■ ドリルオーディション -第十章-
 
 
 
 
 二人の少女が対峙していた。一人は、大切なものを求む為に。一人は、大切なものを守る為に。この二人のどちらが正しいのだろう? どちらが正しくないのだろう? いや、これはどちらも正しい。そして、どちらも正しくないともいえる。何故なら、絶対の正義などこの世にはないのだから。
 ただ、一つだけ間違いなくいえることがある。それは、この対峙する二人の想いは、互いに紛れもなく本物だということが。この相反する気持は、互いに、心の底から来ている、というこということが。
 
 ならば問う。この相反する二つの想いの両立は可能なのか? それとも不可能なのか?
 結論を言えば、不可能ではない。ないはずだ。が、それはいくつかの要因によって大きく意味合いが違ってくる。
 
 時にそれは、妥協という名の安易な近道によって両立する。その想いの根幹がすでに変質してることも気がつかず。
 時にそれは、傷つきことを恐れぬ情理を尽くした上の相互理解によって両立する。その想いの形は変われど、その根幹はいささかも変わることなく。
 では、この二人はどうするのか、どうなるのか。それは、マリア様にもわからない。それは、この二人にしか決めることしか出来ない。
 ただ、お互いが納得できる答えを見つけてくれることを切に願わん。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ドリルオーディション十章
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 乃梨子は滾っていた。ただただ、滾っていた。
 
 冷え込んでいたはずだった。先ほどまで、乃梨子の心は永久凍土のように透き通った青色だった。
 だけど、その声を聞いた瞬間。その声を、瞳子をあのようにした元凶の声を聞いた瞬間。その存在を認めた瞬間。同じ青でも、意味合いを間逆に変えた。
 それは、同じ青でも透き通った青は氷ではなく、高温の炎となって燃えさかっていた。それはまるでガスバーナーのように燃えさかっていた。
 本来、怒るということはエネルギーを使うので長続きはしないだろう。だけど、この燃えさかっている赤を通り越して青くなっている炎が絶えることはないことを乃梨子は自覚していた。
 
 (・・・・・・瞳子ちゃん、だと?)
 
 何故なら、他でもない怒りの燃料が乃梨子の目の前にいるのだから。全ての元凶がわざわざ来てくれたのだから、この炎が絶えるはずがないではないか。
 
 「ねえ、瞳子ちゃんは!?」
 
 黙れ、その名を口にするな。
 
 「ねえ、乃梨子ちゃん!? 聞いているの!?」
 
 ああ、聞いているとも。だから、
 
 「・・・・・・あの、すみませんがちょっと黙ってくれませんか?」
 
 乃梨子が滾るものを押さえつけながら言うと、目の前にいる人間はようやく耳障りだった口を閉じた。
 が、乃梨子が安心したのも束の間このおめでたいこの人は、再度、少し焦った口調で寝言を言ってきた。
 
 「ううん、黙んない。ねえ、乃梨子ちゃん。瞳子ちゃんは何処に行ったの?」
 
 ふん、何処に行った、だと。
 
 「お願い、知っているなら教えて!」
 
 うるさい、なら教えてやる。
 乃梨子は、投げやりに口を開いた。
 
 「瞳子なら、もう行ってしまいましたよ」
 
 そうだ、行ってしまった。乃梨子の声の届かないところへ。……そして、
 
 「だ、だから、何処に行ったの!?」
 
 少なくとも祐巳さま、あなたの手には届かないところですよ。ええ、瞳子はもうあなたを必要としてはないのです。
 瞳子は祐巳さまを否定した。はっきりと拒絶した。ならば、友達として出来ることは一つ。
 
 「……あなたを先には、瞳子の元には進ませません」
 
 そうだ、進ませない。瞳子のもとには、絶対に。
 
 

 
 
 『先には、進ませません』
 
 乃梨子ちゃんははっきりそう言った。
 ここで言う、進ませない、という意味は、瞳子ちゃんの元へは、ということなのだろうか?
 うん、間違いない。祐巳はそう確信した。いや、違う。そんな自覚すら必要なかった。何故なら、乃梨子ちゃんから叩きつけられている眼光は恐ろしいまで敵意に満ちていたから。
 その目には、見るもの全てが震えあがるほどの激しい怒りがこもっていた。
 その目には、世の全てを呪うかのような激しい敵意が刻まれていた。
 
 (・・・・・・乃梨子ちゃん)
 
