■ ドリルオーディション
      第三章『二人はイイ関係!』
 
 
 
 
 薔薇の館からの帰り道、乃梨子は志摩子さんと並んで歩いていた。
 
 (一応、みんなから瞳子の協力は取り付けられたけど)
 
 結局、すったもんだの挙句メンバーみんなは瞳子に協力してくれることを約束してくれた。 
 乃梨子は、ふう、と一つの壁を乗り越えたことで安心しようとするも、同時に早くも次の障害が出来たことに対して溜め息をついた。
 
 (はあ、どうすれば瞳子を薔薇の館に引っ張って行けるのかな)
 
 その難題は最近では明らかに薔薇の館を避けている、いや、薔薇の館のある住民を避けている瞳子をどうやって館の方へ引っ張っていくことだ。
 単純に、誰々が瞳子を呼んでいた、というのが一番簡単だし疑われそうにない。ただ、逆にわざわざ薔薇の館に呼ぶ必然性も薄いような気がする。
 
 (簡単にはいかないよね、やっぱ……それにしても、なんだろうさっきからこの嫌な気分)
 
 乃梨子にはもう一つ胸を痛めているものがあった。これはある意味ではさっきの問題に比べたらある意味簡単な問題でもあり、とても難しい問題。
 だって、それは乃梨子の心の問題だったから。
 さっきから乃梨子の心には、後悔という名の黒いもやが心を被っていた。
 
 「乃梨子、何を浮かない顔をしてるの」
 「……ううん、なんでもないよ、志摩子さん」
 
 考えに没頭していた乃梨子を現実世界に呼び戻してくれたのは、乃梨子の姉である志摩子さんだった。
 乃梨子のクラスメイトは志摩子さんのことをこういっている。志摩子さまはまるで天使のよう。あのようなお方をお姉さまにもてて乃梨子さんは幸せね、と。
 
 (何が天使のよう、だ!)
 
 乃梨子は天使というものにあまりいいイメージを持っていない。いや、むしろ悪いイメージを持っている。
 天使と救いというのは、笑うこともなく、怒ることもなく、ただ高みからあれこれと支持を出し迷える子羊を導いてくれる。笑うこともなく、怒ることもなく。
 むろん、天使のイメージは完全に乃梨子の偏見だ。だけど、クラスメイトたちは志摩子さんに対してそういう完璧なイメージを持っているのは間違っていないと思う。
 
 彼女たちは何にも分かってない。志摩子さんは天使なんかじゃない。、 
 
 乃梨子から見れば、志摩子さんは菩薩。そう、例えるなら地蔵菩薩のような存在だと思う。地蔵菩薩とは大いなる慈愛を持って冥府にさまよう魂を一人でも多く救う為、あえてその身を一人の仏もいない地獄の無仏界に置いている菩薩のことだ。
 その慈愛は天使とは違って高みからではなく、相手と同じ視点、同じ場所に立ってくれて迷えるものを救済してくれる。乃梨子にとって、志摩子さんはそのような存在。
 そして、今も。
 
 黙って並んで歩いていたところに、志摩子さんが乃梨子を驚かすことをいってきた。
 
 「後悔してるの?」
 「……どうしてわかったの、志摩子さん」
 「どうしてって、乃梨子のことはなんとなく、ね」 
 
 やっぱり、志摩子さんはすごい。何でこんなにも乃梨子のことがわかっちゃうんだろう?
 それはいつも乃梨子にとって驚くことでもあり、それと同時に物凄く嬉しいことでもある。
 だって、志摩子さんはこんなにも乃梨子のことをわかってくれているのだから。
 
 やっぱり、クラスのみんなはなんにもわかっていない。志摩子さんは絶対に天使なんかじゃない。ただ、少しだけみんなよりよりも先が見えて。みんなよりよりも他人の痛みに敏感なだけ。
 あと、もう一つ言わせてもらうなら、さらに乃梨子に対してだけその力がもうちょっと大きくなる。
 それが何より、乃梨子にとって誇らしい。
 
 「本当にこれでよかったのかな、とちょっと思ってる」
 「それは、何に対して?」
 
 何に対して?
 その言葉をいわれて乃梨子は、はっ、とした。
 初めて乃梨子は、自分は何に後悔しているのだろう、と正確に答えられない自分がいることを認識する。 
 てっきり乃梨子は、瞳子が言わないで、といったことを瞳子を助ける為とはいえ言ってしまったことによる罪悪感から来ているのだと漠然と思っていた。
 でも、違った。ううん、その気持ちももちろんあるだろうけど、根本的なところで間違っていた。
 
 根源はもっと深いところ、あまりにも心の奥底に潜んでいてさっきまでずっと乃梨子自身があえて目をそむけていたところにある。
 その闇はさっき薔薇の館で見た祐巳さまの、ただ純粋に瞳子ちゃんのために、という一生懸命な姿を見てもやのようなものが生まれ。志摩子さんの指摘のおかげで形となり。自分が親友の瞳子を見捨ててしまったことから、正しくは親友が困っているのに乃梨子は手を差し伸べなかったことに対しての罪悪感が後悔という形になって現われていた。
 
