■ ドリルオーディション
   第九章『踊り疲れた人形』
 
 
 
 
 放課後のこの時間、リリアン構内を全力で駆ける存在があった。本来このリリアンでそのようなことをするものなどせいぜい陸上部員ぐらい。でも、そのものは陸上部員ではない。それどころか体育会系ですらなかった。だが、そのものは真剣だった。急激に負荷をかけられた肉体が悲鳴を上げるのもかわまず、激しい無酸素運動によって息が絶え絶えになるのもかまわず全力で走っていた。
 
 駆ける者の名は、二条乃梨子。求める者は、松平瞳子。
 
 何故、求めるのか? 愚問だ。答えはいたってシンプル。
 瞳子は乃梨子にとって大切な友達だ。本当に大切な友達だから。その友達が心配だから。それだけで十分。他に、何が必要だろう。
 
 (って、まさか自分にそんなものが出来るなんて思ってなかったけどね!)
 
 こんな事態だと言うのに、乃梨子は自分の考えに一瞬苦笑を浮かべた。だって、大切な友達、だなんてくさい言葉リリアンに入る前は使うことなど想像してなかったから。
 いや、それをいうなら志摩子さんのことだって一緒だ。
 乃梨子は、自分は姉など絶対に持つことなど無いだろう、と決め付けていた。他の人間がどうしようと、自分だけは絶対にリリアンの色になど染まらないと高を括っていた。
 
 それがどうだ。本当に人生など分からないものだ。今、乃梨子とって志摩子さんがいない学校生活なんてもう考えられない。乃梨子は志摩子さんと言う姉を得て、自分の半身を見つけたような錯覚を受けた。志摩子さんと一緒にいるだけで、乃梨子は幸せな気分になれた。傍にいるだけで幸せ、という意味を体現してくれた。
 とても幸せになれた。しかも、それは現在進行形だ。
 
 そして、それから少しして瞳子という友達が出来た。
 少ししてして、というのはおかしいかもしれない。何故なら、志摩子さんとスールの契りを結ぶ時には面識はあったから。ただ、その時点では友達ではなかった。いや、それどころか印象は最悪と言っていいだろう。何しろ、瞳子のせいであろうことか大勢の生徒の面々で泣く羽目になったのだから。
 今でも思い出しただけで腹が立つ。もとい、顔から火が出るようになる。まったく、よくもやってくれやがったな、と思う。あれほど恥ずかしい記憶は、乃梨子の人生でもちょっとない。
 しかし、そのおかげで志摩子さんと一緒になれたのも、また事実。
 
 (まあ、あのことが無くても志摩子さんとは一緒になるという気はしたけど)
 
 負け惜しみのように聞こえるかもしれないが、それは確信に近いものだった。だって、志摩子さんと乃梨子、二人がお互いを求めていたのだから。
 それでも、もし、もしもだけど、ありえないことだと思うけれど、志摩子さんと一緒になれなかったらと考えるとぞっとする。
 多分、自分は不幸とは感じなかっただろう。だって、その乃梨子は知らないのだから。二人でいることが、志摩子さんと一緒にいるということがどれほど幸せか、ということが。
 だから、本当にぞっとする。本当の幸せを知らないで、それなりの幸せを満喫している乃梨子がいたかもしれないと考えると。
 でも、乃梨子は知ってしまった。見つけてしまった。一人でいることよりも、二人でいるほうがもっともっと幸せなんだ、ということが。
 ただ、それを知るきっかけをくれた瞳子はまだ一人。ずっと一人でいる。
 
 乃梨子は当初、瞳子に対して子悪魔のような印象を持っていた。いたずら好きの気の強くて悪びれない子悪魔。それが瞳子だと思っていた。
 しかし、付き合っていくにつれてその印象はどんどん変わってきている。今や、当初の印象と別人といっていい。
 自己中心的ともいえる気の強い性格は、自分の弱さを隠すための鎧にすぎず。あの入学当初に見せた誰とでも付き合おうとした社交性は、誰からも攻撃されないようにするための盾だったのではないか、と乃梨子は思う。
 多分、皆が知っていた、知っていると思っていた瞳子は、ただの人形。瞳子が演じていた「松平瞳子」という人格に過ぎないのだろう。
 乃梨子は、瞳子には言わないが、絶対に言わないがこう思っている。……瞳子は、弱い人間なんだ。祐巳さまとは反対のような人間。
 祐巳さまのことを、強い人間、というのは違和感を感じるかもしれないが、祐巳さまは強い。山百合会でも最強だ。
 