 だけど同時にその目の奥には、哀しみのようなものが秘められていた。
 そう、その激しさの下には、紛れもない哀しみが、やり切れなさが、切なさが込められていたように見えた。
 その全てが怒りと変わり、祐巳を射殺しかねないほどの鋭い視線で祐巳を貫いている。
 そのあまりに激しい迸りに、祐巳は悟った。悟らざるを得なかった。この哀しくも激しい視線は祐巳が引き起こしたことに他ならないと。
 
 これまで乃梨子ちゃんは、祐巳の味方だったような気がする。少なくとも、敵ではなかった。
 今思えば、茶話会を初め、これまで言葉の節々に祐巳に対してメッセージを伝えてくれようとしてくれたんじゃないだろうか、と思う。
 たぶん乃梨子ちゃんは、知っていたんだろう。瞳子ちゃんのことも、そして、祐巳のことも。
 だからこそあの時、「本当にいいんですか?」などと聞いてくれたのだろう。あの言葉は、メッセージは、乃梨子ちゃんからの警告。いうなれば、あれはイエローカード。
 
 (・・・・・・だけど、わたしは)
 
 それを無視した。軽く受け流してしまった。
 結果的に妹は出来なかったけど、そんなのは関係ない。そういう問題じゃない。あの時、乃梨子ちゃんの警告を無視した。あの時は、それが全てだ。
 多分、これまでもチャンスはあった。あの時も、あの時だって、いくらでもあった。瞳子ちゃんのことを知るチャンスはいくらでもあった。だけど、全部ふいにした。誰のせいでもない。全部、自分のせいで。
 ひょっとしたらこれは、自分への罰なんだろうか? 乃梨子ちゃんの敵意に満ちている目を見て祐巳はそう感じた。が、
 
 (……ううん、そんなんじゃない)
 
 祐巳はその考えをすぐに振り払った。だって、その考えはあまりにも自分本位にもほどがあったから。あの時、祐巳は巻き込まれる形とはいえ自分の意思で茶話会に参加をした。そして、瞳子ちゃんは茶話会には参加しなかった。瞳子ちゃんは、瞳子ちゃんの考えがあって。
 こうなってしまったのも、今、瞳子ちゃんが薔薇の館から出て行ったのも、祐巳が瞳子ちゃんを求めて向かっているのも、乃梨子ちゃんが祐巳の行く手を阻むのも、全ては各々の選択と決断によって決まったことに他ならない。それなのに、自分への罰、だなんて、あまりにも瞳子ちゃんの決断を軽んじている。乃梨子ちゃんのことを軽んじている。 
 この現実は、この三人の現実はここまで皆の選択によって起きたものだ。それは、素直に受け入れないといけない。瞳子ちゃんが去り、乃梨子ちゃんが哀しみに満ちた目で祐巳の行く手を阻むこの現実を。……だけど、
 
 (・・・・・・うん、それは認める・・・・・・でも!)
 
 そうだからといって、まだ、決まったわけじゃない。まだ、終わったわけじゃない。終わらせるわけには行かない。
 
 (・・・・・・まだだよ、まだ!)
 
 だから、祐巳は叫ぶ。意思を込めて、乃梨子ちゃんの気持ちに負けないように。この祐巳の想いが乃梨子ちゃんにも伝わるように。
 
 「そこを退いて、乃梨子ちゃん!」
 
 

 
 
 そこを退いて、だと?
 ふざけろ、乃梨子は心の中で悪態をついた。
 
 「お願いだからそこを退いて、乃梨子ちゃん!」
 
 目の前の人間は、再度、同じようなことをいってきた。
 この人は、何を言っているのだ? 乃梨子はそう思う。むろん、言っている意味がわからないというわけではない。ただ、その言葉を、その人間の名をこいつはどの面下げていっているのだ、と乃梨子は思っている。
 
 (・・・・・・この人は、馬鹿か? 馬鹿なのか?) 
 
 乃梨子は、上級生に、しかも志摩子さんの親友でもある人間に対してあるまじき感想を思い浮かべる。が、間違ってもその考えを翻そうとは思わなかった。いや、その感想ですら生ぬるいと思っていた。
 
 (・・・・・あんたのせい。全て、あんたのせい…)
 
 乃梨子の心をどす黒い感情が覆っていく。憎しみが身体を支配していく。
 乃梨子は、殺したいほど憎い、という気持を初めて味わっていた。楽しんですらいた。むろん、実際に行動に移すのと、思うのとではまた大きな一線がある。だが、一瞬でもそう思ったことは確かだった。
 この人間を瞳子の前に連れて行ってしまったら、今の瞳子に会わせてしまったら、瞳子は間違いなく傷つく。いや、傷つくどころか壊れてしまうに決まっている。
 この方は知らないのだ、先ほどの瞳子を。あの悲しくも、毅然とした瞳子を。
 先ほどの瞳子は、ある決断した。
 
