■ 紡いだ絆の温かさ
    番外編『今日はChristmas』
 
 
 
 
 十二月二十五日。
 世間ではクリスマスだなんだと騒がしい日であり、祐麒にとってみれば冬休み最初の日。
 
「……」
 
 そんなクリスマスの午後一時に、祐麒は一つの門の前で佇立していた。
 ――ここはどこか?
 島津家の前である。
 ――何故ここにいるのか?
 それは由乃さんから電話で呼び出されたからである。
 
『おはよう。起きてた?』
 
 祐巳に「電話だよ」と起された午前十一時。モーニングコールは由乃さんからだった。
 何故午前十一時まで寝ていたかと言えば、それはモーニングコールの主のことを考えていたら明け方まで眠れなかったせいで。それだというのに由乃さんは、昨日の調子の悪さなんて吹き飛ばすように明るい声で、邯鄲(かんたん)の枕から一気に覚醒させてくれたのだ。
 
『……おはよう。寝てたけど、今やっと起きた』
『何それ』
 
 由乃さんは「ふふっ」と笑って、「起しちゃってごめんね。それで、今日家に遊びにこない?」と。
 祐麒は「ははっ」と笑って、「もちろん。それじゃあ何時ぐらいに行ったらいい?」と。
 そんな感じで、島津家訪問が決定した。
 
「……」
 
 祐麒は門をくぐると、多少の緊張を抱えながらチャイムのボタンを押す。由乃さんを家に送ったことはあったけど、家に上がらせてもらうのは初めてだ。チャイムを鳴らした後にご両親が出てきたらどうしようかと思ったけど、まさかピンポンダッシュするわけにはいかない。
 
「はーい」
 
 ととと、と軽く階段を下りる音がして、聞き間違えようのない声がする。そして間もなくして、開く玄関。
 
「いらっしゃい、祐麒君」
 
 開いた玄関の向こうから祐麒の姿を視認すると、由乃さんは昨日の発熱なんかなかったかのように笑顔を見せてくれる。
 それが本当に可憐な笑みで、見慣れているはずなのにドキっとした。本当に心底、由乃さんに惚れているんだなと思う。
 
「お邪魔します」
「あ、ちゃんとマフラー巻いてきてくれたんだ」
 
 祐麒が靴を揃えて上がり框にあがると、由乃さんはマフラーに手を添えて言う。
 
「そう言う由乃さんは……」
 
 リボンをしていない。サラサラのストレートヘアを、首の動きに合わせて躍らせている。服も外行きというより普段着なのか、極普通のプリーツスカートに黒のハイネックセーターという出で立ちだ。
 
「あ、うん。だって汚れたら嫌だし」
「……まあ、気持ちはわかるけどさ」
 
 それじゃ贈った意味がない。そう言うと由乃さんは、「じゃあ祐麒君と出かける時だけ使う」と言った。
 そんな何気ない一言が、ぐっとくるほど可愛い。――なんて、部屋へと案内してくれる由乃さんの背中を見ながら思う。
 
「あ、両親は留守だから安心してね」
 
 由乃さんは階段を上りながら、祐麒の方を振り返って言う。一々訊くべきことじゃないと思って訊かなかったけど、それならそれで安心だ。やはりいきなり親御さんとご対面というのは、付き合いたてには辛い。
 
(……あれ)
 
 そこでふと、違和感に気付く。果たして今の関係は、付き合っていると言っていいのだろうか。
 確かにお互い好きあっていることは確認できたけど、「付き合おう」とはどちらも言っていないのだ。
 どうしよう、訊いておくべきか。でも、なんて言って切り出したらいいものか。祐麒がそう悩んでいると、階段を上りきった由乃さんはこげ茶色の扉を開けた。ここが由乃さんの部屋らしい。
 
「どうぞ、入って」
 
 そう言われて、祐麒は恐る恐る部屋へと入る。アイボリーの壁紙に、これまたこげ茶色の本棚。部屋の隅にはセミダブルのベッドがあって、割と広い。どのぐらい広いかと言うと、部屋の真ん中に炬燵(こたつ)を置いて、さらにそこで令さんがくつろいでいてもまだ余裕があるぐらいだ。
 
「おはよう、祐麒君」
「おはようございます。……って、何で?」
 
 思わず、そう口にしていた。だって、目を擦っても何をしても、そこに令さんの姿があるのだから。
 
「何で、って。お姉さまに改めて紹介でしょ」
 
 なるほど、ご両親に挨拶の代わりにお姉さまに挨拶か。それは何ともリリアンらしい。――祐麒がそう思っていると令さんは渋そうに紅茶を飲み干し、「まあ座りなさい」と炬燵の掛け布団を叩いた。
 
