■ レンズ越しの絆 -What is our ties?- 高等部に上がって初めての夏休みは、笙子にとってとても充実したものだった。 笙子は夏休みも度々学園にきては、撮影技術向上のため、運動部を追っていた。夏休みも後半になると、しばしば山百合会幹部を見かけるようになったので、何度かその姿を追ったこともある。 「蔦子さま。カメラのケア用品を見に行きたいんですけど……」 そして同じく学校に写真を撮りに来ていた蔦子さまに会っては、何かとかこつけて誘った。驚くぐらい積極的に、そうすることができた。 「いいわよ。どこのお店に行きたいの?」 蔦子さまも嫌な顔ひとつせず付き合ってくれるから、勘違いしそうになる。笙子にとって蔦子さまは特別で、またその逆でもあるんじゃないか、と。 そうであることは、ありえないとも言い切れない。しかしだからと言って、それを証明するものもない。あるいは、姉妹の契りを結べば特別だと言い切ることもできるだろうが、蔦子さまは 故に。 いくらその行動力に、発言力に、魅力的な人柄に惹かれようと、笙子は蔦子さまの特別な後輩にはなれない。 蔦子さまが妹にしたくても出来ない人。――その人が羨ましくて、仕方がなかった。 「らしくないわね」 残暑も厳しい九月。 薔薇ファミリー追っかけの盟友、山口真美さんは、蔦子の席に近づくなりそう言った。 「一体何のことかしら」 口調はあくまでも穏やか。しかし、少しの棘を含んだ声で問う。 放課後の教室は閑散としていて、その声はやたらとよく聞こえた。 「笙子ちゃんのことよ」 真美さんの口から「笙子ちゃん」という単語が発せられたことで、蔦子の動きは一瞬フリーズした。 しかしよくよく考えてみれば、笙子ちゃんは新聞部の予想するつぼみの妹候補に名が上がっていたのだから、真美さんが知っていてもおかしくない。笙子ちゃんが写真部に所属していることだって、既に周知のことだ。 「笙子ちゃんが、どうかしたの?」 「彼女、 これはまた、随分な直球。 カメラのメンテナンスを続けようと動かしていた手は、完全に止まってしまった。 「どうしてそんな質問がでてくるのかしら」 「だって、あなたたち仲いいじゃない」 「どこをどう見て、そう思うの?」 「あら、蔦子さん。写真部のお隣の部活、お忘れになったわけじゃないわよね? 仲睦まじい会話、こちらに筒抜けなんだから」 はっ、と息を吐く。 そう、写真部の部室にいると新聞部の会話が聞こえてくるように、その逆もあるわけである。 「真美さんって、意外とお節介なのね」 「そうよ。友達の行く末を案じて、何か悪い?」 「悪いとは言わない。でもあなたに、私の気持ちが解るのかしら」 自分でも気付かないうちに、口調が辛辣になってしまう。 何故か、笙子ちゃんに携わることに対して、蔦子は感情のコントロールが上手くできなかった。これでは真美さんに「らしくない」と言われても、是非に及ばない。 「解るわよ」 しかし真美さんは、ちょっときつめの口調を跳ね飛ばすぐらい凛とした声で言った。 「私だって、新聞部で目星をつけている子がいるもの。何も それもそうか、と蔦子は頷いた。二年生ともなれば、よほど興味がない限り、 「なら、それこそ真美さん『らしくない』じゃない。サクっと決めてしまいそうなものなのに」 「そんな簡単じゃないわよ。私だって、断られたらと思ったら怖いもの」 「まるで愛の告白ね」 「まるでじゃなくて、ほとんど同じよ。妹になりなさいって言うのは、『私はあなたを気に入っている』って言っているも同然なんだから。それがもし断られたら、『私はあなたをそこまで好きになれません』って、そういうことでしょう? 内容が違うだけで、告白と大差ないじゃない」 「それもそうね」 蔦子はまた頷く。今度は、さっきよりも深く。 