■ 紡いだ絆の温かさ
    番外編『耽溺する二人だけの世界』
 
 
 
 
『私、祐麒君と付き合うことにしたから』
 
 現在、夜。こんな時間になってもリフレインするのは、今朝聞いた親友の一言だ。
 十二月二十五日の今日、祐麒は昨日に引き続いて帰りが遅い。もっとも、誰と出かけているかなんて、訊かなくても分かることだけど。
 祐麒は、由乃さんと出かけているのだ。今日は別にどこにも行かないって言っていたのに、由乃さんから電話がかかってきたら出かけちゃうんだから、それは間違いない。何よりあの軽い足取りは、男友達と会う時のそれではなかった。
 
「付き合うことにした、か」
 
 由乃さんは祐麒のことが好きって言っていたし、祐麒も由乃さんに気があるようだった。だからいつかはそうなるんだろうと思っていたけど、こんなに早く実現するとは。
 だから二人が付き合うこと対してはそれほど驚いていない。予想外に早い展開だったけど、昨日のクリスマスイヴにくっついたと。そういうことだ。
 それについて、祐巳は祝福するべきなんだろう。由乃さんの親友として、また祐麒の姉として。
 しかし、どこか完全にそうできない自分がいる。男女交際についての是非とか、そういうものじゃなくて、何かがひっかるのだ。何だかこういう気持ち、前にもなったことがある。
 
「……あ」
 
 思い出した。今、はっきりと。
 この気持ちは、祐麒が花寺の生徒会長だったと知らされた時と似ている。どうしてそんな重要なことを話してくれないのっていう、一種の不満。
 
(どうしてくれよう)
 
 一度ならず二度までも。お節介だったとは分かっているけど、何回お膳立てしたと思っているんだ。一番に報告しなさい、とまでは言わないけど、何も教えてくれないのは酷いんじゃないのか。
 
「ただいまー」
 
 そうこう考えているうちに、祐麒が帰ってきたようだ。声色に幸せが滲み出ているのが、祐巳の中を渦巻く疎外感を加速させる。
 階段を上る音がした後、続いて扉が開閉する音。きっと今頃、ベッドでもんどり打ちながら幸せを噛みしめていることだろう。でもそれには、忘れていることがあるんじゃないのか。
 
「祐麒」
 
 だから祐巳は部屋をでて、祐麒の部屋の扉をノックした。何、と声が返ってきたから、ゆっくりと扉を開ける。
 部屋に入って見てみれば、流石にベッドで悶えているということはなかった。コートをハンガーにかけ、勉強机用の椅子に座っている。
 
「何か用?」
「何か用、って……」
 
 あくまでシラを切り通す気か。それも祐麒の頭の中には、『お付き合いすることを報告』という選択肢がないのかも知れない。
 
「なんだよ。用もないのに来たのか」
 
 無愛想な声。電話口で由乃さんと喋るときの優しい声色とは、随分の差じゃないか。
 それにちょっとムッとした祐巳は、薄情な弟にささやかな意地悪をすることにした。
 
「……俺は由乃さんが由乃さんだから好きになった」
「は……。おい」
「由乃さんじゃなきゃダメなんだっ!」
「祐巳。おまえどこでそれを、……って由乃しかいないよな」
 
