『愛してる』と叫びながら、神に
 
 
執筆:楓野(碧楓院

 
灼熱。
セミの声。
抜けるような空。
地に響くエンジン音。
「……暑……」
真夏に似合わぬジェットタイプのメットの下から、力の抜けた声が漏れた。
記録的な猛暑となった8月の熱気は、容赦なく気力を奪ってゆく。
しかし周囲には休めるような場所どころか、わずかな木陰すら存在しない。
暑さに耐えながら、二条乃梨子はひたすらバイクを走らせるのであった。
 
そもそも、何故彼女は暑さに耐えながら何もない公道をひた走っているのか。
理由があるかと問われれば特にないというのが正直なところであった。
外部の大学を受験し、三年間トップの学力を存分に発揮して優秀な成績で進学。
ならば講義のない時間は勉強に当てるかというとそうでもなかった。
さりとて他にやることも見当たらず、結果プライベートな時間はほぼアルバイトに当てられた。
別に現金が必要なわけでもなかったが、ただ何もせずに余計なことを思い出すのを嫌っていた。
そして一年が経ち、二年目を半分を過ぎた頃になると、その預金は結構な額になる。
二度目の夏休みを目前に控えたある日、乃梨子はふと旅に出ることを思いついた。
資金はある。
高校二年の時に可南子に影響されて取ったバイクの免許もある。
バイク自体は、タクヤ君のお孫さんが乗っていた中古を、大学入学祝にと格安で譲ってもらった。
あてもなく、ただフラフラ彷徨うだけの旅。
あまりガラでもない旅だが、乃梨子はなんら迷わず出発した。
仏像以外のことで旅に出るのは初めてであり、それだけでも新鮮で楽しかった。
しかし、夏のバイクというのは死ぬほど暑い。
乃梨子はそれを、現在進行形で体験中であった。
 
「暑っついな……クソッ……」
ようやく見つけた橋の袂にバイクを止め、その柱に寄りかかって座る乃梨子。
ほんのわずかな日陰でしかないが、日光を遮ることができるだけでもマシだった。
思いっきり日光を吸収するジャケットを脱ぎ、腰に巻く。
下に着ていた白いTシャツは、汗を吸って背中から胸元まですっかり色が変わっている。
「本ッ当……暑いんだよ……」
どうにもならない悪態を吐きながら、のろのろとペットボトルのお茶を手に取った。
蓋を開けるのももどかしく、ペットボトルの中身を勢いよく喉に流し込む。
数時間前に買い込んだそれは、すっかり冷たさを失っていたが、
それでも、大量に水分を失った今の乃梨子には十分なものであった。
半分ほどを一気に飲み干すと、一つ大きく息を吐き出して空へと視線を向ける。
(たかいなぁ……空)
一年365日、空が低く在る日というのはないのだが、
真夏のこの時期、空というのは不思議に高く見えるものだ。
そして不意に訪れる、静寂。
本当に暑い夏の日には、時々こうした静寂が訪れる。
実際には、セミの音や風の音、その他いろいろな音が溢れているのだろう。
だが、耳はそれらを聞いていても頭はそれを遮断する。
だから、静寂という言葉は本来不適切なのかもしれない。
言い換えるなら―――無意識的な無音、とでも言うのだろうか。
乃梨子は夏はそれほど好きではなかったが、この無意識的な無音だけは好きだった。
辺りには誰もいない。
自分の通ってきた道も、これから走る道も、どちらを見ても何も来る気配はない。
(……どうするかな)
暑さで半分近く溶けた頭で、これからのことを考える。
数十分ほど道なりに走れば、それなりに大きな街に出られるはずだ。
ならばさっさとバイクに跨って、走ったほうがいいのだろうが……どうにも気力がない。
気が乗らない、と言い換えたほうがニュアンスは伝わるだろうか。
こんなにも暑さでうんざりしていて、一刻も早く冷房の効いた室内で休みたいと思っているのに。
不思議とここを動こうという気にならないことに、乃梨子は自分で少なからず驚いていた。
(なんでかなあ)
瞳を閉じて自問してはみるものの、答えは返ってこない。
そうして瞳を閉じたまま、また無音に身を任せようとしたところ。
乃梨子の耳は、微かに水の流れる音を捉えていた。
柱の影から抜け出し、欄干の間から橋の下を見ると、そこにはかなり大きな川が流れていた。
(……そういえば、ここ橋の上だったっけ)
すっかり忘れていた事実を反復し、乃梨子は立ち上がった。
辺りを見渡せば、ちょうど川辺に降りられそうな土剥き出しの斜面が目に入る。
後の行動は、早かった。
バイクのシート下からチェーンを取り出し、それで後輪と欄干を繋いで鍵をかける。
新しいペットボトルを一本と、財布や免許証その他細々した物をジャケットやパンツのポケットに放り込んだ。
盗られて困るものがないことを確認し、最後にタオルを一本首にかけると、先程の傾斜へと歩き出す。
元々それほど人が通りはしないのか、傾斜はややきついものだったが、行って行けないことはない。
好き勝手に生えている木に掴まりながら、乃梨子は傾斜を下り始める。
二度ほど転倒して所々土にまみれながらも、なんとか川辺へとたどり着いた。
ジャケットを川岸に一番近い岩にかけ、水際へと歩く。
幸いにして水に濁ったようなところはなく、むしろ小魚が見えるほどに澄んでいた。
手元にある石で川の中にちょっとした囲いを作り、そこにペットボトルを沈めてから、
手で水をすくってバシャバシャと顔を洗った。
首にかけていたタオルで顔を拭うと、それだけで気温が少し下がったような気さえする。
 
