青春
 
 
執筆:茜雲(蒼色蒼光

 
「暑い」
「そうね」
 脱ぎ散らかされた服の山。終業式の日に床に放り捨ててから一度も触れていませんという雰囲気を匂い立つほどに漂わせる鞄。いや、匂い立っているのは服の方か。サンダルを脱いだ裸足で絨毯の上を歩くと、細かい紙屑や埃が足の裏にくっ付いてザラザラと気持ちが悪い。ひょっとしたら砂とかも含まれているのかも知れない。あまりに暑いから掃除をする気にもならなかったのだと言い訳をしていたが、これが人を招き入れようとする部屋なのか、これがあの鳥居江利子の部屋なのかと、曲がりなりにも彼女のファンの一人として心底がっかりした。黄薔薇さまのタイはリリアン一美しい、きっとお部屋も綺麗に整頓されているのだろうなんて妄想を抱いている生徒たちにこの部屋を見せてやりたい。黄薔薇さまが片付けのできない女だったなんてと、ファンが減るだろうか。それとも逆に、生活感溢れる黄薔薇さまも素敵だわ、私がお掃除してさしあげたいわと、ファンが増えるだろうか。
「暑い」
「言わなくても分かるから」
 私の家で一緒に夏休みの宿題をしましょうと誘ってきたのは江利子の方だ。どうせ一人ではやる気が起きないから、突然そんなことを言ってきたのだろう。別に断る理由もなかったから、家の中にいるだけでも熱中症になりそうな炎天下をえっちらおっちら歩いてきてやったのに、待っていたのはこのだらしない部屋と、今朝クーラーが壊れちゃったのという死刑宣告だった。扇風機は一応あるものの、熱風が送られてくるだけ。汗が出てこなければ暑くないという訳じゃない。こんな場所で勉強なんてできるか、涼しい図書館に行こうと提案したら、私はここでやろうって言ったのとちょっとマジギレされた。どう考えてもこっちの言い分の方が理にかなっているのに、いつも無気力な江利子がそんなにムキになるのは珍しかったから、つい気圧されてすごすごとミニテーブルに腰掛けてしまった。
「暑い」
「夏なんだから当たり前でしょ」
 そもそも、どうして高校三年生に夏休みの宿題があるのか。どうして高校三年生が読書感想文を書かなければならないのか。マリア様は受験という言葉を知っているのだろうか。こちとら大学受験なんてする予定もない人間だが、なんだか無性に癪に障ったので芥川龍之介の『文学者たらむと志した動機其の他』で書いてやった。本文は二行。感想文は原稿用紙五枚。投げやりな割には、中々いいものが書けたと思う。本の量や質は関係ないのだと、これ以降はもう二度と読書感想文を書かなくてもいい身分になって初めて悟った。昔からそうだった。一足遅く、大切なことに気付く。
「暑い」
「そう言って涼しくなるのならずっと言ってなさい」
 その読書感想文は、数日前にもう終わらせている。こっちに来てから始めた古文のプリントも、五枚中四枚は終わらせた。さて残り一枚と大きく伸びをしたとき、三時になったからおやつにしない? と江利子が言い出して、返事も聞かない間に部屋を飛び出して麦茶とカップアイスを二つずつお盆に乗せて持ってきた。本末転倒とは正にこのことだ。三時になったからおやつにするのではなく、おやつが欲しくなるのが三時頃というだけなのに。時計の針に支配された現代人は、どうもそういうところがある。 七時になったから何となく起きて朝食を取って、十二時になったから何となく昼食を取って、七時になったから何となく夕食を取って、十二時になったから何となく寝る。こう書くと食べて寝てばかりのようだが、事実これは夏休みに入ってからの私の生活サイクルである。そんなことを話すと、じゃあアイスはいらないのねと江利子が再び立ち上がったので慌てて引き止めた。せっかちな奴だ、誰もいらないなんて言っていないじゃないか。バニラとチョコミントのどちらがいいかと訊かれて、今年の新製品だというチョコミントを選んだ。ミントなだけあって歯磨き粉のような味がしたが、結局はアイスだしその上チョコチップも入っているので、後でミント味の歯磨き粉で歯を磨かないと虫歯になることは間違いない。
「暑い」
「私も暑い」
 麦茶を飲んで、アイスを食べて、ようやく宿題を再開するのかと思いきや、食後の休憩だと江利子は自分のベッドに寝転がり始めた。テレビを点けてと頼まれて本体のスイッチを直接押してから、そのベッドの上にリモコンがあるのに気付いて少しイラッときた。テレビはちょうど高校野球の第二試合が終わって、勝利校の校歌が流れるところを映していた。作詞は北原白秋、作曲は山田耕作。仲が良かったのかよくこのコンビで校歌を作っていたらしいが、彼らは依頼をしてきた高校がどんな高校であるかをちゃんと調べた上で作ったのだろうか。第一印象で言わせてもらうと、その高校がどんな場所に建っているかだけで作ったような気がする。地名や風景に関する歌詞が多く、他は月並みな文句が積み重ねられているばかり。でも、七五調の詩でないのは評価してあげてもいいし、メロディラインも嫌いじゃない。
「だったら、いい加減そこどいてくれない?」
「やだ」
 せっかくなんだから、ここにいる間にせめて古文のプリントは終わらせておきたい。すっかり勉強する気をなくしてしまった江利子を起こそうとして近寄った、それが運の尽きだった。今まで死体みたいに硬直していた江利子が急に動き出して、あっという間にベッドに押し倒されてしまった。へへーん、聖を征服したわ、なんてつまらない親父ギャグ。そのくせ全然涼しくならない。力はたぶん私の方が強いから無理矢理どかそうと思えばどかせられるのだけれど、江利子にのしかかられているというこの状況が何だか嬉しくて、江利子の全体重を受け止めているというこの状況が何だか嬉しくて、江利子が何だか嬉しそうにしているというこの状況が何だか嬉しくて、なされるがままにマウントポジションを取られて、もう二十分くらいが経つだろうか。耳の周りを不愉快な羽音を立てて飛び回る蚊。テレビから漏れ出してくる甲子園のサイレン。アスファルトに染み入る蝉の声。三十六度の天然カイロ。灼熱。酷熱。極熱。情熱。 その全てが一つの感情を導きだす。暑い。もはや扇風機は何の役にも立たなかった。汗がだらだら、滝のようにというレベルではない。津波のように流れ出してベッドのシーツをぐしょぐしょにしてしまっている。さっき麦茶とアイスで補給したから、汗に変換される体内の水分はいくらでもあった。
「だって、暑いんだもん」
 唐突に江利子が抱きついてきた。いや、倒れ込んだと言った方が正しい。距離が近づいたことで、自分のではない心臓の音と、ガス漏れのような呼吸音がはっきりと聞こえる。どくん、どくんと、確かにもう一つの生命がうごめいていた。腹の中に自分の子を宿した母親は、このように安らかな気持ちでいるのだろうか。シーツに染み込んでいる汗には、江利子のものも含まれている。むしろそっちの方が多いのではないだろうか。弱点がないように見えて、実は人一倍暑さへの耐性がないことを知っている。今だって相当きついはずなのに、離れようとしない。まあ、仕方がない。頭がいいように見えて、江利子はどうしようもないくらいに馬鹿だから、しょうがない。華奢な首筋に両腕を巻きつける。古文のプリントの残りは、どうやら家に帰ってから片付けなければならなくなりそうだった。それにしても、暑い。
 
 
 
 
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