 由乃。
 ああもう呼び捨てなワケだ、と祐巳は理解した。まさか親友である祐巳が、弟に先をこされるとは。
 
「うん。今朝由乃さんにノロけられちゃった。……で、その『愛しの由乃』と付き合うことになったってことを、どうして私に教えてくれないかな」
 
 祐巳は祐麒のベッドにちょこんと腰を下ろして、溜息を吐いた。まったく、薄情な弟を持つというのはやるせないよ、と。
 
「だって、言うのなら由乃から言うと思ってたし。それにもしかしたら、まだ周りに知られたくなかったかも知れないだろ」
「まあ、それはそうだけど」
 
 それを理由にされると、ちょっとキツい。あくまで由乃さんの為、となると、あまり文句も言えないのだ。
 
「あんたさ、尻に敷かれてるでしょ?」
「……敷かれてない」
「嘘」
「本当だっての。それに敷かれてたって構わない。振り回されるのには慣れてるし」
 
 なるほどね、と祐巳は思った。由乃さんの行動に対し、祐麒は全て受け入れちゃうと、そう言っているわけだ。
 
「ねえ、由乃さんのどこが好きなの?」
 
 顔か、仕草か、それとも性格か。祐巳が期待に満ちた目で見ていると、祐麒は期待以上の答えをくれた。
 
「全部だよ。悪いか」
「あは、照れてる」
 
 恥ずかしそうに言うその姿は、我が弟ながらちょっと可愛かった。
 なるほど、全部。それは重畳だ。
 
「……祐巳さ、令さんと同じこと訊くんだな」
「え? 令さまと?」
「ああ、今日由乃の家に行った時に訊かれた」
 
 ……ということは、由乃さんは祐麒を『彼氏』として令さまに紹介したわけだ。
 これでお姉さま公認のお付き合い。流石由乃さん、行動が早い。
 
「まあ、これでお互いの姉公認の仲ってわけね。うんうん」
 
 祐巳は腕を組んで、善き(かな)と頷いた。これで堂々と付き合えるわけだ。もっとも、新聞部には知られない方がいいだろうけど。
 
「由乃さんは独占欲強いから、浮気は絶対NGだよ」
「分かってる。しないって」
 
 そもそも浮気相手がいないだろ、と祐麒は肩の力を抜く。ここで「柏木さんは?」とか言ったら、もの凄く嫌がるんだろうな。
 そんなことを考えながら、祐巳はすっくと立ち上がった。言いたいことはもう言ったから、退散だ。
 
「最後に一言」
 
 祐巳は後ろ手で扉を開けながら、祐麒の方を見て言った。
 
「……大事にしなさいよ」
「当たり前だ。大事にする」
 
 そう言った祐麒の目は力強くて、男らしくて。
 祐巳は初めてみる弟の顔に、ほんの少しだけドキッとした。
 
 

 
 
「うわーっ」
「え?」
 
 祐麒は由乃さんの大声に、ハッとなって横を見た。
 正月の某日。喧騒に包まれた境内は、一人の少女の大声なんかにはビクともしない。
 
「由乃、どうかした?」
「見て。小吉が出ちゃったのよ」
 
 由乃さんの手元を見れば、開かれたばかりのおみくじが握られている。
 一緒に初詣にきて、参拝して、おみくじを引いて。そしてあの大声はその直後のことであったわけだが、見てみれば何てことはない。ただの小吉ではないか。
 
「それがどうして『うわーっ』なのさ」
「だって、目標中吉以上だったんだもん。悔しい」
 
 おみくじに、目標。それはなんとも場違いな。
 それはともかく、往来の多いおみくじ売り場の近くで何だかんだと言っていては邪魔になるだろう。そう思って祐麒は由乃さんの肩を抱いて、道の端に寄る。彼女はまだ不機嫌だ。
 
「ほら見て。俺も小吉。お揃い」
 
 お揃いを強調して言ってみたけど、由乃さんはまだ唇を尖がらせて眉間に皺を寄せている。
 
「小吉じゃ困るのになぁ」
「なんで?」
「だって、初めて二人で引くおみくじなのよ。幸先よく、せめて中吉以上じゃないと困る」
「別に困らないって」
 
 祐麒が「ヘンなところにこだわるなぁ」と笑うと、由乃さんは「けど」と続けた。
 
「まあお揃いなら、ある意味幸先いいのよね」
 
 そう言って由乃さんはニッコリ――とまではいかないが、何とか眉間の皺を取ってくれた。
 冷たい北風に長い髪を揺らしながら、由乃さんは自分のおみくじを熟読する。すると次に、祐麒のおみくじを覗き込んだ。
 
