ヒノサクラ
 
 
執筆:Rooster(Dawn in a hole

 
 生温い夜気が頬を撫で、古ぼけたスピーカーから流れる祭囃子がその中を通り過ぎていく。屋台の呼び込みの声や子供たちの歓声がそこに加わり、辺りは祭りの色一色に染め上げられていた。
 人ごみの流れに逆らわないよう、かつ志摩子さんとはぐれないように、歩調に気を配りながら気になった店を覗いていく。といっても冷やかし半分に覗いていくだけで、実際に買ったのはペットボトルのお茶くらいのものなのだけど。
 夏休みもあと数日で終わろうという昨日になって、私は志摩子さんを花火大会に誘った。夏休みの後半を山百合会の仕事に費やした分の、ささやかな打ち上げの意味も込めて。
 志摩子さんは少しだけ考えるそぶりを見せた後、にっこりと笑って、いいわよ、と言ってくれた。私は嬉しくてつい、やった、なんて言ってしまって志摩子さんに笑われたのだけど、それはまあ大したことではないと思う。
 目の前を、風鈴をぶら下げたカップルが歩いている。ほおづき色の風鈴は、女の人が着ている藍色の浴衣に映えて、とても綺麗だった。
 それを見て私は、去年の夏休みの小旅行での出来事を思い出した。訪問したお寺から帰る途中で神社のお祭りに寄ったら、志摩子さんが屋台の風鈴に夢中になってはぐれてしまったのだ。今だから笑い話で済むけれど、旅先で連絡手段も無しにはぐれた時は本当にあせったものだった。
「ねえ、志摩子さん」
「なあに?」
 横で歩いている志摩子さんに、ちょっとだけ意地悪な表情をしてみせる。
「今度は、迷子にならないでよね」
「の、乃梨子」
 よっぽどあの時のことが恥ずかしいのだろうか、志摩子さんが私の言葉に眉を曇らせる。けれどまあ、それだって私には大切な思い出だ。あの時買ったおそろいの風鈴は、一年を経て取り外されることもなく、今でも部屋に飾ってある。そういえば、一度うちに遊びに来た瞳子が「季節はずれにも程がある」とか言ってたっけ。理由を話したら「惚気ているのか、子供っぽいのか。まあ、その両方なのでしょうけど」とまで言われた覚えがある。
 そんな記憶を頭の中から追い遣ると、私はちょっと不機嫌そうな顔で隣を歩いている志摩子さんに話しかけた。
「もう。そんなむくれないでよ」
「……別に、むくれているわけではないわ」
 むくれているわけではないけれど、内心複雑なのは確かなようだ。
「それよりさ、花火、もうそろそろ始まるから、早く行って良さそうな場所を探そうよ」
 私は志摩子さんの手を引いて、人ごみの間を縫うようにして歩き出した。こんな時、手を引いて先を歩くのは、いつだって私の役目だ。そして志摩子さんは、そんな私に笑いながらついて来てくれる。それが、いつもの私たちの在り方だった。年の差がどうだとか、どちらが姉だとか、そんなことは私たちにとってはそれほど重要じゃない。ただ、こうしているのが自然なだけだ。
 普段なら野球ができそうなくらい広い河川敷は、花火を見に来た人でいっぱいだった。けれど、全然座る場所がないというわけでもなかったから、私と志摩子さんは適当な場所を探すと、持参したビニールシートを広げてその上に腰を下ろした。
 周りを見回すと、花火の写真をとるのだろう、カメラを肩にかけたままで三脚を立てている人がいる。その隣では家族連れの一団が、ビールやジュースを片手に談笑しているのが見えた。
「そろそろ暗くなってきたわね」
 太陽の残照が追い遣られ、代わりに夜の闇が空を覆っていくにつれ、期待感が少しずつ高まっていく。隣にいる志摩子さんの表情も待ち遠しそう。周りの雰囲気も心なしか浮き立っているように感じる。
 あっ、と誰かの声が聞こえると、光の玉が上昇していくのが見えた。それから、ぱぁーん、と破裂音が響く。
 挨拶代わりの一発目が、橙色の花になって夜空に咲いた。
「乃梨子、始まったわよ」
 その志摩子さんの声を覆い隠すように、光の玉が昇る音、それが破裂する音が立て続けに耳を叩く。
 牡丹、菊、銀蜂。色んな種類の花火が、まだ少しだけ明るさを残した夜空に打ち上げられるたび、あちこちから歓声が届く。私は外国の花火を見たことがないけれど、こういう時は日本人でよかったと思う。
「他の人たちも、来られたらよかったわね」
 花火を見上げていた志摩子さんが、私の方を向いてちょっと残念そうに言った。
「そうだね」
 
