■ 楽しい凸魔術 まずは、頭の中で円を描く。 その中に正三角形を二つ、頂点が等間隔になるように置く。いわゆる六芒星だ。 「ツヴァイト、パンロビタ、ナモクマンド(汝は強大にして永遠なり、わが主よ)」 そして、呪文詠唱。 ここ――薔薇の館の一階に、江利子の低くくぐもらせた声だけが、荘厳と満ちている。 江利子が今現在、誰もいない薔薇の館で何をしているか。 それは間違いなく、魔術の儀式である。 「ルンディア、エルタミト、キャフィル(わが願いを聞き入れたまえ)」 呪文の詠唱は続く。 一体誰に魔術をかけ、何を求めているのか、それはもう心に決めている。 ――志摩子に魔術をかけるのだ。 思いだしてみれば一方的で自己中心的な考えで、志摩子に非はない。 でもごめん。 ちょっくら呪わせて貰うわ、何か面白そうだから! 「志摩子に、幼き魂を、退行の魔術を!」 頭の中で描いた六芒星がぐるぐると回り、それが螺旋階段のように重なりあっていく。その中心にある奈落の底を思わせるような吹き抜けを、身体が落ちていくような錯覚。想像の中で江利子が地面に叩きつけられた時、やっと江利子は自分が床に倒れていることを自覚した。 どうやら、成功したようである。 「……それにしても」 江利子は身を起こしながら、独りごちる。 その足元には、『楽しい魔術』と名打たれた一冊の本。 「どうして願いごとの部分だけ、日本語でいいのかしら」 その如何にも胡散臭い魔術は、なんと翌日に効果を現した。 放課後のことだ。山百合会全員が集まり、会議を行っている最中に、志摩子は倒れたのである。 「志摩子さん!?」 倒れた、と言っても椅子に座っていたので、正しい表現ではないかも知れない。志摩子は突然全身の力を失ったように、机に伏せってしまったのだ。 「早く保健室に!」 蓉子がそう言った時には、既に聖は志摩子を担ごうとしているところだった。 やはり腐っても姉。聖は少しだけ慌てた様子で志摩子を椅子から立たせようとして――、その瞬間に志摩子は目を覚ました。 「あ、志摩子? 大丈夫?」 志摩子の顔を覗きこんで訊く聖は、本当に心配そうだった。 それに対し、目を覚ました志摩子は、にっこりと無邪気に笑って言ったのだ。 「お姉さまぁ」 ――場が、凍った。 志摩子が甘ったるい声を出しながら、聖の腕に抱きついたのだ。 (まさか本当に効くなんて……) 江利子は自分で仕立て上げたこの状況に、多少の動揺を隠せなかった。けれどちょっと動揺していた方が、自分が犯人だと分からないだろうと思う江利子は、自分でも黒いと思った。 「し、志摩子……?」 「お姉さま、だっこ」 「だだだ、だっこ!?」 退行の魔術の効果は、上々だ。今の志摩子の精神状態は、完全な幼子。しかし深層にある記憶は残っているのか、聖のことはちゃんと「お姉さま」と呼ぶ。 ――そう、これこそが、江利子の求めていたものだ。 正直、白薔薇さんのところは面白くない。紅薔薇さんちの祐巳ちゃんと祥子みたいにベタベタしたりすれば、見ているほうも面白いのに、白はそういうことがないのだ。淡白ほど、面白みのないものはない。だからこうして、志摩子を聖に甘えさせるわけである。 「志摩子、一体どうしたの?」 心配してそう声をかける令は、祐巳ちゃんの百面相の如く感情が表情に出まくっている。それは由乃ちゃんや祐巳ちゃん、祥子や蓉子も同じだった。 「……これはルナクナサオコマシ症候群ね」 「な、何なんですか、それ?」 おっかなびっくり訊いてくる祐巳ちゃんに深く頷き返し、江利子は口を開いた。 「甘えたくても甘えられない。寂しいと思う衝動からくる、一時的な退行現象よ。ウサギは寂しいと死んでしまうというのは知っているでしょう? 寂しいという気持ちは、それほど大きな影響を身体に及ぼすわけよ」 全部適当だった。 