■ 手をのばして -Light whose future-




 中学の頃、お父さんに言われた事がある。
 
「可南子はきっと、いい選手になる」
 
 それはお父さんが始めて臨時コーチとして、うちの学校に来た日のこと。
 練習が終わってみんなが帰った後、お父さんを待っていた私に言ったのだ。
 
「ほら」
 
 お父さんは、無造作にバスケットボールを投げた。
 頭の遥か上を掠め行こうとするボールを捕ろうと、私は飛んだ。
 同学年の誰だって、ジャンプしても届かない高さ。
 
 両手で捕ったボールの向こうに、体育館の照明が光った。
 
 きっと私は、父が誇りたくなるような選手になる。
 ボールへと伸ばされた手は、きっと明日を掴むためにある。
 だから私は、光へと手を伸ばす――
 
 

 
 
 細川可南子にとっての中学校というのは、バスケの為にあったと言っても過言ではない。
 
 小学校の時からお父さんにコーチをつけてもらっていた私は、当然のようにバスケットボール部に所属していた。
 バスケットボールが好きだったのか、お父さんと一緒に居られる事が好きだったのか、その頃はよく分からなかったけど、少なくとも後悔はしていない。私が入部してすぐに、別居しているお父さんが臨時コーチとして就任してきたからだ。
 
 毎週土曜日の放課後に、お父さんはコーチとしてやってくる。それが嬉しくて仕方ない。
 何故なら、私が小学校の高学年になった頃、お父さんは家を出て行ったから。
 その原因がお母さんの八つ当たりにある事ぐらい、幼かった私にも分かった。
 
 お父さんは、全日本の選手。つまり、プロのバスケットボール選手だった。
 長身を活かしたお父さんの活躍は、当時の専門誌で何度も担ぎ上げられたらしい。
 ――でも、不幸は幸せと一緒にやってきた。
 お母さんが私を身ごもったのと同時期に、お父さんは試合中に大きなケガをした。
 選手生命を断たれるぐらい、酷いケガだった。
 
 それからお父さんは、『育児のために仕事を止めたくない』というお母さんの意見を聞きいれ、専業主夫になった。
 だから私の幼少期というのは、ほとんどお父さんと過ごしたという記憶しかない。
 お父さんは時折学校やチームに招かれて、コーチとしての仕事をしていた。暇な時は家でゴロゴロしているだけのお父さんは、コーチの時だけは違う目をする。無邪気な少年のような、前だけを見詰める目。いくつになっても夢を追いかける姿が、私はとても好きだった。
 
「可南子。一緒にかえろ」
 
 だけど、その姿を見続ける事は叶わなかった。
 私が小学校に入って、お父さんにバスケを教わりだした頃。お母さんは、仕事のストレスをお父さんにぶつけるようになった。お父さんは割れたグラスの破片を拾いながら、「今が一番辛い時期なんだろう」って教えてくれた。
 
「可南子ってば」
 
 そして我慢の日々も、限界を向かえる。
 お父さんは「一緒に居ても傷つけ合うだけだから」と言って、家を出て行った。どうして私を置いて行ったのと恨んだけど、きっと私の将来のことを考えていてくれたんだと、後々に理解した。
 だけど肉親の一人を失う事は、小学生の子供には辛すぎる。家に帰っても誰も居ないのが寂しくて、一人で眠る夜が寒すぎて、私は何度も枕を濡らした。笑顔も少しずつ、無くしていった。
 
「可ー南ー子ー!」
「……っ。すいません、ボケっとしてました」
 
 だけどそんな私に、手を差し伸べてくれる人がいた。
 それが今私の目の前で頬を膨らませている、夕子先輩だ。
 
「それで、何でした?」
「うん。一緒に帰ろうって言ったの」
 
 バスケ部に入って、笑えない私を変えてくれたのは、この人だった。
 夕子先輩とは帰る方向が一緒という事もあって、いつも一緒に帰る。
 最初よく声をかけてくれたのは、チームメートにあまり馴染めないせいかと思ったけど、夕子先輩にはそんな意図はなかったんだろう。夕子先輩という人は、基本的に天然なのだ。
 
