■ 二人のdistance -前編-
 
 
 
 
 生きている限り、別れは必ず訪れる。
 それを悲しいとしか思えない私は単純で、浅はかで、弱い。
 形の無いものに縋り、それが消えるのにただ怯えている。
 
 けれど。
 
 強くならなくちゃいけない。
 いつか花咲く、その日までに。
 
 

 
 
 それはとても寒い週末の夜。
 お風呂から出て乳液でスキンケアをしていた時、その電話はかかってきた。
 
『祐巳ちゃん、明日ヒマ?』
 
 祐巳がお母さんから受話器を受け取るなり、声の主である聖さまは尋ねる。
 
「ずいぶん唐突ですね」
『うん。で、どっち? ヒマなのか、予定があるのか』
「えっと、……特に予定はありませんけど」
『じゃあ私とデートしよう』
「はい?」
 
 そう言えば、一年と少し前にもこんなことがあった気がする。確かあれはお正月、祥子さまのお宅に連れて行かれた時のことだ。
 
「また祥子さまのお家に連れて行くつもりですか?」
『え? 違う違う、純粋に私と遊びにいくの。いや?』
 
 いや? と訊かれて「いやです」とは返せない。だって聖さまのことが嫌いなはずがないし、それに断る理由がないことを、さっき話したばかり。明日の予定がない、イコール断る理由がない。
 
「別に嫌じゃないですけど」
『本当? じゃあ明日朝十時に迎えに行くからね。じゃ』
 
 聖さまは畳み込むように言うと、そのまま電話を切ってしまった。
 行き先とか、何をするのだとか聞き忘れたけど、もう後の祭り。
 本当に唐突だったな、と。祐巳はゆっくり受話器を置いたのだった。
 
 

 
 
 翌日、――日曜日の午前十時。
 福沢家の前には、黒塗りの高級車が停まっていた。
 
(あれ……?)
 
 確か今日は聖さまが迎えに来るということになっていて、さっきインターホンで話したのも聖さまで。それなのに何故、小笠原家の車があるのだろう。
 
「祐巳ちゃーん」
 
 祐巳が疑問に思って入ると、玄関の向こうから聖さまの声が聞こえる。まあ出て見れば分かるかと思って外に出ると、当然聖さまはそこに居た。
 
「おはよう、祐巳ちゃん」
「おはようございます。あの、聖さま……」
「あ、おはようございます、小母さま。昨晩はお忙しいところを失礼いたしました」
「いえいえ、いいんですのよ。今日は祐巳ちゃんをよろしくお願いしますね」
 
 早速あの車のことを訊こうと思ったけど、後からひょっこり現れたお母さんに訊くタイミングを流されてしまった。
 ひとしきり挨拶が終わると、「それじゃ行こうか」と家を出る。
 
「あのっ、聖さま。あの車は……」
「あれ? いつもの軽自動車は出払っているから、父のをちょろまかしてきた」
「ちょろまかしてきた、って」
「いいのいいの、どうせ海外行ってて暫く帰ってこないからね。たまに乗って上げないとバッテリー上がっちゃうし」
 
 さあ乗って、と言われて見た車は、近くでよく見ると小笠原家のものとはちょっと違うようだった。ハンドルは左側についているし、ボンネットについている丸に撒きびしみたいなのが入ったあのエンブレムは、確か高級車の証じゃありませんでしたっけ。
 
「どうしたの? 早く乗りなよ」
「は、はい」
 
 高級な車には乗りなれているはずなのに緊張してしまうのは、運転手が聖さまだからだろう。今でも去年の無謀運転を覚えている。
 
「それじゃ、しゅっぱーつ」
 
 さて、どんな加速Gが待っているんだろう――と待ち構えていても、それはなかった。意外なことに、今日は普通の運転だ。
 
「祐巳ちゃんさ、なに身構えてるの?」
「い、いえ。なんでも」
 
 とりあえず肩の力を抜くと、自然と車内でかかっている音楽に意識がいった。
 歪んだエレキギターの音に、哀愁の漂うメロディ。いわゆるロックバラードというやつだ。
 
「この曲、なんて言うんですか?」
 
 何だか気になって、交差点で信号待ちしている時、聖さまに訊いてみた。
 
「ん? 知らない」
「えっ。これ聖さまのCDじゃないんですか?」
「うん。最初から入ってたCDだもん。私が知ってるはずないよ」
「はぁ」
 
 車は緩やかに左折して、大通りに出る。不意に会話がなくなると、CDよりも大切なことを思いだした。
 
「そう言えば聖さま? これからどこに行くんです?」
「着いてからのお楽しみー」
「はぁ……。じゃあどうして唐突にデートしようって言い出したんですか?」
「それは秘密」
 