「……なるほど」 説明を聞いた祥子は、納得といった調子で頷く。これだからお嬢は騙しやすい。 「ああ、だから志摩子さんはウサ・ギガンティアなんだ!」 閃いた! といった感じで言う祐巳ちゃん。いや、誰もそんなこと言ってないから。 「まあ、そういうことだから聖。ちゃんと志摩子に構ってあげなさいね」 「え、ちょっと、何よそれ」 「お姉さまぁ、お姉さまぁ」 「ほら、可愛い妹のおねだり、聞いて上げなさい」 言いながら江利子は、愉悦が止まらなかった。 面白いぐらい、用意したシナリオの通り。後はシナリオに書かれていない部分――聖がこれからどうするか、楽しませて貰うだけである。 「そうね。こんな時ぐらい、志摩子に触れてやってもいいんじゃない?」 「ねぇ、お姉さまぁ」 「うっ……」 蓉子の加勢も得て、聖をどんどん追い詰める。祐巳ちゃんや由乃ちゃんも、聖がどうするか、期待に満ちた目で見ていた。 「お姉さま、だっこー」 「ほら聖、だっこ」 「そうよ聖、だっこ」 「 「だっこ、だっこ、だっこ!!」 いつの間にかだっこコールが湧き上がっていた。 とても素敵な山百合会だった。 さて、それを受けた聖はというと――。 「し、志摩子っ!」 聖は志摩子をお姫さまだっこした。おおっ、と沸く山百合会。 「それじゃ、お先っ」 で、そのまま逃げやがった、白のヤツ。 なんてことだ。ここまできて続きが見れないなんて、CMで焦らしまくるTV番組より性質が悪い。 「つまらないの」 思わず、悪態も口を出てくるというもの。それを耳にした由乃ちゃんが、訝しげに江利子に話かけた。 「それにしても、 「そうだよね。テレビとかでも聞いたことないし」 「……兄が医師をしているのよ」 「あら、江利子のお兄さま、歯科医でしょ?」 ――しまった、墓穴掘った。 江利子がそう思った時には、既に多数の白い目が江利子を射竦めていた。 「どうしてそんな嘘つくんです?」 江利子をやり込めようとするのが楽しいのか、由乃ちゃんは嬉々として迫ってくる。 「確かに、嘘をつく意味が分からないわね」 「お姉さま……。志摩子がああなったことに、何か関係が?」 詰め寄ってくる妹たちの瞳には猜疑の色。非常にまずい。言い訳ができない。 こうやって追い詰められた時の、もっとも有効な手段は何か? 「それじゃ、お先に失礼」 三十六計逃げるに如かず。 江利子は先ほどの白薔薇家を倣って、猛スピードで薔薇の館を飛び出した。 一体、何がどうなっている――? 聖は息切れに胸を抑えながら考えていた。 隣には妹の志摩子。ふわふわ巻き毛の美少女は、まるで両親に甘える子供のように、聖の手を掴んで離さない。 (誰も追ってきてないわよね?) 息を整えながら、聖は回りを見渡した。講堂の裏には、人の姿も気配もない。 それを確認してから、講堂の周りの段になっている所にハンカチを敷いて、志摩子を座らせた。 「ねえ、志摩子」 「なーに?」 思いっきり出足を挫かれる。いつも品行方正、言葉使いにも非の打ち所がない志摩子が、「なーに?」である。 「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」 「うん」 「志摩子は、今いくつ?」 「じゅうろくさい」 ははぁ、と頷く。 聖をお姉さまと呼ぶように、どうやら記憶は元のままらしい。しかし精神だけが子供のころに戻って、こんな状態になってしまったと。 「志摩子」 聖が呼ぶと、志摩子はキュっと顔を上げて、見詰め返してくる。 「志摩子は、寂しい?」 優しく問いかける。 もし江利子の言っていたことが本当なら、聖は大悪人。極悪の姉であるが――。 「ううん。寂しくない」 志摩子は心底幸せそうな顔で聖の腕に抱き着くと、まるで犬が舐めてくるように、腕に頬擦りをした。 そうだ。こんな距離感でも、聖と志摩子は姉妹。