水辺は、涼しかった。
汗による体の不快感はなくなったわけではないが、風通しの良いこの場所にいると急速にそれが乾いて去ってゆく。
日差しは相変わらずの厳しさで照りつけてくるものの、木陰にいればそれほど気にならない。
ジャケットを肩にかけて木陰の岩へと座り込み、ジャケットからタバコとライター、そして携帯用の灰皿を取り出した。
大学という場所はとかく様々な人種がいる。
喫煙者もまたその一つである。
始めは気が紛れるかと試したタバコだったが、今では完全に習慣として身についてしまっていた。
多少よれたそれを唇に挟み、なんら考えなく機械的に火を点ける。
フィルターから流れ込む刺激を肺に放り込み、力も入れずに紫煙を吐き出す。
最初の一口が一番うまい、と言ったのは大学の友人だったか。
別にうまいと思って吸っている訳ではないのだが、一口目の味が違うことには同意であった。
それからしばらく灰と煙を作り出し、立ち上っては消えていく煙を空を見上げて眺めていると。
ふと、乃梨子はあの人――姉のいない自分が『姉』と呼んだ、上級生のことを思い出した。
 
*        *        *
 
『修道院、行くんだよね?』
『ええ。ここから北の方の』
あの人がリリアンを去る日。
私とあの人は、並んで桜の舞い散る路を歩いていた。
『いつから?』
『今日の夜には……それでね、乃梨子』
あの人が立ち止まると、ざあっ、と路に落ちた桜が舞い上がった。
姿勢を正し、真っ直ぐに私を見つめる瞳。
『ここでさよなら、しましょう』
そう言われた時、私は泣き出したりも取り乱したりもしなかった。
ただ、来るべきときが来たんだな、と思っただけ。
『……勝手……かしら?』
視線を逸らして目を伏せるのは、困ったときのあの人の癖。
だから私は、『ううん』と首を振った。
『志摩子さんが、そう決めたなら』
そう言って、苦笑した。
それが、精一杯の、抵抗。
『……ありがとう、乃梨子』
『お礼言われるほどのことじゃ、ないよ』
思い出して、いつも下げていたロザリオを外す。
『……預かり物だからね。返しておかなきゃ』
『ええ……』
差し出したロザリオを、あの人は受け取って大事そうに胸元で握った。
そして、それをそっと、丁寧に手首へと巻きつけた。
『……そろそろ、行くわね』
しばらく手首のロザリオを眺めていたあの人が、不意に言った。
『さようなら、乃梨子』
『……さようなら、志摩子さん』
ごきげんよう、ではなくてさようなら。
それで、全てを吹っ切ろうとした。
背を向けて、振り返ることなくいつかと同じ桜の舞い散る中をあの人は歩いていった。
『さようなら、志摩子さん』
何故かもう一度、私は同じ言葉を呟いてあの人の歩き去った路に背を向けた。
 
 
―――それが、あの人との最後の会話。
 
*        *        *
 
灰の塊がパンツの腿に落ちて、乃梨子はようやく現実へと引き戻された。
灰の落ちたタバコは、もうフィルターの方が遙かに長くなっている。
岩にそれを押し付けて火を揉み消し、携帯灰皿に吸殻を放り込んだ。
(あの人が納得できたなら、それで―――)
思考の欠片にそうやって結論付け、立ち上がる。
冷やしておいた飲み物でも飲もうかと水辺に足を向けたその時。
乃梨子の目に、居るはずのないあの人の姿が飛び込んできた。
白いワンピースを身にまとった彼女は、水の中に足首まで浸かって立っている。
「しっ……!!?」
その名を叫ぼうとして、声が詰まる。
違う。
名前を呼びたいわけじゃない。
ただ、言いたい。
「私っ……!!」
駆け出す。
「私は……!!」
暴走した感情を、言葉にしながら必死に走る。
胸が、苦しい。
締め付けられるように、胸が痛む。
けどそれを代償に、あの人の元に飛び込めるなら。
だが。
ぱしゃん、と乃梨子の足が水の中に沈んだ瞬間、彼女の姿はもうその場にはなかった。
幻。
夏の暑さが見せた、幻影。
しかし、それとわかっていても感情はもう止まらない。
こみ上げる感情の渦は、音となって口をつく。
そして―――叫ぶ。
 
 
 
「私はあの時……さようならなんて言いたくなかったんだ!!!」
 
 
 