 秘密って。それじゃあ一応理由はあるということなのか。
 それにしても知らないとか秘密ばかりで、何だか不安だ。特に聖さま、何か企んでいるように見えるし。
 
「まさか変なところに連れて行くきじゃ……」
「信用ないなぁ。まあ祐巳ちゃんがご所望なら連れて行ってあげるけど」
「い、いえ!」
「はい。なら大人しくしてるよろしね」
 
 相変わらずどこの人なんだって喋り方。
 まあ、こういうおどけたところも、聖さまなんだなって気がして、少し安心するんだけど。
 
 それから小一時間ぐらい車を走らせると、大きな駐車場についた。郊外の開けた場所にできた、大きなフラワーパーク。それが聖さまの言う目的地らしい。
 
「うわぁ……。聖さまのチョイスにしては普通ですね」
「それは褒めてるのかな? 貶してるのかな?」
「褒めてるんですよ」
 
 祐巳が笑ってそう言うと、聖さまも格好を崩した。
 今日の聖さまの出で立ちはカーゴパンツに本皮のテーラード・レザージャケット。さあ街に繰り出すぜ、ってオーラがにじみ出ていたそのスタイルとは裏腹に、祐巳に合わせたかのようなデートコースだった。
 
「ねぇ、聖さま」
 
 入園門に向かって歩きながら、祐巳は聖さまの袖を引っ張った。
 
「もしかして一人で来るのが億劫だったから、私を誘ったんですか?」
「そんなわけないでしょ」
 
 聖さまはそう言うとジャケットからチケットを取り出すと、入園門の詰め所にいるお姉さんに渡した。なるほど、どこからかチケットを手に入れたから、祐巳を誘ってくれたのか。
 
「さーて、どこから行こうかなー」
 
 入園門から広がるエントランスは、とにかくだだっ広い。赤茶レンガタイルの向こうには噴水、左側には庭園の入り口、右側には温室が見えた。
 
「……と言っても、今の季節は温室ぐらいしか行くところがないんじゃ?」
「うん、そうだね」
 
 今は一月、冬真っ盛り。エントランスの周りを囲む花壇も、色を失っていてちょっと寂しい。
 
「あ、でも梅やスイセンの花なら咲いてるみたいだよ。パンフレット見てみな」
 
 聖さまに言われて見てみると確かに早春の花フェスタと称して、早咲きの花が見れるようになっているらしい。それならば、と勇んで向かったはいいけど、やっぱり冬。見れる花は少なくて、十五分としないうちにエントランスに戻ってきてしまった。
 
「うー、寒い寒い。温室行こう、温室」
「うぅ、……そうしましょう」
 
 園内は空いている上に広いから、もろに風を受けてしまう。晴れているとは言えやっぱり寒くて、二人身を寄せながら温室に入った。当然ながら温室の中は暖かくて、人もここに集中している模様。赤、青、紫、ピンクの花が咲く温室内は、まるで絵の具を落としたパレットみたいだった。
 
「祐巳ちゃん、あっち行ってみよ。薔薇だけを集めた温室だって」
 
 聖さまに手を引かれてついて行くと、本当に薔薇だけしかない『ローズガーデン』と呼ばれる温室に出た。珍しいことに日本名の表記はなくて、全て「ロサ」から始まる薔薇の名前が書かれている。
 
「あ、ロサ・ギガンティアとロサ・フェティダ発見」
「え? でもこれ、ロサ・フェティダって書いてませんけど」
 
 聖さまが指差した所には、白い薔薇と黄色い薔薇。けれど黄色い薔薇には、ロサ・フェティダとは書いてない。
 
「ロサ・フェティダ。別名ロサ・ルテア」
「へぇ……」
 
 確かにプレートの下の方に、別名とか、薔薇の説明が書かれている。それによると、ロサ・ギガンティアはティー・ローズの祖先と考えられているとか。
 それから奥の方へ行くと、やっとロサ・キネンシスが咲いている場所を見つけた。他の薔薇より量が多くて、赤と緑のコントラストが鮮烈な、コウシンバラの区画。
 
「綺麗に咲いてるね」
 
 本当にこれ以上ないってぐらいに咲き誇っているものもあれば、固く花弁を閉じたままのつぼみもあって、――少し自分と重ねて見てしまう。
 もうすぐ次期薔薇さまを決める選挙があって、その後には避けては通れない卒業式がある。もし祐巳が無事みんなに認められれば、四月には紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)と呼ばれるようになって、そこに祥子さまはいない。
 
「本当に、……綺麗ですね」
 
 祥子さまの進路がどうあっても別れには違いなくて、想像しただけで悲しくなる。今からこんな調子なのに、卒業式なんかどうなるんだろう。寂しくて、悲しくて、泣いて。その様が凄く容易に想像できてしまう。――次期紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)と呼ばれる祐巳は、こんなにちっぽけで、弱い。
 
