異国の空
 
 
執筆:滝(流れ落ちる何か

≫01
 きっと別の誰かを愛することが出来れば、この痛みは消えるんだと思っていた。
 癒えない傷はないって言葉、本気で信じていたのにね。
 
*        *        *
 
 例えばそれは、こんがらがった糸の先。一本の糸を辿っていって逢った人がその人だったというのが、正しい例えなのかそうじゃないのか。人の縁と言うものは本当にどうなっているんだか分からない。
 どちらかが一方的に近寄って来たわけでもない。気付いたらそこにいた。仲良し、なんて稚拙な言葉で表現できるような単純な関係ではなくて、言ってみればお互いの線を分かっているというのだろうか。性格は似ても似つかないけれど、きっと波長が合っているのだと思う。
 ――しかし、だ。
 本当にその『糸』の先に彼女が繋がっていたのか、疑いたくなる時がある。実は糸が絡まっていて、他の糸であるはずの彼女がくっついてきたんじゃないのか、と。
「どこ行ったのよ」
 本当にほんの少し、彼女と別行動を取ったのがいけなかった。何分待っても合流予定場所に現れない。
 ちなみに今朝は彼女の寝坊を心配して、かなり早目に集合時間を設定したし、彼女はその時間より二分も早く着いているという快挙も成し遂げた。そして順調に空港に着いたまではよかったけれど、その後色々見てみたいと言う彼女の放蕩を許してしまったのが悪かったのだ。
 お陰で旅立ちの前から慌しくなってしまっている。一体どこに、と競歩の速度で歩き回っているうち、いつの間にか額に汗が滲んでいる。既にタイムリミットは近い。
「東京都からお越しの加東景さま――」
「うわ」
 ついに呼び出しがかかった。搭乗口に来ないのなら置いて行くぞという最終宣告である。しかしこれで彼女の方も呼び出されれば、搭乗口にくるはずだ。
「……番搭乗口までお越し下さい。繰り返しご連絡致します。東京都からお越しの加東景さま――」
 あれ、と思った。アナウンスは繰り返し私の名前を呼んで、彼女の名前を呼ぶことはなかったのだ。
(ってことは)
 まさか、まさかという気持ちで搭乗口に急いだ。まさか先に行ったんじゃないでしょうね、と思わず言うべき対象もないのに問い詰めてしまいそうな口を閉じて搭乗口に着くと、そのまさかがそこに居た。
「加東さん遅ーい」
 言うにことかいてそれか。脱力しそうになる身体にムチを入れ、彼女の元へ駆け寄った。
「あなたね、どうして、勝手に先に行くのよ」
「え、だって待ってても全然こなかったし、先に行ったのかと思ってた」
 つまり、こういうことだ。私は佐藤さんに比べれば随分と早く買い物を終わらせ、待ちきれずに探しに出た。その後佐藤さんは合流場所に着いて、私が居ないと、先に行ったと思って手続きを済ませたということ。
「ああもう、いいわ。急ぎましょう」
 そう言うと急いで搭乗口で手続きを済ませた。お急ぎ下さい、と冷静に言われては、文句を言う暇なんてない。細長く、時に急になる通路を抜け、飛行機と通路がドッキングしている部分を飛び越えると、添乗員が後ろを確認してすぐそれの撤去に取りかかった。
 指定の席に着くと、ようやく一息吐くことができた。佐藤さんはと言うと、荷物入れのフタをチェック入る添乗員を見て「お、あのスッチー美人」なんて小声で言っている。関西の芸人みたいに、思いっきりスパンと頭を叩きたくなる。
「あなたって幸せ者ね」
「んー、そうでもないよ?」
 そう無邪気に返されては、二の言葉が返せない。救命胴衣の着用の仕方を説明されながら、今更何故こういう状況になったのかと、説明を求める自分がいた。
 最初はゆっくり加速していって、離陸の瞬間強烈に加速したこの飛行機の行き先はイタリアで間違いない。フェラーリやシチリアレモンで有名な、と言ったら、佐藤さんは「何でまずそれがくるのよ」と笑ったけれど。きっと彼女の中でのイタリアのイメージは、全然違うものなのだろう。
 佐藤さんにとってのイタリアのイメージって、何なのだろうか。そんなことを考えながら、さっきから頭に浮かんでいた疑問を、言葉にして吐き出した。
 