「あ、同じ小吉でも番号が違うと内容も違うんだ。ねえ、恋愛のところはなんて書いてある?」
「俺のは『積極的に行動すべし』、だって」
「私のは『焦りは禁物。相手の出方を見よ』、だって」
 
 それぞれ読み上げると、目を合わせて笑った。何とも二人の性格から外れた結果というか。いや、積極的に行動できないわけではないけど。
 
「ねえ、積極的にだって」
 
 由乃さんは期待に満ちた目で祐麒を見上げながら、胸板をポンポンと叩いてくる。由乃さんが何を求めているのかなんて、訊かなくても分かることだ。――しかし、それにはここは騒がしすぎる。
 
「……帰ってからね」
「うん。じゃあ早く帰ろう」
 
 言って由乃さんは、祐麒の手をグイグイと引いていく。狛犬が笑っているように思えるのは、気のせいなのか。
 
(『大事にしなさいよ』、か)
 
 由乃さんに追いつくように歩幅を広げながら、祐麒は姉の言葉を反芻した。
 そんなの、当たり前だ。これからは、誰よりも由乃さんを大切にしなければならないのだ。泣かせちゃいけないし、幸せにしなきゃいけない。それが簡単なのか難しいのか分からないけど、それは遂行すべきことだ。
 だから、とりあえず。
 祐麒は今年の抱負を『由乃さんを大事にすること』にしようと、そう思った。
 
 

 
 
「……んっ」
 
 由乃がベッドに座って祐麒君を見上げると、空から口づけが降ってきた。
 ……いや、ここは祐麒君の部屋の中なのだから、正確には空は見えないのだけど。
 
「……お茶、淹れてくるから」
 
 数秒のキスの後、祐麒君はマフラーを丁寧に畳んで置いてから部屋を出て行く。本当に突然のキスだったから、頭が少しぼんやりした。
 
(やられた)
 
 まさか今年最初のキスが祐麒君からで、その上不意打ちだなんて、本当に。
 しかしまあ、由乃の方からするより祐麒君の方からの方が嬉しいし、小吉のおみくじも捨てたものじゃない。
 全体運、『運気は足踏み状態。気持ちが焦っても身体はついていかない』。金運、『実入りが良くとも、計画性が大事』。仕事運、『大きな機会があるが、先走ると失敗の危険』。健康運、『概ね良好。旅行などで気分転換するとよい』。そして恋愛運、『焦りは禁物。相手の出方を見よ』。
 先手必勝が座右の銘である由乃にとっては、ちょっと従い難い内容だ。『気持ちが焦っても身体はついていかない』というのも気に食わない。……しかし、祐麒君の方のおみくじは当たっているから、ちょっとは信じてもいいかなと思う。
 
「はー」
 
 余韻に浸るように足をプランプランとさせていると、かかとがベッド下の引き出しに当たる。以前に祐麒君の部屋に来た時、ちょっとした事件を起してくれた引き出しだ。
 
(まさか、まだ入ってるんじゃないでしょうね)
 
 流石に彼女に見つかってるんだから、隠し場所は変えると思う。しかし、開き直ってそのままという可能性もあるわけだ。
 確かめようか、どうしようか。少し迷ったけど、結局由乃は引き出しを開けて見ることにした。前は本の内容まで見ていなかったから、一体どういう本なのかというのも気になる。
 
(失礼します、と)
 
 心の中でひっそりと呟くと、由乃は引き出しを開けた。そしてどんどん本を掘り起こしていけば、あるではないか。前と全く同じところに。
 これはもう、開き直ってるんだろうなと思う。もしくは他に隠し場所がないのか。……それはともかく、由乃は本の内容を見てみることにした。純粋な好奇心として、祐麒君の性的な趣味というのはどういうものなのか、由乃は知っておくべきだと思ったから。
 ドキドキする気持ちとか、妙な背徳感は勿論ある。しかしこれでも、男性の性については理解しているつもりだ。剣客小説でも、よくそういうシーンが出てくるし。
 
