■ 二人のdistance -後編-
 
 
 
 
『さて、次はどこに行こう?』
 
 それを議題にショッピングモールをぶらぶらしている時、その人に気がついた。
 少しだけラフな感じを出したカジュアルスーツに身を包み、カフェの柱に背を預け、携帯電話で話している一人の女性。肩で切り揃えられた髪と、怜悧さをもった雰囲気。見覚えがある、なんてものではなく、その人の名前は――。
 
「蓉子」
 
 そう、蓉子さま。聖さまは蓉子さまの電話が終わるのを確認すると、片手を上げて近づいていく。当然、祐巳の肩を抱いたまま。
 
「聖? それに祐巳ちゃんまで」
 
 蓉子さまは目を大きく見開いて、二人を交互に見る。こんなに驚いている蓉子さまって、始めて見たかも知れない。
 
「や、久しぶりね。蓉子は一人?」
「いいえ、大学の友達と」
 
 蓉子さまが振り返った窓際の席には、三人の女性がお喋りををしながらこちらを窺っていた。主に、聖さまの方を。
 
「なるほど」
「それにしても、祐巳ちゃん」
 
 蓉子さまは祐巳の方に向き直ると、二つに縛った髪の房の片方を撫で、少しだけ悲しそうに目を細めた。
 
「変わったわね」
「え? えっ?」
 
 突然話題の矢面に立たされて、困惑する。何だ、祐巳はそんなに外見的に変わったんだろうか? それも、蓉子さまを悲しませるような方向に。
 
「それとも、元からこういう趣味だったの?」
「あの、……何のことを言っているんでしょう?」
「そのフリフリのスカート」
 
 ああ、と心の中で手を打った。
 ストッキングを穿いてから忘れていたけど、祐巳はひらひらでフリフリの、ミニと言ってもいいぐらい短いスカートを穿いているんだった。一部が透けているようなスカートをリリアンの生徒が、ましてや紅薔薇のつぼみ(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)と呼ばれる祐巳が穿いているんだから、そりゃ蓉子さまも驚くだろう。
 
「蓉子さま、これはですね――」
「知らなかったの? 祐巳ちゃんはこういうキャピキャピした服が大好きなんだよ」
「ちょっ、聖さま! 違うんです、これはさっき聖さまに買って頂いた服なんですっ」
「……とりあえず、また聖が祐巳ちゃんで遊んでいることだけは分かったわ」
 
 蓉子さまは額を抑えて、苦笑を漏らす。何とか状況は理解して貰えたらしい。
 
「あんまり祐巳ちゃんに構い過ぎて、祥子にやきもきさせないでやってちょうだいね」
 
 背を正した蓉子さまは、聖さまに向き直って言った。
 
「うーん、それは約束できないなぁ。祐巳ちゃんは私の天使さんだし」
「天使さんって……」
 
 祐巳が天使なら、蓉子さまは女神さまか何かだろうか。――なんて、無為に考える。
 紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)として考えうる限り最高の仕事をして、卒業していかれた蓉子さま。祐巳が紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)としてそれと同じ仕事ができるかと言ったら、それは無理だろう。一年の時、薔薇さまたちに感じていた『完璧超人』のような雰囲気は今も健在で、イニシアチブを握る人としての格を思い知らされる。
 
(……って、また同じこと考えてる)
 
 聖さまはきっとそんなつもりで言ったはずじゃないはずなのに、また未来のことを想像して気落ちしてしまった。将来の紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)としてこんなんじゃダメだとは思うけど、思考をセーブしたりもできないから、本当厄介だ。
 
「それじゃ、またね。祐巳ちゃん」
「あっ、はい。ごきげんよう」
 
 気がつくと、蓉子さまはお友達のところに戻る段になっていた。いつの間にそんな話になっていたのだろう。
 
「祐巳ちゃん? ぼーっとしてるけど大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
 
 そう言って浮かべた笑顔は、きっとぎこちなかったと思う。
 それでも「そっか」と言って笑って頭を撫でてくれる聖さまは、やっぱり優しい。
 それは今考えられる限りの、祐巳への優しさだった。
 
 

 
 
 それから行く当てもなくモールでウインドウショッピングをしていると、映画の上演時間が近くなったので移動した。
 日曜日の道は思った以上に込んでいて時間をくったけど、映画は公開して日も経っていると言うことからか、映画館は思ったより空いていた。
 
「うわ、私こういうの苦手かも」
「……そうなんですか?」
 
 席に着いて映画のパンフレットを見ながら、聖さまは渋い顔を作る。映画というのは中世のヨーロッパを舞台にした、いわゆるラブロマンスなのだ。
 
「寝てよっかなぁ」
「ダメですよ。後で映画の感想聞きますからね」
「うへぇ、祐巳ちゃん厳しいなぁ」
 
 自分からデートに誘っておいて、その間に寝ているなんて言語道断。聖さまが寝ていると判断したら手の甲をつねるという約束をすると、間もなく映画が始まった。
 
 
 
