■ ドリルオーディション
   第七章『勇気ある思いを伝える言葉』
 
 
 
 
 「ごめんなさい、乃梨子さん。やっぱり、私はここにくるべきではなかったわ」
 「あっ、瞳子。待って!」
 
 だが、そんな乃梨子ちゃんの静止を振り切って瞳子ちゃんは薔薇の館から出て行った。祐巳の方など一顧だにせず。
 
 そんな瞳子ちゃんに対して何もすることもできず、ただ指を咥えるだけだった自分自身に自己嫌悪を覚えていると、その静寂を打ち破るかのような声が聞こえてきた。
 
 「あら、瞳子ちゃん。行ってしまったわね」
 
 それは、祥子…さまからだった。
 瞳子ちゃんが出て行くのをただなすすべなく見つめるだけの祐巳は、その淡々とした口調で発せられた言葉に金縛りが解けたように身体の自由を取り戻した。
 
 (・・・・・・行ってしまった?) 
 
 そして同時に、麻痺していた心の動きも取り戻した。だからと言って、決してそれが祐巳にとっていいいことを意味していたわけではなかったが。
 
 (行ってしまった、だって!?)
 
 ちがう、出て行かざるを得なかったんじゃないのか?
 祐巳は、あまりに平然とした祥子さまに対して噛み付つくように口を開いた。
 
 「な、何でお姉さまはそんなに平然としてるのですか! 瞳子ちゃんがっ! 瞳子ちゃんが出て行ったのですよ!」
 
 そうだ、瞳子ちゃんは行ってしまった。こんなところで、こんなところでぼけっとしてるしてる暇はない。
 
 かちゃ!
 
 祐巳がそう考えていると、祐巳の耳に金属がすり合うような音が飛び込んできた。
 
 きぃぃー
 
 祐巳がはっとして音がした方を見ると、その音の正体は乃梨子ちゃんが出入り口のドアノブを回している音だった。
 
 「の、乃梨子ちゃん? ど、どこに行くの?」
 「瞳子を、追いかけます」
 
 乃梨子ちゃんの言葉のは、言わずもがな、といった響きが込められていた。
 
 「あっ、乃梨子ちゃん、待って!」
 
 ばたん!
 
 が、乃梨子ちゃんは、祐巳の言葉など聞こえなかったのように薔薇の館を出て行った。むろん、祐巳も大人しくしてなどいられない。
 
 がたっ
 
 祐巳は椅子から身を起こし、その身体を薔薇の館の出口の方に向ける。
 しかし、祐巳が出口に向かおうとしたその時、背中に突き刺さるような鋭い声がかかった。
 
 「待ちなさい! 祐巳!」
 
 ぴた
 
 その鋭い声に、祐巳の身体は金縛りを受けたように止まった。
 声の主は、振り返るまでもなくわかっている。
 いつも祐巳の動きを左右するその声を、いつも祐巳を喜ばせてくれたり不安にさせてくれたりする声を発せれるものなど一人しかいない。
 その声は、いつもであれば何にも置いて優先されるべきもの。祐巳にとって、とても意味のあるもの。とても、大切なもの。
 ……だけど。
 
 「……今、何て言ったのですか、お姉さま?」
 
 今だけは、聞きたくなかった。
 だって、
 
 「聞こえなかったの。待ちなさい、といったのよ。あなた、瞳子ちゃんを追う気なの? なら、それはおやめなさい」
 
 瞳子ちゃんを追うな、だなんて。そんなの酷い。
 そんなの、聞きたくない。理由なんて、知りたくもない、わかりたくもない。
 
 「……何で、そのようなことを言うのですか? 何で、瞳子ちゃんを追っかけたらいけないのですか?」
 
 祐巳がそう答えると、祥子さまからは心底不思議そうな顔をしていた。
 
 「祐巳、ひょっとして、あなたは怒ってるの?」
 「……はい、怒っています」
 
 怒ってる、そんなの当然だ。いくらお姉さまでも、いくらお姉さまであってもやっていいことと悪いことがある。
 祐巳は睨むようにお姉さまを見据るが、その祥子さまは憎たらしいぐらいの落ち着きを払っていた。
 その祥子さまは、冷ややかな視線を祐巳に向けてくる。
 
 「あなた、それは何に対しての怒りなの? 誰に対しての怒りなの?」
 
 まるで人事のように言う祥子さまに対して、祐巳は叫ぶように返した。
 
 「そんなの、お姉さまに対してに決まってます!」
 
 祐巳は祥子さまに怒りをぶつける、が祥子さまの方は、何を馬鹿な言っているの? とでも言いたいかのように、その顔に冷笑のようなものを浮べていた。
 
 「私に対しての怒り? つまらない答えね。自分自身の不甲斐なさを誤魔化すために、私に怒りをぶつけているのではないの?」
 「……っ!」
 
 祐巳はその言葉によって、先ほど瞳子ちゃんが出て行ったときに感じた自分自身の情けなさを、あの時の自分への自己嫌悪を思い出し、火の出るような羞恥心に襲われた。
 祐巳は、喉の底から絞りだすように声を発した。
 
 「確かに……確かに、それもあります……だけど」
 「だけど? なんなのかしら? どうしたの? ふふ、そんなに図星をつかれたのが堪えたのかしら?」
 
 祐巳は、その冷笑を浮べている祥子さまを見て我を忘れた。目の前の人間が、目の前にいるのが祥子さまだと言うことを。自分の大切なお姉さまだということが吹き飛んでしまった。
 