 え、祥子さまのヒステリー? 由乃さまの癇癪? 令さまは……おいといて、と。そんなものは問題にならない。祐巳さまの敵じゃない。 
 その最強の所以は、自分の弱さを認められる、ということに集約される。あの方は、自分の弱さを自覚している。そして、それを自ら進んで受け入れて前に進もうとする。
 弱いことを自覚しているが故に、失敗を素直に受け入れ、どれだけ傷つきながらも起き上がることが出来るのだろう。その度に、強くなって。
 どれだけ傷つき倒れてもゾンビのように起き上がって、その歩みはのろのろでも確実に前に進もうとする不死身のタヌキ。まさに、最強。
 
 そして、瞳子はその対極にいる。
 瞳子は、自分自身の弱さが認められない。弱さを認めず、傷つくことを恐れ、右往左往している。だからこそ、あれほどまでに意地を張っているのだろう。
 まあ、それは瞳子だけじゃない。誰だって自分の弱い所など認めたくない。むろん、乃梨子だってそうだ。
 ただ、瞳子はそれが普通よりも根深いような気が乃梨子はしていた。いや、間違いなくその根は深い。
 瞳子は、おそらく自分自身に線を引いている。それは、瞳子にとって絶対的な線だ。多分、絶対に超えてはならない線。
 そんなのものにこだわってどうする。そんなもの捨ててしまえ、そういう声もあるだろう。事実、初めは乃梨子もそう思っていた。茶話会の時に、もっと素直になって、と思っていた。
 
 (……そう思ってたけど、ね)
 
 だが、それは間違いだった。だって、その線は、瞳子そのものだから。瞳子にとって、その線を越えることは自分自身を否定することに他ならいのだから。乃梨子はそれがわかった。
 これはいうなれば、松平瞳子という個人の尊厳にかかわる問題なのだ。それは最早、他人が触れていい問題ではない。
 だから、乃梨子はもうこのことに関しては口を出すのをやめた。手を出すことをやめた。それがどのような結果をもたらすのであれ、瞳子が選んだのであればその意思を尊重することにした。
 
 (……でも、やっぱり)
 
 出来ることなら、瞳子にも幸せになって欲しかった。絶対に、幸せになって欲しかった。
 口には出さなかったが、瞳子が、ほんの少しでも、ほんの少しでも自分の弱さを認めて欲しい。自分自身と向き合って欲しい。絶対に諦めないで欲しい、と、いつも祈っていた。祈られずにはいられなかった。
 手を出さない、というスタンスをとっている人間が、その相手の人間の幸せを祈ることなど失笑ものかもしれない。けど、笑いたいものは笑えばいい。
 友達が、友達の幸せを祈って何が悪い。祈るだけ、の何が悪い。友達だからこそ、大切だからこそ、乃梨子はこうして指を咥えることを選択したのだ。瞳子が自分自身で選択をしてくれるのを、ただ祈りながら待っていたのだ。それの何が悪い。
 意思の尊重、乃梨子はただひたすらそれを重んじた。ただ、それを見届けようと思っていた。友達として。
 
 (それなのにっ!!)
 
