■ ドリルオーディション
   第八章『終わらない夢を見ながら』
 
 
 
 
※注意書きです。
 
今更ですが、このSSは一個のファンに過ぎない一体が好き勝手に書いているものです。(ここの「好き勝手」という意は、「SSを書く」こと自体ではなく、このような内容のSSを書くという意味です)
 
 このSSの第七話までは「祐巳は、瞳子が好き、という意思を示す」というなんとか原作を越えない内容だったのですが(といっても、ずいぶんと身勝手な作品であることは間違いないのですが・・・・・・)ここからは完全に自分が、こんな感じになればいいな、と思って書いたものになったおります。ですから大変身勝手なことを言ってることはわかってるのですが、原作を大切にされている方は読まれないほうがいいかもしれません。
 ただ、決して原作を汚す気で書いたものではない、ということを明記させていただければと思っています。
 
 
 
 

 
 
 
 
 残酷に時間という名の砂がサラサラと祥子の手から零れ落ちていくのを、リリアンでの生活が終わりに、すなわち祐巳との別れの時間が刻一刻と過ぎ去っていくのを嫌が上にも祥子は自覚していた。
 その時間が一日一日と過ぎ去るたびに、祥子は身を切られるような感覚に襲わる。 
 
 祥子と祐巳、二人で歩む道程はほとんど決まっており、その道は残り僅か。そして、別れという名のゴールはすぐそこに迫っている。
 残されている限られた時間。それを大切に大切に心に刻んでいこう。多分、いや、まちがいなく祥子の生涯で掛け替えの無い輝ける時なのだから。
 祐巳が笑った、祐巳が怒った、祐巳がお茶を飲んだ、そんな些細な日常の一瞬が祥子には限りなく愛しかった。
 祐巳と出会ってからの日々。それは空に輝く満天の星々より眩しく、地平に消える真っ赤な夕日よりも情熱的な、まさしく夢のような日々。
 
 ただ、夢はいつか醒めるもの。いや、もう半分ぐらいは醒めているのだろう。祥子と祐巳の夢は。それを、祥子は悟らざるを得なかった。
 だけど、それは夢の終わりそのものを意味しているものではない。何故なら、祥子と夢を共有した祐巳が新たな夢を紡いでくれるから。
 それを、祐巳は誰と紡いでいくのかはっきりと分からない。ひょっとしたら瞳子ちゃんじゃないのかも知れない。
 
 瞳子ちゃんと、祐巳。
 祥子が手を出す必要は無かったのだろうかどうか、本当にすべきかどうか祥子は大いに悩んだ。
 あの二人に縁があるのかどうか、祥子にはわからない。ひょっとしたら、これはただのお節介にすぎないのかもしれない。
 だけど、もし二人にほんの少しでも縁があるのだとしたら。ただ、きっかけが無いのにすぎないとしたら。ただ、きっかけが必要なだけなのであれば。これは、祥子がやらなければならない。いや、祥子にしかできない。
 なにより、祐巳の未来を。幸せを願っているのなら、それは義務だ。
 むろん、祥子は祐巳を愛しいと思っている。憚らずに言わせて貰えば、祐巳の家族の方にもその想いは劣らないと思っている。
 
 祥子は、祐巳とこれまでたくさんの思い出を共有してきた。それは、祥子にとって生涯輝き続ける宝物に等しい。そして、それは祐巳にとっても同じだろう。それがわかるこそ、二人はこれほどにお互いを支えあえた。だけど、思い出、というのは過去だ。どれだけ輝かしいといっても過去なのだ。むろん、祥子にはまだ幾ばくかの時間は残されている。祐巳と一緒にいられる時間はまだ残っている。
 しかしそれは来年にはいなくなる祥子に祐巳と一緒にいることを許された、リリアンで楽しむことを許された、いわば余生みたいなもの。すくなくとも、そこに輝かしい未来はないだろう。
 
 大切なのは過去ではなく、未来。
 これは、過去をないがしろにするという意味では決してない。が、あくまで過去は今を輝かせるために、そして更なる未来を輝かせるためにあるのだと思う。その可能性が僅かでもあるのなら、今がそうなのならば、祥子は小笠原祥子として、祐巳の姉としてやらなければならないことをしなければならない。でないと、後で後悔することになる。
 やっての後悔は、反省に変えることにもできる。そしてその反省は、次につなげることに出来るだろう。しかし、やらずしての後悔は、やっての後悔よりもずっと苦い。ただただ苦い。
 だから祥子は祐巳の未来を、少なくともその可能性を提示することに決めた。
 