「……失礼します」
 
 祐麒がそう言って炬燵に潜ると、由乃さんが隣に座る。三人を線で結んだら、二等辺三角形になるような構図だ。
 
「では、改めて報告します」
 
 ピンと背筋を伸ばした由乃さんは、ハキハキとした声で言った。
 
「私たち、付き合うことにしました」
 
 ああ、もう付き合っているっていうことでいいんだ。と、祐麒は心の中で頷いた。
 対する令さんは、「うん」と返事をする。声色は賛成とも反対とも言っていない。
 
「祐麒君。由乃の言っていることに違いはないわよね?」
「はい。不束者ですが、由乃さんとお付き合いさせて頂くことになりました」
 
 祐麒は丁寧に頭を下げると、令さんは「ふっ」と笑った。ちょっと硬すぎただろうか。
 
「ところで、まだ『さん』付けと『君』付けなの?」
「え?」
「ほら、付き合い始めたのなら、呼び捨てなりあだ名なりで呼び合うものじゃない」
 
 言われて見れば、その通り。すると由乃さんは、すっと祐麒の袖を引いて言った。
 
「……祐麒」
「よ、由乃……」
 
 何だか呼び返さなきゃいけない気がして、少々どもりながら由乃さんを呼び捨てにしてみる。由乃さんの顔が俯く。
 
「あーダメ。やっぱり恥ずかしいっ」
 
 由乃さんは祐麒の袖を引いたまま、ブンブンと上下に振る。嬉し恥ずかしというやつなんだろうけど、それを見た令さんは溜息をついて呆れていた。
 
「ま、今のままの方が初々しい感じはするけどね」
 
 令さんは苦笑しながらそう言うと、「さて」と区切り直す。
 
「由乃、祐麒君のお茶は?」
「うん。今淹れてくる」
 
 令さんの言葉に、由乃さんはすいと立ち上がる。そして部屋を出る間際、令さんの方を振り返って言った。
 
「飛びっきりのお茶を淹れてくるから、十分ぐらいはかかるかも」
「うん。分かった」
 
 令さんが頷いたのを見ると、由乃さんは部屋を出て行く。
 いや、紅茶を入れるのに十分もかかるか? と考えていると、令さんがコホンと咳払い。気が付けば、部屋に二人っきりだ。
 
「さて、祐麒君」
 
 そこまできて、やっと理解する。由乃さんは、わざと二人で話す機会を設けたのだ。どちらの提案だったのか、知る由もないが。
 さてどうくる? と祐麒は身構えた。順当に考えると、「由乃をよろしく」だろうか。
 
「由乃を泣かせたら許さないからね」
 
 ――いや、そうきたか。
 祐麒はその言葉に、引きつった笑いを浮かべた。そりゃよろしくするなんて分かりきっていることだけど、まずそっちからくるとは。それだけ由乃さんが大切なんだなぁ、と、しみじみ思う。
 
「まあ、祐麒君ならそんなことしないと思うけどね」
「はい。それは」
 
 何せ付き合いたてだ。浮気心なんてあるはずもないし、由乃さん以上に可愛いコがいるとも思えない。
 
「で、どこが好きなの?」
「へ……?」
 
 令さんは難しい顔を解くと、興味津々といった具合に目を輝かせる。見た目は怖気づくほどの美青年風だというのに、こういう表情をみると女の子なんだなと思う。
 
「全部、……って答えじゃダメですか?」
「模範解答だけど、それだと面白くないな。もっとここが可愛いとか、あるでしょ?」
「ここが可愛い……ですか。やっぱり顔、可愛いですよね」
「うん」
「あと、性格も。猪突猛進のようで繊細で、猫みたいに気ままなところも可愛いっていうか」
「なるほど、猫ね。そういう部分も可愛いって思えるなら安心だ」
 
 そう言うと令さんは、本当に嬉しそうに微笑んだ。
 きっと由乃さんを褒められるだけで、素直に喜べるのだと思う。それだけ由乃さんと令さんの絆は深いのだと、本当によく分かった。
 
「ところで」
 
 令さんは、組んだ手の上に顎をのせて言った。
 
「由乃の唇の味は、何味だった?」
「……は?」
 
 何でキスしたこと知っているんだ、この人は。
 祐麒は当惑しながらも考える。由乃さんから聞いた可能性が考えられるが、何せ二世帯住宅のような島津・支倉家のことだ。どこかで見ていたという可能性も、なきにしもあらず。
 
