■ ドリルオーディション -第十一章- ふざけるな。 乃梨子はそう叫びたかった。 だって、そうだろう。瞳子が好き、だと。大切な子、だと。譲れない、だと。 ふざけるな。それを、それを、 (……認めろというの?) ふざけるな。 そんな寝言を。瞳子を傷つけた、裏切ったあなたにそんな寝言を、 今さら、今さら、今さら、 (認めろというのっ!!) ふ・ざ・け・る・な。 なら、さっきの瞳子はどうなるんだ。あの傷つきながらも、自分の誇りを最後まで守り通した瞳子は、 (どうなるんだよっ!!) 乃梨子は、あまりに自分に都合のいいことを言っている目の前の人間が許せなかった。だって、そうだろう。当たり前だ、当然だ。自明の理だ。天地開闢から絶対に変わらないほどに、当然のことだ。 乃梨子は、祐巳を射殺せんとばかりに睨みつけた。 (……譲れない……譲れない、だとっ!) 相手の気持ちも知らず、 (……祐巳さまは、あなたはっ!) 瞳子をあれだけ傷つけて、傷つけておいて今更、 (なんで、そんなことが言えるですかっ!!) 目の前の人間は、瞳子ちゃんが大切、などとのたわった。しかも、今さっき気がついたという。おそらく、その気持ちに嘘はないだろう。多分、真実なんだろう。だけど、乃梨子は祐巳さまに問いたい。 どうして今なんだ、と。 問いたい。絶対に問いたい。問われずにはいられない。 祐巳さまが、瞳子と出会ったのはいつだろう? 入学したてのとき? それとも、それから一週間後? 一ヶ月後? はっきりと乃梨子には分からない。が、一つだけ言える事がある。それは絶対に、今日、ではないこと。少なくとも、二人が出会ってからこれまで数ヶ月の時が流れたのは間違いない。 その上で再度、祐巳さまに問いたい。 乃梨子の唇が、微かに震える。 「……どうして……今なんですか?」 その微かな大気の震えがまるでダムの決壊の始まりだったかのように、乃梨子の口からは止め処なく責め苦というなの水流が溢れ出していた。 「どうしてそれが、今、なんですかっ!! どうしてよりによって、今日なんですかっ!! 答えて、答えてくださいっ!!」 瞳子は、祐巳さまに自分の気持ちを伝えていない。少なくとも、言葉では伝えていない。それは明らかに瞳子の過失。プライドのせいであれ、意地のせいであれ、それはいいわけにならない。瞳子が悪い。それは認める。 だけど、さっき瞳子は自分自身でその楔を断ち切った。祐巳さまという楔を己の誇りと天秤に掛け、辛く悲しくとも誇りを選んだんだ。 なら、それで瞳子が非難されるいわれはない。誰からも文句を言われる筋合いはない。 それを今更、瞳子ちゃんは譲れない、などと聞かされる方にもなれというものだ。 ただ、一つだけ乃梨子は自分を欺いていた。 その何かを、受け入れがたい何かを乃梨子は自分自身にさえ意識させないように心の奥底にしまいこみながら、目の前の人間に対していかに怒りを燃やそうとしていた。 ただ、その怒りは先ほどのまでのように純粋な怒りだけで来ているわけではないことに乃梨子はまだ気づいていない。否、気づかぬふりをしている。 その不純物の名は、焦り。 そう、乃梨子は無意識の中で焦っていた。 何故、焦るのか? それは、自分が絶対に正しいと思っているのに、そう確信しているのに、先ほどの大気を揺るがすような祐巳さまの宣言によって乃梨子の心は微かな綻びが起こっていたから。その穴は、ほんの微かな微細といっていいほどの穴。だが、その穴が開いたことによって真っ黒に染め上げていた乃梨子の心に微かに光が差し込んた。 ほんの微かな光。しかしそれは、何十にも重なって出来た黒く厚い雲のような乃梨子の心を貫くぐらいに強烈に乃梨子の心を揺さぶってきた。 だけど、それを認めたくない、絶対に認めたくない自分がここにいる。 祐巳さまが真っ直ぐに乃梨子を見据えてくる。 祐巳さまの口が開かれていく。 その口調は先ほどの瞳子を求めるときとはうって変わって静かだった。