 「それじゃあ先ほどのお姉さまのお言葉は、先ほどの瞳子ちゃんに対するお言葉はなんだったのですか! どうして、あのような、あのような酷いことを!」
 
 祐巳が叫ぶように言うと、祥子さまはため息のようなものを一つ吐いた。
 
 「祐巳、一つだけはっきり言っておくわ。確かに、瞳子ちゃんがここから去ったのは私のせい。それを否定する気は無いわ」
 
 否定する気は無い、つまり、先ほどのことは「自分のせい」とはっきりと認めたことになる。
 
 「じゃあなんであのようなことをっ! なんでっ」
 
 祐巳が身を乗り出すようにそう言うと、祥子さまはそのような姿が目に入らなかったかのように自分のティーカップを持ち、それをゆっくりと己の口に持っていき離していた。その姿はとても優雅で、その流れはいささかの無駄もなくいつもの小笠原祥子さまそのもの。だけど、いつもどうりそれ故に祐巳の心は苛立ちを覚える。
 
 「お姉さまっ、聞いているのですか!?」
 
 かちゃ
 
 手にもっていたカップを静かにコースターに戻した祥子さまは、ようやくその目を祐巳の方へと向ける。
 
 「もう一度言うわ。確かにさっきの瞳子ちゃんは私のせい・・・」
 「じゃあ!」
 
 どうして、と問いただそうとした祐巳の口を封じるように、祥子さまから言葉の続きがもたらされた。
 
 「・・・でもね。さっきのは、遅かれ早かれいずれかは起こることだと思うのよ」
 「は?」
 
 起こっていた、だって?
 意味が分からなかった。だって、どうしてそのようなことが祥子さまにわかるのだろう? 確かに極論を言えば、どのようなことも起こりえる可能性はゼロじゃない。
 でも、そんなことを言ってしまったら、なんだって一緒だ。
 
 「おっしゃる意味がよく分かりません? それ以前に、起こる、とは何をさしているのですか!?」
 
 祐巳が理解できずにそう言うと、祥子さまから返ってきた言葉は質問の答えではなく、祐巳の身体を止めたあの言葉だった。
 
 「もう一度聞くわ、祐巳。あなたにとって瞳子ちゃんはなんなの? よく、考えて。でも、はっきり答えなさい」
 
 そんなの、言うまでもなく決まっている。さっきは唐突だったから答えれなかったけど、答えなんて決まっていることだ。
 
 「そんなの決まってます。私にとって、瞳子ちゃんはかわいい後輩です」
 
 そうだ。瞳子ちゃんはかわいい後輩。だからこそ、だからこそ心配だ。だからこそ、追いかけたい。
 祐巳は自信を持ってそう答える。が、何故だか祥子さまはその眉を少しひそめていた。
 
 「そう、じゃあ聞くけど、可南子ちゃんはどうなの? 乃梨子ちゃんは?」
 
 は? なんでどうして、ここで可南子ちゃんや乃梨子ちゃんが出てくるんだろ?
 祐巳は怪訝になりながらも、祥子さまに返答をした。
 
 「え? 可南子ちゃんも乃梨子ちゃんも、可愛い後輩ですが?」
 
 でも、この答えになんの意味があるのだろう? 可南子ちゃんも乃梨子ちゃんも、祐巳にとっては可愛い後輩だ。そんなことは、祥子さまだって聞かずともわかるだろう。
 ていうか、そんなのどうだっていい。はやく瞳子ちゃんを追いかけたい。うん、追わなくっちゃ。
 
 「そう、も、なのね」
 「はい、そうですが。あの、それがどうかしたのですか? えっと、質問は終わりなら…」
 
 祐巳は、待ちきれない、とばかりに祥子さまの質問を打ち切って扉の方に向かおうとする。
 が、その動きは、先ほどと同じように祥子さまの制止の声によって阻められた。
 
 「待ちなさい、祐巳!! まだ、話は終わってないわ!!」 
 
 同じ、いや、同じ、じゃなかった。その言葉は先ほどと同じであるはずなのに、何故だか先ほどよりもより重い響きが感じられた。
 その言葉の響きが、重みが、祐巳の足を止める。
 
 (・・・・・・なんで、なんで、お姉さまは私の邪魔をするの?) 
 
 だけど、いくら重みがあったから祐巳の足が止まったとしても、はやる心は止まってはくれなかった。
 祐巳はそのはやる心をなんとか抑えながら、祥子さまに先ほどの言葉の理由を質す。 
 
 「……何が、終わってないのですか? 何で、瞳子ちゃんの後を追ってはいけないのですか?」
 「先ほどのあなたの答えがそれだけなら、それだけなのなら、瞳子ちゃんを追うことを許さなくてよ」
 
 追うのは許さない、とはっきり言われ、祐巳の心はきりきりと締め付けられる。
 
 (それだけ、って。他に、何と言えばいいのですか? どうして、追ってはだめなのですか!?)
 
 わからない。なんで祥子さまがそのようなことを言ってくるのか、どうしても理解できない。出来るはずも無い。
 
 「そんなっ、可愛い後輩じゃ、だめなんですかっ! 心配だからじゃ、だめなんですかっ!」 
 
 祐巳が叫けぶように口を開くと、祥子さまから短い返答が返ってくる。
 
 「祐巳、私の話を聞きなさい」
 「嫌です! 聞きたくありません!」
 
 祐巳が子供のように叫んだその時、
 
 ぱぁぁぁん
 
 と薔薇の館に乾いた音が響き渡った。
 
 (・・・・・・あれ? なに、今の?)
 
