逸(そ)れる夏
 
 
執筆:クロ(HARA-SHOW!

 
 自分の吐く荒い息づかいがやたら耳につく。
 鼓動はバクンバクンと爆発寸前で体中が心臓になったみたい。
 途端、スパンと海が開けた。
 深いブルーのじゅうたんに光の粒がチカチカ乱反射している。
 空と海の境界線はとてもあいまい。まっすぐな地平線は、空にカッターで切込みを入れたみたいだと思った。
 ペダルがすぅっと軽くなる。フワリ。一瞬無重力状態になり、オレンジ色の自転車は下り坂を一気に滑り始めた。
 潮の臭いのする風が私の体を吹き抜けていく。鼻を大きく膨らませて、肺の底まで思い切り吸い込んだ。
 八月の太陽が私を容赦なく照らしている。この身が燃え尽きそうなほど。
 
 
 
 
逸(そ)れる夏
 
 
 
 
 新しいマウンテンバイクを買ったのは七月の初め頃。
 GIANTかシボレーかで延々悩んだ挙句、結局色の気に入ったシボレー製のものにした。お値段は二万円。マウンタンバイクの中では決して高級車とはいえないが、それでも学生の私のとってはお年玉とお小遣いを貯めてやっと購入した大きな買い物だ。
 届いた翌日に家の前で磨きながらパーツの各所に触れてみる。フレーム、サドル、ハンドル、サスペンション。鼻歌交じりでライトを取り付けていると由乃がガレージにやってきた。
「今日届いたんだ」
「うん」
「顔がにやけてる」
「ふふ、でしょ」
 調整を終えたところで試運転。またがって家の前の道路を軽く走ってみる。驚くほどペダルが軽い。まだ体になじまない、アンバランスな乗り心地が私をワクワクさせた。
「令ちゃん」
「うん?」
「その自転車、よく似合ってる」
 ぐるりと一周したあと由乃の前で自転車を降りた。
「令ちゃんのすらっと伸びた足にね、オレンジの自転車のフレームがまっすぐでね。なんか、すっごくきれいだったよ」
 照れくさくて、笑った。そう言ってくれた由乃の顔はなぜか少し寂しそうな気がしたけれど。
 
 
 終業式が終わり、薔薇の館での一学期最後の仕事も片付いた。やっとバイクにまたがる時間が出来たことで、今年の夏はあれをこいでどこに行こうか、そればかり考えていた。と言っても夏休みから文化祭の準備をしないと間に合わないからすっかり息を抜けるわけでもない。休み中といえどお盆以外は普通に部活もあるんだし、大学受験をぼんやりと考えている身としては勉強を怠ることも許されない。
「今年の夏は忙しくなりそうだね」
「だねぇ。このバカ熱いなか剣道部の練習が夏休みもずっと続くなんて恐ろしいわ」
 由乃の頭はそのことでいっぱいらしい。殺人的な熱気を放つ午後のアスファルトの上は足どりも重い。
「でも聞いて!私、祐巳さん達とプール行くんだよ」
「へぇーよかったじゃん。でも由乃泳げないんじゃ」
「いいの、浮き輪でプカプカしとくもん」
 水着姿で必死に浮き輪にしがみつく由乃を想像して思わずふきだす。
「あはは、かっこわる」
「うっさい、令ちゃんのばか」
 こちらを睨みつける由乃の顔を見ながら、今年の夏、この子は私とあまりいてくれないんだろうな、と少しさびしく思った。
 
 
 案の定、例年の夏ほどは私と由乃は会わなくなってしまった。
 部活の練習から帰れば彼女は倒れこむように眠ってしまったし、土日には山百合会のメンバーと遊んだり、両親とスポーツ観戦に野球場に出かけたりと、やたらアクティブに動き回ってるらしい。今まで体が不自由だった彼女にとって、真夏の炎天下に外へ出られる喜びは新鮮で、嬉しくてたまらないに違いない。そんな由乃を傍らで見られることは嬉しかった。
 なのに、言いようのない心細さを覚えてる私がいる。そんな自分がほんのちょっと、うとましかった。
 
 
 