その静けさは、まるで乃梨子の心の揺らぎを見透かしたかのようにも感じられた。 「乃梨子ちゃん。たぶん、乃梨子ちゃんの言いたいことはわかるよ、ううん、分かると思う」 乃梨子は、自分の心に蓋をして押さえつけながら言葉を発した。 「……何が、わかるのというのですか? ……あなたに、あなたに何がわかるというのですか!」 乃梨子の激しい口調にも、祐巳さまは先ほどと一緒で静かに乃梨子に返してくる。 「わたしね、さっきお姉さまに言われちゃったんだ。あなたは優しさを履き違えてる、って。最初は何のこと言ってるのか全然分からなかった」 乃梨子は、冷ややかに口を開いた。 「……意味が分かりません。それとこれと、先ほどの、私の言いたいことがわかる、の何が繋がるのですか?」 意味がわからない? 本当にわからないのか? そのような囁きが乃梨子に聞こえてくる。だが、乃梨子はその囁きを無視した。 祐巳さまが、言葉を重ねる。 「わたし、初めは傷ついてる瞳子ちゃんを慰めようと思ってた」 「……良かったですね。そうしなくて」 それは、最悪の答え、といっていい。もし、それを実行したのであれば、絶対に瞳子は祐巳さまを許さなかっただろう。むろん、乃梨子もだ。 ただ、乃梨子は気付いていない。 今、祐巳さまに返した言葉は、先ほどの、意味が分かりません、と答えた事に対してわずかな矛盾な生じていると言うことに。 乃梨子は先ほどの祐巳さまの、初めは慰めようとした、と言う発言にはすなわち、 「今は違うとでも言うのですか?」 を意味するのか、と祐巳さまに問い詰める。しかしそれは、さらに己の欺瞞していることに踏み込んでいくことを意味していた。 そんな乃梨子に、祐巳さまから返答が来る。 「うん、お姉さまに言われた後に自分でも考えているうちに分かった。瞳子ちゃんは何を求めていたのか、私には何が足りなかったのかって」 瞳子は何を求めていた、だと。祐巳さま、あなたにそれがわかるのか。瞳子のことなど気にもしなかったあなたに。今の瞳子に必要な…… (……必要なもの?) ここで、乃梨子は自分の頭に浮かんだ単語を拾い上げる。 瞳子は今、傷ついている。深く深く傷ついている。 (……じゃあ、瞳子に必要なものは) それは、優しさ、なのか? あるいは、傷ついた心を癒してくれるような、深い愛情? (……はっ、そんなわけないじゃん。そんなものは間違っても瞳子は望んでないよ) なら、それはどうして? 心は深く傷ついているのに、どうして瞳子は優しさを求めないのか? (……そんなの決まってる!) 瞳子が自ら福沢祐巳を否定したから、だ。 え、昔から受け入れてなかったんじゃないか? 確かにそうだ。瞳子は茶話会の時も、祐巳さまを「無視」して受け入れなかった。 そう、あの時、瞳子は否定でも肯定でもなくただ無視をしたのだ。 だけど、今回は無視じゃない。自分から好きと認めておいての否定したのだ。はっきりと。 祐巳さまを好きだ認めるのに、どれだけ勇気がいると思っている。そして、その祐巳さまをどうして否定したのだと思っている。 その理由は? そんなの明白だ。 (同情はいらない。瞳子は同情なんか欲しくないんだよ) そう、同情はいらない。あの意地っ張りは自分を貫き通すために否定したんだ。 (……それなのに今更、瞳子ちゃんが好き、だなんて……) 祐巳さまは瞳子を、絶対に譲れないもの、といった。瞳子を傷つけたことさえ、知らない、と言い切った。 ふざけている、あまりにもふざけている。怒りさえ通り越して呆れすらした。 しかし同時に祐巳さまの発言で、もう一つ乃梨子にとって無視できないものが示されていた。 それは、祐巳さまは瞳子が心配だから追いかけてきたというわけではない、ということ。 むろん、まったく心配してないわけではないだろうが、そんなのは枝葉に過ぎず乃梨子にとって大事なのは祐巳さまが瞳子を「求めて」ここにいるということ。 祐巳さまにとって瞳子は唯一無二のような存在、認めたくはないが祐巳さまはそういっている。 