 そして、賽はなげられた。
 
 祥子はあるサイコロを振った。祥子は博打などしたこともないし、これからすることも無い。だけど、祥子は賽を振った。祥子が知っている二人の女の子のこれからが印されたサイコロを。
 出るの目は、丁か? 半か?
 いいや、そのサイコロはそのような単純なものではない。
 その賽は丁や半の2択などではなく、数限りない目が印されていた。
 いい目もあれば、限りなく悪い目もある。そこそこの目もあれば、いまいちの目もあるだろう。 
 ただ極端な話を言えば、祥子にとって大切なのは出る目そのものではない。
 むろん、いい目が出るに越したことはない。いや、心からそう願っていることは間違いない。
 だけど、それよりも大事なものが、祥子にとっては大切なものがあった。それは、祐巳が己の意思ではっきりと決める、この事に尽きた。
 
 祐巳は優しい子だ。誰に対しても、相手に壁を作ることなく付き合える子。それは、祥子にとってあまりにも稀有な資質。百人に一人とか、千人に一人とかというようなものではなく、祐巳の優しさは世界で祐巳しか持ってないもの。姉馬鹿と呼ばれるかもしれないが、祥子にとって祐巳の優しさは世界に一つしかなかった。
 
 しかし今、必要なのはその優しさではない。正しく言えば、この子の為になんとかしたい、といった心使いではなく、自分はどうしたいか、すなわち祐巳自身の意思はどうしたいのか、という気持だった。それだけを、たったそれだけを確かめるべく、祥子はこの賽を振ったのだった。
 賽を振ってから、祥子の心は痛んでいた。祥子の心は、痛い、と叫んでいた。
 自らの意思によって瞳子ちゃんを追い出し、それを祐巳からは詰問され、そしてその祐巳に手を上げたのだから。自らが選んだ道とはいえ、それはあまりに辛い道だった。
 もう一人の自分が、もうやめましょう、祐巳に嫌われるわ、とりかけてくる。祐巳に嫌われる、それは祥子にとって耐えられないことだった。  
 祐巳を叩いた瞬間、祐巳が信じられないような表情を浮かべたとき、祥子は全てを投げ捨てて祐巳に謝りたかった。ごめんなさい、ごめんなさい、と。
 
 だけど、寸での所で祥子は踏みとどまった。
 歯を食いしばった。倒れそうになる身体に力を入れた。引くことは出来ない。出来ようはずが無い。これは、自分でまいた種だ。ここで投げ出すなんてあまりにも無責任すぎる。そしてなにより、祥子は祐巳の姉なのだから逃げることなど出来ようはずが無い。
 姉は、妹を導くもの。妹である祐巳が誤った道に進んでいるのなら、たとえ嫌がられても正さないといけない。
 嫌われる、それはとても怖いこと。しかし、それを恐れて相手に嫌われることは言わずただただ口当たりの良い言葉を投げかけるそれは姉としてのものでは断じてない。
 それはたとえ表面上美しく見えても、よく出来たイミテーションには魂がないのといっしょで、そこに心の触れ合いは無い。そんな見た目だけ煌びやかなまやかしに、何の価値があろう。
 何より祥子と祐巳の絆をそのようなものに堕すことは、祥子自身が許せない。
 
 だから、祥子は挑んだ。己自身の弱い心に。何があろうと引かないと覚悟した。その覚悟に殉じた。
 それは、間違いなく茨の道。一歩進むうちにその刺によって祥子の心は傷ついてゆく。
 それでも、祥子は立ち直り前に進んだ。途中で投げ出すことなく最後まで前に進んだ。
 そして、それは報わた。
 最上の答えによって、祥子に報われた。
 
 祐巳は、はっきりこう答えたのだ。瞳子ちゃんのことを『特別な子』と。
 
 風が吹いた。
 その声を聞いたとき、祥子の身体を熱い風が吹き抜けていった感覚を受けた。
 その風は気持ちよかった。祥子の心を軽やかに吹き上げていった。
 清廉な風が吹いた後、祥子の心にはある感情が湧き上がっていた。それは清らかな湧き水のようにどこまでも純粋に澄んでいた。
 
 (ああ、祐巳。あなたは、あなたは)
 
 それは、愛おしさ。目の前にいるものに感じる純粋なまでの愛しさだった。
 そうだ、これこそが祐巳。私の祐巳なのだ、と。
 その言葉を、どれだけ聞きたかったことだろう。祐巳が、祥子にとっての祐巳、を見つけてくれるのを、どれだけ待ち望んだことだろう。
 
 まだ、これはほんの一歩。ただその意思を示したに過ぎない。それは分かっている。だけど、その一歩がなによりも重要だった。
 上手くいくかもどうかも分からないのに、祥子の心はこう思っていた。
 
