■ 愛、しあう?
    六話『愛、しあう?』
 
 
 
 
 朝の目覚めは、胸板への軽い衝撃だった。
 
「ん……」
 
 声を押し殺しながら薄っすら目を開くと、外からはズシャと雪が落ちる音がした。
 ――ああそうだ。今は旅行中だったと、やがてはっきりしてくる視界と頭で考える。
 
「……あ」
 
 しっかりと目を開いたところで、祐麒は目の前の光景に息を飲んだ。
 およそ十センチも離れていないという距離に、由乃さんの顔がある。ぼんやりとした光の中の寝顔は神々しくて、思わず見入ってしまう。
 
「すー」
 
 祐麒を起したのは、胸板に当たった由乃さんの手であったらしい。裸の胸に、小さな手がのっている。
 重なり合った太ももと、腕にのしかかる胸。確かめるまでもなく、直に伝わってくる体温は裸同士であることを教えてくれる。
 
(しちゃったんだよな……)
 
 しちゃったと言うか、できたと言うべきなのか。ボケッとそんなことを考えながら、由乃さんの寝顔を眺める。
 ふっくらとした唇に、柔らかそうな頬。伏せられた濃い色の睫が、朝日を鬱陶しげにして揺れている。笑っている顔や怒っている顔も可愛いけど、安らかに眠る顔も由乃さんに似合っていた。
 ずっと見ていたい。そう思いながら、起さないように優しく髪を梳く。むにゃむにゃと動く唇が愛らしい。
 
「うー……ん」
 
 だけどその願いも虚しく、由乃さんは目をしばたたく。開き掛かった目で祐麒を捉えると、突然首に腕を回してきて――。
 
「んぅ、ちゅ……っ」
「んんっ!?」
 
 何故か、唇を捕らえられる。おはようのキスにしては、深くて激しい。
 たっぷりと十秒以上は口内を味わった後、由乃さんはちろりと舌を抜き取った。
 
「由乃?」
「え? ……あっ」
 
 祐麒が瞳を覗き込むと、由乃さんは今目が覚めたかのようにまなじりを開く。そしてどうしたことか、視線を彷徨わせて赤面した。……これは一体どういう状況なんだろう。
 
「えーと、その……」
「……どうしたの?」
「あのね、さっきまでしてる夢みてたから、それで……」
「あ……。そ、そう……」
 
 由乃さんはそう言うと、恥ずかしさからか祐麒の鎖骨あたりで顔を伏せた。それがいじらしくて、祐麒はまたそっと髪を梳く。
 枕元の時計を見れば、七時半を過ぎたところ。朝食は八時にくるはずだから、それまでは少し時間がある。
 
「ねえ、祐麒」
「うん?」
 
 暫くしてから由乃さんは、不意に顔を上げた。
 
「子供できてたらどうする?」
「――由乃」
 
 そんな直球な、と祐麒は眉間を押さえた。それでも相変わらず毎朝のスタンディングオベーションは収まらないのだから、何だか複雑な気分である。
 
「でも俺、まだ結婚できる年齢じゃないよ」
「あ、嬉しい。結婚できたら、してくれるんだ」
 
 由乃さんはこれ以上なく可愛らしく笑うと、祐麒の胸板に指先で何かを描く。それは何だったのか分からなかったけど、気持ちは伝わった気はした。
 ふと、空想する。由乃さんに振り回されて、由乃さんを宥めて、そして彼女が笑ってくれる未来。さりげなく、健気な一生懸命に、微笑みを溢す日々。それは想像するだけで、幸せに心が満たされるような未来予想図だった。
 
「でもさ、私たちってやっぱり早かったのかな」
「早いって?」
「初エッチまで」
「……ああ」
 
 今更だけど、確かに早いとは思う。もしお正月の時に最後までしていたら、きっともっと早かった。
 
「でも、それだけ私たちは早く進んで行っているってことだよね?」
 
 同意を求める声に、祐麒はその意味を噛み砕く。
 
「……うん。由乃のこと、もっと好きになれたよ」
「うん、私も」
 
 そう言って軽く唇を触れ合わせれば、凍り付くような冬の朝に温もりが宿る。そうしてじゃれ合っているうちに、時計は七時五十分を回ろうとしていた。
 
「そろそろ着替えよ」
 
 由乃さんはもぞもぞ動くと、トンと祐麒の肩を押した。
 
「由乃?」
「……えっと、着替え見られるの恥ずかしい」
「それで、俺に布団から出ていけと?」
「うん」
「俺だって恥ずかしいし、寒いよ」
「えー、レディーファーストでしょー」
 
 笑ったまま由乃さんは、「えーい」と身体を回転させた。そうすると布団を剥ぎ取られることになるわけで、祐麒は全裸で冬の空気に晒される。
 
「うわ、寒っ」
 
 身震いをして、脱ぎ捨てたままだったトランクスを穿く。それからシャツ、浴衣と手早く身に付ける。暖房の効きが弱い。
 祐麒が帯まで締めて由乃さんの方を振り返ると、彼女はまだ布団にくるまったままだった。その姿を見て、「ああ、着替えじゃなくて『服を着る』の間違いだな」と思った。
 
「由乃、服着ないの?」
 
 祐麒は冷たい空気の中に投げ出された不遇に関係する一切の文句を飲み込んで、由乃さんに尋ねた。由乃さんはもぞもぞと布団から顔を出し、その近くには脱ぎ散らかした下着一式がある。
 
