■ ドリルオーディション
   第五章『ようこそ、ここへあなたを想っている視線』
 
 
 
 
 「失礼します、あっ!」
 
 祐巳は薔薇の館に入って驚いた。それもいい方向に。
 
 「いらっしゃい、瞳子ちゃん」
 「……おひさしぶり、です。祐巳さま」
 
 そう、その理由は薔薇の館に瞳子ちゃんと乃梨子ちゃんが一緒に仲良く並んで椅子に座っていたのだから。
 なんでだか知らないけど、最近、瞳子ちゃんは愛しの祥子さまがいる薔薇の館にも全然足を運ばなくなって、おかげで祐巳は瞳子ちゃんとはすっかりご無沙汰だったりした。
 まあ、瞳子ちゃんからしてみれば、そんなの知ったことじゃない、って言いそうだけど。
 
 (でも、ここで再び会えたのはやっぱり嬉しい、うん、すごく嬉しい!)
 
 祐巳は、にこやかに瞳子ちゃんに返した。
 
 「そっか、そういえばそうだよね」
 「なんですか、まるで、瞳子のことなど忘れてた、って感じですね。まあ、別にかまいませんが」
 「ううん、そんなわけないよ。……あ」
 
 祐巳が途中で言葉を止めると、瞳子ちゃんは怪訝そうな顔をしていた。
 
 「あ、って何ですか。途中で止められると気持悪いのですけど」
 
 祐巳は、瞳子ちゃんの気持悪さを解消させてあげることにした。
 
 「けど、やっぱりちょっと寂しかったかも。だって、最近すっかり瞳子ちゃん薔薇の館にこなくなったじゃない。何でなの?」
 
 祐巳がそう言うと、瞳子ちゃんは何でだか少し怒ったような顔をしていたりした。祐巳はその怒った顔が懐かしくて嬉しくなった。無論、口に出しては言わないけど。
 瞳子ちゃんが、ふてたように顔を横を向けて口を開いた。
 
 「何で、って、別に理由などありません」
 
 (そう言われても、何でもないって顔じゃないような。…あ、ひょっとして)
 
 「瞳子ちゃん、ひょっとしてわたしのせい?」
 
 祐巳がそう言うと、瞳子ちゃんは目に見えて慌てていた。
 
 「なっ、どうしてそのようになるのですか!?」
 「瞳子ちゃん、別にわたしに遠慮なんてしなくていいよ」
 「は??」
 「だって、わたしがいるから祥子さまに会いにこれないんだよね。でも、わたしのことは全然気にしなくていいから。……あ、流石に目の前でベタベタされるとちょっと嫌かもしれないけど、少しぐらいなら大丈夫だから」
 
 うん、そりゃま、スールである祐巳としては自分以外の人と祥子さまが仲良くするのは、自分でも情けないと思うし祥子さまのことを信じていないわけじゃないけど、やっぱり胸が痛くなる。
 だけど、自分でもよくわからないけど、瞳子ちゃんならいいかな、と祐巳自身そう思っていた。
 
 (……って、あれ? どうして瞳子ちゃんならいいと思うようになったんだろ? 初めにあったときはあんなに警戒していたのに?)
 
 祐巳が自分の心境の変化に驚いていると、心底呆れたような声が祐巳の耳に聞こえてきた。
 
 「……相変わらず、おめでたいですね」
 「あれ? 違った? わたしがいるから遠慮してたんじゃないの?」
 「当たり前です。用も無いのに生徒会の部屋にそう何度も足を運ぶのはどうかと思っただけです」
 
 あ、なるほど、言われてみれば納得。一般の生徒からすれば、いくら知り合いがいるとはいえ用も無いのに生徒会の部屋に遊びには行きづらいだろう。でも。
 祐巳は、瞳子ちゃんにタヌキ顔を真っ直ぐ向けながら口を開いた。
 
 「瞳子ちゃん」
 「な、なんですか、祐巳さま」
 「それでも、瞳子ちゃんさえ良かったらだけど、時々は遊びにきてほしい、かな」
 
 祐巳がそう言うと、瞳子ちゃんはその大きい瞳をさらに開いていた。
 
 「何故、そのようなことを仰るのです」
 「やっぱり、寂しいよ」
 「……誰が、寂しいのですか」
 「瞳子ちゃん。仮定の話になるけど、もし瞳子ちゃんがお姉さまに会いたかったのに、さっきの理由でこれないのならきっと祥子さまも寂しがると思うよ。だって…」
 