川原に大の字になって倒れこんだ。
結局は、その想いこそが引鉄。
こうやってここに居ることも、何もせずに思い出すのを嫌っていたのも。
全ては、ただ乃梨子が納得していないと言うだけ。
あの時は確かに納得しようとした、吹っ切ろうとした。
旅立ってゆくあの人を困らせたくなかったから。
それがあの人の幸せになるんだと、無理矢理感情を押し込めて。
そうやって二年を過ごしても、まだ納得なんてできやしない、吹っ切ることなんて無理だった。
もしあの時、乃梨子が泣いて縋って、叫んで喚いて引き止めたとしたらあの人はどうしただろうか。
ただ謝って立ち去ったのだろうか。
それとも、自分を犠牲にして乃梨子のために生きてくれたのか。
どちらでも構わない、それでも納得することはできただろうから。
泣いて、縋ればよかった。
こんなにも胸が痛むと知っていたなら、さようならなんて言わなかったのに。
「バカだよ……私」
震えた声で呟いて、今更ながらに気がついた。
二条乃梨子という人間は、姉妹だの性別だの関係なく、藤堂志摩子という人間を愛しているのだということに。
愛する人が遠くに離れていくのを、何もせずに見送った大馬鹿者。
「本当に……バカだ」
目尻から涙が零れ落ちた。
思えば、泣くのは何年ぶりか。
志摩子の卒業式にも、自らの卒業式にも涙一つ零さなかったというのに。
「バカ……だ」
苦しい。悲しい。悔しい。寂しい。
「……会いたいよ……志摩子さん……」
不信心者にはやはり罰が下るのか。
リリアンというマリア様の庭で出会った愛する人は、マリア様が崇拝する神の手によって連れ去られてしまった。
死んだわけではない、本当に二度と会えないわけではない。
だが、愛する人は今、神への愛に生きている。
乃梨子は未だ涙でにじむ目で、高い空を見上げた。
その青空を見ているうちに、リリアンの三年間ですっかり覚えた歌の一節が脳裏をよぎる。
(……マリアさまの心 それは青空 私達を包む 広い青空)
ならば、乃梨子が見上げている空もまたマリアさまの心―――あるいは、神の心なのだろうか。
そう思い立って、一つ呟く。
 
「……ふっざけんな」
 
涙を腕で拭いて、空を睨んだ。
乃梨子は、神の教えなど信じていない。
故に、神など恐れない。
神に愛する人を奪われて、ジッとしていられるわけがない。
こう見えても反骨精神は強いのだ。
愛する人を奪われたなら、取り返すために戦ってやるまで。
「そうだ、戦ってやる」
立ち上がって、また空を睨む。
(私は志摩子さんを愛してる。世界の誰より強くなんて言う気はないけど、それでもアンタよりは強く愛している自信がある!)
その言葉は、神に対する宣戦布告。
人の愛が神のそれに劣るなど誰が決めた。
いつだって人の心を動かすのは人の愛だ。
ならば、神の愛に人が勝つことだってできるはず。
「会いに行くよ、志摩子さん」
一転、優しい微笑で空に語りかける。
空はどこまでも続いている。
例え聞こえるはずはなくとも、この想いだけは届けと人は空に語りかける。
(会って、私の想いを伝えるだけでいい。あとは何も望まない。断られたって、構わない!)
決意した乃梨子に、迷いはなかった。
ジャケットを腰に巻き、降りてきた道を登り始める。
(街についたら修道院探して、志摩子さんがいるか聞いて、北目指して次に移動。
 二ヶ月なんてすぐ終わりそうだな。でもまあそのくらいが丁度いいか)
そんなことを考えながら、上るには少々きつい斜面を意気揚々と登ってゆく。
逢えるかどうかなどわからない。
もし逢えたのなら乃梨子の勝ち、逢えなかったら神の負け。
そして勝った方が志摩子の愛を得るチャンスをもらえる。
これは神と乃梨子との、ケンカ。
随分乃梨子に分の悪いケンカだが、そのくらいで丁度いいと乃梨子は思う。
志摩子がいれば何もいらない、志摩子のためなら世界にだってケンカを売れる。
世界にケンカを売るよりは、神一人に勝つ方がよっぽど簡単だろうから。
バイクにたどり着くと逸る手つきでチェーンを外し、エンジンをかけて走り出した。
まだ日は高く、暑苦しい。
人も車も通らない真っ直ぐな道、少しだけノーヘルのまま走ろうと乃梨子は思う。
それに、ヘルメットを被ってしまっては叫ぶのに邪魔になる。
大きく息を吸い込み、感情のままに乃梨子は叫ぶ。
 
 
『愛してるよーーー!志摩子さーーーーーん!!』
 
 
今日二度目、後悔ではなく、ありったけの愛情に満ち溢れた叫び。
輝かんばかりの笑顔を浮かべる乃梨子を乗せ、バイクは街へと真っ直ぐ走っていく。
愛する人に逢えると信じる乃梨子の胸は、いつしか甘く弾みはじめていたのだった。
 
 
――― Pick quarrel with God while shouting that "I love you" .
     『愛してる』と叫びながら、神にケンカを売ってやれ ―――
 
 
 
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