■ 第一話 『そのタイを注連(しめ)ろ』 とある朝のこと。 銀杏並木の先で、福沢祐巳はいつものようにマリア様にお祈りをしていた。 ――今日も正しく暮らせますように。マリア様、どうかお導き下さい。 ゆっくりと目を開けた先には、いつもの微笑みをたたえたマリア像。 それは今日も明日も続いていくはずで、祐巳の日常もそんな風に続いていくはずだった―― 「お待ちなさい」 祐巳がその場を去ろうとした時、声をかけられる。あまりにタイミングが良かったので、マリア様に声をかけられたのかと思った。 「はい」 凛とした声に、祐巳は少しでもそれに近い声になるように返事をした。決して顔だけではなく、身体全体でゆっくりと振り返る。祐巳の憧れの上級生のように、できるだけ優雅に。 「あなた」 「あ……」 祐巳は振り返って絶句した。そこにいたのは、まさしく祐巳の憧れの上級生である、 「タイが曲がっていてよ」 祐巳の口が「あ」の所で止まっているのも気に止めず、祥子さまは一歩一歩近寄ってくる。 「持って」 「盛って? ど、毒をですかっ」 「面白い子ね。盛るんだったら毒よりご飯の方をお願いしたいわ」 その時になって初めて祐巳は祥子さまの差し出した鞄に気付いたので、半ば押し付けられるようにして鞄を受け取った。ああ、憧れの祥子さまを前に、一体何を言っているんだ。 祐巳が自責の念に駆られている間に、祥子さまの白い手がすっと胸元に伸びて、タイに触れた。 「身だしなみはいつもきちんとね。マリア様がみていらっしゃるわよ」 そう言うと祥子さまは、祐巳の手から鞄を取り戻して、颯爽と歩き出した。 祐巳はゆっくりと直されたタイを見た。祥子さまが正してくださったタイは、それは優雅で美しく―― (し、 ――の形になっていたのだ。そう、一般に正月になると玄関にかけるあれだ。 すごい、凄すぎる。たった数秒の間で、この短いタイで注連縄を編むだなんて。しかも御丁寧にちゃんと円を描いていて、このまま玄関に飾ってもいいぐらいだ。 流石、祐巳の憧れの上級生。いや、何が流石なのかちっとも分からないけど。 「あ、あのっ、祥子さま!」 「……何かしら」 気付いたら、呼び止めていた。 「あのっ、ありがとうございました。それで、その……」 あーた、なんで注連縄やねん? そう訊きたかったけど、祥子さまはあまりにも真面目な顔をしていたので、言えなかった。じゃあこの濁った語尾を、どう切り捨てるか。 「その……ご飯の量はどのぐらいに致しましょうか?」 どうしてそこでアレを引張るんだ、私は。 祐巳は激しく混乱していた。だって、混乱しない方がおかしい。憧れの祥子さまが目の前に現れて、神技としかいいようのない早さでタイで注連縄を編んだ。もう、訳が分からない。 「そうね、八分目ぐらいがいいわ。用件はそれだけ?」 「あ、はい」 「そう。ごきげんよう」 「ご、ごきげんよう」 祥子さまは、今度こそこの場を立ち去った。 (こんなのって、ない) 祐巳はもっさりと丸まったタイに触れながら、ただ呆然と祥子さまの後ろ姿を見詰める。 何でこんな事になったんでしょう、マリア様。 見上げたマリア様は、今日も優雅に微笑んでいるのであった。 「そう……。そんなことがあったんだ」 前の席に座っている桂さんは、神妙な顔で言った。 「祐巳さんってば凄くどんよりして教室にきたから、私はてっきり痴漢にでもあったのかと思ってたんだけど。……祐巳さん、タイを注連縄にしたまま教室まできたんでしょう? 中々の羞恥プレイ。痴漢と五十歩百歩ね」 「だって、折角祥子さまがタイを直して下さったんだもの」 「直すというか、編むというか」 桂さんは言いながら、ちょんちょんとタイをつついた。何をする、 「止めてよ、これでも大切な思いでなんだから」 「ははあ、あれね。