傍に居てやらなければいけない時ぐらい、ちゃんと分かっている。何も心配することなんて、ない。 「そっか、安心した」 志摩子は暫く頬擦りを続けていた。 堪らなく幸せだった。志摩子が可愛すぎて、ちょっと鼻血が出そうになった。 「ねぇ、お姉さま」 志摩子は聖の腕から顔を離すと、道の端っこを指さして言った。 「あーそびましょ?」 志摩子の指した場所にあるのは、テニスボール。多分テニス部が壁打ちか何かをしていて、ここまで転がってきたのだろう。 「あのボール、ばっちいよ?」 「ばっちくないもん」 志摩子はトテトテと走っていくと、ボールを手に取ってしまった。放置されているってことは不衛生極まりないが、子供の頃に戻っている志摩子には関係のないことらしい。 「お姉さまー」 志摩子は大きく手を振ってから、ボールをこっちに投げてよこした。真っ直ぐ、胸にど真ん中。コントロールは悪くない。 「しょうがないわね。……ほら志摩子、いくよ」 ポーンと、放物線を描くように、アンダースローで投げ返す。 志摩子はそれを取ろうと前進して――、コンと頭にボールをぶつけた。 「うぅ、うぅぅ……」 「し、志摩子、大丈夫!?」 「いたい、お姉さま、いたい……」 「ご、ごめんね志摩子。ほら、泣かないの。ね?」 慌てて駆け寄って、志摩子の額を撫でて上げる。上目遣いで、その上涙目の志摩子に胸をグッサリやられてしまったのは、この際仕方のないことだと思う。 「ボール遊びは痛いから、止めておきましょうね?」 「うん……」 何だかもう、完全に子供の相手をしている状態だ。 しかし蓉子の言っていたことを借りるわけではないが、こんな時に面倒を見てやらなければいけないのは、姉である聖だけなのだ。 「お姉さま、お腹空いたー」 「うん? そっか、ちょっと待ちなさいね」 さっき座っていた場所に志摩子を戻すと、聖は制服のポケットから飴を二つ取り出した。 手渡そうと思ったが志摩子は手を出さず、代わりに期待に満ちた目で聖を見詰めるだけだった。 (こ、これは……) あれか、ラブコメのベタ中のベタ。キング・オブ・ベタに輝く、「はい、あーん」か? 「し、志摩子……」 「お姉さま、はやくー」 「は、はい、あーん……」 「あーん」 聖の摘んだ飴を口に入れた志摩子は、本当に幸せそうに笑った。制服を脱がせたくなった。 「お姉さま」 「今度はなに?」 「……眠い」 そう言ってしな垂れ掛かってくる志摩子。 普段の志摩子はこんな風に疲れを気取らせたりしないけど、なるほど、やはり志摩子だって疲れて休みたい時もあるだろう。それは精神が子供に帰ったからこそ聞ける、志摩子の本音だった。 「いいよ、寝ても」 「うん……」 志摩子はそのままハンカチの上に寝転がると、聖の膝を枕にして目を瞑った。 「子守唄歌ってあげようか」 「……うん」 志摩子の髪を梳きながら、「マリア様のこころ」を歌った。 夕陽によってできた顔の翳りが、志摩子の端正な顔立ちを際立たせていた。 「――」 歌が終わる。志摩子は、眠りの世界にいる。 さっきまで志摩子の一挙一動に焦っていた自分が馬鹿らしく思えるぐらい、穏やかな時間だった。 ――結局、鼻血吹いたけど。 さて、 「この位置からなら、バレないわよね」 「うん、多分……」 二人の甘やかな世界を、こっそり見ている人間はいた。 祐巳と由乃さんである。 「あ、志摩子さんが 「ほ、本当だ……」 「可愛いわね」 「可愛いよね」 「志摩子さんの子供時代って、結構甘えん坊だったのかしら」 「意外と、そうかもね」 「あ、今度はボール遊びしだした」 「 「可愛いわね」 「可愛いよね」 「ああっ、ボールが志摩子さんのおでこに当たっちゃった」 「 「可愛いわね」 「可愛いよね」 「あらあら、次はお口にあーんよ、祐巳さん」 「きゃー素敵。