断られるのは怖い。その気持ちは、よく解った。 「……話はそれだけかしら?」 「待って、さっきの質問の答えがまだよ」 ゆっくりと席を立つと、真美さんは蔦子の肩を掴んでそう言った。さっきの質問とは、「妹にするのか」という問いだろう。 蔦子は大きく溜息を吐いた後、はっきりと言い放った。 「笙子ちゃんを妹にするつもりはないわ」 ――彼女の瞳に写っているのは、自分ではないのだから。 写真部の部室に行くと、誰も居なかった。 まあ元々写真部というのは、部員同士が顔を合わせる機会の少ない部活である。他の部員が部室にくる時と言うのは大抵現像の時だけであるから、もし先に人が居たとしても『現像中』の札がかかった暗室の中にいる。 笙子ちゃんと顔を合わせることが多いのは事実だが、それは単に彼女が写真に対して熱心に活動しているから、遭遇率が高いだけだった。現に写真部員の半分は幽霊部員と化していたから、もう一ヶ月以上あっていない部活仲間もいた。 (まあ、いつものことか) そんなことを考えながら机にカメラを置き、暗室と向かう。取り溜めたフィルムを、現像するのだ。 「聞いたわよ、蔦子ちゃん」 「へ?」 ――と。扉を開けたところでいきなり咲江さまのお声。突然だったから、流石の蔦子も思わず変な声を出してしまった。 「へって何よ、へって。蔦子ちゃんらしくないわね」 「……これは失礼。いきなり部長の声が聞こえたから、驚いただけです」 「そう。あ、それより笙子ちゃんのことよ。笙子ちゃん」 咲江さまはいつものテンションの二割増しぐらいで、蔦子に詰め寄る。 「笙子ちゃんが、どうかしました?」 これは現像どころではないなと感じて、止むを得ず蔦子はテーブルに戻った。 「ふっふっふ。随分と懇意にしているらしいじゃない?」 咲江さまは向かいの椅子に座ると、嬉しくて仕方がないといった表情で言う。 蔦子と笙子ちゃんが、仲良くしている。 それが咲江さまの御満悦に繋がっているらしい。他人のことでここまで喜べるなんて、咲江さまは得な性格をしているな、と蔦子は思った。――そして、これだから憎めない人だとも。 「前の日曜日も、M駅近くのカメラ店で笙子ちゃんとお出かけだったでしょ。ばっちり目撃しちゃった」 「あれは部長が、私に備品の買出しをいいつけたからです」 「でも笙子ちゃんと一緒に行け、なんて言ってないでしょ?」 「……あれだけの量の買出し、一人で行けるわけないでしょうが」 「あぁ、あの時の蔦子ちゃんいい笑顔してたなあ。笙子ちゃんが可愛くて仕方ないって感じで」 蔦子の話をまるで聞いていないような咲江さまは、その光景がそこにあるかのように壁を見詰めた。 そうか、あの時の自分はそんなにいい顔をしていたのか。と、蔦子は比較的冷静に回顧する。 確かに、笙子ちゃんは蔦子にとって可愛い後輩だった。物覚えもいいし、部活熱心だし、人懐っこいし。そんな風に慕ってくれる後輩を、可愛いと思わないはずがない。 「それで、もうロザリオは渡したの?」 「……いいえ」 「どうして? 笙子ちゃんなら、きっと喜んで受け取ってくれると思うのに」 果たして、そうだろうか。 仮に受け取ってくれたとしても、別に憧れる存在がいたのなら? ――そんなの、惨め過ぎる。 「笙子ちゃんに、私は相応しくないんです」 「いつも自分で『写真部のエース』とか言ってる人が、随分弱気じゃない」 その言葉に、返す答えが見当たらなかった。 自分でも知らないうちに、笙子ちゃんに対して臆病になってしまったのかも知れない。宝物のように大切だからこそ、手を触れられない――。 「蔦子ちゃん」 咲江さまは立ち上がると蔦子の後ろに回り、肩に手を置きながら言った。 「一人は寂しいものよ。妹に持ちたくても持てないなんて、尚更」 「――すいません」 「責めるつもりで言ったんじゃないの。