スターと握手して、手を洗いたくないという心理に近いわね」 そう言って桂さんは、コロコロと笑った。 ちなみに「桂」というのは、名字ではない。ここ、リリアン女学園高等部では、名前をさん付けで呼ぶ風習があるのだ。 そして桂さんの名字は――何だっけ。桂さんの名字は、彼女の学園生活のごとく普通過ぎて、忘れてしまった。 面倒だから、「三枝」でいいや。 「それで祐巳さん、いつまでそうしているつもり?」 「このタイ? 解くときがくるまで、このままのつもりだけど……」 「……本気?」 「本気です。だって、折角できた祥子さまとの接点だもの」 「はい。そこで蔦子さんから提案です。その接点、もっと増やしてみませんか?」 突如として降りかかった声に、祐巳たちはハッと顔を上げる。果たしてそこには、カメラを首から提げたまま仁王立ちする少女の姿。自称写真部のエースこと、武嶋蔦子さんだ。 「突然なに、蔦子さん?」 いきなりの出来事に、祐巳はリリアン伝統の挨拶も飛び越して、蔦子さんに尋ねた。 「祐巳さんと祥子さまの接点を増やしてみましょう、って言ったのよ」 「どうやって?」 「それは放課後のお楽しみって事で」 それではごきげんよう、って、蔦子さんは勝手に話を切り上げて去って行ってしまった。 「何だったのかしらね、蔦子さん」 「さあ……」 煽るだけ煽っておいて、どこか行ってしまうんだから性質が悪い。それに放課後、何があるっていうんだ。 祐巳はその時、運命の歯車がギシギシいいながら回り始めた事なんて、ちっとも気がついていなかった―― 「これを見て頂戴」 授業が終われば、後は掃除の時間だ。だから早く掃除が終われば早く帰れるというわけで、蔦子さんは祐巳が掃除を終える随分前から待っていた。それから祐巳が掃除日誌を職員室に届ける役目を買って出て、やっと二人きりになった所で、蔦子さんは一枚の写真を見せてくれた。 「こ、これは」 祐巳は目を疑った。その写真は、祐巳の着替えを隠し撮りした物だったのだ。 「へっへっへ、この写真を張り出されたくなかったら……って間違えた。本当はこっち」 「蔦子さん、さっきの」 「いいからこっちを見なさい、こっちを。祐巳さんと祥子さまのツーショットよ」 「えっ」 その言葉を聞いて、祐巳は思いっきり反応した。そりゃもう、さっきの写真は無かった事にしてしまうぐらい。 「ほ、本当だ……」 蔦子さんの差し出した写真は、間違いなく祐巳と祥子さまのツーショット写真。それは間違いなく今朝タイを直して貰った時の写真で――そうか、放課後のお楽しみって言っていたのは、現像するためだったわけか。 「凄いでしょう?」 「うん、凄い」 何が凄いって、それは蔦子さんのカメラの腕ではない。 なんとこの写真では、祥子さまの手が殆ど残像みたいになって見えなかったのだ。蔦子さんのカメラは結構いいやつを使っているらしいから、滅多にブレる事なんてないはずなのに、祥子さまの手を捉える事が出来なかったということ。 やっぱり祥子さまって凄い。無意味に凄い。 「この写真、ちょうだい」 「おっと、それには条件が」 蔦子さんは祐巳の手からひょいと写真を取ると、にんまり笑った。 「まずこの写真を学園祭で展示する事を許可して」 「うん、……それはいいけど」 「それから、祥子さまの許可も取ってきて欲しいのよね。教室にはいなかったから今頃薔薇の館で――」 「いいからよこせやツタ公」 「あら、そんな事言っていいのかしら。祐巳さんの生着替え写真、バラまいてもいいんだけど」 「く……蔦子さん、本人の許可がないと公表しない主義じゃなかったの?」 「奇麗事を言って済む時代は終わったのよ」 その歳でヨゴレか、蔦子さん。 「とにかく、 祐巳が後に思ったことだけど。 