「あのね、一度脱いだ下着は着たくないの」
「はぁ、そう言うものかな」
「だって、……湿ってたら嫌じゃない」
「……」
 
 その言葉に、祐麒は何も言えなくなる。湿らせた原因は、祐麒にあるのだから。
 
「由乃の鞄、取ってくるね」
「……うん、お願い」
 
 居間に通じる襖を開けると、部屋に端に置いてあった鞄を持ち上げる。もしここで意地悪して渡さなかったら、由乃さんはどうするのかな、なんて、仕様もないことを考える。
 
「はい」
「ありがと」
 
 鞄を受け取ろうと手が伸ばされた拍子に由乃さんの裸が見えたけど、祐麒は何も言わなかった。
 
 

 
 
 由乃は朝食についてきた生のトマトジュースを飲み干すと、はぁと息を吐いて窓の外を見た。
 雪は、止んでいる。新雪が目に眩しくて、すっと目を細める。
 
「さて、何しようね」
 
 こんな山奥だから、観光する場所なんてない。だからと言って予定より早く出るのも、何だか勿体ない気がするのだ。
 
「由乃は、することあるでしょ?」
「え?」
「ほら、令さんに贈るマフラー」
「あ、うん」
 
 そうだ、まずあれを完成させないと。忘れていたわけじゃないけど、祐麒君がそう言うなら雰囲気を気にせずに編める。
 鞄から編み物道具一式を取り出すと、祐麒君は元の座椅子に戻ろうとする由乃の手を引いた。え、と戸惑う由乃を引き寄せ、腰を抱いて祐麒君の前に座らされる。二人同じ方向を向いたまま、祐麒君の足の間に腰を下ろしたということだ。
 
「祐麒?」
「このままじゃ、できない?」
 
 祐麒君は由乃の後ろから囁きかけると、お腹の前あたりで腕を組む。やり難いけど、できないこともない。
 
「どうしたのよ、急に」
「どうせボケっとしてるんなら、こうしていた方がいいかなって」
 
 祐麒君は由乃のことを甘えん坊だって言ったことがあったけど、それは由乃を甘やかすからだと思う。けどこんな風に甘えられると、やっぱり断れないわけで。
 由乃は「ヘンなことしちゃダメだからね」と言って、そのまま編み物を始める。昨日のうちに結構進んでいたから、もうすぐ完成だ。
 
「ねえ、祐麒」
「うん?」
「見ていて楽しい?」
 
 由乃は編み棒を繰りながら、振り向かずに訊ねた。祐麒君は、由乃の肩に顎を触れさせて答える。
 
「楽しいよ。一生懸命な由乃は可愛い」
「……よくそんなこと、朝っぱらから言えるわよね」
「さっき言ったでしょ。前よりもっと、由乃のことが好きになったからだよ」
「……ばーか」
 
 そういうこと、どうして真顔で言えるのか。由乃はなるべく過剰な反応はしないようにマフラーを編んでいると、祐麒君は耳元で「照れてる由乃も可愛い」と言った。
 
「あのね」
 
 恥ずかしがらせて、それで楽しんでいるというのが癪で。由乃が文句を言おうと振り返ると、祐麒君は磁石みたいに自然に、唇と唇と近づけた。
 
「何?」
 
 唇を離すと、祐麒君は由乃の瞳を覗き込む。無邪気な視線に、毒気が抜かれる。
 
「……私も、好き」
「うん」
 
 いくら言葉を捜しても、そんな台詞しか出てこなかった。本当にどうしようもなく、好きなんだなぁと思う。
 由乃は気持ちを新たにしてマフラーに向き合うと、「よしっ」と小さく声に出して見た。それを聞いていた祐麒君は何も言わずに、由乃を抱き締める腕に力を込める。
 
「ねえ、祐麒?」
 
 本当に、後もう少しでできるマフラー。出来上がる前に、どうしても訊いて置きたいことがあった。
 
「どうしてああいうことするの、『愛しあう』って言うのかな?」
「……どうして、か」
 
 今更考えるけど、本当にどうしてなんだろう。
 本能からくる衝動を、「愛」なんて綺麗な言葉で隠しているのかも知れない。それとも愛し、愛されたいと願うことこそ、本能なのだろうか。
 きっと、これからもずっと解明されないことだ。哲学家や精神科の人間が何を言っても、自分の信じた答えこそが真実。そして、祐麒君の答えはというと――。
 
「きっと、お互いのことしか考えられなくなるからじゃない?」
「え?」
「愛するっていうのはさ、定義の上じゃ『相手を唯一の大切なものと認め、いつくしんだり、心惹かれたりすること』でしょ。……してる最中は本当に由乃のことしか考えられなかったし、つもりそういうことなんじゃないかと思う」
 
 そう、酷く真面目な声をして言った。つまり、相手のことしか見えなくなるから、愛しあっていると言うんだと。
 それはすごく単純で、分かりやすい。だから由乃は、静かに頷いてから言った。
 
「じゃあ、私たちは今だって愛しあっているよね?」
「え……?」
 
 由乃は編み物の糸始末を終えると、毛糸球を片付けた。マフラーが完成したのだ。
 
「私は今、祐麒のことしか考えられない。きっと学校が始まっても、授業中とか絶対に考えちゃう」
「……うん。それは俺もだよ」
 
 その答えが嬉しくて、由乃は身体を祐麒君に預ける。もたれ掛かって、身体を密着させる。抱き締めてくる腕が優しくて、愛しくて、これが幸せなんだなぁ、って思った。
 
「ねえ、見て」
 
 由乃はできたばかりのマフラーを広げ、窓から漏れる光へと掲げた。
 ベビーピンクの、祐麒君にあげたものよりちょっとだけ出来のいいマフラー。雪の反射で強くなった光は、マフラー越しに柔らかく二人を包む。
 ピンク色の光の中、祐麒君は「上手く出来たね」と笑ったから、由乃も「うん」と頷いて微笑んだ。
 
 

 
 
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