 (・・・お姉さまは、もう少ししたらもう)
 
 言葉の後半部分を心の中でつぶやいていると、ボソリとした声が祐巳の耳に聞こえてきた。
 
 「・・・・・・でたい」
 「あれ、なんか言った瞳子ちゃん?」
 「ふん、なんでもありません」
 
 瞳子ちゃんはすました顔をしてそう言っていると、二人の会話に苦笑のようなものを含みながら参加する声が。
 
 「あの、さっきからわたしは無視ですか、祐巳さま」
 
 あ、と、しまった。
 
 「ごめんごめん、乃梨子ちゃん。つい、瞳子ちゃんの方に目がいっちゃって」
 「いいえ、怒っているわけではありません。ただ、相変わらず仲が良くていいな、と」
 
 う、乃梨子ちゃん。仲がいい、って言ってくれるのは凄く嬉しかったりするけど。
 
 「なっ、ちょっと乃梨子さん、どうしてそうなるのよ!」
 
 ありゃ、やっぱり。
 もう一方の嬉しくない方から、すぐさま抗議があがる。
 瞳子ちゃんからしてみればそのようなことは我慢できなかったのか、顔を真っ赤にして乃梨子ちゃんの方に喰ってかかっていた。
 ふう、しょうがない。祐巳はここは一つフォローを入れることにする。
 
 「そうだよ、乃梨子ちゃん。瞳子ちゃんに悪いよ」
 
 ぴた
 
 と、あれ? 瞳子ちゃんの動きが止まったぞ?
 祐巳が動きの止まった瞳子ちゃんを不思議に見つめていると、瞳子ちゃんの時の刻みが戻ったのか再びこちこちと動き始めた。
 
 「…別に、悪いなどとは思ってません」
 「え、そうなの?」
 
 それは以外、というか嬉しい誤算。そうだからといって、それが祐巳のことを好いてくれる、という意味にすぐにはつながらないのだろうけど。まあ、否定されなかっただけでもありがたい。
 
 (・・・・・・ん? でも、まてよ?)
 
 祐巳の頭がそのように考えを進めていると、ここで一つのクエスチョンマークが浮かんできたりした。
 
 (じゃあなんで、瞳子ちゃん。さっきあれだけ乃梨子ちゃんに噛み付いたんだろ? なんかもう、全身で否定! って感じに見えたのだけど)
 
 うーむ?? なんでだろ??
 祐巳の頭がぷすぷすとしている、そのとき。
 
 「ですが、祐巳さまはもう少し考えてから言動をされた方がいいでしょう。祐巳さまの言動は顔の表情と一緒で軽すぎるところがあります」
 
 と、その熱暴走気味の頭を冷やしてくれるかのように、瞳子ちゃんはさらりときついことを言ってくれたりした。
 
 (ううっ、瞳子ちゃん。相変わらずきついことをずけずけと言ってくれるよなあ) 
 
 でも、祐巳の心にショックはあまりなかった。
 
 (だって、さっきのは口調はきついけど悪口なんかじゃなく、忠告みたいなもんなんだよね)
 
 そう、さっきの言葉にはきついけど悪意はなく、ある種本音みたいなものが感じられた。
 瞳子ちゃんが祐巳のことを好悪どう思ってくれているのかは置いといて、少なくともああいったことをぶつけてくれる存在と認識してくれているのが嬉しい。
 そりゃもちろん。瞳子ちゃんが心のすべてを見せてくれてるわけじゃないし、祐巳のことを全て無条件で受け入れてくれているわけじゃない。だけど、そんなものはこちらも望んでいない。だって、それは一歩間違えれば相手に対する依存に繋がってしまうから。
 
 (うん、それじゃあ、だめなんだ)
 
 このことは最愛の姉である祥子さまと一緒に歩んでいるにつれて分かった。いや、教えられた。
 初めのうちは、ただお姉さまの後ろをなんの迷いもなくついていけばいい、と思っていた。
 
 (でも、ちがってたんだな)
 