きちんと断られたのだったら、諦めもつくわ。でもね、妹にしたいのに、そう言えないのは辛いんじゃないかと思うのよ」 さっきまでのテンションはどこに行ったのか、部室の中はシンと静まりかえっていた。咲江さまの一言ひとことが、鉛のように重かった。 「……さ、私は帰るわね」 「はい」 「それじゃね。……っと、忘れるところだった」 咲江さまは扉を開けたまま、振り返って言った。 「ロザリオ受け取らなかった代わりに、部長の役を受け取ってもらうからね」 「はい?」 「それじゃね。バイバーイ!」 大声で別れを告げ、咲江さまは颯爽と部室を後にした。 「……あの人には、適わないな」 そう言って、苦笑いを一つ。 咲江さまが去った後の部室は、とても寂しげだった。 うだる様な暑さも過ぎ去り、幾分過ごしやすくなった十月。 笙子が写真部に入部して、もう半年が経とうとしていた。 「あら、また写真の整理?」 笙子のクラスメートは、よくそう言って写真を見て、感想をくれたりする。 一年の時の蔦子さまがそうであったように、カメラに触れてばかりの笙子は、影で「写真部のホープ」と呼ばれているらしい。蔦子さまが自身で提唱する「写真部のエース」を受けてのあだ名である。 写真を見てくれるクラスメートたちが専ら熱望しているのは、山百合会幹部の写真。笙子はそれに拘らず各部活動や、イベント毎に様々な人を撮っているのだが、「祐巳さまの写真が見たい」、「由乃さまの写真はないの?」と言われると、やはりそちらに傾倒することはあった。 特に祐巳さまの写真を見たがる生徒は多く、笙子も被写体として好んで撮影していたから、自然と祐巳さまの写真は増えていった。 「蔦子さま?」 放課後になり、部室を訪れる。 先にきていた蔦子さまは、笙子が入ってきたことに気付いていないらしく、何枚かの写真を広げて見入っていた。声をかけても、やはり気付く様子がない。 「つーたーこーさーまー」 「……ああ、笙子ちゃん」 目の前に手をかざして、やっと蔦子さまは笙子の存在に気がつく。近頃蔦子さまは、こうしてボーッとしていることが多くなっていた。 「何見てるんです?」 テーブルに並べられた数枚の写真を覗き込む。そこには山百合会幹部たちの写真や、何気ない日常の一コマ、それに笙子の写真などがあった。 「いつの間にこんなに。蔦子さまって、盗撮の天才ですよね」 「笙子ちゃん、それ褒めてないから。それを言ったら、あなただってその素質はあるわよ」 「素質って。それって褒めてるんですか?」 「さあ?」 ふふっ、と蔦子さまが噴出したので、笙子も気兼ねなく笑えた。 よかった、と心から安心する。この頃の蔦子さまは、考えごとをしているのか、難しい顔をしていることが多かったから、少し心配だったのだ。 蔦子さまが沈んだ顔をしていると、こちらまで沈んでしまいそうになる。いつか言っていた「姉に元気がない時はその妹まで」という言葉が、身に染みて分かる。――勿論、笙子と蔦子さまは姉妹という関係ではないのだけど。 「どうしたの、笙子ちゃん」 「え……?」 「何だか急に浮かない顔しちゃって。体調でも悪いの?」 何気ない動作で、蔦子さまは笙子の額に手を当てる。 蔦子さまは優しい。それこそ本当の妹のように、優しく包み込んでくれる。笙子にとって蔦子さまは、そんな存在だった。 「熱はないみたいね」 ――この人の 何度そう願っただろう。笙子が蔦子さまを特別な先輩だと認識しているように、蔦子さまも笙子のことを特別だと思ってくれていたらいい。そして、その証が欲しい。 けどそれは、ただのわがままで。 『あなたの こう言うだけで、全てが解決するのかも知れない。実際に、妹にして下さいとお願いして姉妹になったという話を聞いたことがある。 