砂吐きそうなぐらいラブコメだね、由乃さん」 「可愛いわね」 「可愛いよね」 「ほらみて、極めつけは膝枕よ」 「どうしよう、砂が喉元まで上がってきちゃった」 「可愛いわね」 「可愛いよね」 白薔薇姉妹の美しい情景が一段落ついたところで、由乃さんは「ところで」と切り出した。 「祐巳さん、凄く羨ましそうね」 「……由乃さんは羨ましくないの?」 「私は、令ちゃんに甘えようと思ったらいつでも甘えられるし?」 「うう、いいなぁ。私もあんな風にお姉さまに甘えられれば……」 「でも私はあれほど甘えたりしないわよ。令ちゃん絶対デレデレするに決まってるもん」 「……そっか。ヘタレだもんね」 「うん、ヘタレだから」 この後由乃さんが「うん? 何だヘタレって関係あるの? っていうか今バカにしたわよね?」と気付き、祐巳と噛み付き合い引っ掻きあって友情を深めたのは三十秒後の話であるが、それはまた別の話である。 前略、お元気でしょうか。 江利子は今、逃げています。 「お姉さま、話を聞かせてください!」 「 追ってくるのは令と祥子。この二人、意外と足が速いので曲者だ。薔薇の館を飛び出してきた時にあったリーチは、最早五メートルとない。 スカートはバッサバサ。ペチコートなんか見えまくりだろう。校内に残っていた生徒たちに何事だと言った感じで見られたが、そんなことに構っている余裕はなかった。 「はっ……はっ……」 これだけ本気走ったのはどれだけぶりだろうか。二段飛ばしで階段を上り、また廊下をダッシュ。 こんな所をシスターに見つかったら、――いっちょ吹き飛ばすか。 頭に酸素が足りなくなってきて、つらつらと危険なことを考えてしまう。 「しまった……」 それにしても。 本当に酸素が足りなかったようだ。夢中で走って辿り付いたところは、理科準備室の前。この部屋は廊下の突き当りにあり、もうこの中に入る以外逃げ道はない。また、入ったところで逃げ道もなく、つまりは――。 「もう逃げられませんわよ」 つまりは、こういうことだった。 「くっ……」 後ろ手に扉を開けようとするが、鍵が掛かっているのか開かなかった。 その間にも、令と祥子は一歩いっぽ歩みよってくる。あえてゆっくり詰め寄るあたり、江利子より意地が悪いかも知れない。 「以前、噂に聞いたんです。お姉さまが、嬉々とした顔で『楽しい魔術』なる本を購入なさったとか」 「それと今回の件、何か関係があると考えても、無理はありませんわよね?」 また一歩詰め寄る。逃げ道もなければ、いい訳もない。 「そうよ――」 悔しいが――江利子の、負けだ。 「犯人は私。ちょっと聖に夢を見させて上げようと思っただけよ。術はもうすぐ解けるけど、ことの大きさは理解している。さあ、煮るなり焼くなり好きにすればいいわ」 江利子は諦め、ぐったりと扉に寄りかかった。 さて、これから江利子にはどんな試練が待ちうけているのだろう。 竹刀プレイ? 札束プレイ? 竹刀の方は何となく予想がつくけど、札束はよく分からなかった。 「 「お姉さま……」 二人と江利子の距離がぐっと短くなる。 次の瞬間、二人は同時に江利子の肩を掴み、こう叫んだのだ。 「うちの祐巳にも!」 「うちの由乃にも!」 後日、リリアン女学園高等部では、由乃ちゃんが鼻歌を歌いながら令と手を繋いで登校してきたり、祐巳ちゃんが祥子に抱きついて離れないという光景が度々目撃された。 証言によると令と祥子は、それはもう恍惚とした表情で、この上なく幸せそうだったという。 「お姉さまぁ、お姉さまぁ」 それ以来、山百合会の影響を受け易い生徒たちは、まるで幼子のようにお姉さまに甘えた。 そのことが原因で姉妹の一線を超えてしまう率がちょっとだけ上がったというが、その話が事実なのか、新聞部でさえも知らない――。
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