 (・・・・・・瞳子は、祐巳さま、あんたを否定したんだよ…)
 
 それがどれだけ悲しい決断であってもそうせざるを得なかった。瞳子に残された選択はそれしか残されてはいなかった。それでしか、松平瞳子の誇りを守ることが出来なかった。
 
 (…あんたが好きでも、ううん、好きだからこそ、否定しないといけなかったんだよ…)
 
 たとえ瞳子がどれほど祐巳さまが好きでも、あのガラスのように純粋で脆い心を持っている瞳子にとって自分から言い出すことは絶対に出来なかった。何故なら、それは瞳子にとって自分自身の否定に繋がるのだから。
 
 (…どうして、ねえ、どうして気づいてあげなかったんだよ、瞳子の気持ちを。ねえ、どうして、瞳子を裏切ったんだよ!)
 
 そうだ、目の前の人間は瞳子を裏切った。
 本人は、裏切った、などという考えは無いだろうし、この考えは乃梨子の偏見だということも自覚している。
 だけど、だめだ。わかっているけど、だめだ。
 マリア様に許しを請うことなどしない。罰を与えるならいくらでも与えてくれていい。この後で、この口を封じてもいい。それでもかまわない。だけど、今は、今だけは、この溜まったものを吐き出さしてもらう。この目の前にいる人間に、自分がどれだけ愚かなのかを、どれだけ残酷なのかを知ってもらわないと気がすまない。じゃないと、あまりにも瞳子が報われない。
 これから乃梨子が告げようとしてることは、間違いなく瞳子に対しての裏切り行為になるだろう。だって、それは乃梨子に対してだけ、乃梨子に対してのせめてもの友情として教えてくれたことなのだから。 
 間違いなく、瞳子は自分の祐巳さまに対する気持を知られたくない。それは分かっている。だけど、だけど、
 
 (・・・・・でもさ、それじゃあんまりじゃないのか!? 何で、何で、瞳子だけがあんなに傷つかないといけないんだよ!)
 
 乃梨子には許せない。その儚くも純粋な瞳子の気持を、その痛みを知らずにのうのうと、瞳子ちゃんは? と聞いてくる祐巳さまを許すことができない。そんなことがどうしてできようか。瞳子の友達として、どうしてできようか。
 
 (・・・・・・悪い、瞳子)
 
 乃梨子は、もうここにはいない友達に懺悔をした。
 
 (・・・・・・あんたはさ、自分の気持を知れたくないんだろうけど…でも、どうしても許せないんだ)
 
 もう我慢できない。乃梨子は己が口を、理性ではなく荒れ狂っている感情に委ねた。
 
 「祐巳さま、あなたは何様のつもりなんですか?」
 
 口が止まらない。
 
 「ねえ、あなたは何様のつもりなんですか!?」
 
 止められるはずが無い。
 多分、祐巳さまは乃梨子が何故このようなことをいっているのかが分からないだろう。何も分かってないのだろう。先ほど、瞳子が何を決断したのか、を。それがどれだけ哀しいこととわかっていながらも、深く傷つきながらも自分の誇りを守る為に決断したのかを。
 でないと、そのようなことは口が裂けてもいえるはずがないではないか。この期におよんで、今更になって、瞳子の元に赴くなどと言えるはずがないではないか。
 
 (なのに今頃になって、瞳子ちゃんは、だと! ふざけるなよっ!!)
 
 そうだ、乃梨子の目の前にいる人間はあまりにもふざけている。姉妹そろってあまりにも人の気持ちを踏みにじっている。
 ほんの少しでもいい。瞳子の悲しみを目の前の人間に感じてもらわないと気がすまない。乃梨子は、哀しい咆哮を目の前の人間に思い切り叩きつけた。
 
 「祐巳さま、あなたは、あなたはどのつらさげてそのようなことを言っているのですか! 瞳子はね、あなたのことが好きだったのですよ! 本当に、本当に好きだったのですよ! ・・・・・・だけど、あなたはそれが分からなかった・・・瞳子の気持は、あなたには届かなかった・・・・・・それを今更になって、瞳子ちゃん、だなんて、あなたは何様のつもりなんですかっ!!」
 
 

 
 