 
 
 本当は、山百合会のメンバー全員で来るつもりだったのだ。ただ、私がこの花火大会のことに気付いたのが遅かった上に、あまりにも話が急だったものだから、他の人たちの都合が上手くつかなかった。だからこうして志摩子さんだけをさそって、二人っきりで来ることになってしまった。
 けれど私はそれでもよかった。それは、志摩子さんと過ごす最後の夏休みに、これでまたひとつ、二人だけの思い出を積み上げられるから。そんな、子供じみた独占欲のような気持ちがあったのは確かだと思う。
 昔だったら、そんなことは考えなかった。志摩子さんと一緒にいられるのが単純に嬉しくて、ただそれだけでよかった。
 それが、二人でいることにこだわるようになってしまったのは、つい最近のこと。きっと、夏休みに入る前、祐巳さまや由乃さまが進路の話をしているのを耳にしてしまったからだろう。それが私の心に引っかかって離れない。
 志摩子さんは、卒業したらどうするつもりなのだろうか。
 考えてみれば、私たちは志摩子さんの進路について二人で話をしたことがない。けれど、卒業まであと半年とちょっと。進路を決めるならもうそろそろ心の中では決まっていないといけないはずだ。
 私は隣で花火に小さな歓声を上げている志摩子さんを盗み見た。その横顔は屈託のない表情で、今のこの瞬間を心から楽しんでいるように見える。本当は私もそうするべきなのだろう。だけど、一度湧き上がった思いは、そう簡単に消えてはくれない。私は次々に打ち上がる花火を眺めながら、心の中では別のことを考えていた。
 シスターになりたいと言っていたのは覚えているし、その憧れもなくなってはいないだろう。けれど――これは今年の頭くらいからそう思うようになったのだが――志摩子さんはシスターになることに以前ほどこだわらなくなったように思う。
 それがいいことなのかどうかは、私にはわからない。クリスチャンではない私が、信仰のあり方をどうこう言える立場にあるとは思えないからだ。ただ、私の目から見た限りだと、志摩子さんは、出会ったばかりの頃に比べて、内面的にずっと自由に、穏やかになったように思う。その変化の一端としてシスターへのこだわりが少なくなっているのなら、それは多分悪いことではないのだろう。誰かに強制されてシスターになるわけじゃない。当たり前の話だけど、志摩子さんの進路は志摩子さんが決めることだ。