じゃあ、乃梨子にとって瞳子はなんだ? (……瞳子は、瞳子は……わたしの友達……) そう、瞳子は乃梨子の友達。しかもただの友達じゃない。大切な、大切な友達だ。乃梨子にとって、掛け替えのない友達だ。 では今、乃梨子がやっていることはなんだろう。友達として? そうだろう。同情を否定する瞳子の元に行かせまいとして、祐巳さまを足止めしている。 (……え、同情?) 矛盾が生じた。 でも、祐巳さまははっきりいった。言い切った。瞳子を大切な人と。絶対に譲れない子、と。 同情ではなかった。少なくとも、瞳子や乃梨子が思っているような理由ではなかった。 (…………) なら、それを意味するのはなんだ? (…………) じゃあ、今、乃梨子のしてることはなんだ? (…………) わかった。でも、わかりたくなかった。認めたくなかった。 だけど、そうなのだ。 瞳子はさっき、祐巳さまを否定した。 ここで本来であれば、これでこの問題は終わっていた。完全に終わっていた。瞳子と祐巳さまは終わっていた。 この『終わり』は所謂、絶交というものではない。お互い同じ学校に通っているのだからいくつかの接点は生じるだろう。が、それだけだ。たとえ接点があろうとも二人の関係に変化は起こらない。否、起こさない。何故なら、その時に瞳子がつけている仮面は何があろうとも外れることはありえないのだから。 瞳子は女優として、そして松平瞳子として、最後まで祐巳さまとの関係をただの先輩後輩を演じきるだろう。その哀しいまでの想いは決して悟らせることはなく、ただ自然に。 あるいは、それを愚かと思う人間がいるかもしれない。でも、それは仕方がない。仕方がないんだ。瞳子は、同情なんかいらない、と撥ね付けたのだから。全てを受け入れた上でそう決めたのだから。なら、どうしてそれを愚かなどと言えるのだろう。 人には、それがどれだけ他人には馬鹿に見えても譲れないものがあるのだ。瞳子の決断を否定できるものは、自分自身を嘲笑っているに等しい。それが他人の主権を侵害するものではない限り、個人の尊厳を汚すことは何人たりとも許されない。 しかし、ここで瞳子や乃梨子にとってのイレギュラーが発生した。 祐巳さまが瞳子を求めたのだ。本気で、少なくとも自分自身はそう言っている。同情でもなく、いつもの天然からでもなく、受身ではなく、自らの意思で。 ただ純粋に、瞳子を求めた。 むろん、一方がそう求めたところで求められたほうが受け入れてやる義務などない。あなたなど必要ない、と取り付くしまもなく二度と近づかせないぐらいの勢いで断るのも自由だ。 そう、否定するのも自由。が、それにはある大前提があった。それは、それを決めるのは瞳子自身に他ならない、ということ。 その自由は、決して第三者が否定をする自由ではないのだ。 つまり言うなれば、祐巳さまが瞳子を求めた時点で、乃梨子は口を出す権利がなくなってしまった。 もし祐巳さまが、いつもの「優しさ」から瞳子を追うというのであれば、乃梨子は何があろうと祐巳さまを止めた。 乃梨子には、その『権利』があった。瞳子の友達として、その権利があった。 これ以上、瞳子を傷つけさせまいとしてあの傷ついた友達を守るために、乃梨子は力ずくでも祐巳さまを止めただろう。祐巳さまに、酷い、とか罵られようが、叩かれようがそんな勘違いも甚だしい考えで瞳子の元へは絶対に行かせなかった。それはもはや、友情と言う名の誓約に等しい。 だが今、祐巳さまは土俵に上っている。瞳子と同じ目線で瞳子を求めている。 心配だから、というのではなく、自らが欲しいものを得る、という極めて個人的な気持で行動を起こしている。 一人の人間が、一人の人間に意思を伝え、返事をもらおうとしている。この時点で、乃梨子の『友達として』の口を出す権利は消失した。 どのような返事を返すのであれ、たとえ怒りのままに否定するのであれ、祐巳さまに返答するのは、瞳子自身。この問題は、本当の意味で当事者同士の問題になった。