「――言わなきゃダメなんですか?」
「あ、っていうことはしたんだ」
「……」
 
 しまった、墓穴掘った。花寺の連中が言うところの『天然ボケ』が、ここにきて炸裂してしまった。
 
「で、どんな味だったの?」
「い、言えません」
「祐麒君、早く由乃と二人っきりになりたいでしょ?」
 
 そう言って令さんは笑う。まさかずっと由乃さんの部屋に居座りつづけるわけじゃないだろうが、どこまで冗談か量り知れない。
 
「教えてくれたら、後で出来たてのケーキをお届けするんだけどなぁ」
 
 ――ということは、いずれ退散するつもりなのではないか。令さんはよっぽど由乃さんの唇の味が気になるらしい。
 しかし令さんのケーキというのは、中々惹かれるものがある。祐巳も『令さまお手製のお菓子は絶品』と賞賛していたし、それだけ美味しい物を由乃さんと食べられるということは、今の祐麒にとって非常に魅力的な提案なのだ。
 
「……由乃さんには、絶対俺が漏らしたことを言わないで下さいね」
「もちろん」
「その、……涙味でした」
 
 祐麒が言った瞬間、部屋の扉が乱暴に開いた。
 
「ちょっと、何で言うのよ!?」
 
 ――お茶を淹れに行ったはずの由乃さんが、何故ここに?
 そう思っている最中にも由乃さんは、ポットから紅茶が零れるんじゃないかというぐらいの勢いで祐麒に詰め寄る。
 顔を真っ赤にして睨みつけてくる表情も可愛い――なんて言ったら、由乃さんは怒るだろうか。
 
「あーもう、信じられないっ。祐麒君のバカっ」
 
 由乃さんはガチャリとポットをテーブルの上に置くと、炬燵ではなくベットに座り顔を背ける。令さんは、無責任にもお腹を抱えて笑っていた。
 
「いいね、祐麒君。由乃に『バカ』って言われれば一人前だ」
 
 令さんは一頻り笑うと、そう言って立ち上がる。どうやら退室するらしいが、それにしては置き土産が大き過ぎやしないだろうか。
 
「頑張ってね。由乃と付き合っていく上では、機嫌の直し方も知っておかないと」
 
 令さんは祐麒の肩をポンポンと叩いて、部屋を後にする。残されたのは二人っきりの空間。しかし、祐麒の望んでいた状況と百八十度ぐらい違っていた。
 
「……由乃さん」
 
 一人だけ炬燵に入るわけにもいかず、祐麒は由乃さんの隣に腰を下ろした。そっぽを向いたままなのは、赤くなった顔を見られたくないからなのか。
 
「ごめん。デリカシーがなかった」
「……」
「本当に反省してる。許してよ」
「……にゃー」
「え……?」
 
 祐麒が両手を合わせて謝っていると、由乃さんは突然そう言った。それは猫の鳴き真似をしているとかでは全然なくて、もの凄く機嫌の悪そうな声で言ったのだ。わざとらしく「ぶー」と言うのと似ている。
 
「どうせ私は猫なんでしょ。どうせ気ままにしか生きられないもん」
 
 しまった、聞かれていたか。しかしあの会話を聞いてきたと言うことは、随分早くから話を聞いていたということになる。恐らくティーポットにお湯を注いですぐ部屋の前にきて、それから待機しているつもりだったのだろう。
 
「ねえ、由乃さん」
「……にゃー」
 
 祐麒が何を言っても、由乃さんは「にゃー」と返す。キスの味のことを責めてこないということは、猫呼ばわりされたことが不満らしい。
 
「ごめんってば」
「にゃー」
 
 しかし、由乃さんは分かっていない。いくら不満そうな声であるとは言え、どうしたって可愛さが目だってしまうのだ。
 
「……そういうところが好きって言ってるじゃんか」
 
 祐麒はそう呟いたけど、由乃さんは「にゃー」とは返さなかった。その代わりにバッと振り向き、まるで猫が獲物を捕らえるように――。
 
「ん――!?」
 
 キス、してきた。
 驚いて身を引いてしまったが為に、唇を合わせながら押し倒される格好になる。倒れた拍子に唇がずれ、柔らかい感触が頬を撫でていく。
 
「ど、どうしたのさ、急に」
「気ままなところが好きなんでしょ?」
 
 由乃さんは祐麒の両脇に手をついて、瞳を覗き込んでくる。
 それを言われると、頷くしかない。惚れたもん負けというヤツだ。
 
「あとね、キスぐらいで照れないでよ」
「どうして?」
「一々照れていたら、したい時にできないじゃない」
 
 由乃さんはそう言うと、祐麒の胸に頬を寄せた。自分で言っておいて、照れているのかも知れない。
 何だかんだで、一応許されたと思っていいのだろうか。――というか、今のこの状況は何なんだ。
 
