蕩けるほどの温もりを
 
 
執筆:桜沢 朔(READY×GO!

 
 来年のことなんてきっと誰も考えていない。
 そう、私以外の誰も――
 
「ダメ。こんなに熱あるんじゃ花火大会なんて行かせられない」
 額にひんやりとした心地良い手の感触。……違う、令ちゃんの手がひんやりとしているのではなく私が熱いだけなのだろう。心配そうな眼差しで、それでいて極当たり前のように令ちゃんは言う。今日の花火大会は中止だからね、と。
「大したことないもん。夕方には下がる……ううん、根性で下げてみせるから」
「下がったとしても病み上がりで人混みに行くなんて持っての他でしょ」
「う……」
 丈夫になったあとも相変わらず私の体のことを気に掛けてくれるのは嬉しい。けれどそれがたまに鬱陶しい時もある。そう、今日のように前々から楽しみにしていた花火大会へは行かないだとか、私がどれだけ楽しみにしていたのか知っているくせに令ちゃんは平然とした様子で首を振る。まるで最初から花火大会なんて行きたくなかったとでも言うように。
「やだ。絶対行くもん」
 そうダメ元で駄々をこねてみても。
「ダメったらダメ。由乃が何と言おうと今年は行かない」
 やはりそれはダメ元で令ちゃんは頑として首を縦に振ろうとしない。花火が上がるまでまだ半日以上あるというのに、頭ごなしにダメと言われると余計に行きたくなってしまうもの。何とかしたいところではあるが令ちゃんは一度こうと決めたら貫き通す意志があって、覆すことなど不可能に近い。
「とにかく今日は大人しく寝ておくこと。夕方には部活から帰ってくるからその時様子を見にくるよ。もし熱が下がってたらご飯の後庭で花火でもしよう。花火大会はまた来年もあるんだしさ」
 そう言っていつものように柔らかく微笑んで私の部屋を出て行った。
 庭で花火。それも捨て難いけれど今年に入ってもう何度もやったことだし、第一同じ花火でも規模が違いすぎる。私は闇夜の空で華麗に咲き乱れる花火が見たいのだ、令ちゃんと一緒に。令ちゃんと一緒でなければ花火なんて見る価値はない。
 
 来年のことなんて最初は考えていなかった。当たり前だ、来年も令ちゃんは私の傍に居てくれると思っていたのだから。でもよくよく考えてみて確実に傍にいるかなんてわからなくなってきた。
 もしかしたらリリアン以外の大学に進学してしまうかもしれない。
 リリアンに進学したとしても来年は大学の友達を優先してしまうかもしれない。
 卒業した後のことなんてまだまだ予測出来ないけれど、万が一のことを考えると二人で花火大会に行けるのは今年の夏が最後になるかもしれなかった。そう思うと例え無理をしてでも観に行きたい、今年はどうしても行かなければならないという使命感に駆られてしまう。
 でもこんなことを思うのはきっと私だけだ。令ちゃんは来年もあるからとへらへら笑って事の重大さに全く気付いていない。
 由乃と一緒に花火を観に行けるのは今年が最後かもしれないんだよ?
 来年なんてどうなってるかわからないじゃない。
 私の気持ちなど一切汲み取ってくれない令ちゃんの「いってきます」という玄関口からの声にほんの少し苛立ちを覚えながら布団を被る。チリン、と窓際から涼しげな風鈴の音が聴こえても私の体はより一層熱を孕んでいった。
 
 
 