 もう、大丈夫、と。
 
 だって、こういう時の祐巳はどんなに大変なことでもしてのけれるのだから。
 祐巳は、決していわゆる優等生などではない。だが、そんな杓子定規で測れるようなものなどではなく他の人間にはない大切なものを持っていることを祥子は知っている。
 それは、本来だれもが持っているもの。むろん祥子だって、令だって、由乃ちゃんだって、志摩子だって、乃梨子ちゃんだって持っている。
 
 ただ、ほんの少しだけ祐巳のは特別製。平凡な女の子にマリア様が贈ってくれたささやかなギフト。そのギフトは学校の成績が良くなるものではなく、別に運動神経が良くなるものでもなく、ましてや容姿が良くなるものではない。見た目には、祐巳の外側しか知らないものにとってはまったく意味のないもの。
 だけど、それは魔法。少なくとも祥子にとっては紛れもない魔法だった。マリア様はその女の子にささやかだけど、決して他には真似のできない「真心」という名のギフトを贈ってあげた。
 
 この元気な魔法使いが魔法を使ったとき、時に混乱を、時に笑いを、時に喜びを、そして時に温もりをみんなに振りまいていった。
 の魔法使いはおっちょこちょいなので時々失敗するが、そんなものはみんな気にしなかった。
 みな知っているから、この小さな魔法使いがどれだけ一生懸命に頑張っているのかを、どれだけ他人のために全力で頑張っているのかを知っているから。
 
 (・・・・・・ただ、ね)
 
 ここで、祥子は苦笑のようなものを内心で浮かべていた。
 
 (流石にちょっと目に余るときもあったわね。ふふ)
 
 そして祐巳は贈られたギフトを決して粗略にすることなく大切に大切に自らの手で、そして周りの人の力を借りて育てていった。自らが愛する「他人のため」に。
 
 他人のために、なんて素晴らしい。そして、なんて空々しい言葉ななのだろう。
 人は、他人よりも自分の方が大切だ。これは、間違いのない事実。少なくとも祥子はそう思っていたし、それは間違ってないと思っていた。無償で他人に奉仕などしようとも思わないし、間違ってもされたいと思わないから。ただ、事実はそうであっても「真実」は違った。言葉はそれであっていたとしても、その意味合いは祥子の考えとは大きく違っていた。
 
 何故なら、ここに「他人の幸せが自分の幸せ」と思わせてくれる人間がいるのだから。
 無償だと思っていたそれは、無償ではなかった。ただ、祥子には無償のように見えているに過ぎなかった。その人間にとっては相手が喜んでくれるのが、他人の幸せがなによりの報酬だった。
 そのことを祥子が知ったとき、祥子の心に何かが芽生えた。それは喜怒哀楽といったはっきりとしたものではなく、ほんの小さな芽。
 初めはそれが何なのかわからななかった。この福沢祐巳という人間に対して湧き上がる感情が何なのか戸惑いもした。
 
 (ふふっ、素直じゃなかったから)
 
 祐巳から分けてもらって芽吹いた苗はやがてゆっくりと、でも確実に大きく成長しているのがはっきりとわかった。気がつくとその芽吹いたそれはどんどんと大きく育ち、やがて枝葉をつけ今では大樹のようになっていった。それは最早、祥子の心から枯れる事はなくどっしりと根を張っていた。
 
 (あなたのおかげよ、祐巳。ええ、あなたの)
 
 この苗の名は「慈しみ」という。おそらく祥子は、その苗の種を姉である容子さまから貰っていたのだろう。ただ、祥子はそれを一人ではどうすることもできずに持て余していただけだった。
 
 だけど、その時は突然やってきた。
 あの日、あの扉を開けた瞬間、全ては始まった。あの扉は、今思えば文字どうり未来へと繋がる扉だったのかも知れない。
 
 そして、それから一年を少し過ぎた今、その大樹は収穫の時期を迎えている。
 祐巳から「優しさ」をもらってすくすくと育った苗は、その育ててもらったものへの感謝と喜びが詰まった「愛情」と言う名の実をいっぱいに実らせていた。
 収穫の時期。だから、祥子はこの育った実を祐巳に返さないといけない。
 外れかけた姉の仮面を被りなおしながら、祥子は祐巳に真っ直ぐ対峙した。
 
