した私はこうしてシャワーの音を聞いていた。
「はー、イタリアのシャワーって使い難いわね。仕切りのカーテン濡れちゃったわ」
 確か二年前にも、同じ意味の言葉を聞いた。
「何笑っているの? 気持ち悪いわね」
 加東さん、初めてあなたの家に行った時みたいに、今度は私が髪の毛乾かして上げようか。
 言ったら変態と罵られそうだったから、私は「別に」と答えてバスルームに向かった。
 
「凄い……」
 朝食とチェックアウトを済ませ、ホテルを出た瞬間だった。加東さんは力が抜けたように壁にもたれて、街中を見渡した。
 テルミニ駅周辺には以前も来たけれど、やはり何度見ても感嘆の息を殺せない。赤茶、白、こげ茶。街は朝日を浴びて生き生きとしていて、建物でさえ「おはよう」と声を掛ければ挨拶が返ってきそうだ。この時間帯、というのもあるのだろうけど、観光地らしく忙しいイメージはない。私とは正反対なぐらい、朝の喜びに満ちているように思えた。
「本当、凄い。何か今、やっと外国に来たんだって感慨が沸いてきたわ」
「加東さんって、割と鈍感?」
「仕方ないじゃない。夜の街しか見てなかったから、あんまりそういう実感なかったのよ」
 しかしまあ、加東さんがこれだけ感動してくれれば、私も嬉しい。まさかないとは思うけど、行く先々で「ふーん。写真と一緒ね」って反応だったらテンション下がりっぱなしだ。
「よしよし、それなら案内のし甲斐があるってものよ」
「そうね、何だかこっちに来る前より楽しみになってきたわ」
 加東さんは言ってから、本当に屈託なく笑った。彼女のそんな顔、久しぶりに見る。客観的に見れば『一緒に海外旅行に行く仲なのに』という話なのに、彼女が無邪気さを見せることは稀なのだ。
「はい、じゃあワクワクドキドキの加東さんはどこに行きたいかなー」
 私の言葉に「何よそれ」と文句を言いながらも、広げた地図を穴でも開けんばかりの視線で見ている。ローマは遺跡の街。適当に歩いていればそこかしこに見つけられるぐらいだから、特に行動プランなどはなかった。
「ここから一番近いのはどこ?」
「うーん、セルヴィウスの城壁ってのが駅の近くにあるみたい」
「みたい、って?」
「見たことないか、見ても覚えてない」
「……ふーん」
 私の適当さにはもう突っ込み飽きたのか、大したはリアクションはない。代わりに私の手から地図を奪って、ぐるりと九十度回転させた。
「あっちね。行きましょう」
 ぐいと手を掴まれて、引っ張られていく。まさか彼女の方からそんなことするなんてな、と苦笑を隠して、私は朝の街に溶け出した。
 
*        *        *
 
 まさか私にこんな感情があるなんて、知らなかった。生まれてこの方外国に行ったことがないのだから当たり前かも知れないけれど、それは少なくとも私にとっては新鮮だった。
 この歳でこんなことを言うのはおかしいけれど、私はきっと枯れているのだと思っていたのだ。ついこの間なんて、「加東さんってなんか悟ってるよね」なんて言われてしまった。そんなこと言われてしまったら、素直になんかなれるわけがない。
「ほら加東さん、パスタだよ。イタリアーンなパ・ス・タ」
 そんな私の反応が面白いのか、佐藤さんは子供におもちゃを与えるようにそう言った。お昼時、やっと眼前に料理が並んだ時のことだった。
「止めてよ、別に向こうのもこっちのもほとんど一緒じゃない」
 ピザもパスタも、それほど大きく違っているわけではない。圧倒的に違うのは、お店の雰囲気ぐらいだ。空気の八割が、情熱でできているような気がする。
「あ、でも美味しい」
「でしょー、違うでしょー」
 一口食べてから言うと、佐藤さんは自慢げにいった。別に佐藤さんが作ったわけでもないのに。
「おお、本当だ。ピザじゃなくてピッツァだよ。マルゲリータ」
 意味の分からないことばかり言う友を見ながら、どうしようもなく笑みが零れた。不思議な感覚だ。不快感を覚えないところを顧みる限り、私はまんざらでもないらしい。
 考えれば考えるほど、全てが不思議なのだ。大学に入った当初は、学校は勉強しに行く場所、付き合いなんて必要ないと思っていた。
 それがどうしたことだろう。私は今、日本を出て美味しい料理を前に笑っている。目の前にいる友を、もっと知りたいと思っている。――口が裂けても、そんなことは言えないけれど。
「イタリアはいいねぇ。音楽に美術品に美味しい料理。おまけに水よりお酒の方が安いときた」
「それはイタリアの物価が高いだけでしょ? っていうか佐藤さん、お酒飲めるの?」
 きっと彼女には、イタリアの空気が馴染むのだろう。鷹揚な風土に、整った建物と美術。佐藤さんを国に例えるなら、きっとイタリアになるに違いない。
「さあ? でもイタリアなら飲めるんじゃない?」
「さあ、って」
 事実彼女は、イタリアに来てからは水を得た魚のように生き生きとしていた。
 ――だけど。
 ふとその表情の下に一瞬の陰りを落とすことを、私は見逃しはしなかった。
 