「暑いね。ちょっと涼んでいこう」
「はい」
 
 私は夕子先輩に促されて、クラブハウスから少し歩いた所にある食堂に向かった。
 季節は六月。日に日に気温は上がり、練習でかく汗の量も増えていく。
 
「りんごジュースでよかったよね?」
「はい。ありがとうございます」
 
 夕子先輩はパックのジュースを私に渡して、窓際の席に腰下ろした。
 私が対面の席に座りながら外を見ると、グラウンドでは野球部の坊主頭たちが影法師を作っていた。
 
「学校に持ってくるの、ペットボトル一本じゃ足りなくなってきたわねぇ」
 
 夕子先輩はいつものレモンティーの紙パックに、ストローを挿しながら言った。
 
 私は、夕子先輩といる時間が好きだった。夕子先輩が好き、と言い換えてもいい。
 夕子先輩には、人を惹きつける雰囲気があった。親しみやすくて、優しくて、柔らかい雰囲気。
 だから一年生や二年生に人気のある先輩だったけど、何故か私には特別懇意にしてくれていた。
 夕子先輩が笑いかけてくれる度、私の凍っていた笑顔も溶けていくような気がした。
 
「でもこんなに汗かくのもさ、やっぱり練習メニューがガラって変わったってのもあるわよね」
「お父さ……細川コーチが来るようになってからですよね。練習がきつくなったの」
「そうそう。でも、可南子のお父さんは凄いよ。確かにきついけど、絶対前より上手くなったって分かるもん」
 
 お父さんの事を褒められるのは、嬉しかった。凄く、誇らしかった。
 大の男嫌いである夕子先輩から、お父さんの話題をふってきてくれたのも、私が嬉しくなる要因の一つだった。
 
 きっと今年の大会は一味違う。そんな会話をしながら、私たちは帰路に着いた。
 夕子先輩は三年生だから、夏の大会で引退。でもその引退の時期は、勝ち進んで行けばどんどん遅くなる。
 
 
 
 私は家に帰ると、自分の部屋の壁を見詰めた。
 壁には、コルクボードが取り付けられている。
 そこには無数の写真が、所狭しと貼り付けられていた。
 
 家族一緒の写真。お父さんと映っている写真。夕子先輩と映っている写真。
 その中に、優勝旗を持った夕子先輩の写真を飾る事ができたら、どんなに素敵だろう――
 
 
 
 

 
 
 
 
 ――やがて、夏が終わる。
 あの夏の大会で夕子先輩たちは、地区予選で準優勝、都大会で四強にはいるという、好成績を残していった。万年、地区予選を突破できるかできないかが壁だったバスケ部に、確かな自信を置いていってくれた。優勝旗は叶わなかったけど、私の部屋のコルクボードには、準優勝旗を持った夕子先輩の写真が飾られた。
 
「よし、今日はここまで!」
 
 そして今日は、三年生引退の日。
 三年生は夏の大会で敗れてから練習に参加していなかったけど、二学期になって最初の練習だけは出てくる。この日一日きっちり後輩の練習を見て、もう大丈夫だと思った先輩から帰っていくのだ。
 夕子先輩はと言うと、一時間ぐらい練習を見て帰っていった。夕子先輩がシュートして外したリバウンドボールを私が捕ったのを見て、彼女は笑顔で体育館を後にした。
 
 
 
「……」
 
 練習が終わり、制服に着替えた私は、体育教官室の前で待っていた。
 夕子先輩はもう帰ってしまったから、今日ぐらいお父さんを待ってみようと思ったのだ。
 
「可ー南子っ」
 
 不意に、横から声をかけられる。
 振り返って見れば、帰ったはずの夕子先輩が居た。
 
「夕子先輩、帰ったんじゃなかったんですか?」
 
 私は目を丸くして夕子先輩を見た。
 
「もしかして、まだ私のこと心配なんですか?」
「うん、そう。私はまだ可南子が大丈夫なのかどうか、ちょっと不安」
「はあ……」
 
 途端に情けなくなった。
 折角安心して引退していって貰えたと思っていたのに、一体私は何をしているんだろう。
 
「あ、でもバスケの事じゃないの。私が不安なのは」
「え?」
 
 私がもたれていた壁から背を離すと、夕子先輩は夕陽に伸びる影を見詰めながら言った。
 
「戻っちゃうんじゃないかなぁ、と思って」
「戻る……?」
「そう、中学に入ってきたばっかりの頃の、可南子に」
 
 ジャリ、と靴が地を蹴る音がして、夕子先輩の足元から小石が転がっていった。
 
「私がいる時は、可南子をずっと引っ張りまわしていたからね。私が居なくなって、また放っておくと暗い顔になる可南子に戻っちゃうんじゃないか、と思ったわけよ。ちょっと自意識過剰かな」
「ええ、自意識過剰です」
 