 祐巳は、その音の原因が何なのか分からなかった。どうして、そんな乾いた音が響いたのかがわからなかった。
 ここで祐巳は、どうしてだか自分の左の頬に持っていっていた。
 それを、あれ? と思う間もなく、祐巳は自分の左頬に異変が起こっていることを自覚した。
 
 (え? 何で、左の頬が熱いの?)
 
 そう、なんでだか祐巳の左頬は熱い熱を帯びていた。まるで、そこだけ火がついているかのように。
 
 (熱い。・・・・・・けど、それだけじゃない)
 
 そして、その左の頬から、熱さ以外のものがじわじわと伝わってくる。
 
 (・・・これは、痛み? うん、痛いんだ)
 
 やがて、最初は微かだった感覚がじんじんとした「痛み」となって祐巳の脳に訴えてくることによって、祐巳はようやく自分の身体に何が起こったのかが分かった。身体だけではなく、ようやく心が理解した。祥子さまが、先ほど祐巳に何をしたのかが。
 
 (叩かれたんだ。わたし・・・・・・お姉さまに)
 
 それを祐巳が自覚したとき、先ほどの熱がまるで嘘だったかのように祐巳の頭は冷静に冷えこんでいく。
 
 「・・・・・・話を聞いて、祐巳。お願いだから」
 
 それを見計らったかのように、祥子さまから声がかけられた。
 
 (・・・・・・あ)
 
 その短い言葉に、横を向いてた祐巳の視線は祥子さまの方に急激に引き寄せらた。
 なぜなら、その口調からは言いようのない何かが伝わってきたから。
 
 ピチャーン ツー
 
 その口調は、先ほどまでとはうって変わって静かだった。だけど、先ほどよりもよりはっきりと聞こえた。それはまるで、物音一つない静寂の世界に一滴の水滴が落ちてきて、その漣が緩やかに伝わっててくるように祐巳の心にゆっくりと波紋を広げてきた。
 祐巳がその漣によって動けないでいると、祥子さまから言葉が続けられた。
 
 「先ほどのあなたの答え。それは瞳子ちゃんの親戚として、あの子を昔から知るものとして、そんな曖昧なもでは許せないわ。・・・・・・ねえ、あなたはいつまでそうするつもりなの? いい加減はっきりなさい。じゃないと、あの子がかわいそうだわ」
 「かわい・・そう」
 
 その祥子さまの発言は、よくわからなかった。はっきりいえば、理解できなかった。特に、後半部分が全然意味不明だった。だけど、なんでだか、胸がえぐられた。とても、哀しかった。
 
 (・・・・・・分からないのに、どうしてこんなに胸が痛いの。なん、で?) 
 
 祐巳はこの胸の鋭く痛む理由がわからず、その答えを求めるかのように祥子さまの顔を見た。
 が、答えが解かるどころか、それによって祐巳の心はより深い混乱に囚われることになる。
 だって、祥子さまの顔は寂しげだったから。その顔には、明らかに哀しみが混じっていたから。
 祐巳はたまらずに口を開いた。
 
 「あ、あの、お姉さま。先ほどの言葉はどういう意味で仰ったのですか?」、
 
 祐巳がそう言うと、祥子さまの顔は先ほどよりもさらに哀しいような、寂しいような表情を浮かべていた。
 なんとなくだけど、その表情は聞き分けのない子供に「どうして分からないの?」と訴えてくるような母親のようにも見えた。
 祥子さまが、寂しげな表情のまま口を開いた。
 
 「祐巳、あなたはときどき優しさというものを履き違えているのではなくて?」
 「・・・・・・優しさを、履き違える?」
 
 これはさっき祥子さまが言った、あなたの優しさは横暴、と関係があるのだろうかと祐巳が考えていると、祥子さまは先ほどよりも少し優しげな表情を浮べてきた。
 
「あなたの優しさ、人を思いやる気持ち、それはね、なにものにも代えることの出来ない本当に、本当に大切なものよ。それは誇ってもいいし、私もあなたの姉として一生誇っていけるわ」
 「おっ、お姉さま、いきなり何を!?」
 
 祥子さまがそのようなことを言ったので、祐巳は面食らった。
 面食らっている祐巳を優しく見つめた後、祥子さまは続けて口を開いた。
 
 「けどね。その優しさによって傷ついてしまう子もいるのよ・・・」
 「そ、それは、私が悪いのですか?」
 
 祐巳が思わず口を挟むと、祥子さまは少し困ったような表情を浮かべていた。
 
 「・・・正確には、あなたが悪い、というわけじゃないのだけれど・・・」
 
 祐巳が悪いわけではない、じゃあ。
 
 「では、相手の子が悪いのですか?」
 
 ということになるのだろうかと、祐巳は祥子さまに質問した。
 が、祥子さまは、ただゆっくりとその首を横に振ってくる。
 
 「・・・いいえ、その子が悪いわけでもないのよ。でもね。その優しさがなんの他意も無いものであればあるほど、その子の気持は悲しみに沈んでしまっているの。ああ、この人は誰に対しても同じなんだ、自分はこの人の特別でもなんでもないんだ、って」
 
 その子は悪くない? ……いや違う、先ほどの言葉で大事なのはそっちなんかじゃない。その子の気持は悲しみに沈んでしまっている、の方だ。それも、
 
 (・・・・・・私のせいで?)
 