 だが、そんな乃梨子の気持を踏みにじる事が起こった。
 ようやく瞳子が自分の意思で薔薇の館に来た矢先、すなわちその意思を示そうかとした矢先、あの馬鹿薔薇さまがふざけたことを言ってくれたおかげで全てが台無しになった。
 
 紅薔薇さまの真意は、なんとなくは分かる。多分、あの方は焦っていたのだろう。煮え切らない瞳子に、天然な祐巳さまに。それは、分かる。
 だけど、だからといって納得が出来るかと言われれば別だ。いや、どのような理由があれ、先ほどの発言は乃梨子にとって断じて納得できるものではない。
 
 紅薔薇さまは、どのような理由があれ自分自身の都合で事を進めようとした。その結果がこれだ。 
 せっかく勇気を出して薔薇の館に来てくれた瞳子は、祐巳さまの前に出るだけで焦っているのが目に見える素直じゃない友達は、いきなり暴風のようなものに巻き込まれてしまい薔薇の館から出て行かざるを得なかった。
 
 どんな結果であれ、それが当事者同士で起こったのであれば乃梨子は納得は出来る。それが二人の触れ合いよって起こったのであれば、どのような答えであれ仕方ないと思う。
 だが、今回のこれは第三者の紅薔薇さまによって引き起こされた。それが乃梨子には許せない。
 介入した理由は、祐巳さまの姉だから、か? 瞳子の親戚だから、か? ふざけないで欲しい。そんなものが免罪符になるとでも思っているのだろうか。
 
 それがどのような答えであれ、乃梨子はこの問題は二人だけ、いや、はっきり言おう。この件に関しては、乃梨子は祐巳さまのことなどどうでもいいと思っている。勘違いして欲しくないのは、別に乃梨子は祐巳さまが嫌いなわけではない。むしろ、あの方のことは好きだ。ただ、乃梨子の優先順序として祐巳さまよりも瞳子の方が上に過ぎないということ。
 
 乃梨子は、ただこう思っていた。瞳子が自身で納得の出来る答えを見つけて欲しい、絶対に自分自身の手で決着をつけて欲しい、と。
 でも、それはもはや叶わぬ夢になったのかもしれない。二人の思惑とは関係なく、歯車は回り始めた。もう、それは止まらない。誰にも止められない。
 
 本来、この問題に関して乃梨子は介入などしたくなかった。絶対にしたくなかった。だって、なにより瞳子がそれを望んでいなかったから。
 だけど、このままじゃ絶対にやばい。さっきの瞳子は普通じゃなかった。絶対に、おかしかった。 だから、乃梨子は走る。全力で走っている。瞳子の僅かな手助けになれば、と。
 
 (瞳子! 瞳子っ!)
 
 靴紐がほどけた。
 足がもつれた。
 息が切れている。
 
 そういった情報が、乃梨子の頭に信号となり入ってくる。だけど、切り捨てる。そんなものは、今はいらない情報だ。必要は無い。必要なものは、唯一つ。
 
 (瞳子!? どこなの、瞳子っ!?)
 
 やがて、乃梨子という矢が緩やかに失速していく。疲れたから、ではない。ようやく、その矢は標的を見つけたから。
 
 「待って、瞳子!!」
 
 乃梨子は息が乱れているのも構わず、探していた人物に声をかけた。
 声をかけられた方は、ゆっくりと乃梨子の方に振り返ってくる。
 
 「……乃梨子さん」
 
 その顔は、乃梨子の予想とは違って涼やかだった。恐ろしいまでにその瞳は澄んでいた。でも、乃梨子の心は激しい焦りをもっていた。
 だってその顔は、明らかに諦観のようなものが見て取れたから。
 その顔は、ただただ全てを受け入れているようにも見え、全てを諦めているようにも見える。おそらくは後者。
 乃梨子は、身を焦がすような焦燥感に襲われながら口を開いた。  
 
 「はー、はー、あ、あのね、さっ、さっきのは多分、紅薔薇さまの冗談だったんだよ。はー、はー、とっ、瞳子、あんなの気にしないで。ねっ はー、はー」
 
 が、瞳子はゆっくりと首を振ってきた。本当にゆっくりと、だけど間違えようが無いくらいはっきりその首を横に。
 
 「と、瞳子」
 
 乃梨子が息を整えようやくそれだけを口にすると、瞳子は表情変えず口を開いてきた。
 
 「……乃梨子さん。本当に乃梨子さんには申し訳ないと思っているけど、私はもう戻りませんわ」
 
 戻らない、つまり薔薇の館に。ううん、違う。今の戻らないは多分、今回だけの話じゃない。おそらく瞳子は、もう二度と薔薇の館に……。
 
 (……来る気がないんだ)
 