 私は笑って、そう言った。
 心配してくれている夕子先輩には悪いけれど、カラカラ笑った。
 
「心配しなくても、私はもう大丈夫です。今、みんな凄くやる気のある時だし、練習が楽しいと感じる時もあります。だから、安心してください」
「……うん。よしよし」
 
 私の主張を聞き届けた夕子先輩は、笑って私の頭を撫でた。
 この時私は、既に夕子先輩より十センチ以上背が高かったから、傍から見ればかなり滑稽だっただろう。
 
「それじゃ、私は帰るね」
「あ……。一緒に帰ってくれないんですか?」
「可南子ったら、たまに抜けてるよね。さっきまで可南子は、誰を待っていたのかな?」
「あっ、……はい」
「それにもう一緒に帰れる日は滅多に無いんだから、先輩離れして貰わないと困るなぁ。……それじゃね」
 
 バイバイ、と小さく手を振って、夕子先輩は今度こそ帰っていった。
 
(ありがとう、ございました)
 
 感謝と、敬愛と、親愛を込めて。その背中に、一礼した。
 私はその姿を、夕陽に霞んで見えなくなるまで見詰めていた。
 
 
 
「あれ、可南子」
 
 夕子先輩が去って、およそ五分くらい。
 今度こそ、待ち人が現れた。
 
「待っててくれたのか?」
「うん。最近ロクに話せていないから」
 
 お父さんはジャージ姿に首からタオルをぶら下げて、のそりと体育教官室から出た。
 別居の親子というのは、難しいもの。例え毎週会えるからと言って、コーチと教え子である以上、『親子の会話』は出来ない。
 こんな風に、気長にお父さんの帰りを待たないと、滅多に話せないのだ。
 
「……帰るか」
 
 お父さんはゆっくり、家路を歩き始めた。
 それぞれ帰る場所の違う、私たち。
 
 ゆっくり、ゆっくり。
 そう歩かないと、すぐに分かれ道に出てしまう。
 
 ゆっくり、ゆっくり。
 私はお父さんを追うように歩きだした。
 
 中学一年の、夏の終わりの日のこと。
 お父さんの背中越しに見える夕陽が、目に眩しかったけれど。
 未来という何色にも彩られない光へと、私は手を伸ばしていた。
 
 
 
 

 
 
 
 
 駆け抜けてきた日々というのは、思いだしてみれば短いもの。
 夕子先輩が引退してからもう一年以上も経って、私は二年生へと昇級していた。
 そして今年はというと、また地区予選で準優勝、県大会で八強という成績。夕子先輩を安心させようと、私は全ての試合で全力を投じたけれど、後一歩が足らなかった。
 
 お父さんは臨時コーチの任期を、去年で満了している。
 だからもうほとんど会う機会はなかったけど、あまり寂しいとは思わなかった。
 夕子先輩ほど親しいとは言えなかったけど、一緒に頑張れるチームメートがいる。やる気に満ちた、一年生たちがいる。
 それだけで、毎日が充実していた。バスケをしていれば、きっとどこかでお父さんが見ていてくれると思ったから、寂しくなかった。
 