「……うわ」
 
 しかし開いた瞬間、そう声が漏れてしまった。どこの書店でも置いてあるような成年向け雑誌なんだから中身の予想ぐらいできていたけど、実際見ると結構ショックが大きい。
 まさかこんなポーズを、由乃にしろというのか。残念ながら由乃は、この雑誌に載っているようなセクシーな体型ではないというのに。
 
(それにしても)
 
 こういう雑誌を持っているのを改めて認識すると、やっぱり祐麒君は男の子なんだなと思う。考えてみれば、祐麒君はあまりにも男臭さがなかった。それが由乃の感じる安心に繋がっているわけだけど、祐麒君だって年頃の男。本来なら、もっと慎重に接するべきだったのだろう。
 しかし、付き合いだした後だとそうも言っていられない。だって、いつこの雑誌の中のような事態になってもおかしくないし、それは恋人同士なら自然な成り行きだ。そう考えれば、故意ではないにしろ祐麒君を押し倒したりするのは、かなり大胆な行為だったと言える。
 
(こういうコトをしたいから、こういう本を持っているワケよね)
 
 別に自分の身体にコンプレックスを持っているわけではないけど、由乃はこんなに凹凸のある身体ではない。男は女なら誰でも、なんて話はよく聞くけど、祐麒君もそうなのだろうか。それだったら悲しいけれど。
 しかし、そもそもだ。
 由乃はこういう行為に関してどうなんだ、という話である。漠然と婚前交渉を持つことになるんだろうな、とは思っていたけど、そういう姿を想像したこともないのだ。というか想像するしないの問題ではなく『想像出来ない』し、勿論『抱かれたい』なんて思ったこともない。
 
「……由乃」
 
 ふとそこで、祐麒君の声がした。
 
「えっ? ……あ」
 
 しまった。本やら考えごとやらに集中しすぎて、階段を上ってくる音に注意を払うのを忘れていた。これでは雑誌を仕舞うことすらできやしない。
 祐麒君はお盆を持ったまま、扉の前で固まっている。一体どう思っていることだろう。自分の部屋で、成年誌を読む女の子を。
 
「――祐麒」
 
 もうこの際だから、開き直ることにした。今更恥ずかしがっても遅いだろう。これは直接訊く、いいチャンスだと思った。
 
「祐麒もこういうこと、したいと思う?」
「なっ……」
 
 由乃は雑誌をひらひらとかざしながら問いかける。対する祐麒君は思い出したように動きを再開し、お盆をテーブルの上に置いた。
 
「そ、そりゃしたいと思うけど」
「けど?」
「由乃がいいって言うまで、しない」
 
 由乃が、いいって言うまで。……つまりそれは、由乃次第ということだ。
 祐麒君の目を見ると、決してギラギラはしていない。そういうところを見ると、由乃は祐麒君でよかったな、と思う。目をギラギラさせて迫ってこられたら、きっと拒絶していたに違いない。
 
「私次第、ね」
 
 由乃は祐麒君が隣に腰掛けるのを横目に見ながら、実に厄介だなと思った。
 いっそのこと「させてくれないの? 恥ずかしいの?」とでも挑発してくれたら、「何よ出来ない訳ないじゃない」と乗ることができたかも知れないのに。……あくまで、『かも』だけど。
 それにしても、考える時間というのは本当に厄介だ。
 思えば心臓の手術だって、小学校の頃から嫌がって、それがずっと続いて高校生になってから手術という運びになったのだ。臆病風に吹かれてそのままずるずるというのは、去年までの轍を踏むことになってしまう。
 