 乃梨子の考えがそこまでいたったとき、その考えは間違ってないということを瞳子の表情から確信したとき、乃梨子はたまらずに口を開いた。
 
 「待って、瞳子! 紅薔薇さまが嫌なら、私が追い出すから! うん、あんな酷い人はいないほうがいい。だから、戻ってきて。一緒に手伝わせて」
 
 そうだ。今回の事の発端である祥子さまをしばらくは、少なくとも瞳子のオーディションが終わるまでは近づかせなければいい。さっきのやり取りなど無視して、なし崩しにオーディションを手伝ってしまえばいい。祐巳さまに手伝ってもらえばいい。そうしたら瞳子だって……。
 
 (……帰ってくる。帰ってきてくれるよね)
 
 突発的に出たその考えは、悪くないものと思われた。もし、紅薔薇さまが何か言ってきても、絶対に口出しなんてさせない。させてなるものか。あんな人の心を踏みにじるような人間など、必要ない。
 しかし、乃梨子の思惑とは別に瞳子は再度首を振ってきた。
 
 「ううん、そんなことしなくてもいいですわ」
 「なっ、なんで! 紅薔薇さまは私が絶対に追い出すから! そうしたら、さっきのことは忘れてオーディションのことに集中できるよ! 私だって手伝う、志摩子さんだって、それに、祐巳さまだってきっと手伝ってくれる。絶対に手伝ってくれる、だから!」
 
 乃梨子が、祐巳さま、と言ったくだりで瞳子は少しその目を伏せるようにした。
 
 「……いいえ、乃梨子さん。私は祥子お姉さまのことを怒っているから戻らないわけではないの」
 「えっ、じゃあ何で?」
 
 乃梨子がそういうと、瞳子は儚げな笑顔を浮べながらゆっくりと口を開いた。
 
 「……祐巳さまの妹になりたいと思ってる」
 
 突然、瞳子はそのようなことを口にした。もしこの場に何も知らない第三者がいて二人の会話を聞いていれば、あまりに脈絡の無い言葉に怪訝に思うだろう。第一、乃梨子はみなが知っての通り、志摩子さんという唯一無二も姉がいるのだから。
 だが、その言葉は乃梨子に対しての質問でないことを自分自身がよく知っていた。それは他でもない、乃梨子自身が瞳子に言った言葉なのだから。
 
 「乃梨子さん、あの時私に聞いてきた質問、ちょっと遅くなったけど聞いてもらえる。私の答えを」
 「うん」
 「一度しか言わない。あと、絶対に他の人には言わないで。それでいいのなら聞いて欲しい。乃梨子さんにだけは、聞いて欲しい」
 「うん、絶対に、絶対に誰にも言わないから教えて」
 
 乃梨子が瞳子の顔を真っ直ぐ見据えながらはっきり頷くのを見て、瞳子はその口を開いた。
 
 「私……祐巳さまが好き。別に妹がどうこうというわけじゃなくて、あのおめでたい方が好きみたいなの」
 
 (……祐巳さまが、好き?…祐巳さまが好き!?)
 
 いま、いま、はっきりと言った。好き、と、祐巳さまが好き、と。瞳子は言った、おそらくは自分の口で初めて。
 乃梨子は、震えそうになる口を抑えながら開いた。
 
 「ほ、本当に!」
 
 コクンと頷く瞳子を見て、乃梨子は歓喜に浸っていた。
 なら、もう迷うことはなにも無い。瞳子がそうなのなら、自分ではっきりそういったのなら誰に憚ることなく瞳子に手を貸すことが出来る。ううん、手を貸す、だなんて恩着せがましい言い方はおかしい。これは間違いなく乃梨子の願いそのものなのだから。
 
 「じゃあ、なにも迷うことなんて無いよ! うん、私も協力する! 協力させて!」
 
 そんな無邪気に喜んでいる乃梨子に、瞳子はちょっと困ったような顔を浮かべていた。
 
 「待って、乃梨子さん。さっきのはそういう意味で言ったわけじゃないの」
 「えっ?」 
 
 (……そういう意味じゃない?)
 