 「祐巳、あなたは瞳子ちゃんを『特別な子』といったのよ。その意味が分かってるの? 分かってていっているの?」
 「はい、お姉さま!」
 
 その目には、なんの迷いもないように見えた。だけど、簡単にいいと言うわけにはいかない。
 
 「祐巳、その言葉に嘘偽りはないのね。それは決して平坦な道ではなくってよ」
 「はい、わかってます」
 
 いい目、ね。
 祐巳の目はどこまでも真っ直ぐだった。祥子は、その目をこれまで何度も見たことがある。それは紛れもなく、祥子の知っている目だった。
 
 (あなたは、変わらないわね。・・・・・・いや)
 
 祥子は、心の中で被りを振った。
 
 (あなたは、本当に大きくなったわ。・・・・・・もう、私の助けなんかいらないくらいに)
  
 祐巳は変わった。正しくは、成長した、というべきか。むろん、ここでいうのは身体的な意味ではない。もう祥子が叱ったらすぐに項垂れていた、あの弱気で頼りない一年生はもういない。今では立派な、押しも押されぬ紅薔薇の蕾。そして、蕾が開く時はすぐ傍に迫ってきてる。
 上手く開くかどうかの心配はいらない。そんなのいるはずがない。だって、
 
 (あなたのその真っ直ぐさ。本当にあなたは、いつも真っ直ぐに前を見ている。ねえ祐巳、あなたは知らないでしょ。それがどんなに大変なことなのか)
 
 本質の、福沢祐巳の輝きの根幹はいささかも損なわれていなかったから。
 
 (祐巳、できるなら、あなたはずっとそのままでいて・・・・・・)
 
 祥子は、ここで自分の考えに苦笑を浮かべた。
 
 (・・・・・・ふふ。馬鹿ね。そんなの当り前じゃない)
 
 祥子は緩みかけた己の表情を引き締めながら、祐巳に真っ直ぐ対峙する。
 
 「祐巳、あなたがそう言うのなら、私はもうなにも言うことは無いわ。だけど、気を付けなさい。瞳子ちゃんに限らず、人の心は難しいものよ」
 「はい」
 「あなたはさっき否定されてもぶつかるって言ってたけど、もし、瞳子ちゃんに否定されてあなたが傷ついたり迷ったりしたら、いつでも私のところに帰ってきなさい」
 「・・・・・・お姉さま」
 
 祐巳は、目を大きく開いた後、
 
 「はい!」
 
 と元気一杯に返事をした。
 そして、その勢いそのまま出口の方に向かっていく。
 
 (っ!)
 
 扉に向かおうとする祐巳に向かって、思わず祥子は呼び止めた。
 
 「待って、祐巳・・・・・」
 「はい?」
 「い・・・」
 「い?」 
 
 (・・・・・・行かないで)
 
 口にしそうになった言葉を、ギリギリで止める。
 そのようなことを言うつもりなど全然なかったのに、間違っても今の祐巳を止めるつもりなど無かったのに、現実にその手から祐巳が祥子の手から飛び出そうとした今、改めて突きつけられた無情な現実から溢れ出した気持が祥子の心の奥底から漏れ出していた。
 
 「あの、お姉さま?」
 
 祐巳が不思議そうな顔で祥子を見つめてくる。その右手は、ドアノブに握られたままで。
 
 「・・・・・・なんでもないわ。ええ、なんでもないの」
 「は、はあ?」
 
 この扉を出たときから祐巳は、私の祐巳、ではなくなるのだろう。いや、元々祐巳は誰のものでもない。祐巳は、祐巳だけのもの。ただ、何かが働いて祥子の元に来てくれた。マリア様が「運命」という名の出会いを二人に贈ってくれた。
 二人の出会いは運命。運命とは、そこに人の意思などまったく介在しないもの。
 もし、あのとき祐巳が薔薇の館を訪ねなかったら。もし、祥子があのとき薔薇の館から出ようとしなかったら。いやそれ以前にもしあの日、祐巳のタイが曲がっていなかったら、もしあのとき祥子が出会わなかったら、間違いなく今の二人は無かった。これを、運命と呼ばずしてなんだろう。
 
 運命の出会いの後、二人は姉妹となった。これは、必然。
 お互いを自らの意思で姉に、そして妹に選んだ。祐巳はこの祥子を唯一の姉として選んでくれた。もちろん、祥子も。だからこそ、それは二人にとっての必然。
 
 そして、今もまた運命の歯車が動いている。
 だけどそれは、祥子と祐巳の、ではない。
 何故なら、今回、祥子という名の歯車は祐巳と瞳子の歯車を回すための補助に過ぎなかったから。
 それを自覚した祥子は、どうしようもない悲しみに襲われる。
 
 (・・・・・・ああ、マリア様。あなたは・・・・・・あなたは、なんて意地悪なのですか? 私に、私自らで、祐巳の背中を押せと仰る? それがどれだけ残酷なことを意味してるのか、わかってるのですか?)
 