「……祐麒」
 
 由乃は紅茶を含んだ祐麒君の頬に、そっと手を添えた。
 大丈夫、こうして触れ合うことに嫌悪感はない。腰を抱かれたり、さっきみたいに肩を抱き寄せられたりするのは、むしろ嬉しいぐらいだ。恋人同士だからこそそう出来る、というのが大きいのだろうけど。
 
「私は、……いつでもいいよ」
 
 由乃がそう言うと、祐麒君は紅茶を吹きそうになりながらも、それを飲み込む。
 貞操観念が欠如しているわけではない。祐麒君以外の男に気軽に触られようものなら、鳥肌が立つに決まっている。
 それでも『いい』と思えるのは、相手が祐麒君だから、という理由に他ならない。決して強要せず、由乃のことを汚い目で見たりしないのだから。
 
「そうよ、今すぐだって大丈夫なんだから」
 
 幸い今福沢家に誰もいないのは確認済み。機会としても悪くないし、勢いというのも大事なのではないかと思う。
 その場の雰囲気に流されて、とかではなく、決心した勢い。祐麒君なら大丈夫という、絶対の信頼と許容。そういうものが活きているうちに、うじうじと悩み出す前にした方がいい。
 
「……由乃」
 
 けれど、祐麒君は。
 
「気持ちは嬉しいけどさ。もっと自分を大事にしなよ」
 
 祐麒君は、頬にそえられた由乃の手を握った。
 
「……大事?」
 
 大事にするって、それは貞操のことか。
 もちろんそこはリリアンに通う乙女。純潔を守ることが大事であるぐらい分かっているし、簡単に許したつもりもない。ちゃんと相手を見極めた上で言っているのだ。
 
「これでも私、人を見る目はあると思うんだけど」
「そうじゃなくて、ちょっと早いんじゃないかってこと」
「じゃあ、もっと時間を置いてからならいいって言うの?」
「そう……かな。今は由乃が、俺の為にそう言ってくれてるんじゃないか、って思えて」
「……」
 
 祐麒君の言葉を、脳で噛み砕く。残念ながら由乃の答えは、祐麒君の為になんて献身的な気持ちから算出したものではない。
 
「じゃあ訊くけど。その時間っていうのは、何の為に必要なの?」
「そりゃ……」
「相手を見極めるためでしょ? だったら私はずっと前から祐麒を見ていたじゃない」
 
 最初は祐巳さんの弟として、次に男の子として、次に恋人として。
 そうやって、ずっと見てきた。どういう人間なのか、観て、話をして、触れ合って理解してきた。夏休みに初めて姿を認めた時からもう四ヶ月以上も経っていて、今更時間も何もないだろう。
 
「どこまで相手を許すのか、どこまで踏み込ませていいのか、そういうことを考える時間でしょ。それなら十二分にあったじゃない」
「由乃……」
 
 どうしてこうも、もどかしいのか。由乃の決心が鈍る前に、それを聞き届けてくれればいいのに。
 祐麒君は由乃の手を握ったまま動かない。由乃の前の紅茶は、湯気の勢いを弱めている。見詰め合ったまま、何も進展しない。
 
「祐麒――」
 
 由乃は、不意打ちでキスをした。これで、少しでも祐麒君の心が動いてくれればいいと。
 静かに唇を離し、抱き付きながら額を肩に当てる。ここまでしても分かって貰えないかな、と心配していると、祐麒君の手が背中に回ってきた。
 
「……分かったよ」
 
 背中に回された手が肩まで上ってきたかと思うと、突然ベッドに押し倒される。ぐるりと世界が回って、部屋の照明が網膜を刺激する。
 
「本当にいいんだよね?」
「……うん」
 
 由乃はそう返事をして、身体をベッドの中心に移動させた。もう覚悟は決めた、という意思表示だ。
 ベッドがギシリと軋んで、照明が祐麒君の輪郭を描く。覆いかぶさられるのは二度目だけど、今までにないほど胸が高鳴った。
 