「……祐巳ちゃん?」
「あ、はい」
 
 いけない。折角聖さまにデート誘って貰ったっていうのに、全然違うこと考えて、気分を沈めてしまっていた。
 
「……なるほどね」
「え?」
「いや、別に」
 
 すると聖さまは祐巳には理解できない言葉を呟き、俯いた。
 
「何なんです、別にって」
「いいや、後で話すよ」
 
 そう言って聖さまは来た時のように手を引っ張って温室を出た。だから祐巳は、これ以上その話題に触れないことにした。
 
 

 
 
「祐巳ちゃんはこれからどこ行きたい?」
 
 フラワーガーデン内のカフェで、聖さまは届いたばかりのエスプレッソ・コーヒーを一口飲んでから言った。
 
「え?」
 
 それに対して間抜けなことに、祐巳は生ハムとスライスオニオンのサンドイッチに齧り付こうとした口の形のまま、聖さまを見た。ただ今の時刻十二時十一分。ランチタイムの真っ最中である。
 
「聖さま、決めてなかったんですか?」
「いや、映画のチケット貰ったから、夕方は映画鑑賞って決まってるんだけどね、それまでの間を考えてなかった」
 
 聖さまのお父さんの職業柄、色んな物をご贈答で貰うらしい。聞けば数年前に会社を起されたとかで、個人経営の社長令嬢と言う点は祐巳とお揃いだ。
 
「私、聖さまのお家のこと全然知りませんでした」
「なぁに、どうして話してくれなかったの、って?」
「そういうのじゃなくて。聖さまは私の家のことは知っているのに、私は聖さまのこと何も知らないんだなって思うと」
「何だか寂しい、と」
「はい」
 
 簡単に言えば、そういうことだった。聖さまはいつも祐巳に構ってくれて、祐巳のことを知っている。だけど祐巳は聖さまのことをあんまり知らないだなと思うと寂しい。コミュニケーションが一方通行だったみたいな気がして、何だか嫌だった。
 
「じゃあ祐巳ちゃんは私の隠された趣味のことを知らないな?」
 
 聖さまはずいと指で祐巳の鼻を指して、おどけながら言った。
 
「隠された趣味?」
「そう。君にはそれを知る勇気があるか?」
 
 何だかよく分からないけど、おちょくられているということは分かる。
 
「あ、ありますよっ」
 
 だから祐巳は、ちょっと抵抗してそう言ったわけだけど。
 
「ふふふ。ならその趣味に付き合って貰おうかなー」
 
 どうも、嫌な予感がする。
 
 

 
 
 それから『聖さまの趣味に付き合う』ために車を走らせたのは、都心のショッピングモール。
 モールの地下駐車場に車を止めて勇んで向かった先というのは、レディスカジュアルショップだった。
 
「あの、服を見るのか趣味なんですか?」
「それじゃ普通の趣味でしょうが」
「じゃあ……?」
 
 何ですか、って訊こうとしたら、聖さまは祐巳を置いて歩いて行ってしまう。
 
「聖さまぁ」
 
 そろそろ教えてくれてもいいでしょう、って、聖さまの手を引く。聖さまは目の前のデニムスカートをじっくり鑑賞した後、祐巳を上から下まで舐めるように見た。
 
「やっぱり祐巳ちゃんはスカートがいい」
「はい?」
 
 ちなみに今日の祐巳の格好は、白のストレッチスリムパンツに、薄い桃色のセーター。どうもスカートを穿いていないのが、聖さまにはマイナスポイントらしい。
 
「さあ、着替えるよ」
「あの、それと聖さまの趣味と何が関係ある――」
「私は隠された趣味は『着せ替えごっこ』なのよねー」
「ひぃっ」
 
 聖さまはスカートを手に取ると「さあ行こう」と言って祐巳の肩を抱く。どうして試着室の中までついて来るのかな、聖さまは。
 
「あの、一人で着替えれますから」
「言ったでしょ。私の趣味は『着せ替えごっこ』なの」
 
 聖さまの目がギラリ。まずい、本気だこの人。逃げ場を求めて後ろに下がったけど、あいにくここは試着室。鏡に行く手を阻まれて、逃げられるはずもない。
 
「さあ、祐巳ちゃん。覚悟」
「きゃ、きゃー!」
「うわっ、ちょっと大きな声出さないでよ。冗談なんだから」
 
 祐巳のパンツに指をかけていた人が、いまさら何を言っているのかな。
 
「もうっ。冗談は場所を選んで下さいよ、聖さまのばかっ」
「てへへ、怒られちった」
 
 聖さまはチロっと舌を出すと、大人しく試着室を出て行った。てへへ、じゃないよ、まったく。
 それから祐巳がデニムスカートを穿いて試着室を出ると、聖さまは何故か他にも服を持って待っていた。
 