極論を言えば、乃梨子はもう二人の邪魔者でしかない。 (……けど、悔しい。やっぱ、悔しいよ) なら、どうしてもっと早くそうしてくれなかったか。少なくとも、もう一日でも早くその気持に気づいてくれなかったのだろうか、と激しく思う。 そうしたら、瞳子があれほど傷つくことはなかった。あんなに哀しい笑顔を見せることもなかったのに、今更になって、本当にギリギリになってそのような事を言い出すなんて馬鹿にしている。ふざけるな、といいたくなる。 (……だけど、だけどっ) 本当にギリギリだけど、もう死者を蘇生するぐらいの可能性だと思うけど、完全に雲に覆われた空に一片の光が差したのかもしれない。あの凍りついた心を溶かす可能性が僅かながら生まれたのかもしれない。 (・・・・・・ちくしょう) 乃梨子はリリアン生徒にあるまじき悪態をつく。でも、構うもんか。これでも全然足りないくらいだ。 (……はん、分かっているさ。…そりゃもういやというほどね) 乃梨子は、頭の血管が逆流するような眩暈を覚える。 まったく、世の中は上手くいかないものだ。瞳子は祐巳さまが好きなのに否定して、その時になって初めて祐巳さまは瞳子のことを好きだという。 そして、乃梨子はこの憎くて仕方がない方に頼るしかない、というこの現実。 ふん。まったく、上手くいかないものだ。 でもまあこんなもんなのかも知れない。結局、世の中全て上手くわけがない。そして、その逆も然り。 まあ、こんな諺があるくらいだ。終わりよければ全てよし、なんてさ。 もちろん、この方にまかせたところでうまくいくなんてわからない。ただはっきりしていることは、このままでは、瞳子は救われない、ということだ。 でも今、微かな光が乃梨子に差したのなら、乃梨子ができることは何か? 瞳子の友達としてしないといけないことはなんなのか? (……はは、よりによって、こんな言葉を言わないといけないなんてね) 乃梨子は、本心からの言葉を、本心から言いたくない人間に言わざるを得ない状況に思わず自嘲の笑みをうかべる。 この思いは今日以外だったら、あるいはさっきの瞳子の姿を見なかったらいくらでも言えた。だって、紛れもなくこの思いは本心からだったから。いや、今でもそれは同じだ。ただ、自分自身の無力さを、限界を嫌でも突きつけられた今となっては、この言葉を告げるのは腸が煮え返るくらい悔しい。 乃梨子はきつく唇をかみ締み締めた後、赤くなった唇をゆっくりと開いていった。 「・・・・・・祐巳さま」 「何、乃梨子ちゃん」 軽い返事が返ってくる。 乃梨子は、そんな祐巳さまを見て皮肉げに唇をゆがめた。 「・・・・・・瞳子は、凄く意地っ張りです」 「うん、知ってる」 またも、あっさりした口調で返事が返ってきた。 わかってはいる、それが軽い気持ちで返事をしていないということは。だが、そうだからといって簡単に割り切れない。 乃梨子は、そんな淀んだ心を抑えながら祐巳さまを見据える。 (……ふん、祐巳さま。確かにあなたは優しい。あなたはたしかに人気者さ。おそらく、ほとんどのリリアン生徒はあんたの味方だよ) 祥子さまだって、由乃さまだって、令さまだって、そしておそらくは志摩子さんだってあんたの味方をするだろう。たぶん、表立って瞳子の味方をするのは数人しかいない。 まあ結局、瞳子の一人相撲みたいなもんだからそれは仕方がない。それは認める。 (……でもさ、祐巳さま) 乃梨子は、口を開いた。その声は先ほどよりも少し上ずっていた。 「……おまけに、怒りっぽくて、とってもひねくれ者です」、 「うん、それもよく知っている」 瞳子は、確かに褒められる性格じゃないのかもしれない。確かに、すっごく意地っ張りで、自分の弱さが認められないのかも知れない。でも、絶対にそれだけじゃない。 「だけど、だけど、決してそれは意地悪とかじゃないんです。瞳子は、本当はとても純粋なんです。ただ、それを回りに知られたくないから、あんな風に意地を張っているだけなんです。