けど、やはり断られるのは怖かった。築き上げてきた二人の関係が、ぎこちなくなってしまうのだけは嫌だった。 言ってしまうことで楽にはなれる。けれど楽になった後、辛さが待ちうけているのか、幸福が待ちうけているのか、分からない。『清水の舞台から飛び降りる気持ちで』とはよく言うが、今の笙子の状態は舞台に立って下を見下ろすだけ。背中を押されれば落ちてしまうぐらいなのに、一歩が踏み出せない。勇気が足りない。 「――別に体調が悪いわけではないんです」 これは心の問題だから。 熱があるとすれば、心の中なのだ。 すっかり色素を失った銀杏が、ひらひらと舞う十一月。 衣替えも疾うの昔に終え、また寒い季節がやってくる。秋晴れの空の中、一筋の飛行機雲が寂しそうに漂っていた。 「……はぁ」 朝の爽涼な空気の中、吐いた溜息は重い。 ――こんなに月日が経っても、蔦子と笙子ちゃんの関係は変わっていなかった。 『あの子、妹にしないの?』 聞き飽きるぐらい友人たちは、蔦子と笙子ちゃんの関係の決定打を求めた。 厚意からであるとは分かっている。それでも、鬱陶しいと感じなかったと言えば嘘になる。 ――どうして放って置いてくれないのだろう。 蔦子と笙子ちゃんは、今まで上手くやってきた。姉妹の契りを交わさなくとも、信頼関係にあると自負している。この関係に、姉妹なんて名前は要らない。 「……」 だから、一人で歩く。長い銀杏並木は、容赦なく寂寥感を与えてくる。つい、隣で歩いてくれる人がいたらと、決意に矛盾した考えが浮かんできてしまう。 笙子ちゃんと出会う前なら、こんな気持ちにはならなかった。出会いを悔やむつもりはなかったが、無為にまた溜息が出てしまうのだ。 やがてマリア像が見えてくる。そしてそこでお祈りを捧げている、よく知っている後ろ姿も。――笙子ちゃんはお祈りを終えると、ゆっくり校舎の方へ歩き出した。 「笙子ちゃん」 「しょ――」 声をかけようとして、止めた。蔦子より先に声をかけた『彼女』の存在を認めてしまったから、声をかけることなんて出来なかった。 彼女――祐巳さんは、こちらに気付く様子もなく、にこやかに笙子ちゃんに話しかけたのだ。 「――」 笙子ちゃんを呼びとめた時はよく聞こえた祐巳さんの声も、普通の声量で会話を始めてしまっては、何を言っているのか分からない。 ――酷くもどかしい。別に祐巳さんと笙子ちゃんが何を喋っていようが、蔦子には何の関係もないはずなのに。 (……もう行こう) 笙子ちゃんの、憧れの人との逢瀬を邪魔するべきじゃない。このまま人の波に乗って行けば、きっと気付かれることなく校舎に辿りつく。 そう思って、蔦子が一歩踏み出した時だった。 (なっ――!?) それは目を疑うような光景だった。祐巳さんの顔が笙子ちゃんの顔に近づき、更には重なったのだ。 最初、キスしたのかと思った。しかしよくよく見てみれば、角度的にそう見えただけ。祐巳さんは、何やら笙子ちゃんに耳打ちしているだけだった。 ほっと一安心。そういきたいところだったが、次の瞬間、蔦子は表情を凍らせた。 ――笙子ちゃんが笑っていたのだ。思わずカメラで撮ってしまいたくなるぐらい、嬉しそうな顔で。 心に風穴が開いていくのが分かる。 バカみたいに寂しい。狂おしいほど切ない。悶えるほど悔しい――。 蔦子が半年一緒に居たって引き出せなかった笑顔を、祐巳さんは耳打ち一つで簡単に引き出してしまった。 (私の負けだ) 圧倒的な敗北だった。蔦子には、あの笑顔を正面から見ることができない。 それが半年以上笙子ちゃんと過ごした、絶対的な答えだった。 今日の授業は、全く身に入らなかった。放課後になるまで何をしていたか思いだそうとしても、何も出てこないぐらい、空虚な一日だった。 「さて」 これからさっぱり気持ちを入れ替えないといけない。