 ――だけど。
 そんな日々は、突然終わりを告げた。
 
「お母さんたちね、正式に離婚することにしたの」
 
 季節は巡り、晩秋。練習でかく汗も、大分少なくなってきた頃。
 夕飯の席で、お母さんは唐突に言った。
 私は驚いて十秒以上もの間、固まっていた。
 
「どうして!? 今まで上手くいっているとは言えなくても、何も問題なかったじゃない!」
「その『問題』が出てきてしまったのよ、可南子」
「は……?」
 
 激情に任せて立ち上がった私を冷ややかに見て、お母さんは「何も知らされてないの?」と言った。
 
「どういうこと」
「お父さんね、再婚するんだって。他の女の人を、妊娠させてしまったから」
 
 お母さんは、吐き捨てるように言った。
 呆れと嫌悪が、口調からも滲み出ていた。
 
「そん、……な」
 
 ――眩暈がした。
 こんな夫婦の形でも、きっとお父さんはお母さんを愛している。
 そう、信じていたのに。
 
「相手は、知っているでしょう?」
「……誰」
「本当に何も聞かせれてないのね。……言うのは止めておくわ」
「どうして!?」
「知ったら、絶対にあなたは傷つく。だから言わないわ」
 
 そんな事で、納得できるわけがなかった。
 私は執拗に詰問したけど、お母さんは口を割らなかった。私が直接お父さんに聞きに行くと外に出ようとした所で、やっとお母さんは教えてくれた。
 
「……夕子ちゃんよ。可南子が、バスケ部でお世話になっていた」
「――――嘘よ」
 
 信じたく、なかった。
 きっと性質の悪い冗談だ。
 夕子先輩であるはずがない。
 筋金入りの男嫌いだった夕子先輩が、妊娠させた相手だなんて、考えられない。
 たった半年ぐらいの時間で、何が変わるっていうんだ。だとしたら、夕子先輩は無理矢理――
 
「嘘なら、よかったんだけどね」
 
 お母さんの溜息をスタートの合図に、私は家を飛び出した。
 
「ちょっ、可南子――!」
 
 外は雨が降っていたけど、私はかまわず走った。
 驟雨(しゅうう)の中、傘も差さず、夜闇を駆ける。いくつもの角を曲がって、最短距離で夕子先輩の家へ。
 何度か来た事のある夕子先輩の家は、雨降りの夜の中、私に立ちはだかるように見えた。
 震える手で、一度だけ呼び鈴を押す。
 程なくして開く、扉。
 
「夕子先輩」
「……可南子」
 
 幸いな事に、私を迎えてくれたのは夕子先輩だった。
 
「本当……なんですか」
 
 バカみたいに声が震えた。
 夕子先輩の悲しそうな顔を見て、全て悟ってしまった。
 
「こんな――」
 
 夕子先輩は、くずおれた。
 
「こんなはずじゃ……なかったの。こんな、こんなはずじゃ――」
 
 夕子先輩は声を上げて泣いた。
 私から滴り落ちる雨の雫に混じって、夕子先輩の涙が玄関先に落ちた。
 
「夕子、先輩」
 
 気が付けば、私の頬にも涙が伝っていた。
 名前を呟くだけで、私にはそれ以上の言葉を持ち合わせていなかった。
 
 私はこの場所に居続ける事に耐え切れなくなって、また走りだす。
 激しい雨の中を、現実から逃げるように。
 
 どうして、どうして、どうして――!
 どうして私の大切な人が、私の大好きな人を傷つける。
 どうして私の大好きな人が、私の大切な人を壊す――
 
 信じていた。
 大好きだった。
 尊敬していた。
 誇らしかった。
 
 そんな人に、私は裏切られたのだ。
 お父さんに問いただそうとは思わなかった。
 夕子先輩をあそこまで泣かせた人の言葉なんか、聞きたくない。
 
 大好きという気持ちが、憎悪に変貌していく。
 誇りは、穢れへと。尊敬は、軽蔑へと。信頼は、失望へと。
 私の中の価値が、壊れていく――
 
 私は気付くと、誰も居ない公園にいた。
 十月下旬の雨が染みて、心も身体も寒かった。
 
「どうして――信じてたのに。大好きだったのに……!」
 
 私は声を上げて、雨雲と一緒に泣いた。
 激しい雨が、私の声を消してくれる。
 激しい雨が、私の涙を流してくれる。
 
 
 
 やがて、雨が降り止んだ。
 私の涙は、まだ止まらなかった。雨雲さえ私を置いて、どこかに行ってしまうのだ。
 
 ふと、砂場の端に転がったボールが目についた。
 近所の子供の、忘れ物だろうか。私はそのボールを手にとって、両手で掲げた。
 暗い雲が払拭された空に、月が浮かんでいる。
 