祐巳さま、瞳子は・・・・・・」 そこで、ふいに声が途切れた。 瞳子は、最後まで言い切ることができなかった。言わなけりゃいけないことがあるのに、瞳子の友達として伝えたいことがあるのに、その口は乃梨子の思いどうりに動いてくれなかった。 目の前の人間に対する怒り、瞳子という大切な友達に対する想い。そしてその友達の力になれないという自分の無力さに対する絶望が乃梨子の頭をぐるぐると駆け巡り、乃梨子のから身体の自由を奪っている。 乃梨子の唇は、自分の意思とは裏腹にただ震えていた。 (……なんで? なんでだよ? あと、ちょっとじゃない……) 何度も言う。わかってはいる、やるべきことはわかってはいるのだ。 乃梨子では、もうこれ以上瞳子の心を開くことが出来ない、あの凝り固まった心を解きほぐすことができない。 さっき、瞳子は乃梨子に対して心を開いてくれた。ただ、さっきのは無条件でそうしてくれたわけじゃない。あれは、乃梨子の友情に対しての返答だった。むろん、そのこと自体は本当に嬉しい。瞳子がそこまで乃梨子に対して最大限の誠意を示してくれたのだから、その結果がどうであれ乃梨子は涙が出るくらい嬉しかった。それは間違いない。 でも、それは同時に哀しくもあった。 だって、それはこうともとれるから。さっきのは乃梨子を頼ってくれたわけではなく、助けて、と縋ったわけでもなく、瞳子にとっては友情の対価として、ということなのだから。いうなれば、友情というファクターがあって初めて発動されたものにすぎない。 瞳子のそれは誠意に基づくものではあっても、助けを求めるものではなかった。どれだけ絶望の淵に立たされようとも、己を否定したくがないためにそれを拒絶していた。乃梨子では結局、瞳子の心を完全に解きほぐすことは出来なかった。 結局、乃梨子はなんの力にもなれなかった。 それが、乃梨子にとってあまりにも哀しい。ただただ、哀しかった。 (……胸が、胸が痛いよ……) 泣きたい、乃梨子は泣きたかった。瞳子の友達なのに何の力になれない無力な自分に。そして、瞳子の友達だといいながら、ちっぽけなプライドが邪魔して祐巳さまを邪魔してる馬鹿な自分。もう少しなのに、ほんのもう少しなのに最後の一歩が踏み出せないどうしようもない弱い自分に。そんな自分が嫌になった。 乃梨子が自己嫌悪という深い螺旋に身を委ねていると、 『乃梨子』 と、不意に乃梨子の頭に自分ではない誰かの声が響いたような気がした。 気のせい? いや、気のせいなんかじゃない。絶対に聞こえた。どうしようもなく乃梨子が困っている時や悩んでいる時に、いつも乃梨子を助けてくれる大切な人の声が。 (……志摩子…さん) こんな話、他人に話したって誰も信じやしない。そういう乃梨子自身、一年前だったら鼻で笑い飛ばしただろう。 だけど、今の乃梨子にとっては不思議でもなんでもない。それこそ当たり前のことだ。乃梨子が志摩子さんの力になりたいように、志摩子さんも乃梨子の困った時はいつも助けてくれる。 (……志摩子さん、ごめん。ちょっとだけ助けてくんないかな) 乃梨子は、甘えたような返事をした。いや、事実甘えていた。だって、志摩子さんの力を借りないと耐えられそうになかったから。 (……おかしいんだよ、志摩子さん。口がね、さっきから思いどうりに動いてくれないんだ……) 心の中の志摩子さんは、ただ静かに微笑を浮かべていた。まるで硬く固まってしまった乃梨子の心をやさしく解きほぐしてくれるかのように。 (……うん、わかった。わかったよ、志摩子さん……) 志摩子さんはいつもそう。口で言うわけでもないのに、いつも乃梨子を導いてくれる。その、ちょっと不器用だけど温かいやさしさで乃梨子を包んでくれる。 ああ、自分はどうしたいなんて最初から分かっていたのだ。ただ、少しそれを認めるのに時間がかかってしまっただけ。 (……志摩子さん、わたしね、あの子にも幸せになってほしい、って思ってるんだ。あの意地っ張りで、全然素直じゃない私の友達に、私たちに負けないぐらい輝いてほしい、って思っているんだ。