カメラっ子としてのポリシーを失ったんだから、一々許可なんか取らなくていいんじゃないだろうか。 「薔薇の館に何かご用?」 祐巳と蔦子さんが薔薇の館についた瞬間に声をかけられたので、二人は思わず首をすくめた。 「あ、志摩子さん。ちょっと祥子さまに用事があるのよ、祐巳さんが」 「そうなの? どうぞ遠慮せずお入りになって」 天使のような微笑で祐巳たちに言ったのは、同じクラスの志摩子さん。最近 そのザ・グレート・志摩子さんの後を追うように、祐巳たちは薔薇の館に入った。当然祐巳なんか、ここに来るのは初めてだ。薔薇さまたちが鎮座ましましているこの館というのは、一般の生徒には非常に近寄りがたいものなのである。 「こっちよ」 館に入ってすぐ左には、急な階段がある。それを上っていると、急に聞き覚えのある声がした。 「横暴ですわ! お姉さま方のスカポンタン!」 スカポンタンて。死語ってやつですよ、それ。 「よかった。祥子さま、いらっしゃるみたいだわ」 しかもあの台詞は祥子さまのですか。 流石祥子さま、ナウでヤングでイカす。 「さあ、どうぞ」 志摩子さんがそう言って道を空けた先には、ビスケットみたいな扉。この先に、祥子さまがいるというのだ。 「祐巳さん」 勇気付けるようにして祐巳の肩に手を置く蔦子さん。薔薇の館的に言うと、 まったく、人事だからって余裕かましてくれているもんだ。 「……よし」 祐巳は気合を入れ直して、扉をノックしようとした――その時だった。 なんと、ノックする前に扉の方から先に開いたのだ。 (自動ドア!?) ――って、そんなワケがない。 「あっ――」 「ぎゃうっ」 扉が開いた次の瞬間には人が飛び出してきて、それで。 「っつ……あなた、大丈夫?」 祐巳はめでたく、憧れの祥子さまに轢かれましたとさ。というワケである。 祐巳としては、心配するより先にどいて欲しい。口に出して言いはしないけど、これが結構重いのだ。 「は、はい。大丈夫です」 重量以外は。 「ところであなた……お姉さまはいて?」 「いえ、いませんけど……」 いないから、本当にそろそろどいて下さい。 祐巳がつらつらとそう思っていると、ふわりと身体にかかっていた圧迫感が消え、祥子さまは「結構」と呟いて立ち上がった。 「あーあ、祥子が急に飛び出すから」 「うわ、誰かともつれあってこけちゃってる。しかも何かやらしい」 「 祥子さまに手を貸して貰って立ち上がる頃には、祐巳は三人の薔薇さまたちに囲まれていた。遠巻きに、 「お姉さま方、紹介いたしますわ」 「何、祥子。そのタイを注連縄にした子が、どうかしたの?」 「ええ。この子が、私の妹です」 祥子さまがそう言い放った瞬間、部屋はどよめきに満ちた。勿論祐巳もそのどよめきに加わっていたが、誰一人それには気付かなかったようだ。名前も知らない下級生を妹にするなんて言い出して、一体何をするつもりなんだろうか。 「それで、その注連縄の子の名前は?」 真っ直ぐ祐巳を見て言ったその人は、祥子さまのお姉さまである 「自己紹介なさい」 祥子さまは顎で 「い、一年桃組。 「あら、あなた本当に注連縄って名前だったの。めでたそうで、いいお名前」 「……というより、そのまんまおめでたい名前ね」 「えーっと、祐巳さんだっけ? 本当にそんな名字なの?」 「いいえ、本当は福沢です」 「どっちなのよ、一体」 「お姉さま方。そんな風に見詰めるの、失礼ではありません? ほら、祐巳が怯えているじゃありませんか」 祐巳は祥子さまの言葉に、ぴくりと反応した。だって、祥子さまは「祐巳」と呼び捨てたのだ。さん付けが定番のリリアンで、呼び捨てにするというのは近しい証拠。という事は―― (祥子さまの編んでくれた注連縄には、縁結びの御利益が!) 祐巳の取り得は、単純な思考回路であった。 