*        *        *
 
 チルコ・マッシモは穏やかな午後の光に染め上げられ、地の緑を一層際立たせていた。
 かの有名な『真実の口』の裏手にあるこの広場のような場所は、馬車戦車レースが行われていた競技場の跡地である。その名残なのかトラックのような楕円型に草が刈ってあるけれど、まさかこんな曖昧な線で競技をしたりしなかっただろう。雰囲気の出し方まで適当で、流石イタリアだと思った。
 歩き詰めで乾いた喉に、昨日飛行機に乗る前に買って置いたペットボトルの緑茶を流し込む。これで暫くは日本の味とは別れることになると思うと不意に名残惜しくなって、やっぱり私は日本人なのだと思い知った。
「映画『ベン・ハー』で有名な、だって。加東さん、その映画観たことある?」
 真っ青な空に、真っ白な雲に。際限なく彩られた空の下でみるガイドブックは、酷く無粋に感じた。
「いいえ。そもそも映画はあまり観ないから」
「ふーん、そっか」
 きっと加東さんは、「映画と言えば?」と問えば「マトリックス」と返す人間なのだろう。私は映画について話すなら、その質問に「プリティ・ウーマン」と答えてしまう人が好ましい思った。
「なーんにもないわね」
 呆れたわけではなく、何故か感心するように加東さんは言った。
 確かになにもなかったけれど、ここには無形のものがあった。コロッセオを訪れた時にも感じたそれは、きっと様々な感情の残滓なのだろう。先の加東さんの言葉は、そういったものを受けての言葉だと感じ取れた。
「よし、ここいらで休憩にしよう」
 小さな丘のような場所を見つけると、私は迷わず傾斜に腰を下ろした。そうね、という言葉降ってくると、隣の草がカサと音を立てて揺れた。
 暫くの間、お互い口を閉ざしていた。会話が見つからないのではない。ただ言いたいと思っていることは風が運んでくれるような気がして、何かを喋ろうとは思えなかった。
 背を倒して空を仰いでいると、いつの間にか歌が聴こえていた。イタリアなのに、英語の歌。きっと私たちと同じ観光客のものであろうそれは、丘の頂点を挟んで向こうから聴こえていた。
ねえ、覚えている? 光と影が境界線を知るような、私たちの出会いを
 簡単な英語に、ややこしい文法のそれは、なんとか頭の中で訳すことができた。
鉄の心を、あなたはガラスに変えてしまった。すりガラスは、あなたの涙で透けていく
 訳しながら笑おうと思ったけれど、出来なかった。真摯な歌声が縛りつけてくるように、声が出なかった。
凄く怖くて、幸せだった。後戻りなんてできやしない
 加東さんは、そっと目を閉じた。
ずっと続くんだと思っていたよ。心からそれを望んでいた
 鳥が啼いて、暇隙を掠めた。そよいでいた風は一瞬強く吹いて、髪を宙に遊ばせる。
あなたの闇を照らす光であればよかった。私にはそれが出来なかったけれど
 太陽はいつの間にか雲の仮面をかぶって、風も彼女の声も凪ぐことはなかった。
あなたの闇を照らす光であればよかった。そうしたらこんな痛みを知らずに済んだのに
 例えるならばその歌声は風に泳ぐ草の葉のように、鮮やかに身を捻り聴く者を魅了した。美しいという言葉に収まり切らない悲しみが溢れ出して、胸の内を攪拌されるような、得体の知れない衝動が生まれた。
愛したい。消えたい。この傷はあなたでしか癒せない。こんな痛みを置いていくなら、愛と一緒に想いを消してくれたらよかったのに
 あるいは彼女は、断ち切る為に旅立ち、ここで歌っているのだろうか。そして私も、また。
 
 長いデクレッシェンドが空に溶けていくのが見える気がした。
 無遠慮なまでに高い異国の空は、その思いを聞き届けたのだろうか。それだけが気がかかりで、私はしばらく目を開いて空に穴が開かないかと願っていた。
 
 
 
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