 (瞳子が「助けて」とサインを出していたのに、自分だけで背負いたくなかったから卑怯にもあれこれ理由をつけて山百合会のみんなに、さも親友が困っているから仕方なく、とまるで親友を心配してる友達思いのポーズを演じていたんだ。……しかも、みんなが瞳子を助けてくれるだろうと見越して)
 
 「……志摩子さん、自分は卑怯者だ。あの時、瞳子が助けのサインを出しているのが分かっていたのに、自分は手を差し伸べなかった。それどころか、瞳子がオ−ディションやることをみんなに伝えてほっとしてる。自分ひとりの問題じゃなくなったって」
 
 乃梨子は、唇を噛むように口にする。
 
 「乃梨子、あなたは失敗したと思ってるのね」
 「うん、今は失敗したって思ってる。あの時瞳子に初めに、じゃあ自分が手伝ってあげる、とどうしていえなかったんだろう、って」
 
 むろん、あの時はそこまで気が回らなかったというのも確かにある。でも逆に親友であるからこそ、そこは第一に、手伝う、と言うべきだったんじゃないだろうか。
 今回のことを話したとたんに「ぱくっ」と喰い付いて来た祐巳さまのように。
 
 それにしても、乃梨子はさっきの薔薇の館での話を思い出す。
 まあ祐巳さまは協力してくれるだろうとは確信してたけど、あそこまで食いつきがいいとは。まったく、瞳子も幸せ者だ。
 ……それに比べて、自分はなんて薄情な人間なんだろう。瞳子の親友なんて言う資格なんてない。
 
 (結果的には良かったかも知れないけど、そんなのは結果論じゃないか!)
 
 心の深遠に潜り込んでいくような乃梨子に対して、まるで一筋の蜘蛛の糸のように細く儚げだけに今にも消えてしまいそうだけど、絶対に上に上がるまで切れないと確信させてくれるような救いの糸が声という形に変え乃梨子の耳に聞こえてきた。
 
 「乃梨子、あんまり自分を追い詰めないで」
 
 乃梨子は、はっ、として志摩子さんの方を見つめる。でも、志摩子さんは怒りもせず笑いもせず、ただ静かにその顔にやはり菩薩のような笑みを携えていた。
 
 「あなたが瞳子ちゃんを見捨てたと思って、自分を追い詰めるのは仕方ないのかもしれない。でもね、あなたは間違いなく瞳子ちゃんのことを大切に思っているわ。そして、おそらく瞳子ちゃんも乃梨子のことを」
 「でも、志摩子さん」
 
 乃梨子が頭を振るかのように言うと、志摩子さんはゆっくりと両手で抱擁、というにはあまりにもそっと乃梨子の背中の方に手を触れてきた。でも、その両手は軽くても志摩子さんの心は温かくそして乃梨子の負の気持ちを洗い流してくれるように包んでくれる。
 
 「わっ、し、志摩子さん」
 
 乃梨子が慌てることなどお構いなしに、ほんの軽くだけど身体を引き寄せてくれた。
 
 「乃梨子 まだあなたは瞳子ちゃんのことが好きと言える?」
 「……うん、それだけは間違いよ、志摩子さん」
 「なら、瞳子ちゃんだってきっとわかってくれるわ」
 
 乃梨子が黙って俯いていると、志摩子さんは乃梨子に魔法を掛けてくれた。
 
 「……だってわたしはあなたのことをよく知っているから。二条乃梨子がどういう子かって、だから大丈夫よ」 
 
 その言葉を聞いた瞬間、さっきまであんなに乃梨子の心を被っていた幾重にも「負」というオーラで重なって出来た暗雲は、温もりのある「慈愛」という名の日光によって全て吹き飛ばされていた。
 乃梨子が思わず顔を見上げると、そこには志摩子さんという名の乃梨子にとっての太陽がもう夕暮れだというのに眩いばかりに輝いている。
 
 「……うん、わかったよ、志摩子さん」
 「ごめんなさいね、私は饒舌ではないし、お姉さまと違って不器用だからこういう接し方しかできないの」
 
 違うよ、志摩子さん。志摩子さんにしかできないんだよ。乃梨子をこんな気持ちにさせてくれるのは。
 志摩子さんは確かに不器用なのかも知れないけど、間違いなくこれから先も乃梨子はも困った時や迷った時、かけがえのない優しさに触れ、そのたびに優しさを力に代えていくらでも頑張れるんだよ。
 だめだ、もう我慢できない。
 
 えいっ!
 
 「志摩子さん!」
 「きゃっ、や、やめなさい、乃梨子!」
 「やめない、大好き! 志摩子さん」
 「……も、もう」
 
 志摩子さんは顔を赤くして困惑しながらも、乃梨子を突き放そうとはしなかった。
 もう、大丈夫だ。うん、もう大丈夫。
 よし、待ってろ、瞳子。嫌でもあんたを薔薇の館に引っ張ってやるんだから。
 
 

 
 
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