 その答えは、どこからも帰ってこない。
 祐巳の背中を押す、すなわちそれは、今までとは違う新しい道を探すことに他ならない。今まで二人が歩んできたものとは少し違う道。祥子にとっての新しい道。そして、祐巳にとっての新しい道。
 その道を選ぶのは、自分自身に他ならない。 
 
 ずっとこのまま、祐巳と二人だけでいたい。祥子の心はいつも祐巳を求めていた。
 むろん、そんなことは出来ないことは分かってる。ただ、できるだけ、許される最後の瞬間まで二人でいたかった。
 卒業まで、いや、そんな高望みはしない。あと少し、あと一日だけでもいい、もう少しだけ「私の祐巳」でいてほしかった。
 
 (祐巳・・・ああ、祐巳。・・・・・・もう少し、もう少しだけ、私だけの祐巳でいて)
 
 その考えは、麻薬のように甘美な響きを持って祥子の脳内を駆け巡った。
 だけど、それは決して許されることではないこと。祐巳だって祥子と一緒にいたいのだと思う。そのくらいは祥子にだって自惚れている。でも、そろそろこの可愛い雛鳥を次のステップに進めさせないといけない。親鳥の後をついてくるのではなく、自分の羽で飛ぶことを覚えさせないといけない。このかわいくて仕方の無い雛鳥に、お前はもう一人で飛べるのだ、と教えなければならない。
 それが、それこそが成長を見守ってきた親鳥の責任。・・・・・・そして、おそらくは最後の。
 
 「・・・・・・祐巳」
 「はい?」
 
 それがどれだけ悲しいことでも、どれだけつらいことでも笑いながら見送りたい。それは、紛れも無く喜ばしいことなのだから。これは、姉として喜ばしいことなのだから。
 祥子が迷ったとき、その歩みが止まったとき、いつもぐいぐいと背中を押してくれるものがいた。祥子が驚いて振り返ると、そこには祐巳の顔があった。姉である祥子を慕っている、元気づけようとする妹の顔だった。
 その顔は、いつも表情豊かだった。
 祥子が泣きそうになると、その顔は沈み。祥子が喜ぶと、その顔は喜んでいた。そして最後にはいつも笑っていた。祥子に笑いかけてきた。そして、祥子もいつの間にかそれにつられて笑っていた。
 祐巳はいつも精一杯、祥子を支えてくれた。本当に、本当に言葉では表せないほどの優しさで、温もりで祥子を支えてくれた。
 
 (祐巳・・・・・・わたしは・・・・・・)
 
 ならば、祥子もそれに応えなければならない。姉として、なにより福沢祐巳を愛するものとして。
 でもそれは、あまりにも辛い。本当に辛い。辛い、という言葉など霞んでしまうほど哀しいほどに。
 だけど、もうそろそろなのだろう。多分、今がそうなのだろう。
 これ以上、甘えるわけにはいかない。祐巳に、自分に。
 
 (あなたのため・・・・・・あなたのためなら・・・・・)
 
 祥子は、素直に受け入れる。ただただ運命の部品としての、自分を。
 もし、運命という名の歯車を回すのに部品が足りないのであれば、祥子は喜んでその歯車の補助になろう。もし歯車を回りが悪くなったのなら、喜んで潤滑油にでもなろう。
 それが祐巳のためになるのであれば、喜んで受け入れようではないか。
 
 (・・・・・・祐巳。私は、あなたから掛け替えのないものをいっぱいもらったわ。そしてこれは私から返せるせめてもの感謝の気持。・・・・・・だから、受け取って)
 
 祥子は一言、短い言葉を、たった一つの意味を込めて、数え切れない想いを込めて祐巳に贈った。微笑みながら。
 
 「・・・・・・がんばって」と。
 
 その言葉を聞いた祐巳はその顔に笑顔を浮べていた。それは祥子の知っている、見る者全てを幸せにしてくれる笑顔だった。
 
 「はい、頑張ります!」 
 
 祐巳からの返事は、どうしよもなく純粋で、どうしようもなく残酷。でも、これでいい。これこそが祥子の知っている、私の祐巳、だから。
 祐巳の横顔は、夕日をのせいでうっすらとオレンジ色に輝いていた。その太陽の残照を浴びた姿は、まるで、祥子と祐巳、これまでの二人の夢の残照を映しているような錯覚を祥子は受ける。
 そう、夢はいつか醒める。・・・・・・でも、夢に終わりはない。だって。
 
 「夢は紡がれるもの」・・・・・・ねえ、そうでしょう、祐巳。
 
 

 
 
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...Produced By 一体
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