 乃梨子が瞳子の言葉の意味を図りかねていると、瞳子が再度口を開いた。
 
 「今のは、こんな私をずっと助けてくれた友達である乃梨子さんに対して誠意を表したかったから言っただけ、乃梨子さんにだけは私の気持を言わないとあまりにも失礼だと思ったから言っただけなの。さっきのは、別に祐巳さまに対してこれからどうこうするといった意味ではないの」
 
 その言葉に、乃梨子は絶頂から一気に奈落に突き落とされるような衝撃を受けた。
 
 「なっ、なんで!? そんなのおかしいじゃない! 瞳子は、祐巳さまが好きなんでしょ! 今、はっきり言ったじゃない!」
 
 乃梨子がそう言うと、瞳子の表情は痛ましいほどに歪んできた。それは外的要因の痛みによって苦しんでるようなものではなく、瞳子のあまりに傷つている内面の痛みが滲み出たような、筆舌にし難いものを無理やり耐えているように乃梨子は見えた。
 
 「……だって、祐巳さまは答えてくれなかったから。あの時、最後までなんにも答えてくれなかったから」
 
 答えてくれなかった、乃梨子はその瞳子の言葉によってすべてを悟った。理解した。それによって、狂おしいほどの瞳子の絶望が理解できた。
 答えてくれなかった、それは、先ほど祥子さまが祐巳さまが言った、あなたにとって、瞳子ちゃんはなんなの、に間違いない。
 
 「それって、祥子さまが祐巳さまに聞いた、あなたにとって瞳子ちゃんはなんなの、って言ったこと」
 
 乃梨子がそう言うと、瞳子は寂しそうに頷いてきた。
 
 「あの時の祥子お姉さまの言葉は、祐巳さまにとって瞳子は何なのか、っていうのは私の心のどこかにあったものと一緒だと思う。多分、私はずっと知りたかった。私はあの方にとってなんなのか、松平瞳子はあの方にとってどういう人間なのか、って。……ふふ、結果はあの通りですけど」
 
 ああ、瞳子。待ってよ。
 乃梨子は己の無力さに歯噛みした。瞳子にかける言葉が思い浮かばないあまりにも情けない自分に歯噛みした。
 そんな乃梨子をよそに、瞳子は言葉を重ねてくる。
 
 「あの時、祐巳さまは何も答えなかった。結局、最後まで何も言ってくれなかった。だから、私は、もう祐巳さまのいる薔薇の館には戻りたくない。これ以上、あの無防備な笑顔に耐えられない。だって、祐巳さまの優しさは、別に私に対して特別じゃなく、他のみんなと一緒だから、そんなの優しさじゃなくて、ただの……同情だわ。そんなの、欲しくない。私がほしいものはそんなんじゃない」
 
 乃梨子には、瞳子の気持が痛いほど分かった。同情、確かにそれは瞳子のような人間にとってあまりにも受け入れがたいことだろう。乃梨子も、ありえないことだけど志摩子さんの乃梨子に対する愛情がもし同情だったとしたら、この身が張り裂けてしまうだろう。絶望に身を焦がしてしまうだろう。それは、その相手が好きであればあるほどに深いものになる。
 
 (だ、だけど、まだそうと決まったわけじゃないよ! 同情と決まったわけじゃないよ!)
 
 そうだ、まだそうとはっきり決まったわけじゃない。確かに、祐巳さまはさっき答えてくれなかった。でも、さっきのは突然すぎて答えられなかっただけかもしれない。乃梨子は、なんとか瞳子を説得しようと試みる。
 