 ――自分でも本当に意地っ張りだなと思う。
 浴衣姿で人混みに塗れて、心持ち下がった熱じゃやっぱり気怠さは抜けないなと屋台通りを歩きながら腰を落ち着かせられる場所を探す私。こんなことなら令ちゃんの忠告をきちんと聞いていればよかったと今更になって後悔する。
 ダメと言われて、はい、そうですかと納得出来るほど私は素直な人間ではないから令ちゃんもさぞかし扱いに困っていることだろう。今頃部屋がもぬけの殻になっていることに気付いて慌てているのかな。いや、言うことを聞かない私になんか愛想をつかして道場で稽古をしているかもしれない。
 たとえ会場に向かっていたとしてもこの人混みではまず私を見つけるのか困難で、どちらにせよ令ちゃんと花火を観ることは不可能なのだ。令ちゃんなら私を見つけてくれるなんて勝手に信じきっていたけど、花火大会の規模を舐めていた。これだけの人がいる中で見つけられたとしたらそれはもう奇跡としか言いようがないと思う。
「由乃さん?」
 人混みに塗れて右往左往していると、背後からいつも聞きなれている透明感のある声。うわ、奇跡だなんて思いながら振り返った先にいたのはやはり予想通りの人で、浴衣姿に身を包んで仲睦ましく妹の乃梨子ちゃんと手を繋いじゃったりなんかして、ロンリーな私からすればそれはとても羨ましい光景に見えた。私だって本当なら今頃令ちゃんと……
「やっぱり由乃さん。お一人? 今日は令さまといらっしゃるんじゃなかったかしら?」
「あー、そうなんだけどね」
「もしかしてはぐれてたりします?」
「うん、そうなの。実ははぐれちゃったの」
 理由を説明するのが面倒くさくて乃梨子ちゃんの言葉をそのまま使わせてもらうことにした。どうせ会うことはないのだから嘘をついたって構わないだろう。
「二人みたいに手でも繋いでおけばはぐれることはなかったんだろうけど」
「あっ……」
 目敏く視線を繋がっている部分へ移すと、手を繋いでいたことすらすっかり忘れてしましたと言わんばかりに慌ててお互いから離れる白薔薇姉妹。余計な一言だろうなとは思ったけれど、自分を差し置いてラブラブされるのはいささか不満があった。
 ごめんねお二人さん、と心の中で謝っておくことにしよう。でもやっぱり羨ましい。
「というか、由乃さま顔色悪いですよ。人に酔ったというよりかは……熱があるような?」
 乃梨子ちゃんってば鋭い。ええ、そうなんです。実は熱があるんです。
 ……なぁんて、肯定してしまうと一人で花火に来たのがばれてしまうから私は首を横に振ってそれを否定した。
 令ちゃんが熱のある私に外出許可を出すわけがないことぐらい日頃の行動パターンから読まれているだろう。それに気付かれるとこの二人のことだから自分たちのことをそっちのけで私に付き添ってくれるに違いない。せっかくの姉妹水入らずデートだというのにそれを邪魔するわけにもいかないから、何としてでも気付かれないようにやり過ごさなければならなかった。
「お姉さまを探してずっと歩きっぱなしだから体が火照ってるだけなの」
 極々、当たり障りのない理由。けれど二人は顔を見合わせて納得のいかない表情を浮かべている。
「本当に大丈夫なの? 何なら私たちも一緒に令さまを探し……」
「大丈夫大丈夫! 花火が始まってからの待ち合わせ場所は一応決めてあるから平気!」
 読んだ通りというのか、志摩子さんなら一緒に探すって言い出すだろうなと何となく予想は出来ていた。嘘に嘘を重ねることになるけれど二人から離れるにはこの方法しかない。こう言っておけば誰しも安心するものなのだ。……多分。
「そう、ならいいのだけれど……一人だと何かと心配だから早く令さまと合流してね」
「そうですよ。由乃さま可愛らしいんですから悪い虫がつく前に」
 二人の言葉に愛想笑いを浮かべると「それじゃあ、ごきげんよう」と言って再び手を繋ぎ直して二人は人混みの中へと消えて行った。
「可愛らしい、ね」
 そんな風に乃梨子ちゃんに言われたのはこれが初めてかもしれない。きっと志摩子さんと花火大会に来れたことやその浴衣姿に気持ちが昂ぶっているのだろう。でなければ普段の乃梨子ちゃんから私に対してあんな発言が出ることはまずない。祭りが人間に与える影響力って本当に凄いなと思った。
 