このまま部室にいれば、やがて笙子ちゃんがやってくるだろう。それまでに、今朝の出来事なんて億尾に出さないように、気持ちを入れ替えないといけない。 部室を出て、逃げることもできた。でもそれをすると、二度と笙子ちゃんと向き合えない気がしたから、意地でもここで待つ。 「ご、ごきげんよう」 五分と待たない内に、笙子ちゃんは部室へとやって来た。どこかぎこちない動きで、普段はいちいち言わない「ごきげんよう」まで言って。何故か知らないが、緊張しているらしい。 「ごきげんよう。どうしたの、改まって」 「い、いえ。別に」 そうは見えないから言っているというのに、笙子ちゃんはそれが平静だと言う。こっちはいつも通り接しようとしているのに、こう笙子ちゃんの方がおかしいとやり難い。 「そう? 何か言いたげに見えるけど」 「……ええ。少し」 「何? 言ってみてちょうだい」 このままじゃ埒があかない。そう思って蔦子が促すと、笙子ちゃんは居住まいを正して言った。 「ではお聞きしますけど。……その、蔦子さまは、今でも『妹にしたかった同級生』のことを想っているんですか?」 「妹にしたかった……? 私そんなこと言ったっけ」 「え? 覚えてないんですか?」 蔦子は必死に記憶を探り、やっとこさ目当ての情報を掘り起こした。確か笙子ちゃんが写真部に入りたての頃、そんなことを言ったかも知れない。 「それは忘れてしまうぐらいのことだった、と言うことでいいんでしょうか」 「まあ、言ってみればそれぐらいのことよね」 「よかった……」 そう言って笙子ちゃんは、比喩ではなく胸を撫で下ろした。 「じゃあ今、妹にしたい子はいますか?」 「……いないわ」 ――きっと、嘘だった。 けれど蔦子は、そう言うしかなかった。自らの想いを断ち切るために。矛盾を打ち消すために。 「では、私が蔦子さまの妹になりたい、って言ったらどうしますか?」 「は?」 心臓が跳ね、思考が凍りついた。 この子は、一体何を――。 「蔦子さま。私を、妹にしてくれませんか?」 ――何を、言っている? 「……どうして?」 「蔦子さまのこと、好きです。心の底から尊敬してるんです。それだけじゃ、駄目ですか」 「――止めてちょうだい」 口を出てきた言葉は拒絶。 例えこの言葉が自分の意思に矛盾していても、蔦子はそう言うしかないのだ。 「あなたには、私なんかよりもっと憧れている存在がいるでしょう?」 だから、拒絶する。 笙子ちゃんは、祐巳さんに憧れている。きっと本当に姉にしたいと思っているのは、蔦子ではなく祐巳さんなのだ。 「えっ……? 何を言ってるんです? 私には蔦子さましか」 「ここまできて嘘は止めなさい」 はっきりと、叱るように言い放つ。 別に憧れる存在がいる。それなのに、何のつもりか知らないが蔦子の妹になりたいと言う。それは蔦子の矜持をズタズタに切り裂くほど、耐え難い侮辱に等しかった。 「あなた、今朝祐巳さんに声をかけられたでしょう。あの時の笙子ちゃんの表情、カメラで撮ってしまいたくなるぐらい、いい笑顔だった。……私には、あなたにあの笑顔をあげられない。私じゃ役不足なのよ」 「そんなことありません!」 「止めてって言っているでしょう!? あなたの一言ひとことが私の胸を抉っているって、何故わからないの」 自分でも気がつかないうちに、涙を流していた。堪らなく、惨めだった。 笙子ちゃんも泣いていた。頬を伝う涙が、どんな芸術品より美しいと思った。 「――蔦子さま」 笙子ちゃんは体当たりするように、蔦子の胸に飛び込んでくる。背中が壁に押し付けられて鈍い痛みを感じようと、笙子ちゃんを振りほどくことなんてできなかった。これ以上彼女を傷つけることなんて、できやしない。 「聞いてください」 笙子ちゃんは、蔦子の胸に顔を埋めたまま言う。 