 「同情だなんて、まだ分からないよ! 祐巳さまに、祐巳さまに直接聞いてみようよ!」
 
 だが、瞳子は哀しげに首をまた横に振ってきた。
 
 「……乃梨子さん。確かに、素直になる、というのは得るものがあるのかもしれないけど、やっぱり私には無理みたい。ふふ、私が、祐巳さまのことが好き、っていったらあの方は笑いながら、私も瞳子ちゃんが好きだよ、って言ってくれるでしょうね。だけど、あの方の好きと、私の好きは違うと思うの。あの方の好きは結局のところ、祥子お姉さまに対する好き以外はみんな一緒なんだわ。それこそ、結局あってないようなもの。私はそんなものを得るために、ずっとここまで貫いてきた「松平瞳子」をやめたくはないの。それだったら、このままあの方とは何の繋がりがないほうがずっとマシというものだわ」
 
 こんなのおかしい、絶対におかしい。瞳子は祐巳さまが好きって言ったのに、それなのに諦めないといけないだなんて絶対におかしい。 何かが、何かが間違っている。
 乃梨子は感情の高ぶるままに、叫ぶように声を出した。
 
 「瞳子、そんなのおかしいよ。祐巳さまが好きなら、諦めないでよ。ねえ、ねえ!」
 
 だが、そんな乃梨子とは対照的に、瞳子の声は至って静かだった。もう全てを受け入れているようなそんな声だった。
 
 「ううん、もういいですの。私は……松平瞳子は素直になれない。もう、終わったことですわ」
 「待って、待ってよ、瞳子!」
 「ああ、泣かないで、乃梨子さん」
 「私、私のことなんてどうでもいいよ! 瞳子は、本当にそれでいいの? ねえ、本当にそれでいいの?」
 「……だって、仕方ないじゃない。あの時、祐巳さまは答えてくれなかったから」
 
 瞳子はそう言いながら笑っていた。それはいままで乃梨子が見たことが無い顔だった。多分、これが本来の瞳子なんだろう。その笑顔はあまりにも無垢で、綺麗だった。だけど、乃梨子はそれが悲しい。あまりにも悲しい。だって、初めて見せてくれた素直な瞳子が諦めの笑顔だなんて、そんなのあまりにも悲しすぎる。 
 
 「ありがとう、乃梨子さん。あなたにはいろいろとしてもらって」
 「ありがとう、なんていわないで! そんなのが聞きたくて、そんな瞳子が見たくてやったわけじゃないよ。瞳子が好きだからやったんだよ。瞳子に笑って欲しいからやったんだよ! なのに、まだ瞳子が笑っても無いのに、ありがとう、だなんていわないでよ……」
 
 顔をくしゃくしゃにしながら乃梨子がそう言うと、瞳子は優しくその両手を乃梨子の背中に回してきた。その優しい抱擁から痛いほどの感謝の気持が伝わってきた。
 
 「……乃梨子さん。私、本当に感謝してる。祐巳さまとは上手くいかなかったけど、乃梨子さんという友達がいることが、私のことをこれほどまでに心配してくれる友達がいるということが、本当に嬉しい。今の私には、それだけで十分」
 「……ち、ちがうよ、瞳子。全然、十分じゃないよ。まだだよ。まだ……」 
 「……もう、いいですの。……もう」 
 「瞳…子」
 
 乃梨子は続けて声を発しようとするが、その両手から伝わってくるあまりに優しくも悲しい気持によって乃梨子の言葉は封じられた。
 
 (…もう…だめ…なの?)
 
 乃梨子は悟った。もう自分の言葉では瞳子を止めることができないということを。
 もし、瞳子がいつものようにただ意地を張って祐巳さまを否定しているのであれば、乃梨子は何としてでも瞳子を止めようとしただろう。だけど、今の瞳子は違う。素直に、完全に演技もなにもなく本心から祐巳さまを否定している。同情や哀れみを受けるくらいなら死んだ方がいい、と瞳子はいっている。死んだ方が、というのは大げさに聞こえるかもしれないが、多分それほど的外れではないないと思う。
 
 (……瞳子は、自分で決めたんだ。施しを受けるぐらいなら、死んだ方がまし、と)
 
 おそらく瞳子にとって先ほど答えてくれなかった祐巳さまに対して、自ら、好き、と答えることは自分を否定するに等しいのだろう。それはまぎれもなく瞳子自身を、松平瞳子を否定することに他ならない。
 これは、いわば個人の尊厳の問題なのだ。いかに友達だとは言え、瞳子が心配だといえ、その領域に踏み込むことは何人たりとも許されない。   
 