 映画を簡単に説明するとこうだ。
 ジェリカとアンリ、そしてスコットとアリオは親友同士。ジェリカとスコットは恋人同士で、アンリとアリオもそう。しかしジェリカとアリオは親同士が決めたフィアンセで――というところから始まる物語。
 四人が自らの置かれた不遇に立ち向かい、世間に対して足掻く様子はシリアスな中に笑いの要素も混じっていて、素直に面白かった。
 しかしこの映画は、後半になると途端に色を変える。
 ジェリカとスコットは想い合ったまま、アンリとアリオも想い合ったまま、ジェリカとアリオの政略結婚が成立してしまったのだ。そして結婚から暫くした後、スコットとアンリは示し合わせ、ジェリカとアリオの屋敷へと赴く。そしてスコットはジェリカの窓に赤い石を投げ込み、言う。
 
「ジェリカ。君が今幸せではないのなら、どうかその石を投げ返しておくれ。そして僕と一緒に逃げ出そう」
 
 アンリはアリオの部屋に青い石を投げ込み、また言う。
 
「アリオ。貴方は今の状態に満足しているの? もし私に少しでも未練があるのなら、その石を窓から落として。そして遠くへ行きましょう」
 
 しかしその石は投げ返されることはなく、スコットは西へ、アンリは東へと、肩を落として歩いて行く。
 一方屋敷に残った二人はそれぞれ石を握り締めたまま、涙にまみれたキスした。石を握る手が震えているのが、印象的なラストだった。
 
 

 
 
「私、あのラストだけは納得いかないですよっ」
 
 赤い絨毯と木製の椅子。クリーム色の壁に、少しだけ雑多な雰囲気のレストランの中。
 
「そうかなぁ。アレもアレでありだと思うけど」
 
 ディナーの席で、祐巳は唾を飛ばさんばかりに熱弁を奮っていた。それはもう、デザートのグラニタ・ディ・カフェ・コン・パンナ(コーヒーと砂糖、チョコシロップを凍らせ、クラッシュしたもの)を吹き飛ばさんばかりに。
 
「アレもありって、どういう風にですか?」
「世の中どうにもならないこともある、ってこと」
「でもそれじゃ、ラブロマンスじゃないですよぉ」
 
 そう、だから祐巳は不満なのだ。祐巳はラブストーリーはハッピーエンドが一番だと信じている。それだからあのやるせないラストには、何が何でも不満なのだ。
 
「たまには写実なラブロマンスもいいんじゃないの。視聴者をやるせない気持ちにするのが目的の映画なら、あれは成功してるってことだし。あ、そのデザートちょっとちょうだい」
 
 聖さまはひょいと手を伸ばして、祐巳の前におかれたコン・パンナから一口分さらっていく。おいしーい、って笑う聖さまは、きっと祐巳の言うことなんか話半分に聞いているんだろう。そう思うと、一気に頭がクールダウンした。一人相撲は、あんまりにも虚しい。
 
「ま、映画一つでそこまで盛り上がれる祐巳ちゃんが見れたんなら、私としてはいい映画だったけどね」
 
 映画一つ、とは簡単に言ってくれちゃうものだ。映画のことばかり考えて、折角のディナーでよばれたボンゴレロッソも美味しいとしか記憶できていない人間が、ここにいるというのに。
 
「さて、次は夜景を見に行こうね」
「あれ、まだ帰らないんですか?」
 
 腕時計に視線を落とすと、時刻は十九時過ぎ。今から帰って、ちょうどいいぐらいだ。
 
「心配しないでも、さっき祐巳ちゃんの家に連絡入れておいたから大丈夫」
「根回し万全ですね」
「当然。祐巳ちゃんとのデートに、私が手を抜くとでも?」
 
 聖さまはにししと笑いながら言う。たぶん家には、お手洗い行くと言って席を立っていた間にしたんだろう。本当に、何からなにまでエスコートが上手い。
 
「じゃあ私は、最後までお付き合いするべきですね」
「そうこなくちゃ」
 
 聖さまが席を立つ。
 合わせて立とうとして目の前に出された手に、祐巳は恭しく手を重ねた。
 
 

 
 
 車を走らせること約三十分。港区のとある公園に着いたのは、二十時を回ろうかという頃だった。
 
「うー、寒っ」
 
 冬も真っ盛りの今、風通しのよい公園は寒い。だと言うのに、周りには夜景目当てと思わしきカップルが何組かいた。祐巳たちのように真冬でも夜景を見たいと言う人は、少なからずいるようである。
 