 
「明日、海に行くってほんと?」
 夕ご飯後、由乃がふくれっつらで私の部屋にやってきた。
「ほら由乃覚えてない?小さい頃よくみんなで行ったあの海水浴場」
「なんで言ってくれなかったの」
 由乃が眉を寄せてこちらを見ている。
「一泊してすぐ帰ってくるし」
「でも」
「わざわざ由乃に言うことでもないかなって、思ったから」
 少しキツい言い方になってしまったと気づく。でももう遅い。チラリと顔を見ると潤んだ瞳とぶつかった。
「令ちゃんのばか」
 バタン!と閉められたドアに打ちのめされたのは、彼女と生きてきた人生で何回目のことだろう。憂鬱な気持ちを感じないように明日の荷造りに集中する。たった一泊なのに不思議とまとまらない荷物と、私は無言で格闘し続けていた。
 
 
 翌日、朝食をしっかりと食べた後、バイクで重い輪行袋をかついで家を出る。駅までは父が車で送ってくれた。
 小田急で藤沢駅まで向かう。大きな輪行袋を足の間に挟んで椅子に座り今日のことを考えていた。藤沢〜鎌倉まで江ノ電沿いに走って鎌倉の民宿に泊まる。明日は周辺を散歩してから江ノ電に乗ってゆっくり帰る。父と母が好きなようかん屋さんにも寄っていこう。あれこれ考えていると昨日の夜からのなんとなく重い気持ちがだいぶ軽くなった。
 藤沢駅に着いてバイクを組み立てる。三十分ほどで調整も綺麗に終わり出発。時計を見ると十時半を回っていた。まだ午前中なのにすでに額から汗がタラタラと流れてくる。今日も暑い一日になりそうだ。
 
 
 四時ごろ、道路上のじりじりと焼けつく暑さはピークを迎えていた。
 ペットボトルの生ぬるいエビアンを飲み下す。西日が照り始めるこの時分、アスファルトは湿り気のある熱気を放ち、太陽の反射板のようだ。今朝作った目玉焼きの気持ちがよくわかる。
 公園の木々が作る日陰に避難して、額の汗をタオルで拭った。あと一時間もすれば宿に到着して、大きなお風呂に入って、ほかほかの晩御飯にありつけるのに、朝からバイクに乗りどおしで炎天下の中疲れきった体はなかなか動こうとしない。ベンチにもたれて,、自販機で買った冷たい緑茶に口をつけた瞬間。
「ああーーーーーーーーー!」
 背後から大きな叫び声がした。びっくりして思わずケホケホむせる。
「もうっ蝉が逃げたじゃない」
「ご、ごめん」
 振り返ってみると、木陰の中に二人の子どもが立っている。手には大きな虫取り網を握り締めて、肩からグリーンの虫かごを下げていた。小学校低学年くらいだろうか。一人はのっぽで髪を三つあみにしていて、短い髪のもう一人は男の子かと思ったが、よく見ると顔立ちはしっかり女の子だった。
「もう、あそこじゃ届かないよ」
 髪の短い小さい子の方が恨めしそうに木の上に目を凝らしている。どうやら捕ろうと狙いっていた蝉が高い位置に移動してしまったらしい。
「・・・ごめん」
 三つあみの子がまた謝った。本当にしょんぼりと、申し訳なさそうにうなだれている。まるでこの世の終わりのような、見ていてこちらが気の毒になるほど暗い顔。
「お姉ちゃんがとったげよっか」
 声をかけると二人は驚いたようにこちらを振り返った。ショートヘアの子は明らかに警戒しているっぽいが。
「ちょっと貸してみて」
 三つあみの子は不安げな顔をしながら虫取り網をおずおずと差し出した。木立を見上げると2.5メートルほどのところに大きな蝉が張り付いている。私はそうっと虫取り網をかまえて勢いよくその上にかぶせた。ジジッと蝉の慌てる声がする。すばやく網を下ろすと白い網目の中でがしゃがしゃと蝉がもがいていた。
「おっ、とれた!とれたよほら!」
「ほんとだとれてる!」
 二人はきゃあきゃあとはしゃぎつつ蝉を慎重深く網の中から取り出し虫かごに入れた。ミンミンと虫かごの中で鳴いているのを口を空けて夢中で見つめている。気の強そうなショートの横顔が、なんとなく小さい頃の由乃とダブって見えた。
 二人で外に虫捕りに行かなくなったのはいつのころだっけ。四六時中一緒にいた夏。由乃なしで一人で出かけるなんてあの頃は考えもしなかったのに。
 