「怯えたら冗談を言うなんて、面白い子」 そう言って笑ったのは、 「令」 突然の 「はい」 そしてこれもまた凛とした声で返すのは、 「ねぇ、令。この子、 「は……?」 「あらら。 「 「あら、二号を持ってもいいなら、本気で 「 おいおい、一番最初にこの場を混乱に追い込んだ張本人が、それを言うか。 と、頭の中でツッコんでいる祐巳は、意外な事に冷静だ。いや、祥子さまに妹だと紹介されたり、 「さて、話を戻しましょう。それで、その祐巳さんが祥子の妹であると?」 「ええ、そうですわ」 「そう。でも祐巳さんには、ロザリオかかってないみたいだよ?」 「ひゃぅっ」 いつの間に背後にいたのか、 「ひゃぅ、だって。エロ可愛くていいねえ。志摩子、祐巳さんを妹にしない?」 「お姉さま」 「冗談だって。 ここまでいくと、完全に祥子さまをおちょくっている。どうやら薔薇さまたちというのはステレオタイプの優等生とは程遠い、一癖も二癖もある方たちのようだ。こめかみに血管を浮かべる祥子さまを見て、にやにやと笑っている 「それで。どうして祥子は、ロザリオを渡してもいないのに祐巳さんを妹と言うのかしら?」 「まだ渡していないだけです。お望みとあらば、この場で授受の儀式をしても構いません」 売り言葉に買い言葉、みたいな話の進み方に、祐巳は戸惑うしかできなくなっていた。だから祥子さまが自分の肩に手を回して、「アレ」を取り出しても尚、祐巳の思考は固まったままだった。目の前にかざされて、やっとそれが何であるか分かったぐらいだ。 「祐巳」 「……はい」 「これ、あなたの首にかけてもいい?」 絶対に渡す、って気が満々のくせに、祥子さまは最終確認とばかりに祐巳に訊いてきた。 そんなの――祐巳の答えなんて、分かり切っているはずなのに。 「……お断りします」 今度は、どよめきは起こらなかった。 断られた祥子さまは、般若の面みたいに怖い顔をしていた。 「どうして」 「だって、それは――」 だってそれは、祐巳の受け取っていいものじゃない。 だってそれは、祐巳の理想とはかけ離れている。 だってそれは―― 「だって、それはロザリオじゃなくて注連縄じゃないですか」 「これはロザリオよ、祐巳」 「いえ、それは注連縄ですって」 「これはロザリオ」 「いや、それは……」 「ロザリオ」 「はい、ロザリオです」 「ディス、イズ、ロザーリオ」 「イエス。ディス、イズ、ロザーリオ」 「ちょっと、祐巳さん負けちゃったわよ」 「祥子、冗談は程ほどになさい」 「ほら、これでいいのでしょう?」 「あ、はい」 祥子さまは今度こそロザリオを取り出して、祐巳の首にかけた。 ――って、あれ? ロザリオを、かけた? 「おめでとう。これで福沢祐巳さんは、山百合会幹部の仲間よ」 「あああ、あのっ。これっ」 「何? 注連縄がいやだというからそうしたんじゃない。ロザリオを出して、これでいいって訊いたら、あなた『はい』って言ったわよね」 「そ、それは。確かに」 ああ。確かにロザリオを受け取ると言うのと、同じ事を言ったのだ、祐巳は。しかもついうっかり。 「じゃあ早速祐巳には、私の妹としての最初の仕事をあげるわ」 拍手が鳴り止むのを待ってから、祥子さまは意気揚々と言った。 これはもう、仕方ない。祐巳は妹になると言ったも同然なのだし、儀式はもう済んでしまった。となると、後は祐巳が現実を受け入れるしかないわけである。 (もう、何でもこい――) 今の祐巳に出来る事は、もう開き直るぐらいしかなかった。 しかし、それにしても―― 「山百合会は学園祭の出し物として、劇をするわ。祐巳はその主役をやってちょうだい」 それは無いんじゃないですか、
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