 共に歩むことと追従は別物、だ。自分がそれはおかしいと思うことに対して、それを指摘できなくてどうして「最愛の姉」などと呼べるだろう。
 怒られてもいいし、嫌がられてもいい。それによって傷ついてもいい。むろん、それでくじけそうになる時もあるし、泣きたくなるときもあるんだけど。(って、なんかサ○エさんの歌みたい)でも、そのときはくじけりゃいいし。泣けばいい。んでもって、溜まっているものを吐き出せばいい。
 
 (そして、いつかは)
 
 分かってくれる、いつかはきっと分かり合えるのだと。そう信じることによって、本気でぶつかっていけると。
 だからこそ、ずけずけと言いたいことを言ってくれる瞳子ちゃんは祐巳にとっては、
 
 (すっごーく、可愛いんだよなあー。うふふ)
 
 ということになる。
 
一匹のタヌキがにへらと自分の世界にぷかーと浸っているとき、そのタヌキをリアル世界に呼び戻すようなヒンヤリした声が祐巳の耳に入ってきた。
 
 「あの、いい加減こっちの世界に帰ってきてくれませんか、祐巳さま」
 「えっ、あっ!」 
 
 (わっ、やっちゃった!)
 
 その声に妄想ワールドから慌てて現実世界に帰還しようとしたのだが、どうやら帰還が遅かったらしく、目の前の瞳子ちゃんのお顔はそりゃあもういいかんじになっていた。
 
 (こ、こりゃまた、ひんやりとしてまあ。うう、こ、こりゃ、まずいっぽい)
 
 祐巳は精一杯甘えた声で、瞳子ちゃんの許しを請うことにした。
 
 「あ、あれー、瞳子ちゃん。どうかしたのかなー? な、なんか、ものすごーく怒ってるっぽいんだけど。許してくれたら嬉しい…かも」
 
 祐巳は精一杯頑張ってみたつもりだったのだが、どうやら瞳子ちゃんはタヌキという生き物が嫌いなのかその顔はさらにひんやり感をUPさせ、まさに氷の微笑というに相応しい表情を浮べていた。
 
 「いえいえ、全然これっぽっても怒ってなどいませんわ」
 
 瞳子ちゃんはそう言っているが、その身体は言葉とは裏腹に冷たい冷気がじわじわと漏れ出していた。
 祐巳は、その冷たい冷気に震えながら口を開いた。
 
 「そ、そうなの、それはよかった」
 
 が、そうは言ってみたものの、祐巳には瞳子ちゃんは全然よくないように見える。
 そして次の瞳子ちゃんの言葉は、その見た目のひんやりさに恥じぬとーっても冷たいものだった。
 
 「ただ、祐巳さま。瞳子はとても困ってますの。私は先ほどあるお人、それも某薔薇の蕾をやってらっしゃる責任ある立場のお方に「言動とお顔が軽い」と忠告をされたのですが、その人はこともあろうに忠告を言った直後に、ご丁寧に私の目の前でのほほんとご自慢の百面相をやられていましたの。いやまあそう簡単に直るとはこちらも思いませんでしたが、まさかまさかこうも見事なまでに忠告を無視してくれるとは思いもしませんでしたわ」
 
 うう、ひゃっこいよう。ひゃっこいよう。
 
 「ご、ごめんね、瞳子ちゃん。別に忠告を無視したわけじゃ、って思い切り無視しちゃったけど。別に話を聞いてなかったわけじゃないよ。ええと、嬉しかったからつい、と言うかなんと言うか…」
 
 祐巳がしどろもどろに言い訳をすると、瞳子ちゃんはそりゃあもう嬉しそうに、例えるならおいしそうなタヌキがひょいと目の前に現れたのを見て舌なめずりをしてる猫科の動物さん(そんな状況見たことないけど)、といったような表情で獲物である祐巳を見つめてきた。ぱくっ。
 
 「いえいえ、別に祐巳さまが謝る必要などこれっぽっちもありませんわ。何故なら、その困ったお方は人の話を全然聞かないおめでたい方だと忘れていたわ・た・く・しが悪いのですから」
 
 うう、胸がー 胸が痛いー。
 
 突如、謎の胸の痛みに襲われることとなった祐巳は、その視線をふらりと泳がせて視線の端っこに入ってきたDr乃梨子ちゃんに「助けて! 乃梨子先生!」のサインを猛スピードで送ってみた。
 が、どうにもサインの通りが悪かったのかそれとも何か理由があったのか、乃梨子先生は祐巳と目が合うと慌てたように顔を下に向けその肩をぷるぷると震わせている。
 
 (あっ、ひどい! 乃梨子先生!)
 