 そう、祐巳のせいで。
 祥子さまは、祐巳が良かれと思ったことが時には相手を傷つける、と言っている。だれかが、だれかが深く傷ついている。そして、その誰かとは。
 
 「その子、とは、ひょっとして、瞳子ちゃんのことなのですか?」
 
 祐巳は聞きながらも、確信していた。その子とは、瞳子ちゃんのこと、ということに。
 そして、祥子さまの次の言葉は、その確信を肯定するようなものだった。
 
 「あなたが、少なからず瞳子ちゃんのことを好いてくれてるのはわかってるわ。だけど、それじゃあいつまでたっても何もかわらないの。・・・いえ、あなたはそれでいいのかも知れないけど、あの子はそれじゃあいつまでたっても救われないの。報われないのよ」
 「報われ、ない?」
 
 祐巳がそう言うと、祥子さまは何かを思い出すかのような表情を浮かべていた。
 
 「……あなたの笑顔は眩しい。それこそ魔法のように。だけど、その魔法に囚われたものにとってはその眩しさ故に、その魔法が自分にだけかけられたものじゃないという現実に、その当たり前だけど辛すぎる現実が受け入れないのよ」
 「そっ、そんな、魔法だなんて」
 
 祐巳がこそばゆい気分になっていると、祥子さまは何故だかその顔に誇りのようなものを浮べていた。
 
 「魔法よ。だって、ここにその魔法にかかっている人間がいるのだから」
 「おっ、お姉さま。あっ、あの、その」
 
 しどろもどろになっている祐巳を優しい表情で見つめながら、祥子さまはゆっくりと言葉を重ねて来た。
 
 「その魔法は、あなたに出会ってからずっと私にかかっているわ。そして、その魔法はこれからも、私がリリアンを卒業しても、それは「思い出」という名の形に変えて、ずっと解けることなく私の背中を支えてくれるのよ。お姉さま頑張れ、って」
 「おっ、お姉さま。わっ、私だって、お姉さまの魔法にかかりっぱなしです。ずっと、ずっとかかっています。解けることなんてありえません!」
 
 さっき一瞬、解けそうになりましたけど、と続こうといた言葉は、幸いなことに祐巳の外に吐き出されることなく口の中で消化された。
 祐巳の内心が聞こえなかった祥子さまは、その顔に微笑を携えていた。
 
 「ふふ、ありがとう。……ただね、わたしには「あなたの姉」というこれ以上ない強固な繋がりがあるから、あなたの魔法が他の人間に魔法をかけても、最終的には私のところに帰ってくるって分かってたから大丈夫だったの。だけど、あの子は違う。少なくとも目に見えるあなたとの繋がりがないあの子はいつも不安を抱えているのよ」
 「……そんな、繋がりがないだなんて」
 
 確かに瞳子ちゃんとは、はっきりとした繋がりはないのかもしれない。だけど、祐巳は瞳子ちゃんが大好きだ。それに、瞳子ちゃんだって…だって。
 
 (・・・・・・って、あれ?・・・・・・瞳子ちゃんは、私のことどう思ってくれているのだろう?)
 
 それを気にはしたことはあったけど、ちゃんと確かめたことはなかった。冗談のようにでさえ、言ったことすらなかった。
 
 (・・・・・・なんで? だって、私は瞳子ちゃんのことが好きなのに・・・)
 
 それに気がついたとき、祐巳はショックのようなものを受ける。
 祐巳が気持が揺れ動いているそのとき、祥子さまが祐巳に問いかけてくるような口調で言葉を重ねて来た。
 
 「ねえ、あなたにわかる? もし、その魔法が自分にだけの特別というわけではなく、その優しさはその人にとってはただの当たり前のことなんだ、という現実に対して感じる悲しさを。その魔法が、ひょっとしたら同情や哀れみから発しているんじゃないだろうか、と考えてしまうときに感じるどうしようもない絶望感を」
 
 (絶望感? 瞳子ちゃんが!?)
 
 祐巳は、祥子さまが絶望という言葉を使ったことに驚く。
 
 「あっ、あのお姉さま、先ほどの…」
 
 祐巳は、「絶望」という言葉を使ったことに対しての意味を聞こうとしたが、それに待ったをかけるように祥子さまから言葉が続けられた。
 
 「むろん、あなたにも言いたいことがあるでしょう。だけど、問題はあの子がどう思っているかなの。ねえ、覚えているかしら? 私があなたに冷たく当たってしまったあのときのことを」
 「……はい」
 
 そんなの覚えているに決まっている。祥子さまから厳しくされたのは数あれど、ていうかいつもだけど、はっきり冷たくされたと祐巳が思ったのはたった一度だけ。
 
 ザァーーーーー
 
 今、祐巳の脳裏には、ある時のことがはっきりと写しだされていた。
 
 ザァー あの時の空の色は、まるで祐巳の心を鏡で写しているかのように真っ黒だった。
 ザァー あの時の周りの音は、まるで祐巳の心をレコードにして回しているかのようにノイズしか聞こえてなかった。
 ザァー そしてあの時祐巳を濡らしていた水は、まるで祐巳の心を凍らしてくれるように冷たかった。
 
 (・・・・・・うん、あれは冷たかったな)
 
 祐巳は、今でもはっきりと覚えている。忘れもしない、忘れようも無い。あの冷たい雨に打たれたときのことは。
 乗り越えられたこととはいえ、いや、乗り越えられたからこそ感じる切なさを覚えながら、祐巳は祥子さまの方を真っ直ぐに見据えた。
 そして、あることを祐巳は確信した。
 