 
 ちびっ子達にお礼を言われながら公園を後にした。休憩をとったせいか、それともたくさんの「ありがとう」にいい気分になったせいなのか、ペダルを踏み込む足はだいぶ軽くなった。
 しばらく行くと徐々に勾配が急になり始める。ここから先は今日一番の正念場。太ももがじわりじわりとしびれてくる。一心不乱にペダルを漕ぎつづけていると直射日光と酸欠気味のせいか頭がぼうっとしてきた。
 ああこの瞬間。この瞬間が好きなのだ。
 夢中で体を動かしつづけていると頭の中をごちゃごちゃとかき回していた雑念がどこか遠くのほうに飛んでいく。恐ろしく肝が座って、なんだか全てがどうでもよくなって、自分の前にあるのはただ体を動かしつづける、反応しつづけるというミッションだけで、それに集中していれば全部がうまいこと過ぎていきそうな、そんな感覚。空っぽになる自己。意識と体が溶け合っていって波風一つ立たないまっさらな状態。そんなものを一瞬でも感じていたくて私は日々剣道場で練習に打ち込む。これが父さんの言っていた鍛えぬいた武人だけが到達できる「無の境地」というやつなのかもしれない、と私は本気で考えていて、由乃にそのことを言ったら「ドMなんじゃないの」とばっさり斬り捨てられたけど。
 坂道がもうすぐ終わる。心地いい下り坂が私を待っている。それまでペダルを踏もう。あと少し。あと少しだから。
 
 
 坂を下り終えてからは真っ直ぐな道がずっと続くのみであっという間に宿に着いた。
 父の友人が経営している民宿で、私が中学校に上がるまでは支倉家と島津家みんなで夏になると必ず泊まりに来ていたものだ。
 久々に見る木造の古い日本家屋の民宿は、私の胸を懐かしさで少し痛くした。海辺の鎌倉の町並みに不思議なほどしっくりとなじんでいる。
 少しすべりの悪い引き戸を開けるとおかみさんがちょうど玄関で靴を並べている最中だった。
「あら、令ちゃん?」
「お久しぶりです」
「まぁー・・・大きくなったわねぇ!ちょっと待って」
 とバタバタとご主人を呼びに行った。しわの増えたおかみさんの笑顔に、流れた年月の大きさを感じる。ご主人に挨拶をして父からのみやげを渡す。そのあとおかみさんに案内されて部屋に通された。
「令ちゃん達がよく泊まってたお部屋よ」
 ふすまをがらっと開くとそこには窓から見える一面の朱い海。ガーネットみたいな夕焼けのせいでオレンジ色にきらめいている。
「きれい、すごく眺めがいい!」
「でしょう、朝早起きしてみると朝焼けもよく見えて綺麗なのよ」
 こんないい部屋で今夜過ごすなんて。私はすごく贅沢な気分になった。
 
 晩御飯は本当においしかった。いかの刺身は甘くてとろとろだったし、カサゴの味噌汁はだしが利いていて何杯でも飲めそうだった。お客さんにおいしい料理を食べさせようという、作り手の丁寧な気持ちがきちんと伝わる、いい料理だった。
 部屋に戻って着替えを持って大浴場に向かう。夏休みの平日である今日、女性の泊り客は私だけらしく、実質的な貸切りの状態だった。大きな浴槽を一人占めしながら、鼻歌を歌う。題名がわからない、お父さんがいつも歌ってる古いフォークソング。知ってる部分だけ何回も繰り返し歌った。
 風呂から上がると部屋にはもう布団が敷かれていて、気分がよくなっていた私は思い切りその上にダイブした。鼻に真っ白な布団のシーツをこすりつけるとお日様のあたたかいにおいがして、それだけでもうひどく幸福な気持ちだ。いっときごろごろと布団の上で転がりまわっていたが、今日の疲れのせいか、うとうと意識が遠のいていく。
 
 
 
 
 
 
 誰かに呼ばれた気がしてふっと目が覚める。自分が布団を抱きかかえたまま電気も消さずに眠っていたことに気づき、のそのそと起き上がり電気を消した。
 その瞬間、空が白みつつあることに気がつく。夜明けが近いのだ。時計を見ると四時を回っている。
「朝早起きしてみると朝焼けがよく見えて綺麗なのよ」
 おかみさんの言葉を思い出した。まだぬくもりの残る布団にもう少しくるまっていたい気持ちと綺麗な朝焼けを見たい気持ちがあって、どうしようかと頭をカシカシかきながら考えたが、結局起きて外に出てみることにした。
 浜辺に出ると潮風がぶわぁっと髪をなでた。むせかえるような磯の香り。真夏なのにTシャツから伸びた腕が少し肌寒かった。シューズで白い砂浜を踏むたびに、さくさくさく、と音がする。
 誰もいない浜辺に腰を下ろした。
 ザザーン、ザザーン、ザザー、ザザーン・・・・。
 波が寄せてはかえす音だけがあたりにこだましていた。まるでこの耳には波の音以外何も聞こえなくなってしまったのだろうかと不安になるほど。
 なんだか、世界中で独りぼっちになってしまった気がした。
 ああ、由乃に会いたい。由乃の声が聞きたい。
 こみあげてきた衝動は泣き出しそうになるくらい強かった。
 その瞬間ぴかっと西の空が光った。思わず目を細める。
 地平線が白っぽいオレンジ色にめらめらと燃え上がり、炎のような太陽が顔を出す。空は群青と朱色の鮮やかなグラデーションをなして、夜と朝とがせめぎあっている。
 この空を由乃にも見せてあげたい。いま、由乃が隣にいればいいのに。
 離れるほど相手がそばにいてほしくなるなんて、人間て不思議だ。
 