「それにしても夜景を見るのもデートコースのうちなんて、結構本格的なんですね」
 
 公園の端を歩きながら、祐巳は呟く。吐く息は真っ白。電灯の光も、海を横切る水上バスも白く輝いている。
 
「今ちょっと後悔してるけどね」
「あはは……」
 
 その上愛想笑いまで白々しいときたもんだ。白に温度を設定するとしたら、きっと低い温度になるに違いない。
 海に面した公園に、また風が吹く。それに身を縮こまらせてながら歩いていると、聖さまが急に立ち止まった。
 
「ここらへんでいいかな」
 
 聖さまは海の方を身ながら言う。祐巳も真似して海の方を見てみると、冷たい風の向こうにお台場の夜景が広がっていた。光り輝くレインボーブリッジと、今まさにその下をくぐろうとしている水上バス。聖さまは寒い寒いとぼやきながらも、ちゃんと夜景のよく見えるスポットを探していたのだ。
 
「綺麗……」
 
 その光景に、素直に嘆息する。
 うん、デートを締めるのには最適な選択だったな、って。寒さも忘れてそう思う。割と近くに住んでいるくせに港区の夜景を見るのは初めてだったから、心からその光景を楽しめた。
 
「気に入った?」
「……はい。凄く」
 
 冷たい空気も、澄んだこの雰囲気を出すためだと思うと、何だか我慢できそうだ。何も喋らずにただ夜景を眺めていると、ふと隣から聖さまがいなくなっていることに気付いた。
 
「あれ? 聖さ――」
「祐ー巳ちゃんっ」
「わうっ!?」
 
 どこに行ったの? って視線を巡らせようとしたところで、後ろから抱き締められる。
 
「もう、聖さまっ」
 
 折角聖さまの計らいに感動していたのに、これじゃいつも通りだ。抱き着くのは時と場合を選んで欲しい。――なんて考えていると、聖さまのジャケットが広がって、後ろから祐巳を包み込んだ。
 
「祐巳ちゃん、寒いでしょ」
「あ、……はい」
 
 聖さまの吐息が、祐巳の髪を揺らす。それすらも暖かくて、何だか抵抗する気が失せてしまった。
 
「――――」
 
 そのまま黙って、去り行く時に身を任せる。
 時折吹く風に目を細めながら。
 闇の中で瞬く光を、ただ眺めていた。
 
「……そろそろ教えてくれていいんじゃないですか?」
 
 その沈黙を破ったのは、祐巳の方だった。
 
「何のこと?」
「今日、私をデートに誘った理由ですよ。急に遊びにいこうだなんて、何か理由があるんじゃないんですか?」
「理由か。うーん……」
 
 祐巳の言葉を受けて、聖さまは唸る。きっと苦笑しているんだろうなって、雰囲気で分かった。
 
「理由があるとすれば、最近祐巳ちゃん、元気なかったから」
「私が……?」
 
 聖さまにそう言われて、ふと最近の自分を回顧した。
 果たして、そんなに心配されてしまうほど元気がなかっただろうか。そりゃあ選挙のことや祥子さまの卒業のことを考えると、精神的には元気じゃなかった。それでも、自分ではいつも通りを演じてこれたと自負している。
 
「そんなに元気がないように見えました?」
「元気がないっていうか、表情が翳って見えたのよね、私には」
 
 聖さまが唇で、祐巳の耳を弄ぶ。
 いつもなら危ういその行為が、何故だか今は自然に受け入れられた。
 
「祐巳ちゃんは百面相していなくても、やっぱりどこかで感情が滲み出しちゃうからね」
「そう……でしょうか」
「うん。だから今日は安心したんだ。フラワーパークや映画館では思いっきり百面相をしている祐巳ちゃんを見られたし、着せ替えごっこで本気で怒る祐巳ちゃんが見れた。剥き出しの感情が、凄く嬉しかった」
 
 海の方から、冷たい風が吹く。
 その風に合わせてぎゅぅと抱き締められ、温もりに満たされる。
 
「どうして祐巳ちゃんがそんな感じなのか、当てて上げようか?」
「……どうぞ」
 
 祐巳は試すように笑った。
 分かってくれているのかな? という、僅かな期待と不安。そんな感情を込めた目で振り返ると、聖さまは目尻に笑みをのせながら言った。
 
「すばり、大好きな祥子さまのことだ」
「当たりです。でも、それだけじゃないんですよ」
 
 それだけじゃない? と聖さまは首を傾げた。それからたっぷり三十秒は悩んで、「降参です」。
 やっぱり分かってくれないか、と、少しだけ寂しくなった。いや、大丈夫だって信用してくれている証拠かもしれないけど。
 