 ――あの日のように。
 
 私はボール越しに、光を見た。
 ボールへと伸ばされた手は、きっと明日を掴むためにある。
 そう信じていたあの日、あの光。
 けれど天を穿(うが)つように浮かんだ月は蒼白で、すぐに雨雲で見えなくなった。
 
 
 
 ――光が、見えなくなった。
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 中学卒業までの、一年半。
 私にとってその歳月は、今までで一番長く感じた。
 
 離婚が決まった後、父から何度か打診があった。
 しかし私は会う事も、電話で話すこともなかった。夕子先輩を泣かしたいい訳なんか、聞きたくなかったからだ。
 暫くして、父から手紙が届いた。破り捨てようかと思ったけど、落ち着いてきた頃合だったので、私は手紙を読んだ。
 手紙には家族を崩壊に追い込んでしまった事。私の大切な先輩を、高校中退という事態にさせてしまった事への謝罪が書かれていた。
 そこまではいい。しかし、私にはどうしても許せない一文があった。
 
『夕子とのことは、合意の上だった』
 
 そんな事、信じられるわけがない。
 合意の上なら、何故夕子先輩が「こんなはずじゃなかった」と泣くというのだ。
 ここまで来て嘘をつく父に、心底失望した。堪らなく憎かった。
 私は泣きながら、コルクボートに張られている父の写真を破り捨てた。
 
 私は自分でも分かるぐらい、笑顔が下手になった。
 夕子先輩の言う、『戻った』状態になってしまったのだ。
 クラスメートやチームメートとはいつも通りに振舞っているつもりだったけど、やはりどこか距離を置いてしまう自分がいた。
 言葉は交わしても、お互いの住んでいる所とか、高校の志望校だとかは知らない。
 そのぐらい薄っぺらな付き合いの方が、裏切られることに怯える私には丁度よかった。
 
 部活が終われば、次は受験がある。
 私は部活に費やしていた時間を全て勉強の時間に換え、女子校ばかりを受験した。
 
『男なんか、いらない』
 
 今なら、夕子先輩の言っていた気持ちがよく分かる。
 以前までは気にならなかった、男子たちの軽薄で淫らな会話が、堪らなく不快になった。
 私の背が高い事を嘲笑する男子が、耳元を飛び回る蚊のように、鬱陶しくて仕方なかった。
 
 卒業式の二、三日前、私によく突っかかってくる、件の男子に言われた事がある。
 今までバカにして悪かった。ずっと好きだった。と、彼はそう言った。
 そんな事、よくも堂々と言えたものだ。
 どうせ情に流されて、簡単に人を裏切ってしまえるクセに。
 男なんて所詮、そんなものなのに。
 
「そう。私は大嫌いだった」
 
 男なんて、いらない。
 男なんて、大嫌い。
 
 
 
 

 
 
 春。
 私はリリアン女学園に入学した。
 
 この学校に合格できたのは、ほとんど奇跡と言っていい。
 毎年目を剥くような倍率のこの学校は、おいそれと入れる学校ではないのだ。
 だから、というわけではないけど、私は合格通知を貰った瞬間にこの学校に決めた。
 リリアン女学園というのは、他の女子校と比べて閉鎖された学園である。
 それに正真正銘のお嬢様学校であるから、低俗な男話なんかも耳にしなくて済むと思ったからだ。
 
 ――そしていざ入ったリリアン女学園という場所は。
 
「ごきげんよう」
 
 予想通りというより、予想以上の場所だった。
 上級生は姉で、下級生は妹。
 上下の関係を強く結ぶ、姉妹(スール)制度。
 生徒会は『山百合会』と呼ばれ、その幹部はスターさながらの容姿と人気。
 それらは事前に入手していた情報だったので、そういうものだと理解するのは早かったと思う。勿論、最初は衝撃だったけれど。
 
 私にとって一番衝撃だったのは、同級生にさんをつけ、敬語で話す風習だ。
 上級生に「さま」をつけるのはまだ分かるけれど、同級生なのに敬語。
 親しくなれば敬語で話すことはなくなるようだったけれど、ごく普通の中学から上がってきた私には凄い違和感だった。
 