 (・・・・・・雨に濡れはなかったけど、お姉さまもあの時の雨は冷たかったのですね)
 
 だってその顔は、見ているほうが痛々しいくらいの切なさに彩られていたから。
 切なさに彩られた祥子さまは、ゆっくりと口を開いてきた。祥子さまの口調は、その切なさに相応しく聞くもの全てに哀しみを感じずにいられないものだった。
 
 「・・・・・・あの時のことは、今でも胸が痛むわ。もっとやりようがあったんじゃないのか、いくら理由があったとはいえ、あなたに対して冷たすぎたんじゃないのか、って」
 
 その哀しい声に共振するかのように、祐巳の唇が震える。
 
 「はい、あの時は、もう私たちは終わりだ、と思いました」
 
 祐巳の唇がそう震えると、まるで何かに耐え切れなくなったように祥子さまの顔は俯いていた。その俯いた顔は祐巳には黒い靄がかかっているかのように見えた。
 
 「・・・・・・ええ、そう思って当然ね。私も、そう思ってしまったわ。……弱かったのね」
 
 哀しい、確かに、あのときは哀しかった。だけど、違う。今、言いたいのは、伝えたいのはそんなんじゃない。
 祐巳は、祥子さまを覆っているものを振り払うように口を開いた。
 
 「でも、乗り越えたじゃないですか」
 
 祐巳がそう言うと、祥子さまは俯いた顔をゆっくりと上げてきた。その顔には微かにだけど笑っていた。
 
 「ええ、乗り越えられたわ。あなたのおかげで」
 
 祐巳は祥子さまの言葉に、祐巳は首を横に振った。だって、先ほどの祥子さまの言葉は少しだけ間違いがあったのだから。
 怪訝そうな顔をしている祥子さまを見つめながら、祐巳は先ほどの祥子さまの間違いを訂正した。
 
 「いいえ、私たちは、お互いを信じることが出来たのだから乗り越えられたのだと思います」 
 
 祐巳がはっきり言うと、祥子さまは驚いた顔を浮べた後、その頬を緩めてきた。
 
 「そう、ね。その通りだわ。二人だから、乗り越えられたのね」
 
 けど、それも束の間、すぐにその顔は先ほどのように寂しげになる。
 祐巳は、「二人なら乗り越えられる」と言ってくれた祥子さまがそのような表情を浮かべているのかがわからなかった。
 
 「あ、あの、お姉さま、どうかなされたのですか? なにか、先ほどの私の言葉におかしいところが、お姉さまを悲しませるようなことがあったですか?」
 
 祐巳がそういうと、祥子さまは驚いた表情を浮かべていた。
 
 「いいえ、違うわ。そんなわけない、そんなことあるわけないじゃない」
 「じゃあ、どうして……あの、先ほどは寂しそうな顔をしてたのですか?」
 
 祐巳が思い切ってそう聞くと、祥子さまは笑っているようで、それでいて哀しそうな表情を浮かべていた。
 
 「私たちは、もう雨に打たれることはなくなった。いえ、また打たれることがあっても、たとえどんな嵐がきても二人なら乗り越えられるわ。・・・・・・だけど」
 「だけど? なんなのですか?」
 「あの子は、ずっと雨に打たれっぱなしなのよ。それも、たった一人で」
 「・・・瞳子ちゃんが、ですか?」
 「ええ。それは私たちの時と違って小雨なのかもしれないし、ひょっとしたら本人には自覚がないぐらいの些細なものかもしれないわ。だけどね、その雨はあの子の身体を少しずつ穿っているの。その雨の冷たさは、あの子の心を確実に冷やしているのよ」
 「そっ、それじゃあ、尚更!」
 
 祐巳が身を乗り出すようにすると、祥子さまは真剣な表情で祐巳を見据えてきた。その視線はまるで、これから真剣勝負をする相手を見据えるかのように、真っ直ぐに祐巳を貫いてくる。
 
 「あなたに、もう一度聞くわ。あなたは瞳子ちゃんを追いたいのね?」
 「はい、もちろんです!」
 
 だって、瞳子ちゃんがあの冷たい雨に打たれている、なんて聞かされたら、なおさら追わないといけないに決まってる。
 だが、祥子さまの次の言葉は、そんな祐巳の意気込みを砕くようなものだった。
 
 「祐巳、一つ言っておくけど、瞳子ちゃんに必要なのは「慰め」なんかじゃないのよ。それが分かっていて?」
 「慰め、なんかじゃない?」 
 
 その意外な言葉に、祐巳は怪訝な顔を浮べる。
 
 「祐巳、別に私は、追うな、と言ってるわけではないの。だけど、よく考えて。決して、軽い気持では考えないで。お願いだから簡単に、瞳子ちゃんのため、だなんて言わないで。そこだけは、絶対に勘違いをしないで」
 
 その祥子さまの言葉に、祐巳は仰天した。
 
 「とっ、瞳子ちゃんのため、じゃ、だめなのですか!? そ、そんなのおかしくないですか?」
 
 祐巳がそういうと、祥子さまはその顔を横に振った。
 
 「問題は、その気持がどこからきてるか、ということなの。本当にあなたが瞳子ちゃんのことを想っているのであれば、本当にそうなのであれば、答えはおのずと見つかるはずよ」
 「・・・・・・こたえ」
 「これ以上は、私の口からはいえない。言っては駄目なのよ。・・・・・・だけど、もし、あなたが慰めるつもりで瞳子ちゃんを追うのなら、絶対に許さないわ。それなら、いっそほっておいた方が良くってよ。いい、あなたがもし瞳子ちゃんを追いたいのなら、よく考えてから「答え」を述べなさい」 
 「……はい、わかりました」
 