 ああ、哀れ。このままタヌキはあまりの寒さに冬眠ならぬ永眠をしてしまうのか、と思ったそのとき。
 
 がちゃ
 
 薔薇の館の入口が開く。そこには祐巳にとっても瞳子ちゃんにとっても大好きなお方が立っていた。
 その方は瞳子ちゃんを認めたとき、その美しいお顔にゆっくりと微笑を浮べていた。
 
 「あら」
 「お、お姉さま!」
 
 祐巳は、その後に「ナイスタイミングです!」とするりと滑ろうとした困りものの口をなんとか止める。
 まあ、滑ろうとしたのも無理もない。これこそまさに、祐巳にとっては神のタイミングというやつ。
 何故なら、ひゃっこい瞳子ちゃんにとって祥子さまはスールでこそないものの、プライベートでは「祥子お姉さま」と呼んでいる祐巳でさえ嫉妬、じゃなかった羨むばかりの関係。
 その祥子さまを前にしたら、いかに瞳子ちゃんとて頬が緩むのは間違いないだろう。
 
 (うんうん、よかったよかった。……って、あれ?)
 
 だが、祐巳は自分の目を疑うことになった。 
 どうしてなのか、瞳子ちゃんは愛しの祥子さまを前にしてもその態度はひゃっこいままだったから。
 いや、それどころか瞳子ちゃんの様子は先ほどよりも、むしろ。
 
 (緊張してる、の? なんで?)
 
 そう、観察眼など皆無な祐巳から見ても、瞳子ちゃんの顔は祥子さまを前にしても今度は本当に「凍りついて」いるように見えた。
 そんな瞳子ちゃんに対して、祥子さまが声をかける。
 
 「ようやく前に進む気になったのかしら、瞳子ちゃん」
 
 その祥子さまの瞳子ちゃんに対する第一声は、疑問系だった。
 だけど、その言葉には明らかに主語が足りなかった。故に祐巳は、はて? と首をかしげることになる。
 
 (前に進む気になった? えっと、それは、オーディション。つまり、女優として、のことかな?)
 
 祐巳がそう思っていると、今度は瞳子ちゃんから祥子さまに対する返答がされていた。
 
 「……何の事をいってるのですか、紅薔薇さま? ここに来たのは、ただ乃梨子さんにオーディションのことで誘われたから来ただけです」
 
 その声に祐巳はぎょっとした。その理由はその言葉の内容に対してではなく、瞳子ちゃんの様子からだった。
 だって瞳子ちゃんの声のトーンは、祐巳が今まで聞いたことがないくらい低かったから。
 その声のトーン自体に驚いたのも確かだけど、それよりも瞳子ちゃんがその人、つまり祥子さまに向けたことに対してがなにより祐巳をぎょっとさせた。
 
 (ち、違う。こりゃオーディションとかそんなの関係ないぞ。何か、ってその何かがわからないけど、絶対におかしい!)
 
 祐巳の知る限りこの二人はこんな感じの会話をしたことがない。特に、いつもは祥子さまに甘えている瞳子ちゃんの態度が普通じゃなかった。
 
 (理由なんてわからないけど、こりゃほっとけない。ほっとけるわけない!)
 
 祐巳は、慌てて二人の会話に入ろうとした。
 が、祐巳が思わず二人の会話に入ろうとしたその寸前、ピタとその動きを止めることになる。
 何故なら、あるものが祐巳の視線の視線に入ってきたから。
 祐巳の動きを止めることになったその「あるもの」とは、凄く切実そうな、それでいて心配そうな表情を浮べている乃梨子ちゃんだった。
 
 (の、乃梨子ちゃん?)
 