 『あなたは何様のつもりなんですかっ!!』
 
 乃梨子ちゃんの一言は、刃のように鋭かった。その慟哭のような言葉は、悲しみと怒りが両刃についた剣のように、鋭く祐巳の胸を斬りつけてきた。
 その剣はとても鋭かった、そして、とても痛々しかった。それは容赦なく、目には見えない深い傷を祐巳の心に刻みこんでいた。 
 だが、その剣によって傷ついた人間は祐巳だけではなかった。
 もう一人、祐巳と同じ、いやあるいはそれ以上に激しく傷ついている人間がいるのが祐巳にはわかった。……それは他でもない、その剣を振り下ろした乃梨子ちゃん自身。何故なら、乃梨子ちゃん双眸からは止めどなく何かが溢れていたから。それは、友達を想うが故に溢れ。その純粋であまりに哀しくも綺麗な液体は、乃梨子ちゃんの頬を伝っていた。その鋭くも、悲しい慟哭は諸刃の剣に他ならなかった。
 今、祐巳の目の前で一人の女の子が泣いている。友達のために泣いている。
 胸が、痛んだ。どうしようもなく、胸が痛んだ。
 その理由は、乃梨子ちゃんが泣いている原因は紛れも泣く祐巳のにあったから。乃梨子ちゃんが泣いているのは祐巳のせいであることが間違いなかったから。
 
 (……ごめん)
 
 祐巳は心の中でそう呟く。
 
 (……本当に、ごめんね、乃梨子ちゃん)
 
 だが祐巳は、それを口にして乃梨子ちゃんに許しを請うようなことはしなかった。何故なら、それはあまりに恥ずべき行為だとわかっていたから。
 ここでいう、恥ずべき行為、という意味は乃梨子ちゃんに対して贖罪の気持ちを持つことではない。いかにおめでたい祐巳とて、この乃梨子ちゃんを見て贖罪の気持ちが沸かないはずがない。許しを請いたくないはずがない。
 だけど、それは許されない。絶対に、許されない。
 だって、ここでいくら謝っていても乃梨子ちゃんには許してもらえないと分かっているから。間違いなく、今の乃梨子ちゃんには意味のないものだから。
 
 (……わたし、大馬鹿だった。お姉さまに言われるまで気がつかなかった。瞳子ちゃんが、自分にとってどれだけ大切な子ってことが……)
 
 現時点で許しを得ることが出来ないとわかっている謝罪など、軽々しいにもほどがある。あまりに相手のことを軽んじているのもほどがある。それは最早、相手に対する侘びですらなく、己の心の負担を減らすための卑劣な行為に過ぎないだろう。
 今、祐巳に出来ることは、やらなければならないことは一つだけだ。
 恨まれることを覚悟し、憎まれることを受け入れる。そして、それをその上で前に進む。ただ、それだけだ。そう今、祐巳のこの胸にある想いを伝える、ただそれだけしかない。
 
 (…確かに、乃梨子ちゃんが怒るのは当然だよね…)
 
 ずっと胸が痛い。けど、どれだけこの胸が痛んでいても、もう迷わない。だって、譲れないものがあるから。絶対に譲れないものがあるから。
 
 (……でも、ね。わたし、誓ったんだ。絶対に…絶対に引かないんだ、って。何があっても…どんな邪魔があろうとも瞳子ちゃんに私の答えを聞いてもらうんだって……だからっ!)
 
 理解してもらうなどとは思わない。許してもらおうなどとは思わない。この期に及んでまだ、と軽蔑してくれてもいい。だけど、聞いてほしい。ただ、聞いてほしい。
 祐巳は自分の胸を押さえ、一つ深呼吸を入れた。まるで、胸にある迷い全てを取り払うかのように。そして、この世界全てに聞かせるように大く吼えた。
 
 「何様、だなんて、そんなの知らないっ!」
 
  再度、吼えた。
 
 「乃梨子ちゃんが怒っていたとしても、そんなの知らないっ!」
 
 声が枯れた。咽が苦しい。だけど、吼える。
 
 「私が瞳子ちゃんを傷つけたとしても、そんなの知らないっ!」
 「なっ! あっ、あなたは」
 
 どこかで、誰かの声が聞こえた。だけど、吼える。
 
 「私は、瞳子ちゃんが好き! さっき分かったばっかりだけど、そんなの関係ない! やっと分かったんだ。瞳子ちゃんが私にとってどんな子だっていうのが、どれだけ大切な子ってのがっ! だから、譲れない。誰であろうと、絶対に、瞳子ちゃんは譲れないんだからっ!!」
 
 

 
 
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