 祐巳が短く返事をすると、祥子さまは自嘲的な笑みをその顔に浮べていた。
 
 「……ふふ。今、私はすごく勝手なことを言ってるわね。瞳子ちゃんを怒らせて追い出したあげく、それを心配してるあなたに、追うな、って言っているものね」
 「・・・・・・お姉さま」
 
 祥子さまには、そのような自嘲的な笑いは似合わない。全然、似合わない。
 確かに祥子さまは我侭だし、傲慢だ。おまけにものすごく怒りっぽいし、すぐにすねる。その妹である祐巳はそれに振り回されて、いつもきりきりまいだったりする。
 さっきの話は、全て完全に納得できたわけじゃないし。瞳子ちゃんにした仕打ちは、ちょっと酷かったんじゃないか、といった怒りがあったことも確か。
 
 (・・・うん、確かに瞳子ちゃんは祥子さまのせいで出て行った・・・)
 
 けど、祥子さまの話を聞いた今、その怒りの意味合いは完全に変わっていた。
 
 (・・・本当の問題は、問題の本質はそうじゃないんだ・・・)
 
 今回のこれは、祥子さまの言うとおり「きっかけ」に過ぎなかったのかもしれない。祐巳は、心のどこかで分かっていたような気がする。いや、分かっていた。・・・・・・ただ、それを認めたくなかっただけ。
 
 (・・・うん、これは、私のせい。きっと、そう)
 
 祥子さまに向かっていた怒りは、いつのまにか自分自身への不甲斐なさに向いていた。祥子さまをそのような表情を浮べさせた自分自身に、瞳子ちゃんを追っていけない自分自身に。
 
 (・・・・・・だって、知っているもの。お姉さまがどんな人なのか、本当に、本当にお姉さまがどんな人なのか)
 
 そうだ。祐巳は知っている。祥子さまは、決して人の気持をないがしろにしない方だということを。我侭だからって、そんなことは絶対にしない方だということを。
 
 (・・・だから、求めよう。今、自分に何が必要なのか、その答えを。すなわち、祐巳にとって瞳子ちゃんはなんなのかということを)
 
 祐巳は、改めて瞳子ちゃんについて考えてみた。
 
 瞳子ちゃん、瞳子ちゃんといえば。
 つんつんだけど可愛い後輩、うん。
 左右の両髪がキュートな子、うん。
 演劇を心から愛していて、将来は大女優、という大胆な宣言を、自らの行動によってみなに知らしめている意志が強くて、弱音を吐かない強い人間。
 
 (……え? 強い人間?)
 
 ここで、祐巳の思考に疑問が割り込んできた。
 
 (意志が強い、うん、これは間違ってない。確かに瞳子ちゃんは意志強いし、弱音を吐かない・・・・・・)
 
 瞳子ちゃんは弱音を吐かない。少なくとも祐巳は聞いたことが無い。あのときの、そう、あの学園祭の時、瞳子ちゃんが先輩と揉めた時でさえ少なくとも表面上はなにも変わらなかった。だけど、
 
 (……それ=強い人間、にはならないんじゃないの?)
 
 そうだ。いまのはあくまで表面上の、祐巳がそうだと思っている、瞳子ちゃんはこういう子なんじゃないかな、という、祐巳の思い込みに過ぎないもの。そして祐巳は、その考えは間違ってない、と勝手に決め付けていた。なんの根拠もなく。だけど、
 
 (・・・瞳子ちゃんは結構シャイな所もあると思う。ひょっとしたら、外面は強くても内面は・・・)
 
 瞳子ちゃんを考えるにつれて、その考えに疑問が浮かんできた。いや、それはもはや疑問すら通り越し、祐巳の頭は警鐘が鳴り響いていた。
 
 (・・・うん、むしろ瞳子ちゃんは……)
 
 ここで問題になっているのは「瞳子ちゃんはどういう子」と言うこと。
 表面上ではない。ましてや、祐巳の思い込みなどではない。
 
 (私にとっての、瞳子ちゃん……私にとっての…本当の意味での…)
 
 あなたにとって、瞳子ちゃんはなんなの? この言葉をもう一度、頭の中でゆっくりと噛み締める。
 
 (・・・・・・ああ、そうか。そうだったんだ)
 
 なんとなくだけど、祐巳は祥子さまの言いたいことが分かったような気がした。
 祐巳は、瞳子ちゃんのことを知っていると思っていた。少なくとも、自分ではそうだと思っていた。でど、それはあくまで、そう「感じて」いたものに過ぎなかったのかもしれない。
 
 (・・・・・・だって、わたしは・・・)
 
 祐巳は自分が感じた瞳子ちゃんのイメージを、それが正しいかどうか考えようとしなかった。自分で直接確かめようとしなかった。祐巳は自分が感じたものを、瞳子ちゃんはこうなんだ、と思いこんでた。
 
  (……馬鹿だな。私)
 
 他人とのコミュニケーションは、一方の考えだけでは成り立たない。だって、二人いるのだから。その心は二つあるのだから。
 
 (・・・全然、瞳子ちゃんの気持を考えてなかった。・・・・・・知ろうともしなかったんだ)
 