「あの、……聖さま」
「うーん、デニムのはちょっとイマイチかな。次これね」
 
 そう言って渡してきたのはツイードのスカート。
 
「まさか『着せ替えごっこ』って」
「そう。祐巳ちゃん人形限定の『着せ替えごっこ』」
「私、人形扱いですか」
「うそうそ、モデルだよ、モデル」
「いまさら言い直したってダメです」
 
 プイと顔を背けると、聖さまの声の調子が変わる。甘えるのとはちょっと違う、諭すような甘い声。
 
「あ、ひょっとしてご機嫌斜め? しょうがないなぁ。ちゃんとディナーは奢りで連れて行ったげるから、機嫌直してよ」
「いいです。奢って貰う理由、ありませんし」
「モデル料ってことでひとつ。ねっ」
 
 背けた顔を両手で正面に戻して、おでこ同士をコツン。――何だかんだで聖さまには適わないんだな、祐巳は。
 
「分かりましたから、離して下さい」
「ん、いい子いい子」
 
 なでなで、って犬か祐巳は。何だかこそばゆくて、祐巳は聖さまの持っている服を全部ひったくると、また試着室に引っ込んだ。
 そしてそこからが、ちょっと長かった。聖さまが気に入るスカートが見つかるまで、六回も試着を繰り返したのだ。
 
「うーん、やっぱり祐巳ちゃんにはフリルが似合うね」
「そうですか? ちょっと恥ずかしいんですけど……。フリルの一番下の段なんて透けてますし」
 
 聖さまがお気に召したフリルスカートは、シフォン生地を使った三段フリル。丈は膝上だから、透けている部分を考えると、露出がミニスカートと同じぐらいになってしまうのだ。
 
「そこがいいんじゃないの、分かってないなぁ、祐巳ちゃんは」
 
 そこがいい、だって。これじゃ親父丸出しだよ、聖さま。祐巳が頭の中でそんな風に突っ込んでいると、聖さまは何を思ったか、「おーい」と店員さんを手招きして呼ぶ。
 
「お客さま、どうかなさいましたでしょうか?」
「このスカート、穿いたまま持って帰っても大丈夫ですか?」
「はい、もちろんでございます。ありがとうございます」
 
 店員のお姉さんは胸ポケットに仕舞っていた小さなはさみで値札のタグを取ると、「こちらへどうぞ」とスタスタ歩いて言ってしまう。そして同然のように、聖さまはレジでそれをお買い上げになっちゃうし。
 
「どうして聖さまの買い物なのに、私が着てるんですか?」
「だってそれは祐巳ちゃん用だし」
「私用って。聖さま――」
「また『買って貰う理由がありません』って言うつもり? ダメだよ、もう買っちゃったし。私は意地悪だからデートが終わるまで祐巳ちゃんの穿いていたスウェットパンツは返してあげなーい」
「せ、聖さまぁっ」
「あーもう、素直にプレゼントとして受け取りなさい」
 
 なさい、と命令口調で言われるとつらい。祐巳と聖さまは先輩後輩の仲で、それに聖さまには本当に沢山の恩があるし。だからこれ以上何か言うのは失礼かなと思って、祐巳はこれ以上何も言わなかった。
 
「穿き心地はどう?」
「……スースーします」
「そりゃ短いからね。あ、ストッキングも買っていってあげよう」
 
 それから聖さまは有無を言わさない勢いで白いストッキングを買ってきて、試着室でストッキングを穿いた。本当にもう、「ありがとうございます」としか言えない。
 
「薔薇の花びらに足突っ込んでるみたいで、可愛いよ」
「花びら……」
 
 ああ、確かに似ている。不意にさっきのローズガーデンの光景が脳裏に浮かんで、慌てて打ち消した。またあのことを思いだして気分を盛り下げてしまうのは、プレゼントをくれた聖さまに失礼だから。
 
「……ふむ」
 
 じっと祐巳の顔を見ていた聖さまは、そう言って頷いた。
 
「何が『ふむ』、なんですか?」
 
 聖さまに笑いかけながら言う。少しでも、悲しい別れのことを考えないように、「ピエロだな」と思いながら。
 
「いや、何でもないよ。さあ、これからどうしよっかな」
「聖さま、やっぱり決めてないんですか?」
「当たり前じゃないの」
 
 自信満々にいう聖さまに、心からの苦笑を一つ。
 しょうがない人だなと思いながらも、祐巳は聖さまが肩に回してきた手を、自然に受け入れていた。
 
 

 
 
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