「あー!」
 
 しかし祐麒の思考は、由乃さんの大声で遮断される。由乃さんはバッと起き上がると、祐麒に覆いかぶさったまま顔の位置を合わせた。
 
「……何?」
「私、祐麒君の方からキスして貰ったことない」
 
 そう言って祐麒を覗き込む目は、やはり真剣。由乃さんの長い髪が視界を埋めて、世界が黒く沈む。
 
「い、今すぐしろと?」
「できないの?」
 
 できない、――なんて言えるはずもない。事実、できないはずがないのだ。
 見詰めてくる瞳が、不安の色をのせる。そんな目を、させてはいけないから。
 
「好きなら、できないはずないよね?」
「……当たり前だろ」
 
 言って、身体を回転させる。さっきとは正反対に、祐麒が由乃さんに覆いかぶさる格好。これじゃまるで祐麒が押し倒したみたいだと思ったけど、今更改まって姿勢を正すのも間抜けだ。
 ――ヘンな気は起すな。
 自分にそう言い聞かせて、唖然と祐麒を見上げてくる由乃さんと視線を交わす。さっきまで祐麒の視界を覆っていた茶色がかった髪は、乱れ広がっていた。
 
「――由乃」
「うん……」
 
 今度は恥ずかしがらずに、名前を呼び捨てる。
 そっと閉じられる目蓋と、微かに震える睫。柔らかそうなピンク色の唇が、何かを言おうとしたまま閉じられている。
 
「――」
 
 ゆっくり顔を寄せ、距離が限りなくゼロに近くなったところで目を閉じる。唇を、落とす。
 柔らかく温かい感触の中、涙の味はしない。相変わらず触れ合わせるだけのキスで、味もなにもないのだが。
 
「……ん」
 
 ――そっと唇を離そうとすると、祐麒は頭を抱かれていることに気が付いた。やんわりと後頭部に掛けられていた力が、離すまいと強くなる。唇が、離せない。
 
「……ぷはっ」
 
 やっとのことで唇と離すと、由乃さんは不満そうな目で祐麒を見詰めてくる。
 
「どうしてすぐに離したがるのよ」
「そんな長くするものでもないじゃんか」
「えー。ドラマとかじゃもっと長くしてるのに」
 
 ……それはこういうキスではなく、もっと深いキスである。
 由乃さんは「もういい」と言うと、祐麒の身体を横にどけた。呆れられたか? なんて心配していたら、由乃さんはさっきと同じように覆いかぶさってくる。
 
「そういうキスは、嫌?」
 
 祐麒の顔を映す瞳が、請うように訊いてくる。この瞳には、振り回されっぱなしだ。祐麒の辞書から、『嫌』という言葉を消してしまう。
 答える代わりに由乃さんの背中に腕を回すと、愛らしい顔が飛びっきりを笑みを浮かべた。そして顔を近づくにつれ、目蓋が下りていく。
 
「――」
 
 先に唇を開いたのは、どちらだったろう。浅いキスから深いキスへと移行する瞬間は、唇が解け合うかのような感触だった。
 由乃さんの舌が祐麒の唇の裏を撫で、歯茎に当たる。恐る恐る侵入してくる舌に負けじと舌を這わせると、それに驚いたのか由乃さんは顔を引いてしまった。
 
「……何か、恥ずかしいね」
「うん……」
 
 由乃さんの頭を抱き寄せると、また深い口づけが再開される。今度は触れ合っても恥ずかしがらずに、舌と舌で挨拶を交わした。
 お互いの舌がぐるりと円を描くように絡み合い、由乃さんの唾液を味わう。顔を傾けて、もっと奥へ。お返しとばかりに由乃さんの口内へと舌を侵入させると、向かえてくれるはずの舌は一瞬逃げ、思い直したようにまた絡み合う。
 もう拙いとは言えない、お互いを求め合うようなキス。互いの味を、熱を、想いを確かめ合うような、そんなキス。胸板に当たる由乃さんの胸の感触が、否も応もなく欲望の鎌首をもたげさせる。
 