 心は一方通行なんかじゃない。相手のことを思いやらないといけない。
 相手を思いやる、それは単純に聞こえるけど難しい。本当に、難しい。
 何故なら、本当の思いやりというのは、相手の気持が分かってないと出来ないから。その気持を理解しようとする姿勢を見せないと、相手を納得させることなど出来ようはずもない。
 思いやりとは、ただただ無条件に手を差し伸べる、ということではないのだ。
 
 (・・・そんなの、当たり前のことなのに)
 
 それを、祐巳は知っていた。知っていたはずだった。祥子さまを初め、色々な人たちに教えてもらっていたはずだった。
 でも、欠けていた。いつのまにか、少し欠けてしまっていた。
 そして、その欠けてしまった原因もなんとなくにわかっている。
 
 (……それは多分、自分が瞳子ちゃんに甘えていた、からなんだよね) 
 
 そう、配慮が欠けていたのは、祐巳は瞳子ちゃんに対して甘えみたいなものを覚えていたからなんだと思う。
 今まで、そんなことは自覚はなかった。けど、その考えは納得がいくものだった。
 心のどこかで祐巳は、瞳子ちゃんが祐巳に好意を寄せてくれている、と思っていた。祐巳が瞳子ちゃんを好いているように、瞳子ちゃんもそうなんじゃないかと勝手に思っていた。相手の気持も確かめもせずに、瞳子ちゃんの気持を知ろうせずに。
 つまり、この福沢祐巳という人間は、瞳子ちゃんがどのような人間かを考察することを、瞳子ちゃんがどのような人間かを理解する配慮を、自らの甘えのせいで薄れさせてしまったのだ。
 これを、甘えと呼ばずしてなんだろう。
 
 (うん、甘えていたんだ。・・・・・・で、それには理由がある。甘え、てしまったのは。つまり、瞳子ちゃんの気持を確かめようとしなかった理由が・・・・・・)
 
 そして、それは同時にあることを祐巳に教えていた。瞳子ちゃんに踏み込もうとしなかった、その理由が、祐巳にとっての瞳子ちゃんがどのような意味を持つのかを。福沢祐巳にとっての松平瞳子、その答えが。
 
 (・・・・・・やっと、わかった)
 
 これが、正しいのかは分からない。祥子さまが納得してくれるのかも、瞳子ちゃんにとっていいことかどうかもわからない。
 だけど、これが自分の、今の福沢祐巳の、精一杯の答え。
 祐巳は俯いていた頭をがばっと上げ、しっかりと祥子さまの顔を見据える。その両眼が祥子さまの視線とぶつかる中、祐巳はゆっくりと口を開いていった。
 
 「……お姉さま、私、今まで瞳子ちゃんのことを分かっていたと思っていました。いえ、そうなんだ、と自分の考えを瞳子ちゃんに押し付けてました。瞳子ちゃんに甘えてました」
 「それは、過去形なのね」
 「・・・はい」
 
 そう、それは過去形。いや、過去形にしなければならない。絶対に。
 
 「・・・・・・そう思っていただけだって、ただの独りよがりだってことがやっと分かりました」
 「ふーん。で、あなたはどうしたいの?」
 
 祐巳のしたいこと、それは。
 
 「ぶつかろうと思います」
 「ぶつかる?」
 
 言葉の意味がよくわからなかったのか、祥子さまは怪訝な表情を浮かべていた。
 そんな祥子さまに対して、祐巳は説明をするように口を開いた。それは、自分に答えに対する確認も兼ねていた。
 
 「はい。ぶつかると言う意味は、文字通り真正面からぶつかると言うことです。なんの飾りもなく、なんの偽りもなく、本音で瞳子ちゃんと話したいと思います。瞳子ちゃんの話を聞ききたいと思います」
 
 祐巳の出した答えの根幹になるものは「勇気」
 それは、前に進むための勇気。それは、自分の気持に向き合う勇気。そしてなにより、瞳子ちゃんのことを知ろうという勇気、理解しようとする勇気。
 
 (・・・・・・瞳子ちゃんの事が知りたい。もっと、知りたい。わかりたい、わかり・・・あいたい)
 
 むろん、祐巳がそうだからといって瞳子ちゃんがそれを受け入れてくれるとは限らない。いや、そう簡単に受け入れてくれるはずが無い。最悪、瞳子ちゃんは祐巳を否定するかもしれない。
 
 (・・・・・そうなったら、どうする、わたし?) 
 
 「で、ぶつかって、瞳子ちゃんに否定されたらどうするの? それで終わり?」
 
 祥子さまが、祐巳の自問を知っているかのような問いかけをしてきた。
 
 (どうする、って・・・・・そんなの、決まってる)
 
 祥子さまのその問いに、そして己の自問に祐巳は即答した。だって、答えなんてわかっていたから。
 
 「終わりません。何度でも、ぶつかります」 
 
 そう一度や二度、百や二百、千や一万、回数なんて関係ない。何度否定されてもいい。その程度ではへこたれない。
 否定されるのは、もちろん怖い。だけど、大丈夫。大丈夫じゃないかもしれないけど、大丈夫。
 うん、何度ぶつかって倒れても、傷ついたって泣いたってかまうものか。そのときはその時、何度でも立ち上がればいい。
 祐巳が何度でもぶつかると言うと、祥子さまは呆れたような表情を浮かべていた。
 