 悪い虫がつく前にとは言われたものの、その前に私の体が持たないなと確信したのは志摩子さんたちと別れてから三十分ほど経過してからのこと。熱が上がり始めているのを感じながら、ふらふらとした足取りで辿り着いたのは喧騒から離れた河原の端。もう間もなく花火が上がるから人の波は河原の中央に押し寄せていて、屋台の途切れた端の方に人気は全くない。私は倒れ込むようにして砂利の近くの、薄っすらと草が生い茂る場所へと腰掛けた。
「はあ――」
 無意識に吐き出した深い息は今朝以上に熱を孕んで座る気力さえ失わせる。
 いっそこのまま寝そべってしまおうか。道行く親切な人が助けてくれるかもしれないし、見て見ぬフリされるかもしれない。あるいは乃梨子ちゃんの言う悪い虫がたかってくるか――
 でもどうなるかなんて考えるのすら面倒くさかった。もうどうにでもなってしまえばいい。
 そうして身体を地面に放り出した時、頭の上から砂利の上を歩く足音が耳に届いた。
「彼女、一人? 隣いってもいい?」
 ――ああ、よりによって悪い虫か。私にはよほど運というものが備わっていないらしい。
「お好きにどうぞ」
 追い返す気力なんて湧いてくる気配もなく、私の言葉を受けた悪い虫は「お言葉に甘えて」と極自然に私の隣へと腰掛けた。周囲が暗くて寝そべっているせいもあるのか顔は良く見えない。まあ、どうせ見ず知らずの男なんだし構わないかと気にせず目を閉じた。
 そういえば何年か前にもこんなことがあったっけ。あの時も令ちゃんや両親とはぐれた私は泣き付かれてこの辺りで寝転んでいた。いつの間にか眠ってしまって、気がつくと令ちゃんの背中におぶられていて。
『ごめんね。次からは絶対由乃の手は離さないからね』
 浮かれて手を振り払って勝手に迷子になった私が一方的に悪いのに、令ちゃんは一言も責めるどころか自分が悪いのだと泣きながらごめんねと繰り返し私に謝った。
 私の方が悪い、違う、私の方が!
 そんなやりとりをしているうちにとうとう二人とも泣き出して、そう、確かお互いの両親に宥められたのだ。
 それは今でも私の中で鮮明な記憶として焼き付いていて、多分、この先、夏が訪れる度にこのことを思い出す。けれど令ちゃんは……
「覚えてるわけないよね」
「何が?」
 隣に人がいたということを失念してつい声に出してしまう。そういえば居たんだった、悪い虫が。
「別に、こっちの話」
「……そう。ところで、浴衣を肌蹴させてそんな無防備な格好されてると襲いたくなっちゃうんだけど」
 ――悪い虫どころか悪い狼ときたか。本当に、私ってばとことんツイてない。
 けれど正直なところ撃退するような力は残されていないし、逃げる体力もない。叫んだところで花火の打ち上げを今か今かと待ち受ける人々が気付くわけもないし無駄な浪費だと思って叫ぶのはやめた。
「あんまり肉付いてないから美味しくないと思うよ私」
「それって否定しつつもオッケーのサインってことだよね」
「そういう風にとっちゃうわけね」
「そういう風に取れるからね」
「……じゃあもう好きにしたら」
 投げ遣りすぎ、なんて自分でも思ったけどこれ以上会話を続けるのも億劫なほど私の意識は混沌としていた。ただ、そんなぐんにゃりとした頭でも令ちゃんに謝らなきゃという念はあって、ぼんやりとしたまま思考を巡らせる。
 謝るって一体何を?
 言うことを聞かずに花火を観に来てしまったこと。連絡の一本も入れなかったこと。そして……見ず知らずの男に同意の上で身体を許したこと。
 三つ目のことなんて一体どういう風に話せばいいというのだろう。自分のことなのだから謝るも何もないとは思うけど、令ちゃんのことだからきっとショックを受けるか、軽蔑するか。最悪口も利いてくれなくなるかもしれない。それほどのことをするのだから当然といえば当然か……
「好きにしたら、なんて随分物分りがいいね。じゃあ好きにさせてもらおうかな」
 遠慮のない言葉で狼は言う。もう返事をする元気もなかった。
 隣から影がゆっくりと伸びて、真上にある月を隠すように覆い被さってきた。未だに顔は見えないまま、その息遣いで距離が縮まるのを感じていた。
 ああ、もうダメだ――影が数センチの距離にまで迫って、私はぎゅっと力一杯目を瞑った。
「………………んっ」
 いくら待ち受けても覚悟していた感触はなく、代わりに思いもしない場所――額――にほどよく冷たい、ぷるぷるとした感触が訪れた。スーッと香るメンソールの、私がいつも熱を出した時にお世話になっているあの匂い。
 はっとして目を開けると目の前にいるのはやはり先ほどの影で、体勢はやや顔から遠のいた状態。もう少し遠のいてくれれば月明かりで顔が見える位置にいるその影は、やがて大きな溜息をついて口を開いた。
「好きにしたらなんて……いい加減怒るよ由乃?」
 ……その言葉とは裏腹で口調は既に怒っている気がするのだけれど。
 元気な私ならそう言えていたかもしれない。でも今は熱に浮かされて状況を把握する能力に欠けている上、驚きすぎて声も出ないとダブルパンチの状態。目の前にいるのが本当に令ちゃんなのかという絶対的な確信すら持てていない。
 そんなタイミングで遠くから大きな口笛が聴こえ、一寸の間を置いた後に華々しく夜空に花を咲かせた。その光に照らされた影はようやく正体を現し、今朝よりも若干眉間に皺を寄せてそこに佇んでいる。
「由乃」
「……」
「由乃」
「ごめん……ごめんなさい。ごめ」
 三度目の謝罪の言葉。それはほんの一瞬だけ触れた令ちゃんの唇に吸い込まれてしまった。
「ごめん。由乃の手は離さないって誓ったのに放ったらかしにしてた私が悪かった」
 あの何年か前の、約束とは言えない言葉を守れなかった悔しさに唇を噛み締めて令ちゃんは言う。
「……またそうやって自分のせいにする。でも覚えてたんだね、あの時のこと。だからこの場所のこともわかったの?」
 その問い掛けに私の身体を起こしながら「当たり前でしょ」と令ちゃんは言った。
「おばさんに聞いたら花火大会に行ったって言うからここしかないかなって。まさかあんな無防備な姿でいるとは思ってもみなかったけど」
 チカチカと色とりどりに咲く花火の光に、怒りと呆れが入り混じったような表情が浮かび上がる。
 アレは熱でしんどくて仕方なく――なんて言い訳しても所詮は自業自得じゃないかと余計な言葉は噤むことにして素直に謝った。正体を知ってみれば令ちゃんだったものの、万が一本物の狼だとしたら今頃はとんでもないことになっていただろう。それを考えるととてもじゃないが無罪放免というわけにはいかない。
「ねぇ由乃。お願いだから、熱がある時は一人で勝手に行動しないって約束して」
 悔しんだり、怒ったり呆れたり、泣きそうな顔になったり。今日の令ちゃんは祐巳さんの百面相に近いものがあった。それも私のことを心配しているからなのだと思うとこっちまで涙がこみ上げそうになる。
「ごめんなさい。もうしません」
 泣き出しそうになっているのを悟られないように令ちゃんの胸に顔を押し付ける。きっと慌てて駆けつけてくれたのだろう。そのしっとりと濡れるシャツからはほんのりと汗の匂いがした。
 