「もうすぐ、次期薔薇さまを決める選挙があるじゃないですか」
「ん? ああ、そう言えばこの時期だっけ。なーに祐巳ちゃん、そんなことでも悩んでたんだ?」
 
 そんなこと、なんて言える聖さまは、やっぱり祐巳とは違うんだなと思う。昨年度は蓉子さまが、本年度は祥子さまが努めたそのポストに、平々凡々な祐巳が収まることについて、聖さまは軽視しすぎている。
 
「何とかなっちゃうものだよ、薔薇さまなんてさ」
「そうは思えませんっ……!」
 
 言って、声の調子が強かったことに驚いた。まるで感情が噴出すみたいで、自分が今不安定になっているんだって、今頃分かった。
 
「祥子さまに甘えてばかりの私が薔薇さまだなんて。――祥子さまが居なくなったら、私……」
「祐巳ちゃん」
 
 風は吹いていないのに、強く抱き締められる。
 耳元で囁かれた聖さまの声が、頭の中でわんわんと響いた。
 
「祐巳ちゃんはずるいよ。こんなに愛情を注がれているのに、また咲くことを悩んでる」
「……私」
「お姉さまが居なくなる寂しさは、私もよく知っている。悲しくて、寂しいけど、でも祐巳ちゃんには妹も仲間もいるじゃない」
 
 不意に頭の中に由乃さんや志摩子さん、それにクセがあるけど可愛い妹の顔が浮かんだ。
 
「志摩子も、由乃ちゃんも、みんな祐巳ちゃんのことが大好きだよ。山百合会の幹部じゃなくたって、祐巳ちゃんを慕っている子は沢山いる」
「……はい」
「一ついいこと教えて上げよう。薔薇さまの価値はね、指導力とか政治的な手腕じゃない」
「え……?」
 
 不意に聖さまの腕から力が抜け、ジャケットがするりと落ちる。振り返ると、聖さまは祐巳の目を真っ直ぐ見ながら言った。
 
「みんなに慕われ、愛される薔薇。それがリリアンの象徴としての価値。そう言った意味では、きっと祐巳ちゃんは最高の紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)になれる」
 
 なんて。
 なんて、優しいのだろう。
 
「聖さま……っ」
 
 まるで導かれるように、聖さまの胸に飛び込んだ。
 どこまでも、どこまでも優しくて。
 優しさに、溺れてしまいそうになる。
 
「頼ってもいいなんて、言わないよ」
「分かっています……」
 
 薔薇さまと呼ばれるようになったら、もう卒業した先輩に頼っていてはいけない。寂しいけれど、そのぐらい祐巳は心得ている。
 
「でもね」
 
 祐巳の背中に回された腕に力がこもる。
 ぎゅうと聖さまの身体に押し付けられ、温もりが広がった。
 
「どうしようもなくなったら、……枯れてしまいそうになったら、私のところにおいで。ありったけの愛情と水で、祐巳ちゃんを癒してあげるから」
 
 その言葉が優しすぎて、嬉しすぎて。
 祐巳はぽろぽろと、聖さまの胸の中で泣いた。
 
「聖さま……聖さまっ……!」
 
 何度も、何度も。
 祐巳がしゃくりあげて咽ぶたび、聖さまは背中を撫でてくれた。
 何度も、――ただ優しく。
 
 

 
 
「寝ちゃったか」
 
 聖は夜の街を流しながら、助手席で眠る祐巳ちゃんを見た。
 無理もない。今日は一日振り回したから、疲れがでたのだろう。そっと寝かせておいてあげることにした。
 
「……」
 
 会話の無くなった車内は静かだった。そこにあるのは僅かなタイヤノイズと、カーオーディオから流れる歌。確か祐巳ちゃんが、誰の曲か気にしていたやつだ。
 
『I just can't stand to see your smile.
 And all I wanna do is touch your face.
 Take you far away. I'll take you far away』
 
 耳に残るメロディに揺られながら、帰路を辿る。
 途中、まだ開いていた花屋を見つけ、路肩に駐車した。店員は車から出てきたのが若い女だったのに少々驚いているようだったけど、気にせず一輪だけ薔薇を買った。
 それをダッシュボードに仕舞ってあった爪切りで剪定して、棘を取り除く。そして花粉を取ると、その薔薇を祐巳ちゃんの髪に挿した。
 
 ――願わくば、彼女の薔薇が美しく咲かんことを。
 強く、たくましく、咲かんことを。
 
 街灯が、ぼんやりと車内に差し込む。
 その光を受けた紅い薔薇は何よりも美しく、そして輝いていた。
 
 

 
 
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