 「ふーん、あなたは、瞳子ちゃんに否定されても何度でもぶつかる、っていうのね?」
 「はい、お姉さま」
 「私が言うのもなんだけど、それはあなたの我侭なんじゃないのかしら?」
 
 そうだ。祥子さまの言う通り、これは自分の我侭だ。思いっきりの我侭。多分、子供が欲しいおもちゃをねだるのと同じようなものだと思う。
 でも、そんなの気にしなかった。体裁なんて、気にしていられるわけがなかった。
 
 「そう言われても仕方ありません。だけど、決めたんです。何度でもぶつかる、って」
 「あなたが、そうする、と決めた理由はあるの? それをはっきりさせないと、結局のところ何も変わらないわよ」
 
 祥子さまの冷たさを増した視線を受けながら、祐巳は口を開いた。
 
 「・・・・・・今思うと、私は瞳子ちゃんとは本気ではぶつかってなかったんだと思います。いえ、あるときを境に、ぶつかるのをやめたんだと思います」
 
 祐巳がそう言うと、祥子さまは眉をひそめてきた。
 
 「あるとき?」
 「はい、学園祭からです」
 「学園祭?」
 「はい、あのときからです」 
 「で、ぶつかるのをやめた理由はなんなの?」
 「……おそらく、怖かったんだと思います。あの、お姉さま。覚えてますか? 演劇部の楽屋の出来事を」
 「あなたが、時間をくれって、言ったときのこと?」
 
 祐巳は、ここで自分の右の手のひらに視線を向けた。それは何の変哲もない、ただの手のひら。だけどあるときのことを思い出していた手のひらは、明らかに左手の手のひらよりも暖かい温もりを感じていた。
 祐巳はその手のひらを愛しげに見つめた後、右手から感じている温もりを感じながら口を開く。
 
 「はい。あの後、私は瞳子ちゃんに手を握ってもらいながら案内してもらったのですが、あのときの手の感触が今でも残っています」
 
 むろん、あれから何ヶ月もたった今、常識で考えれば手の感触など残っているはずなどない。だけど、祐巳にはずっと残っている。はっきりと伝わっている。あのとき、ぎゅっ、と力強く握ってくれた瞳子ちゃんの手の感触が。そこから伝わってきた、瞳子ちゃんの暖かい温もりが。
 
 (うん、この手は覚えている。あのときの、ぎゅっ、とした感触が)
 
 こんなの非科学的だし、自分でも、おかしいこといってるかな、とも思わないでもない。
 だけど、間違っていない。絶対に間違ってないといえる自信があった。だって、そう言える理由が祐巳にはあったから。あの時はわからなかったけど、今ならはっきり言える理由が。
 
 (うん、そういうことだったんだ)
 
 「お姉さま、私は瞳子ちゃんとぶつかることによって、その握られた手を、すなわち瞳子ちゃんを失うのが怖かったんだと思い、いえ、怖かったんです」
 
 (今なら、はっきり言える。瞳子ちゃんは、ストレートに意見を言ってくる左右のドリルがキュートでつんつんな可愛い後輩。うん、これは間違っていない。だけどそんなんじゃなくて、もっと根本的なもの、大切なものがあったんだ)
 
 祥子さまが、何かを確かめるような口調で口を開く。
 
 「どうして、瞳子ちゃんを失うのが怖かったの?」
 
 祥子さまのその問いに、祐巳は改めて自分の意思を確認した。
 
 (・・・・・・私にとって、私にとって、瞳子ちゃんは・・・)
 
 人に何かを伝えるとき、己が意思を示すとき、その言葉には大なり小なり責任が生じる。相手に何かをしようとしたいとき、しようと思うとき、その行動には責任が伴う。
 
 (・・・うん、その覚悟はできている・・・・・・いや)
 
 祐巳は、それは間違い、と頭から振り払った。それは、先ほどの考えが間違い、という意味ではなく、覚悟を決める、ということについてだった。
 
 (・・・ううん、違う。覚悟なんて必要ない。だって、それは当り前のことなんだから)
 
 そうだ。言葉や行動に責任が生じることなんて当り前だから、そんなのに覚悟なんて必要ない。やらなければならないこと、というものに対して覚悟が必要であるはずがない。だって、それは人として当然のことなのだから。
 そうだ、これは福沢祐巳にとっては当たり前のこと。それだけのこと。だから。
 
 (・・・ただ、受け入れよう。今はそれだけで、いい)
 
 もし、ここで覚悟が必要とすれば、それを忘れない覚悟、それは当然なんだ、と受け入れる覚悟。
 むろん、それが簡単じゃないこともわかってる。でも、受け入れたい。だって、そうじゃないと、この答えを述べる資格なんて無い。
 だから、祐巳は背負う。次に祥子さまに伝える「答え」によって生ずる責任を、祐巳がこの後にするであろう行動に対して伴う責任を当然のものとして。
 
 (・・・私は、答えを見つけたんだ。それを告げたい。たとえ、どうなっても。どんなことになっても)
 
 祐巳はようやく見つけた答えを、自分にとって大切な想いを言葉に変えて大気と一緒に大きく吐き出した。
 
 「瞳子ちゃんは、私にとって他に代わりなんていない『特別な子』なんです!……だから、私は追いたい。瞳子ちゃんの後を、追いかけたいんです! いえ、絶対に追いかけます!!」
 
 これが、祐巳の答え。祥子さまに対する、自分に対する。そして、瞳子ちゃんに伝えないといけない答え。
 
 大切なものは、すぐそばにあった。
 
 

 
 
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