 令ちゃんの背中におぶられながら、あの時と同じように同じ道を歩いている。そこは蕩けそうなほどに温かく、小刻みに揺れる振動が眠りを誘発するのに最適で、今すぐにでも眠ってしまいそうな心地良さ。
 由乃は相変わらず軽いね、どうせまな板だもん、なんてやりとりをしているうちに、どうしてそこまで花火大会に行きたかったのかという疑問が投げ掛けられた。令ちゃんは「花火大会なんて来年もあるのに」と予想通りの反応で、やっぱり来年のことなんて一切考えていないようだった。
 だから私は言ってやる。来年はもう一緒に花火を観れないかもしれないじゃない。
「なんで?」
 返ってきた言葉は一気に私を脱力させた。令ちゃんってば本当に何も考えていないのだろうか。
「リリアンに進学するって決まってるわけじゃないし、もしリリアンだったとしても花火大会いこーって友達に誘われたら令ちゃんのことだから断れなくて行っちゃうかもしれないじゃない」
「……そんなこと考えてたの? 心配性だなぁ由乃は」
「そんなことって……! もういいっ、令ちゃんのバカ!」
 まるで先走って考える私がバカみたいだと言われているような気がして腹が立つ。所詮令ちゃんにとって一緒に過ごすイベントは"そんなこと"程度のものだったということだ。
 結局いつものように罵って、私はその肩口に顔を埋めた。不貞腐れたのもあるけれど一気に捲くし立てて喋ったこともあって、疲れと眠気が同時に訪れてしまったようだった。もっと文句を言ってやりたいところだが生憎その気力がない。この件は体調が回復してからじっくり問い詰めることにしよう。そう決めて、私は頭の中のスイッチをオフにする。
「由乃? よーしの。……寝ちゃったか」
 意識が薄らいでいくのにそう時間は掛からず、令ちゃんが何か喋っているようだったけど私の耳にはほとんど届いていなかった。
 だけどたった一言だけ。
「心配しなくても私はずっと由乃の傍にいるから」
 眠りの中に落ちていく私に令ちゃんが呟いたその言葉だけは、背中の振動と声を伝ってしっかりと聞き取ることが出来たのだった。
 
 
 
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