 
 その日の十時ごろ、宿を後にした。帰りは輪行袋にバイクをいれたまま電車で帰る。早くあの子に会いたかった。快速のない江ノ電にもどかしく思いながら、ごとごとと揺れていた。
 
 
「どしたの令ちゃん」
 ノックもせずに部屋のドアを開けた私に驚いた由乃が言った。私は無言でつかつかと由乃に近づく。
 いつもと様子の違う私に由乃はどぎまぎしながらこちらを見ている。
 思い切り由乃を抱きしめた。相変わらず華奢な肩が腕の中にすっぽりとおさまって、安心する。
「・・・変なの、たった一泊だけだったんでしょ。私に言うまでもないって言ってたくせに」
 そう耳元でつぶやいた由乃の声は拗ねているようで、甘ったるかった。
「おかえり」
「ただいま」
 その一言で、私が新しいバイクを欲しがった理由がわかった気がした。再確認したかったんだ、彼女と私の居場所を。お互いの帰るべきところを。
 
「令ちゃんはずるい」
 ベッドに体育座りした由乃はふくれっつらで言う。
「一人で自転車買って、一人で旅行して、一人でどっかに行っちゃうんだわ。私がどんな気持ちで昨日すごしてたか、何にも知らないくせに」
 そうたたみかけると満足したのか、私が鎌倉土産に買ってきた羊羹を大口でほおばる。
「私だって」といいかけて、ぐっと言葉に詰まる。
 由乃が一人になるのは私だけのせいじゃないよと?貴女がいろんな友達といろんな場所に出かけるからじゃないかって?私だって寂しかったのに?
 何を怒ったらいいのかわからなくなって、はたと気づく。
 
 これは仕方がないことなのだ。私たち二人はもう今までどおりじゃいられない。
 
 なんだか唐突に強烈に、私は悟ってしまった。
 お互いに依存して、依存されて、過ごしてきた17年間。私は由乃だけを見ていたし、由乃は私だけを見ていた。世界の中には私たちしかいなかった。
 でも今では山百合会に入って、部活動に入って、お互いに友人ができて。私にはお姉さまや祥子がいるし、由乃は志摩子に会い祐巳ちゃんに出会った。世界はいまや二人だけのものではない、あまりにも潤沢なものになりすぎてしまった。
 由乃と二人きりの部屋の中、私はその事実にいやおうなく気づかされてしまって、この気持ちをどう由乃に伝えたらいいのかわからない。悲しいような寂しいような、ほのかな痛み。変えようの無い大きな流れの入り口に立ったときの、ひやりとした感じ。突然のこの感覚をどう打ち明けろというのだろう?
「どうしたの?」
 由乃は目を丸くしてこちらを見ている。彼女はまだ気づいていないのだろうか。二人は大きな分かれ道に立っているということに。それもそうだ、彼女は私がいまだにリリアンの大学へ進学すると思い込んでいるのだから。
「なんでも、ないよ」
 私は笑って羊羹を口に放った。のどの奥に広がるしょっぱさをあずきの甘みでごまかす。
「自転車は一人で乗るものだからいけないのよ。令ちゃんは私を放って一人で出かけるための口実でバイクを買ったのかと疑っちゃったくらい」
「そんなつもりは」
「わかってるのよ、だから考えたの」
 由乃は得意げに提案した。
「来年の夏は二人でツーリングよ。私が自転車に乗れれば文句なし。でしょ?」
「それはいい考えだね」
 来年なんてきっとすぐのことなのに。なんだかずっと先の未来のように思えた。不確かで頼りなくておぼろげな約束。
「来年はもっと一緒にいようよ」
 由乃は当然のことのようにそう言って、くったくなく微笑んでいた。
 
 
 
 
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