「――んっ、……ぅ」
 
 祐麒君の頭が近づいてきて、自然に唇が交わる。
 ディープキスは、不思議だ。
 舌と舌が絡み合えば、途端に世界を二人だけのものに変えてしまう。もっと沢山のものが見えていたはずなのに、相手のことだけしか見えなくなる。感じられなく、なる。
 
「……はぁ。んぅ……っ」
 
 侵入してくる舌に絡みつき、唇をなぞる。唇を唇で甘噛みして、閉じそうになる口を舌でこじ開けて。祐麒君の頭を抱き寄せ、もっと深くへと繋がりを求める。
 キスを交わしながら、由乃の首の裏を撫でていた手が下りてきた。ゆっくりと肩口を這い、鎖骨を撫で、やがて乳房へと到達する。
 
「あっ……」
 
 セーター越しに、祐麒君の手が胸を掴む。優しく、けれど意外なほど淫靡な動き。
 こういう時、男が女の胸を揉むものだとは認識しているけど、何が楽しいのだろう。一言で言えば、由乃の胸は痩せているというのに。
 むず痒いような感覚を覚えながら、深いキスが終わる。どちらのものとも言えない唾液が、お互いの唇に橋を作っていた。
 
「――由乃」
 
 やがて胸を揉む動きを止めた手が、セーターの裾を掴む。それに由乃は、ぴくりと身体を震わせた。
 
「……脱がすよ」
「あ……。じ、自分で脱ぐ」
 
 寝転がったままじゃ、服は脱がし難い。そう思って由乃は軽く祐麒君の身体を退けると、身を起こした。なんだかちょっと雰囲気を無視しているというか、間抜けかなと思いながら。
 セーターを脱ぎ捨てると、祐麒君と目が合う。……ジロジロ見られているのは、やっぱり恥ずかしい。
 
「な、なんでそんなに見るのよ」
「なんでって、そりゃ……」
「……いいから、むこう向いててよ」
 
 由乃はクイと祐麒君の顔の向きを修正した。どうせ見られるにしても、一挙一動に注目されるのには抵抗がある。
 ボタンを外しながら、一体どこまで脱げばいいんだろうと迷う。
 下着まであと一枚。そんな時に、祐麒君はプルプルと顔を震わせながら言った。
 
「そ、そろそろ顔の向きを戻していい?」
「あ、うん」
 
 そう言えば、祐麒君の顔はぐるりと方向を変えたままだった。祐麒君も律儀にそのままの状態になっているんだから、これじゃまるでコントだ。
 祐麒君はゆっくりと顔の位置を戻すと、当然の如く由乃を正視する。下着姿まではあと一枚残っている、そんな状態をどう思うだろうと考えていたら、不意に抱き寄せられる。
 
「……ぁ、んむ……っ」
 
 再開される、深いキス。その途端に二人だけの世界に引き戻される。
 由乃を抱き寄せた手は背中を下り、シャツの裾を掴む。舌を絡ませあいながら、肌が露出されていく感覚。人前に下着姿を晒すという羞恥はあったけど、その行為は自然に受け入れることができた。
 
「はぁっ……」
 
 唇を離すと、由乃はバンザイをして脱がされるままになる。
 上半身だけ下着姿になった由乃の肩に両手を置いて、祐麒君はまじまじとその姿を見た。その目はいやらしい目つきとかじゃなくて、純粋な凝視。胸元を覆い隠してしまいたかったけど、するりと下りてきた手がそうさせてくれない。
 
「ゆう、き……!」
 
 何かを言おうとした唇が、また塞がれる。由乃が抗議代わりに柔らかく祐麒君の唇を噛むと、一瞬逃げる唇。啄ばむようにし直されたキスで、舌が由乃の口内へと侵入してくる。
 由乃の乳房に添えられた手は、キスと比例して激しくなっていく。ブラジャーの上で蠢くそれは、揉むと言うより揉みしだくと言った方が正しいような動き。
 