……でも、でもね、) 今の乃梨子の願いは唯一つ、あの意地っ張りな友達をなんとか幸せにしてやりたい、ということしかなかった。そして、 (自分なりに頑張ってみたんだけど、瞳子に諦めないで、っていってみたんだけど……瞳子がね、もういらない、って決めちゃったんだ。まだ可能性があるかも知れないのに、自分で全部否定しちゃったんだ) それはもう乃梨子では駄目なことはわかっている。乃梨子の声では届かないことも分かっている。どうしようもないほど絶望的なほどに分かっている。 乃梨子は、心の底にある慙愧に染まっている心を志摩子さんに打ち明ける。 (……だめなんだ。私じゃ、もうだめなんだ。私の声じゃ瞳子に届かないんだ。私なんかじゃなくて……) 知らなかった。こんなにも、こんなにも無力なことが辛いことなんて。悔しくて、辛くて、情けないことだったなんて。 自分がこんなにも無力だったなんて認めたくはない。だけど、大切なのはそんなことじゃなかったんだ。 心の声だったはずのものは、まるで何かに押し出されたかのようにその震える唇から発されていた。 「……祐巳…さま、瞳子は…あなたじゃないと…だめ…なの…」 乃梨子の口から想いが、伝えたかったものが言葉となって紡がれる。 さらに擦れたような声が、微かに大気を揺らした。 「……一人の女の子が、泣いているです。ずっと、ずっと一人で泣いているんです。声を出さずに、寂しさに耐えかねて泣いているんです。それだけは、忘れないでください。絶対に忘れないでください……」 それは最早、声とさえ呼ばないほどに小さな囁き。だがそれは、たとえ大気の震えが小さくとも聞くもの全てが魂を揺さぶられるような、あまりに切なく哀しいまでの旋律を奏でていた。 その旋律を聞いた人間は、少し目を伏せた後、がばっと勢い良くその首を上げて乃梨子の方に向けてきた。 「ううん、乃梨子ちゃん、それだけじゃないよ! 私も、瞳子ちゃんじゃないとだめなんだよ。うん、絶対にだめなの!」 その弾けるような笑顔を見て、乃梨子は何で瞳子が祐巳さまのことが好きだったのか分かったような気がした。 ああなんだ、そうだったんだ。確かに友達の力になれないということは辛い。だけど、それ自体は恥ずかしいことなんじゃない。もちろん無力な自分に対して、忸怩たる感情は存在する。 でもそれはあくまで一時の羞恥であって、恥そのものではない。 自分は無力だと言うことをひたすらに隠し、あまつさえ友情を盾にして自分にすら嘘をついてプライドを守ろういう考えこそ恥という行為に相応しい。 仕方がない、なんて言葉は使いたくないけど、仕方がなかったのかもしれない。 意地を張った瞳子、優しくも残酷な祐巳さま、身勝手だったかもしれない祥子さま、そして身勝手だったかもしれない自分。たぶん、誰が悪いわけでもない。ただ、たまたまうまくいかなかったに過ぎなかったのだろう。 乃梨子は瞳子の誇りをその意思を重んじるが故に、祐巳さまのことに対しては無言を貫いてきた。そしてその結果、うまくはいかなかった。乃梨子では結局、力になれなかった。 だけど、それを恥ずかしいことだと思う必要などどこにもなかった。だって、乃梨子の瞳子の幸せを思う気持ちはいささかも揺らいでないのだから。 想うだけの友情、それは相手にとって意味がないもの? ううん、そうじゃない。想いのない友情こそ、それこそ意味のないものだ。 だって、乃梨子は知っている。想い、とは力だということが。 それは、現実的に手を差し伸べてはくるものじゃない。直接助けてくれるものじゃない。けど、決して必要ないものじゃない。人として、とても大切なもの。 人は、誰かに想われている、というそれだけで頑張れる時がある。それだけで救われる時がある。どんなに困っていても、自分のことを想ってくれている人間がいるんだ、と自覚した時、人はどこまでも強くなれる。心は強くなれる。 嘘じゃない。現に、さっき乃梨子は志摩子さんに力をもらった。