 ふぁさ
 
 瞳子は乃梨子の背中に回していた両腕をゆっくりと離し、乃梨子の前から静かに離れていく。静かに、静かに離れていく。
 
 「……待ってよ、瞳子」
 
 止めてどうなるわけでもない。それは分かっているはずなのに、乃梨子はそういわれずにはいられなかった。
 その声が聞こえたのか、瞳子は歩むのを止め乃梨子の方へ振り向いてきた。
 
 

 
 それは、美しかった。
 多分、乃梨子はこのときの瞳子を一生忘れることは出来ないだろう。それほどまでに、瞳子は美しかった。外面ではなく、内面から出てきてる瞳子の心がその姿を神々しいまでに見せていた。
 その表情はまるで殉教者のようにも見え、全てを悟りきっている菩薩のようにも見えた。そこには、なんの迷い全てを断ち切った一人の人間がいた。
 瞳子はその顔に微笑を浮かべた後、静かに乃梨子の前から去っていった。ゆっくりと去っていった。
 もう、乃梨子にはどうしようもない。松平瞳子が自分で決めたのだから。本心でそう言ったのだから、もうどうしようもない。
 
 (……なんで…どうして…どうして…瞳子だけが……)
 
 だけど、納得は出来ない。乃梨子は過去に、瞳子がもういいや、って思うまで意地を張ればいい、といったことがある。でも、瞳子はその意地を解いて乃梨子にだけに、祐巳さまが好き、といったのだ。あの意地っ張りの瞳子が、それを認めるのは勇気がいるはずなのに、乃梨子にだけは教えてくれた。
 だが、その瞳子を待っていた運命はあまりにも酷いものだ。好き、と認めながら、同時にその祐巳さまを否定しなければならないなんてあまりにもふざけている。まるで何か出来の悪い悲劇、いやそれすら通り越して喜劇だ。まるで、どこかに脚本を書いているものがいて、瞳子を嘲笑っているものがいるとしか思えない。
 
 瞳子は、祐巳さまが好きなのだ。それはもう本人の口から聞かされたのだからまちがえようのない事実。それなのに瞳子が自ら下した、下さるを得なかった決断は、それを下すのに瞳子がどれだけ哀しみとやるせなさを感じているのかが乃梨子は分かるが故に、受け入れがたいことだった。受けいれようはずがなかった。
 
 (…ひどいよ…こんなのってないよ…)
 
 その決断が瞳子にとって当然が故に、その決断がいかに悲しいものであっても尊重せざるを得ないが故に、乃梨子は瞳子に哀しい選択をさせたこの運命を呪った。
 
 (……マリア様でも仏さまでもなんでもいいから答えてよ。どうして瞳子がこんな目にあわないといけないの? せっかく勇気を出して薔薇の館に来た瞳子に対して、こんな酷い仕打ちを誰がしたの? ねえ、どうしてなのよ……誰か…教えてよ)
 
 こんなのが結末だなんて、あんまりだ。あんまりにも酷すぎる。
 確かに瞳子は意地っ張りかもしれないけど、いつも素直じゃなくて好きな人にもつんつんとしてるかもしれないけど、その意地っ張りだけど本当はとても寂しがりやでシャイな女の子、それが瞳子なんだ。それが乃梨子が大好きな瞳子なんだ。その瞳子がこんな目に遭うなんて、乃梨子には絶対に納得がいかない。
 
 「うっ、うっ……うあああー」
 
 乃梨子は獣のように咆哮した。瞳子を追い込んだもの全てを。瞳子を留めることが出来なかった自分の無力さを恨みながら。
 しばらく、といっても自分では時間の流れが自覚できないほどの自失に襲われていた乃梨子に対して背後から声がかけられた。
 
 「乃梨子ちゃん! 瞳子ちゃんはどこ!?」
 
 自分を呼ぶ声に振り返ると、そこには今の乃梨子にとって憎しみの対象でしかない人物が立っていた。
 
 

 
 
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