 そんな風に思っていながら、私は志摩子さんの進路について自分から聞こうとしなかった。それは、志摩子さんの選択がどんなものであっても祝福できるという自信と、それの裏返しのような感情が混ざり合った、自分でもよくわからない気持ちからだった。
 ただ言えるのは、進路について志摩子さんから何かを聞き出そうとするのは、私の中にあるその自信を、自分で否定してしまうような気がするということだ。
 時々、そう時々考える。志摩子さんがシスターになるという未来。それは私たちの永遠の訣別を意味するわけではないけれど、今までのように気軽に会うことはきっとできなくなるだろう。その修道院の性格、というものもあるだろうけれど、自分を神様に捧げて生きるシスターの生活はとても厳しいものだと聞いている。少なくとも、今日のように前日にいきなり誘い出してどこかへ遊びに出かける、なんてことは不可能だ。
 そんなことを考えると、私の自信に髪の毛のような細い亀裂が走る。けれど私は慌てずそれを修理して、再び自信を取り戻す。
 強がりじゃない。私はきっと最後には笑って志摩子さんの未来を祝福できる。ただ、平衡を保っているやじろべえだって、たまに風に吹かれて揺れることもある。これは、ただそれだけの話だ。
 私は頭の中でぐるぐると回り始めた考えを断ち切ると、夜空に広がる花火に目を向けた。今日はここに考え事をするために来たわけじゃない。
 またひとつ、光の玉が昇っていく。ぱっと咲いた今度の花火はしだれ柳。尾を引きながら落ちてくる光は、もしかしたら地面に届くんじゃ、なんて思わせる。
 私はもうすっかりぬるくなったペットボトルのウーロン茶を喉に流し込んだ。見ると志摩子さんも同じように日本茶を飲んでいる。
 しだれ柳に続いてスターマインが上がった後、花火の打ち上げが止んだ。多分、小休止を兼ねて次の準備をしているのだろう。
「志摩子さん。花火は好き?」
 耳を叩いていた花火の破裂音の代わりに、周囲のざわめきが聞こえてくる。なんとなく手持ち無沙汰で、私はそのざわめきを縫って志摩子さんへ話の水を向けた。
「ええ。線香花火のような小さなものも風情があって好きなのだけれど、こういう大きな花火も好きよ」
 そう言って志摩子さんは、口にしていたペットボトルのキャップを閉めた。
「乃梨子は? 乃梨子は大きな花火と小さな花火なら、どちらが好き?」
 暗がりの中なのに、志摩子さんの鳶色がかった瞳が私の瞳を見つめているのがわかる。私はその視線を外さないように気をつけながら、志摩子さんの質問に答えた。
「私は今見ているような打ち上げ花火が好きかな。ぱっと咲いて、ぱっと散るのがいいと思う」
 手持ち花火が嫌いなわけじゃない。ただ、花火、と聞いてすぐに思い出すのは打ち上げ花火だったし、志摩子さんに言ったのは本当にそう思っていることだ。
 すると志摩子さんはおかしそうに笑った。
「何だか乃梨子の言い方だと、桜の花みたいね」
 ああ、そうかも知れない。桜も花火も、ぱっと咲いて、ぱっと散る。一瞬のきらめきを見る者の心に残して通り過ぎていく。
 何故だろう。私は志摩子さんにそう指摘されたことが嬉しくて、さっきまで傾きかけていた自分の心がこんな簡単に揺り戻ったことがおかしくて、つい頬をゆるめてしまう。
 きっとこの暗がりじゃ、私がどんな顔をしているかなんて、はっきりわからないだろう。でも、さっきの私がそうだったみたいに、よく見えないはずなのにわかってしまうかも知れない。
「そうだね。そう言われてみれば、そうだよね」
 だから私は、ゆるんだ頬をせめて、微笑んでいる、と呼べる程度に引き締めなおして、志摩子さんにそう言った。
 その時、笛の音のような甲高い音が耳に届いた。同時に暗がりの中で私たちの頭がぴくりと動く。
 顔を向けた先で、花火が再び始まった。今までの暗がりを拭い去るように明るく輝く光の花は、不意を突かれてぼけっとしている私たちを照らし出す。
 私たちはその中で、お互いの顔をちょっとの間だけ確認し合った。少しぼけっとしていた志摩子さんの顔は、すぐに楽しそうな笑顔に変わり、かと思ったら暗がりの中に消えていく。けれど次の花火が再びその顔を照らす。きっとその明かりの中で、私の顔も同じような笑顔になっているに違いない。
 私たちはそうやってお互いを見合った後、再び顔を夜空に向けた。その間際――
「乃梨子、誘ってくれてありがとう。今日のこと、きっと大切な思い出になるわ」
 ――そんな嬉しそうな声が、花火の破裂音に負けずに私の耳に飛び込んできた。
 大切な思い出。そう志摩子さんが言ってくれる。それは私にとっても同じことだ。きっといつの日にか思い出す、大切な思い出。
 祭りはいつか終わる。この夏休みも終わる。いつか志摩子さんは卒業する。それでも、私と志摩子さんの未来がどのようなものになろうと、今日二人で見たこの花火の輝きを忘れはしない。
 だから今はただ、思い出を未来につなげていこう。それが今の私にできる、そして志摩子さんにしてあげられる精一杯のことなのだから。
 
 
 
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