「……っはぁ」
 
 やがて離れる、唇と舌。ぬらりと光る、唾液の糸。
 ――けれど、ここまでだろう。
 由乃さんが欲しくないと言えば嘘になる。でもそんなものは好きという気持ちに付随するものだ。
 どこかの著名人は、好きという気持ちこそ抱きたいという本能に付随するものだと言ったが、祐麒はそれを否定する。由乃さんは、欲望なんていう負の言葉で以って穢されていい存在じゃない。
 大切にしたいと思う気持ちこそ、本当の好きなんだと、そう思う。腰の疼きは事実としてそこにあるけれど、男の(さが)として受け入れよう。理性で押さえられないレベルじゃない。
 
「ふふっ」
 
 ディープキスがそんなに愉快なのか、由乃さんは祐麒に覆いかぶさるのを止めると、ベッドに寝転がった。
 
「これだけすれば、普通のキスなんて恥ずかしくないよね?」
「そりゃ、まあね」
 
 祐麒はゆっくり身を起こすと、由乃さんも同じ動作で起き上がる。
 そしてさっきの言葉の証明とばかりに、祐麒の方から唇を合わせた。
 
「私の好きなことの一つはね」
 
 唇を離した後、由乃さんは幸せそうに微笑んで言った。
 
「今まで願っても出来なかったことをすることなの。だから」
 
 そこまで言って、今度は由乃さんの方からのキス。本当に軽く、柔らかい接吻。
 
「何回キスしても、いいよね?」
 
 真摯で、それでも少しだけ照れている頬で、由乃さんは言う。それが悶えそうなほど愛らしくて、肩を抱き寄せて唇を奪った。
 
「いいよ。何回でもしよう」
「……うん」
 
 由乃さんの髪を梳きながら、今度はどちらともなく唇を合わせる。
 啄ばむ様に、何度も。けれど飽きなんて全然来なくて、呆れるぐらいキスを降らせる。
 言の葉にはのせきれないほどの『好き』という気持ちが、伝わるように。
 
 

 
 
「あー、美味しかった」
 
 由乃は令ちゃんのケーキを食べ終えると、後ろ手をついてそう言った。
 テーブルには空になったお皿が二つ。そのお皿には、ほんの少しだけホイップクリームが残っている。
 
「本当、お店で買ってきたみたいだ」
 
 フォークとお皿の立てるカチャリという音が聞こえて、視線を祐麒君の方に向ける。祐麒君は左隣で、由乃と同じように後ろ手をついていた。
 そこでふと、祐麒君の唇についた白いものに気付く。ケーキののっていたお皿とお揃いで、ホイップクリームが残ってしまっているのだ。
 間抜けだと思うより、可愛いと思う。いつもしっかり由乃を支えてくれるけど、こういうところを見るとあどけなさが先だつ。事実から見ても、祐麒君は年下の男の子なワケであるし。
 
「祐麒」
 
 名前を呼び捨てると、由乃は祐麒君との距離を詰めた。祐麒君の頭に左手を添えると、由乃が何をしようとしているのか察したんだろう。祐麒君の方からも、少しだけ顔を寄せてくれた。
 しかし、そう想像通りに行くと思ってはいけない。由乃はキスすると見せかけて、舌先で唇についたホイップクリームを舐め取った。
 
「よっ、由乃さん!?」
「祐麒、呼び方が戻ってる」
「いや、そう言う問題じゃなくて」
「何? 私は猫なんでしょ?」
 
 由乃が「祐麒の唇はホイップクリーム味」と言って笑うと、祐麒君は照れているのか視線を泳がせる。人をきままな猫だなんて、正直に言ってくれちゃったのだ。すぐには忘れてあげない。
 それからもう一度だけ軽く唇を押し当て、由乃は元の位置に戻った。
 
「さて、そろそろかな」
 
 由乃が窓を見ると、外はもう暗くなり始めている。
 
「何がそろそろなの?」
「うん。暗くなったら、イルミネーションを見に行かない?」
「イルミネーション? でも由乃さん、病み上がりでしょ」
「昨日のは病気じゃないの。それにもう熱はないし。……それと、また呼び方が戻ってる」
「……急には慣れられないって」
 