むろん、あとで志摩子さんに聞いても、そんなの知らない、と言われるかもしれない。けど、大切なのはそこじゃない。 大切なのは、どんな時でも志摩子さんは乃梨子を想ってくれている、乃梨子の味方になってくれる、という絶対に信じれるこの気持ちだ。 そしてそれは、志摩子さんも乃梨子に対してそう想ってくれている、と信じれるからこその力。 二人の絆は絶対、それを自覚できた時、志摩子さんなら絶対に助けてくれると信じた時、それはいつでも乃梨子を助けてくれる。心を強くしてくれる。 なら、瞳子の友達として乃梨子がやらないといけないことなど決まっているじゃないか。 それは、絶対にあきらめない、ことだ。友達として、瞳子が幸せになることを絶対にあきらめない。どれだけ絶望の淵に立たされようが、絶対に諦めない。あきらめてなるものか。それこそが、最後にして、本当の友情と言うものだ。 まだ、瞳子に対してそこまでの信頼関係はないのかもしれない。瞳子にとってこの気持ちは迷惑なのかもしれない。 でも、その想いに嘘がないのなら、瞳子を助けたいと思うのなら、何を恥ずべきことがある。どこに俯く理由がある。 前を見よう。上を向こう。 そうだ、乃梨子と同じく瞳子に対して強い想いを抱くものが目の前にいるのならどうして諦める必要がある。 乃梨子は、目の前の人間が放った乃梨子の心の壁を打ち破った言葉を、示した「意思」を、すなわち可能性をその胸に思い描いた。 (……譲れないんだから、か……) それは、あまりにも我侭であまりにも利己的。どこをどうとっても身勝手という言葉が相応しい。だけど、傷つくのを恐れて全然自分の想いをひた隠しにしているあの憎たらしいまでの意地っ張りにはそれぐらいでちょうどいい。 お上品にやったところで相手に本気の気持ちは伝わらない。好きだと相手に伝えるのならそれぐらいがむしゃらにやるぐらいじゃないと幸運のマリアさま、もとい女神は振り向いてくれない。 乃梨子は、いつの間にかその唇に笑みを浮かべていた。それは、先ほどまでのような自虐的なものとは打って変わって、ふてぶてしいまでの生気に溢れていた。 (ははっ、瞳子) そうだ、幸運が足りないのら女神を振り向かせばいい。最後まで足掻ききって、無理やり振り向かせてやる。それぐらいの気持ちを持たないでどうする。 (あんたには残念だろうけど、まだ終わってないみたいだよ。祐巳さまが、あんたじゃないといやなんだってさ……それとね、もうひとつ) 乃梨子は、視線を祐巳さまから外しある方向へ向ける。その視線の先には、リリアン校内で最も大きく最も多目的なイベントが行われる建物が佇んでいた。 (……わるい、瞳子。さっきのなし) 乃梨子は、そこにいるであろう友達に自分の心境の変化を報告する。おそらくそのことを知ったら瞳子は目を吊り上げて「裏切りもの!」と罵ってくるに決まっている。でもまあこんな「友達」を持ってしまったのを運の尽きと思ってもらうしかない。 (さっきまでは、あんたの意思を尊重する、っ思ってたんだけど。やっぱだめだわ、どうやらわたしも納得できないみたい) だって、瞳子がハッピーじゃないなんて、そんな終わり方の認めれるわけないじゃないか。たとえ瞳子本人が認めようが、そんなの屁の河童。 いくらでも罵ってもかまわない。裏切り者といってくれたってかまわない。 でも、そんなの安い、安すぎる。スーパー閉店一時間前の生ものよりも安い。それでうまくいくのならタダ同然。ぼろ儲けだ。 乃梨子は、静かに空を見上げた。そして、 (……やっぱりいやだよ、あんた一人だけそんなのおかしいって。ね、聞いてよ瞳子。やっぱりさ……) 空に、天に願いをかけた。むろん、流れ星などは流れない。だけど、願った。願わずにはいられなかった。だって、 (あんたも幸せになろうよ……) 誰だって幸せになる権利はあるのだから。
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