震える肩が弱々しくて、思わず抱き締めたくなる。 「今朝、祐巳さまに言われたんです。『蔦子さんは笙子ちゃんのこと凄く大切にしてるよ』って。私それが嬉しくて、嬉しくて……」 ガツン、と。やましい心が横殴りにされたような気分だった。 「『蔦子さん迷ってるみたいだから、あなたから一歩あゆみよってみたらどう? 私は応援してるからね』って、そう言ってくれたんです。祐巳さまが、私の背中を押してくれたんです」 ばか、バカ、馬鹿。 ――嗚呼、なんて莫迦なんだろう。 後悔の波に飲まれてしまいそうなぐらい、自分を叱責した。蔦子が勘違いしなければ、この子をこんなに悲しませずに済んだのに。蔦子はもっと素直になれたのに。 「……ごめんなさいね」 背中を撫で、そう声をかけてやることぐらいしか出来なかった。嗚咽にまみれた抱擁を交わすぐらいしか、してやれなかった。 そして、心に決める。 笙子ちゃんをこんな風に悲しませることは止めようと。自分に嘘をつくのは止めようと。 「笙子ちゃん」 蔦子の胸から顔を上げた笙子ちゃんに、微笑みながら言った。 「ロザリオは、どんなのがいい?」 「あの、それって……?」 「ええ」 頷く蔦子を見て、笙子ちゃんは本当に嬉しそうに笑った。 決して正面から見ることは叶わないと思っていた笑顔が、そこにあった。 「それなら私、ロザリオより写真を撮って欲しいです」 「写真を?」 「はい。私、蔦子さまに撮って貰えるなら、きっと笑えると思うんです。いいえ、姉の前で笑えない妹なんて、そんなの妹として駄目じゃないですか」 ロザリオの代わりに、写真を。それは何とも、写真部の二人らしかった。 ロザリオなんて、所詮は飾り。姉妹になるには、ロザリオを渡さなきゃいけないなんて決まりはない。 「その写真の中の私が、とってもいい笑顔だったら。私を妹にして下さい」 だから、写真が二人を繋ぐ絆になってくれればいい。 「それじゃ、さっそく撮っていいかしら?」 カメラを持ち上げると、笙子ちゃんは慌てて蔦子から離れた。自分から言い出しておいて「どうしよう」とうろたえる笙子ちゃんが、どうしようもなく可愛らしかった。 「えっと、合図は『はい、チーズ』でいいんでしょうか?」 「いいえ」 部室の端に立った笙子ちゃんに向かって、蔦子は大きくかぶりを振った。 蔦子は知っていたから。笙子ちゃんに最高の笑顔をくれるであろう、その言葉を。 「――笙子」 だから、彼女の名を呼び捨てる。 「私の妹になりなさい」 随分と永く感じる、一瞬の空白。 ファインダーに彼女の姿を捉える。笙子の唇が、動く。 「……はい!」 そう言って浮かべられた、今までで一番素敵な笑顔を。 ――心とフィルムに、焼き付けた。 後日、笙子の部屋には、一枚のポートレートが飾られた。 植物の形をあしらった陶製の額縁に、それは慎ましやかに仕舞ってある。 写真の中の笙子は、笑っている。自分でも吃驚するぐらい自然に、顔いっぱいの笑みを浮かべていた。 「笙子が自分の写真を飾って置くなんて珍しい。それもこんな笑顔で写ってる写真なんて」 笙子の部屋に参考書を取りに来た姉は、ぽつりと言う。 「いいでしょ、それ」 「……自惚れるんじゃない。カメラマンの腕がいいんでしょ、あんたをこんなに自然に笑わせられるんだから」 そう言って参考書を片手に部屋を出る姉に、「うん、そうだよ」と呟いた。姉はそれに気付く様子もなく、ゆっくりと扉を閉めた。 ――写真の中の笙子は、笑っている。 ずっとずっと、笑っている。 0.005秒の一瞬を永遠に閉じ込めた、十代唯一のポートレート。 それが笙子とお姉さまを繋ぐ、たった一つの絆だった。
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