 祐麒君はそう言うと、由乃の額に手を置く。熱がないことを確認したのか、「うん」と頷いた。
 
「本当に、風邪とかじゃないんだよね?」
「見ての通り。咳きだってしてないでしょ」
 
 由乃はそう言うと、炬燵から出て立ち上がった。サイドの髪だけ三つ編みにして、祐麒君から貰ったリボンを結う。
 
「本当に行く気なんだ」
「当たり前でしょ。昨日見にいけなかったんだもん。それに今日行かないと、見れないのだってあるんだから」
 
 由乃がジャケットの袖に腕を通すと、祐麒君は「しょうがないな」と言って立ち上がった。
 その言葉に、少しだけ不安になる。振り回して、呆れられたらどうしようと。――そんな、一抹の不安。
 
「どうしたの?」
 
 けれどコートを着込んだ祐麒君は、優しい表情で笑っている。綻んだ目元が、由乃を許してくれる。
 ――このままじゃ、祐麒君に甘えっぱなしになりそうだ。
 由乃は部屋の扉を開けながら、そう思った。
 
 
 
 
 T駅に着いた頃には、すっかり夜の帳が下りていた。
 昨晩ほどはいないだろうけど、そこかしこにカップルの姿が見える。きっと昨日会えなかったか、クリスマスという日を最後まで楽しもうとしているカップルなのだろう。
 
「……」
 
 行き交う人の流れに身を置いていると、左手に触れてくる手があった。ふと視線を祐麒君の方へ向ければ、彼はそっぽを向いている。
 
「ふふっ」
 
 今まで、由乃の方から手を繋いでばかりだったから。だからそれが、本当に嬉しく思えた。
 手を握り返して、イルミネーションスポットへの道をひたすら辿る。言葉がなくても、それだけで気持ちは温まった。
 
「えーっと、ここだっけ?」
「うん。ここでいいはず」
 
 駅から少し歩いたところにある広場に着くと、周りを見渡す。まだ光ってはいないものの、無数の電飾が辺りの木々に巻かれている。ここで間違いないはずだ。
 まだかなー、なんて言いながら、握ってくる手に指を絡ませる。広場の両脇を通る車道から、車のライトがちらつく。
 
「寒いー」
「うん」
 
 左手だけじゃなくて、右手も祐麒君の腕に絡ませる。祐麒君の肩におでこをのせて目を閉じると、祐麒君は空いている左手で由乃の髪を撫でくれた。
 まったく、いつからこんな甘えたがりになったのだろう。令ちゃんと同じように気軽に触れ合いたいと思っていたから、その反動なのかも知れない。
 
(早く()かないかな)
 
 することがないから、キスでもしてしまおうか。辺りも暗いことだし。
 そんなことを考えていると、周囲が「うわぁ」という感嘆の声を上げる。目を開けて見れば、イルミネーションに光が灯ったところだった。
 
「……綺麗」
 
 残念ながらイルミネーションは、思わず「うわぁ」なんて声を出してしまうほど想像を超える光景ではなかった。それでも素直に、心の底から綺麗だと思える光が、冷たい夜に突き刺さっている。
 繋いだ手に力を込めると、握り返してくる温もり。様々な色と形の電飾が幻想的な世界を創り出しては、泡沫のように消えていく。
 
「ねえ、祐麒」
 
 頬を切るような風が吹いて、身体を祐麒君へと預ける。右手で、マフラーを撫でる。
 
「このマフラーの誕生秘話、教えてあげよっか?」
「……うん」
「えっとね。これが祐麒で、これが私」
 
 由乃はマフラーに使われている毛糸の繊維を摘んで、祐麒君に見せた。
 
「こんな風に一緒になって、こんがらがりそうになりかけても規則的に交差して、最後はきっちりまとまっている。何したって解けない絆みたいになっていればいいな、って、そう思いながら編んだの」
「……そっか」
 
 言いながら恥ずかしくなってきて、視線は祐麒君の顔から胸元へと落ちる。すると祐麒君は何を思ったのか、一度マフラーを取った。そしてすぐ、二人の首にそれが巻かれる。ちょっと長さが足りていない感じ。
 
「だから、こんなに温かいんだね」
 
 祐麒君は軽く由乃に唇を落としてから、幸せそうに微笑した。ふわりと両手が腰に回されて、抱き寄せられる。
 
「――祐麒」
 
 今日はクリスマス。
 相変わらず寒いだけで雪は降らない、奇跡みたいな出来事も起こらない、キラキラと輝く夜。
 大昔にキリストが降誕した、そんな日に――。
 
「愛してる」
 
 たった一つの愛が、産声を上げた。
 
 

 
 
目次  あとがき
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