「あっ……!」
 
 その手が乳房の頭へと標的を移した時、自分でも聞いたことがない声が漏れた。
 その時になって、やっと理解する。胸を揉むというのは決して男性の満足のためだけではなく、女性を悦ばせるためでもあるのだと。
 本当に、不思議な感覚だ。ピクリと身体が震えて、背筋がゾクッとする。身体に電流が走るような、そんな錯覚。漠然と、これが気持ちいいってことなんだろうなと思った。
 
「由乃」
 
 そう言って祐麒君は、由乃をベッドに押し倒す。それが少しだけ、怖いという気持ちをノックした。
 祐麒君の舌は由乃の口内を舐めまわすのをやめ、首筋へと移る。それが鎖骨、乳房へと落ちていくのと同時に、乳房を揉みしだいていた手が太ももへと移った。
 
「や……っ」
 
 スカートをめくりながら這ってくる手に、由乃は身を捩った。拒絶する必要なんてないのに、身体が拒んだ。
 
「……分かった」
 
 祐麒君はそう呟くと、スカートから手を抜き取る。そしてその手は由乃の頭を撫で、やがてブラジャーのホックへと辿りついた。
 さっきまで乳房の上の辺りを彷徨っていた祐麒君の舌は、まだ鎖骨の方へと戻る。そして、音もなくホックが外され――。
 
「ただいまー」
 
 そんな声が、階下から聞こえた。
 
 

 
 
 ああ、ここまでなんだな、と。祐麒はそう理解した。
 
「……由乃」
 
 祐麒は由乃さんに覆いかぶさるのを止め、身を起こす。眼下にある光景は確かに性欲を刺激するものだったけど、家族が帰宅した今ではこれ以上続けることはできなかった。
 
「……早く服を着て」
「うん……」
 
 由乃さんは小さく呟くとブラジャーのホックを直し、服を着始める。名残惜しい気持ちはあったけど、もう世界は二人だけのものじゃない。第三者の介入によって、耽溺していた世界は消えたのだ。
 ふぅ、と息を吐くと、身体に張り巡らされていた緊張の糸が解ける。
 まあ、自業自得かなと思った。祐巳に「大事にする」って言ったクセに、結局流されて。無理にそうしなかったのは、せめてもの救いだった。無理矢理するつもりなんてないけど、もし情動に任せてそうしていたら、今頃凄い自己嫌悪に襲われていただろうから。
 
「ねぇ、祐麒」
 
 振り返れば、すでに服を着た由乃さんがそこにいる。もう肌は晒していないというのに、まだ恥ずかしそうに顔を俯けていた。
 
「やっぱり、おみくじに従うべきだったのかな」
「え?」
「ほら、恋愛運のところ」
 
 由乃さんの差し出したおみくじに書かれているのは、恋愛運、『焦りは禁物。相手の出方を見よ』。
 それを言ったら、祐麒だってそれを守らなかったことになる。行為に至るまでは、お世辞にも積極的だったとは言えないのだから。
 
「そもそも、境内の木に結んでこなかったのがいけなかったのかもね」
「あ、何それ。それじゃさっさと帰ろうとした私が悪いみたいじゃない」
「違うって」
 
 恥じらいの表情から一転して怒りだした由乃さんを、髪を梳くように撫でる。それで少しは溜飲を下げたのか、由乃さんはちょこんと祐麒の隣に腰掛けた。表情はまだ少し怒ったままなのに、そういう行動をするところが凄く可愛かった。
 
「ああもう。中途半端ー」
「……しょうがないよ」
 
 由乃さんは両手を祐麒の左肩にのせると、その上に頬をのせてユラユラと揺れる。
 その柔らかな揺れにに身を任せながら、祐麒はポケットの中でおみくじを握った。
 
 これからどうするべきなのか、どうやって由乃さんを愛しがっていくべきなのか。
 祐麒は思考の海を泳ぎながら、階段を上ってくる軽い足音をただ聞いていた。
 
 

 
 
目次  あとがき
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