*        *        *
 
「なんでイタリアなのかしら」
「加東さん、君は温泉に行って、どうして温泉旅行なんだろうって思う? 思わないでしょ?」
 根本的な質問に、単純な答え。温泉旅行に行く人は、温泉につかりたいからという欲求が頭の隅にあるから行くのだろう。
 それを言うならば加東さんには海外旅行をしたいという欲求があったということだ。現に、ふと海外旅行に行きたいと加東さんが言ったから、この旅行が決まったのだ。何故海外旅行に行きたいかなんて考えなかっただろうし、私が「じゃあイタリアに行こう」と言い出した時、彼女は二つ返事でオーケーしたのだ。
「まあ、そうだけど……」
「それに一度行ったことのある人間がいるんだから、そっちの方が心強いでしょ?」
「でもそれだと、佐藤さんは二回目になるわ。だからどうして、と思ったのよ」
 本当に、どうしてだろう。私は海外旅行に行きたいと言われて、イタリアしか思いつかなかったのだ。それはつまり、先ほどの弁に拠るならば私は潜在的にイタリアに行きたがっているということになる。
「何でだろうねぇ。一回の旅行じゃイタリアを味わい尽くせなかったからかな?」
 口を突いて出てきた適当な答えだったけれど、案外的を射ていた。二年前のあの時の私は、とてもじゃないが心から海外旅行を楽しめる気分ではなかった。
「まあ、いいけれど」
 加東さんはそう言ったきり、口を閉じてしまった。決して大きいとは言えない窓から、傾いだ地表を見ていた。
 終着港であるフィウミチーノ空港まで十二時間から十三時間。まさかその時間ずっと見ているわけではないだろうから、先ほどの加東さんのセリフを小さく反復して、静かに目を閉じた。
 本当に、私の目的って何なんだろう。答えのない疑問は、中途半端な眠気に張り付いて離れない。真っ直ぐに飛ぶ飛行機とは反対にぐるぐると。加東さんがようやっと口を開き、「機内食って美味しいの?」と訊いてくるまでずっと、その疑問は離れなかった。
 
*        *        *
 
 よく欧州に旅行に行った人が言うセリフがある。
『街中がテーマパークみたいだ』
 なるほど確かに、と思うところはあった。そもそも楚となる建築方法が違うのだからそう感じるのも当たり前だろう。
 フィウミチーノ空港、別名レオナルド・ダ・ヴィンチ空港。まあ中部国際空港がセントレアと呼ばれるのと同じ感覚であろうそれは、しかしお世辞にも綺麗とは言えない場所だった。
 それを言ったら佐藤さんは「イタリアは緩いからねー」の一言で終わらせてしまった。緩いのはどっちだと言いたい。
「ま、長居は無用よ。さっさと電車に乗りましょう」
 ちなみに佐藤さん、ローマに移動した時は学校でチャーターしたバスを使っていたから、空港から電車に乗るのは初めてらしい。ガイド役を買って出た割には頼りない。
 次に空港から地下道を通って駅に行く前に両替したけれど、これもあまりいい印象ではなかった。手数料を取りすぎだ、と思う。物価も高いし、いきなりイタリアの印象は右肩下がりだ。
「レオナルド・エクスプレスかー。うん、流石ゲイジュツの国よね」
 私の些細な不機嫌など見て見ないフリで、佐藤さんは駅の看板を見上げて感嘆している。こういう性格じゃなきゃ、イタリアは楽しめないのではないかと思う。
 電車に乗って約三十分ほど揺られると、ローマの終着駅であるテルミニ駅についた。いわば東京駅ぐらいに当たるのかな、とまた取り止めもないことを考えてしまったけれど、そう思っても間違いないぐらい駅は広かった。表通りへの出口はこっち、と十分も歩かなければいけなかったのだ。
「はい、イタリア一丁お待ちー」
 佐藤さんの先導で、駅の正面玄関のような所を出た。時刻は午後十時過ぎ。当然ながら辺りは暗く、遅い時間というだけあって人通りも疎らだった。
「へぇ……」
「あれ、『わぁ!』じゃなくて、『へぇ』?」
 そんなこと言われても、感動の仕方は人それぞれだと思う。だってイタリアと言えば遺跡の白と、草の緑のイメージがあったから、こんな夜景を想像していなかったのだ。
 けれど、綺麗なことに間違いはない。光の中でぼんやりと茶色い建築物が浮かび上がる様子は、日本では中々見られないだろう。
「さ、早くホテルに行きましょうか。疲れたわ」
「加東さん、私よりも情緒がないとは流石ね」
「何が流石なのかよく分からないけれど、早く休みたいのよ」
 何せ初めて海外旅行だ。慣れないことばかりだし、飛行機の中でもそれほど眠れなかった。景色を楽しむより休息を求めるというのは、人間としては正しい。
 だけどそれを言ったら、佐藤さんは「文化人として正しくない」と言った。彼女の口からそんなセリフが飛び出すのは意外だったけど、そもそも私は文化人じゃない。
「まあ、ここら辺でウロウロしているのも危ないかもね」
 そう言って移動し出して五分程度。ビジネスホテル並の値段で泊まれる割には豪華そうなホテルが見えてきた。もっとも、ホテルの値段に騙されてイタリアの物価は高いと感じているのだから、油断はできない。
 ホテルにつくと佐藤さんは挨拶だけイタリア語で言って、後は英語でチェックインを済ませた。あれでも一応英米文学科なんだな、と改めて思う。
「それじゃ、おやすみなさい」
 部屋につくなり佐藤さんはベッドの片方に突っ伏した。
「何よ、佐藤さんだって眠たかったんじゃない」
「眠たくないなんて言ってないもん」
「お風呂はどうするのよ?」
「明日の朝ー」
 そのまま彼女はぐるぐると身を悶えさせながら薄着になると、本格的にベッドに潜り込んだ。それが何だか大きな猫みたいで、おもわず頬が笑みに上がっていた。
「加東さん、目覚ましセットしといてー。携帯持って来てるでしょ?」
「私はあんたの専業主婦か」
 思ったことをそのまま口にしながらも、鞄を探った。起きられなかったら、私も困る。
 何時? 八時。そんなやり取りの後に開いた携帯電話は、やはり圏外だった。
 
 
 
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