 鈍感な祐巳は、その切実な表情が何をいっているのかは分からない。けど、何かその真剣な眼差しから二人の間に口を挟むことに躊躇を覚えた。
 
 乃梨子ちゃんは、ただ真っ直ぐその心配そうな顔を二人に、ううん、瞳子ちゃんに向けている。
 そして、ふと気が付くと、祐巳も自然とそれに習っていた。
 まるで、祐巳たちがそうするのを待っていたかのように、二人の会話が再会された。
 
 「そう。でもね、瞳子ちゃん。きっかけは何であれどういう理由であれ、結局あなたはここに来たのよ。それだけは何があってもかわらないわ」
 「それは否定しません。ですが、残念ながら紅薔薇さまの考えられている理由とは違うと思いますが」
 「そうかしら?」
 「ええ、そうです」 
 
 祐巳の目の前で、鍔迫り合いのような言葉のやり取りが応酬されている。
 傍目には祥子さまが瞳子ちゃんを問い詰めていて、瞳子ちゃんがそれによって追い詰められているように見える。
 
 (けど、たぶん、それだけじゃない)
 
 さっきとは違って、冷静に二人の言葉のやり取りを聞いた祐巳にそのように感じた。
 だって、祥子さまの視線と言葉は厳しく感じるけど決して冷たくはなかったから。むしろ、厳しさの中になにか別のものが、大切な「何か」が感じ取れたから。
 おそらくだけど、祥子さまは瞳子ちゃんに祐巳には分からない「何か」を語っている。そして、乃梨子ちゃんもそれを知っているから何も言わないのだろう。
 「何か」の内容がわからない祐巳としてはヤキモキするしかないし、不謹慎かもしれないけど真剣にぶつかり合っている二人を見てかすかに嫉妬すらしたりもした。
 だけど、乃梨子ちゃんの真剣でそれでいて心配そうな顔を見るにつれ、その思いは自然と消えていく。
 
 (そっか、そうだよね。知らないよりも、知っていて何も言えない方が辛いよね)
 
 友達というものは、時に損な役回りを受けないといけない。いまの乃梨子ちゃんが、まさにそう。
 
 (でも、だからこその友達、なんだよね)
 
 祐巳だってこれまで親友である由乃さんや志摩子さんをはじめ、色々な人たちから助けられてきた。だから、わかる。
 乃梨子ちゃんは、友達である瞳子ちゃんが困っている理由を知ってる。けど、知っているけど口が出せない、知っているからこそうかつに口が出せない状況になってるんだと思う。
 
 (それなのに嫉妬なんかしてる場合じゃないぞ、わたし!)
 
 祐巳も乃梨子ちゃんを見習って祥子さまと瞳子ちゃん、大好きな二人のやり取りをヒヤヒヤしながらも見守ることにする。
 
 (よし、たとえどんなことがあろうとも口は挟まない!)
 
 祐巳はそう決意をした。が、しかし、残念ながらその決意はあまり長く続かなかった。
 それは、次の二人のやり取りのせいによってだった。
 
 「それじゃあ、なんのためなのかしら?」
 「初めに言ったじゃないですか。乃梨子さんにオーディションのことについて誘われたから来た、と」
 
 そして、祥子さまの次の言葉で、それは起こった。
 
 「そう、前に私が言った「あの時の話」とは関係ないのね?」
 
 ピシッ…
 
 祥子さまが「あの時の話」と言ったとき、瞳子ちゃんの動きが止まった。いや、それだけじゃなく部屋の空気が一気に変わった。
 まるでその一言を聞いた瞳子ちゃんからこの部屋を外界から切り離す効果を発せられたように、部屋の空気がキィーンと張り詰めていく。
 そのあまりの冷たさに、祐巳は思わず乃梨子ちゃんの方に視線をむける。
 が、それで分かったことは、乃梨子ちゃんの顔も祐巳に負けす劣らず強張っているということだけだった。
 一つだけ確かなことは、祥子さまのいった「あのときの話」とはそれほどまでに禁忌だったと言うこと。
 瞳子ちゃんが、祐巳が見たことが無いくらい冷ややかな笑みをその顔に浮かべていた。
 
 「あの時の話、とはなんのことでしょう、紅薔薇さま?」
 
 その短い言葉は、先ほどよりもさらにトーンが低くなる。その声はまるで、一片の光さえ差すことの無い深い深い海の底から響いたようにも感じ。一片の温もりも感じさせないそれは、極寒の地に吹き荒れるブリザードのような冷たさを感じられ。
 
 ……そしてなにより、その言葉からはまぎれもない「敵意」が感じられた。
 
 (う、そ? あの瞳子ちゃんが、お姉さまを、敵視してる、の?)
 
 そう。祐巳の間違いでなければ瞳子ちゃんは祥子さまを、瞳子ちゃんにとっての「祥子お姉さま」を「敵」と認識している。
 
 (うぐっ!)
 