 けれど、ここなら上手くやっていけそうだと思った。
 みんな仮面を被っている。仮面を外しても大丈夫だと思った相手にだけ、素顔を見せる。
 それがいい。仮面を取らなければ、他人に干渉する事も、される事もない。
 誰かの為に心を痛める事もない。それが、いい。
 
 しかしどこにでもお節介な人間というのは居るものだ。
 無愛想を決め込んでいる私にも、臆せず話しかけている者はいる。
 
「可南子さんは、どの薔薇さまがお好き?」
 
 人懐っこい笑みで、縦ロールの少女が訊いた。
 答えずにいる事もできたけど、そうする方が厄介な事になりそうだ。
 
「そうね……」
 
 私は以前クラスメートが見せてくれた、『リリアンかわら版』と名打たれた去年の学校新聞を思いだした。
 山百合会の面子というのは、顔で選んだかのような人達だったから、よく覚えている。
 まだ名前と顔が一致しないけれど、黄薔薇のつぼみ(ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン)白薔薇さま(ロサ・ギガンディア)という呼称を言われれば、顔だけは思い出せた。
 
紅薔薇のつぼみ(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)、かしら」
 
 思えばその時から、私の中に何かが芽生えていたのかも知れない。
 だって私は、『どの薔薇さまが好きか』と訊かれたのだ――
 
 

 
 
 縦ロールこと松平瞳子は、私とは相成れない存在である。
 そう思ったのは、初めて彼女と掃除の班が一緒になった時だ。
 
「どうして待っていて下さいませんの!?」
 
 彼女が激昂している理由は、私が一人で先に掃除場所に向かったから。
 ただそれだけ。
 
「待つ理由がありませんもの」
 
 掃除場所というのは、下駄箱周辺。
 だからすぐ下校できるよう、鞄に教科書などを詰めてから掃除場所に向かう。
 しかし彼女たちは鞄に荷物をまとめるのですら、雑談などが混じって遅い。
 
「お引止めしたのに行ってしまうなんて、あんまりじゃありませんか」
 
 私に彼女たちの雑談に混じる理由はない。
 従って私が一人で先に掃除を始めていたらこれだ。
 
「私を引き止めて、どうするおつもりだったのかしら?」
「少しお話ぐらいしてもいいでしょう? 私たち、可南子さんと親しくなりたいと思ってますのよ」
 
 激しく怒ったかと思ったら、もうこの笑顔。
 ――まったく、反吐が出る。
 べっとりと塗り固められた仮面の下から、よくもそんな台詞が出てくるものだ。
 私は、放っておいて欲しいっていうのに。
 
「お話って、一体何をお話するのでしょう?」
 
 皮肉を込めた口調で問うと、縦ロールは少しだけ笑顔を引きつらせて言った。
 
「お家のこととか、何でもあるでしょう?」
「お家のこと、ね……」
 
 私は鼻で笑った。
 まるで道化にバカにされているような気分だ。
 この不快な会話も、もう限界。
 
「じゃあお話するわ。私は一人っ子で母親と二人暮し。父親は他に女を作って消えた。これでいいかしら? あなた方はこのロクでもない家庭に、どんなコメントを下さるのかしら!?」
 
 私は半ば自棄になって叫んだ。堪らなく惨めだった。
 私は心のどこかで、きっと円満な家庭を築いているのであろう彼女たちに、嫉妬していたのだ。
 
「―――」
 
 当然ながら、それに対する応えはなかった。
 縦ロールは絶句し、取り巻きたちはオロオロするだけだ。
 ここでもし、わざとらしく「まあそれは可哀想」なんて言われていたら、間違いなく叩いていた。
 
「お話、終わってしまったようね」
 
 私がわざとらしく嫌味を込めた笑顔を作ると、縦ロールは苦虫を噛み潰したかのような顔をした。
 それはそうだろう。彼女の中にある仲良し精神を、横殴りにしてやったのだ。
 これで私に干渉しようとする人間は、少なくなるはず。
 
 
 これで、いい。
 誰も私に、関わるな。
 
 
 
 

 
 
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