もう貴方を振り返らない
 
 
執筆:滝(流れ落ちる何か

 
 雨粒は人生に似ている、とは、友人の言葉だった。
 確かあれは、修学旅行の最中。バスの車窓を、雨が滑った時だった。友人は、「ほら、色んな人を巻き込みながら滑っていくから」と、照れくさいのか笑っていた。
 ならば私は、流れ落ちる雫に巻き込まれる雨粒ではなく、勢いよく下って行く雨粒なのだろう。巻き込みながら、自然の力に逆らえずに進んでいく。恐らく一番無力な存在。
 一つ、ひとつ。車窓に打たれた雨は、幾筋もの川を作っては落ちて行く。滑っていく雫同士は、決して混じり合わずに。
 
*        *        *
 
 夕暮れ時の陽光が窓を差していた。日中の光とは別の鋭さを持ったそれは、部屋にくっきりとテーブルの形を浮かび上がらせている。
 無音を厭ってかけたクラシックは、静かなピアノソロの場面だった。おかしな話だと思う。普段は音楽なんてかけない方が落ち着くのに、こういう時に限っては気持ちを静めてくれる。
「お待たせ」
 ドアノブだけがカチャと派手な音を立て、扉が開いた。部屋に入ってきたその人は、片手に紅茶のカップを載せたトレイを持っている。
「あら、今日は私が淹れようと思っていたのに」
「君が淹れていると時間がかかる。それにお邪魔にならないように、何て言われて渡されたんだ。僕の意思じゃない」
 優さんは小さく苦笑して、トレイをテーブルに置いた。使用人の配慮ならば、文句を言うのも憚られる。
「しかし、今日は大変だったよ。花火大会があるとかで、交通規制がかかっていた。こういう時だけは、マニュアルの車が嫌になるよ」
 まただ、と祥子は思った。祥子の方から話をしたいと言い出した時、いつも本題から入らない。会話を温める、というのだろうか、頃合になったらいきなり本題を振ってくるから、用心しておかなくてはいけない。
「そうなの? 私は車を運転したことがないから、分からないのだけど」
「ああ、さっちゃんも免許を取る時はマニュアルで取るといい。苦労がよく分かる」
 優さんがトレイをテーブルに置いて座ったから、祥子は紅茶のカップを手に取った。考えて見るわ、と言いながら。
 その時に、添えられた茶請けに気が付いた。メイプルパーラーのソフトクッキー。小笠原家には来客用に常備されていて、いつも出てくるお菓子。だけど祥子と優がそれぞれ何の味が好きかだなんて、相当勤めの長い使用人でないと知らないだろう。
 ――それに少し、胸が痛む。
「それにしても、祐巳ちゃんには驚いたね」
 その言葉にはっとした。まだ本題を逸らし続けるのかということより、祐巳の名前が出てきたことに。
「驚いた、って?」
「前から度胸のある子だとは思っていたけど、まさかアカペラで歌い始めるなんてね」
「ああ――」
 この前、というのは別荘に滞在していた間のことらしい。西園寺の大奥方の誕生パーティーで、祐巳はマリア様のこころを歌い上げた。
「二番目から、さっちゃんが伴奏に入っただろう? あれも中々格好よかった」
「……ありがとう」
 褒められるのは悪い気持ちではないけれど、話の逸らし方がわざとらしい。思わずその不快感が口調に滲み出て、優さんは難しい顔をした。
「さて」
 その言葉が「さあ」に聞こえて、祥子は身構える。
「今日の用件は?」
 スピーカーが、アレグリのミゼレーレを奏で始めた。
「一年前……いえ、十ヶ月ぐらい前のこと、覚えているかしら」
 いわゆる『前フリ』はもういいと思ったから、単刀直入に言った。
「十ヶ月前……というと、学園祭のことかな」
 ええ、と頷いて、空になった紅茶のカップを置いた。やけに喉が渇いていて、アイスティーはすっと喉に吸い込まれた。
「あの時に私が言ったこと、まだ覚えている?」
「……」
 優さんは音も立てず、ソーサーにカップを置いた。中身はやはり、空。
「あの時と同じことを言ったら、貴方はどうするのかしら」
「それは、婚約解消したいって話で間違いないんだよね?」
「そうよ」
 強くそう告げると、優さんは足を組んでテーブルに肘をついた。落とした視線の先には、さっきよりも長い影が伸びている。
 影の中を、影の鳥が飛んで行く。何なんだろう、この沈黙と空白は。まさか今考えて、答えを出すつもりなのだろうか。祥子の意思は、ずっと前から知っているはずなのに。
「もう一度、キチンと言うわ」
 気概を込めた声で言うと、優さんはこちらを向いた。大好き“だった”優しい眼差しが、今は憂いだけをのせていた。
「私と優さんとの婚約の話、なかったことにしたいの」
 眼差しが逸れる。視線に耐え切れないのではなくて、そうすることの方が自然のように感じられた。
「――分かった」
 小さな川のように緩やかに流れていた時間は、その言葉で固まった気がした。
 今胸にあるのは安堵と、喜びと呼ぶには複雑すぎる気持ちだけ。望んだ通りの言葉だったけれど、一体何故と思ってしまう。
 あの時あんなに怒ったのに、何故。あれほど小笠原家を大事にしていたのに、何故――。
「婚約を解消しよう」
 その言葉で全てが完全な現実となった瞬間、全てが解け出した。ばら撒かれたパズルのピースは、あまりにも大粒で分かり易い。
 祥子を愛せないと言ったのも、婚約解消を拒否したのも、今になって意見を変えたのも、全部――全部、優さんの。
「どうしたの? 自分から言い出したのに、顔色が優れないな」
「……何でもないわ」
 やめて欲しい、これ以上優しくするのなんて。辿り着いた答えを正解だと言われているようで、堪らない。そんな風にされたら、また――。
「叔父さんたちに話すのは、みんなが揃った時にしようか」
 祥子が「そうね」と答える間に、優さんは立ち上がった。早く出て行って欲しいのか、その逆なのか、心の色は明らかに後者で思わず当惑する。
「さっちゃん」
 優さんはドアノブに手を当てたまま、振り向いて言った。
「例え婚約関係がなくなっても、さっちゃんが大切だってことに、変わりはないからね」
「……ありがとう。それは私もよ」
 じゃあまた。そう言って消えて行った背中は、ただ純粋な想いを向けていたあの時と同じで、失くしていた気持ちを思い出しそうになる。
 ――それでも、確かに終わった。後戻りの出来ない代わりに、目の前は大きく拡がっている。
 バタン、とドアが閉められると、さよならが胸に響いた。深く深く、心のずっと奥の方まで。
「さよなら」
 さよならだから――もう私は、あなたを振り返らない。
 窓から見える茜色の空が歪んで、雫が滑り落ちた。それは何も伴わず、ただ一滴。たった独りで、落ちていく。
 
 
 
 
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