 祐巳の心がそう判断したとき、祐巳の胸が、そして身体が締め付けられた。あまりの心の痛みに精神が身体を支配して、その起こりえるはずもない錯覚ともいえる痛みが現実となって祐巳の身体をキリキリと締め付けてきた。
 
 (息が、息が出来、ない)
 
 祐巳は祥子さまを知っている。少なくとも、リリアンでは一番知っているつもり、だ。だから、祥子さまが今、瞳子ちゃんをここまでさせるのにもきっとわけがある。理由はある。きっと、あるはず。
 
 (だけど、だけどっ)
 
 「あら、瞳子ちゃんは女優を目指しているだけあって惚けるのがうまいわね。わかってるでしょう、茶話会が行われる時にあなたと話をしたときのことよ。・・・・・・ああ、そうは言ってもあの時は茶話会のことについてだったわね。でも結局、今回も同じことよ。あなたは・・・」
 「いいかげんに!」
 
 がたっ!
 
 瞳子ちゃんが我慢しきれなくなったかその口を空けようかとしたそのとき、それより先に祐巳の身体が動いていた。
 
 「まっ、待ってください!」
 
 気が付くと、祐巳の身体は祥子さまと瞳子ちゃんの間に割って入っていた。気が付くと、瞳子ちゃんをさえぎるような形で祥子さまに対峙していた。
 
 「あ、あの、お姉さま。わっ、私はお姉さまの「あの時の話」が何を言ってるのかわかりません。ですから、二人の会話の内容もよくわかってません」
 「そう、なら口を挟まないで頂戴」
 「いっ、いえ、それはできません!」、
 
 祐巳の口は、考える前に答えていた。即答だった。
 祥子さまの右の眉が、不機嫌そうに左斜め上に吊り上がっていく。
 
 「分からないのに口を挟むというのね、あなたは?」
 「はっ、はいっ! そうです!」
 「そう、なら言いたいことをいいなさい。聞くだけ聞いてあげるわ」
 
 祥子さまの口調は、これ以上ないというほどそっけなかった。
 その姿を見ながら、祐巳は祥子さまに対してあることが思い浮かんでいた。とても簡単だけど、言いづらい言葉……でも、言わないといけない言葉が。
 これは口答えになるのだろうか? こんなことを言ったら祥子さまに嫌われないだろうか? 祐巳の頭の中にそのような考えがふっと過ぎる、が。
 
 (ううん、そうはならない) 
 
 そう心は判断する。いや、というよりも初めからおそらく答えは決まっていただろう。何故なら。
 
 (そうだ、自分がそれはおかしいと思うことに対してそれを指摘できなくて、どうして「最愛の姉」などと呼べるのだろう)
 
 今の祥子さまは明らかにおかしい。少なくとも祐巳にはそう見える。ひょっとしたらだけど、祐巳には思いもよらぬようなやむを得ない事情があるのかもしれない。
 
 だけど、暴言を承知で言わせてもらうけど。そんなの祐巳の知ったことじゃない。
 
 だって、どのような理由があれ親戚でもあり可愛い妹分でもあり、そしてなにより自分を「祥子お姉さま」と慕ってくれている瞳子ちゃんに「敵意」を向けさせるぐらい追い詰めていい筈がない。
 
 怒られてもいい、嫌われてもいい、間違えてもいい。
 
 そんなものは些細なことだ。いくらでも修正がきく。だって、話し合えばいいし。分かり合えばいい。むろん、そう簡単にはいかないし、元には戻らないところもあるだろう。でも、本質は変わらないと思う。
 ただ、もしこのまま怒られるのが怖くて嫌われるのが怖くて見てみぬ振りをしてしまったら、祥子さまのことを2度と最愛の姉などと呼べなくなってしまう。
 そして瞳子ちゃんに対しても、どのまぬけ顔を下げて「可愛い瞳子ちゃん!」などと言えるだろう。そんな資格は2度となくなってしまう。
 その恐怖にくらべたら、失うものの大きさに比べたら、何を恐れることがある。何を躊躇することがある。
 
 ギュッ。
 
 祐巳は人知れず、己の両こぶしをきつく握り締めていた。
 
 (いこう、わたし)
 
 祐巳のその口を大きく開き、はっきりと口にした。
 
 「お姉さまは間違ってます」
 
 と。
 
 

 
 
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