花火
 
 
執筆:浜野黒豹(寒水魚

 
その長い髪の少女には見覚えがある。でもその人は祥子ではないし、髪が長かったころの聖でもない。少女は微笑み、長い髪が風に揺れる。風が強くなると白いワンピースの裾がなびき、少女は帽子をあわてて押さえ、笑う。そして少女の姿は遠くなり、砂浜も海も遠くなり、強い日差しの中で青い空だけが眼前に広がる。そこにはただ波の音が小さく聞こえているだけで。ただ潮の香りがかすかに漂うだけで。
蓉子のまぶたの裏で、今の光景がもう一度繰り返される。白いワンピース。遠ざかる海。明るすぎる空。かつて聖と愛し合い、そして去っていった人。その人は生きているけれど、おそらくもう聖と会うことはない。久保栞。蓉子はその名を、一生忘れないだろう。
「ねえ、聖」
蓉子は目を開けて、天井を見たまま声を出してみる。すぐ隣で眠っている聖のかすかな寝息が耳に入る。
「私たちこれから、どうなるの」
返事はない。蓉子はベッドの上で体を横に向け、眠る聖の顔を見る。穏やかな寝顔が枕に乗っている。
高校を卒業してから二年がたち、あのことはもう遠いことになりつつある。静かに上下する聖の胸の中でも、あのことは遠くなってしまったのだろうか。そんなはずはない。聖の胸の中には、今でも───
「ねえ、聖」
蓉子は聖の頬に手を差し出すけれど、その手を止め、触れずに手を戻す。聖の大理石のような肌は艶やかで力強く、今は触れることがためらわれる。蓉子は静かに息を吸って吐き、
「夢を見たわ」
栞さんの、と言いかけて、言葉を飲み込む。細い足首。砂のついた白いサンダル。青い空。
「ごめんなさい」
そう言って蓉子は目を閉じる。なぜ今、栞さんの夢を見るのだろう。栞さんと聖は、うまくいかなかった。だから、離れて。でも今はこうして蓉子が聖の隣にいる。蓉子はただ、聖が心配だった。聖を元気づけてやりたかった。ただそれだけだった。蓉子は無性に聖を確かめたくなり、聖に腕を回して抱きしめる。聖は確かにここにいる。蓉子の腕の中にいる。指先が、頬が、胸が、聖の体温を伝えてくる。少しの後、蓉子は体を離し聖の顔を見る。聖の目はいつのまにか開いていて、眠そうなそぶりもない。突然のことに蓉子は聖の目を見つめたまま言葉を探していると、少し紅味のさした聖の頬が緩み、
「どんな夢だった?」
 
 
 
 
 
学期末から夏休みに入ってしばらくは、ずっと笙子と過ごした。撮影とか、消耗品の買出しとか、写真に無関係なおしゃべりとか。今思い返すと忙しい日々だった。手をつないだこともあるし、抱き合ってはしゃいだこともある。三秒間だけお姫様抱っこをしたこともある。
今週からは笙子はお母さんの実家に行っていて、いわゆる「おばあちゃんの家」というやつだが、それで蔦子は笙子のいない日常に放り出され、少し寂しく思い、一方で安堵している自分に気づく。笙子は蔦子が最初に思っていたよりは一途で、頑固なところがあり、蔦子には想いを素直にぶつけてくれる。それは信頼されていることの証なのだとは思うが、一人身を通してきた蔦子にとっては少し負担に感じられることもある。いや、負担ではない、決して負担ではないのだが、なんと表現すべきか。でもまさか、そんなことを本人に言うわけにもいかない。まあ、次に笙子と会うまで、体力をつけておくのが得策だろうか。
そんなことを思って蔦子が苦笑したとき、電話が鳴る。笙子かな、と思い小走りに電話機の前まで行くが、笙子は「おばあちゃんの家」にいるはずで、それなら誰だろうと思いつつ蔦子は受話器を取る。
「はい、武嶋です」
「ああ、蔦子さん、ごきげんよう」
「真美さん?」
「そのとおり」
相変わらず絶妙なタイミングで電話をよこす人だ。
「用件は何?」
「いや別に用件はないんだけど」
「ないの?」
「あると言えばある」
「聞きましょうか」
「あのね」
「うん」
「私ね、お蕎麦が食べたいの」
「食べれば?」
「ノリが悪いなあ。普通はここでさあ、私も私も、とか、できれば冷たいパスタ、とか言うんじゃないの?」
「わたしもー」
「棒読みじゃない」
「お互い様よ。この間私が電話したときは真美さんだって乗ってくれなかったじゃないの」
「あの時は眠かったから」
「ああ、そうだっけね」
「それでね、私、お蕎麦が食べたいのよ」
「で?」
「かわいい女子高生が一人で食べには行きにくいでしょう?」
「真美さんは一人でも牛丼屋さんに行けるんじゃない?」
「行けないわよ」
「そうなの?」
「そうよ」
「ふーん」
「あのね、蔦子さん」
実は、ちょうどそんなことを蔦子も考えていたのだ。笙子でない誰か、真美さんに会いたかった。時計を見るとまだ午後三時過ぎで、夕食、と言うには微妙な時間だけれど、お蕎麦が無理ならお団子やあんみつだって構わない。
「しょうがないわね。じゃあ真美さん、一緒にお蕎麦食べに行かない?」
「行く行くー!」
このノリは何なの。真美さんのことだから何かあるとは思うけど、だからといって断る理由もないし。
「じゃ、駅前の「長寿庵」でいい?」
「おっけーあそこはデザートもあるしね」
「デザートは隣の店でしょ。四時にお蕎麦屋さんの前でいい?」
「おっけー決まり。蕎麦屋現地集合。じゃ、あとで」
「用件はこれで全部なの?」
「今のところは」
「まあいいわ。じゃあとでね」
「またね」
電話を切り、クローゼットの前に立つ蔦子は、どうして自分がこんなに浮かれているのかわからない。真美さんと会って、お蕎麦を食べるだけなのに。まあ正直言ってお蕎麦にはならないかもしれないけど。さて、何を着て行こうか。
 
 
 
 
 
どんな夢だった、と聞いているからには、蓉子が衝動的に抱きしめてしまったとき、聖は起きていて寝たふりをしていたことになる。おそらくその前の、「私たちこれから、どうなるの?」も聞いているだろう。蓉子は驚きが怒りに変わっていくのを感じるが、これは本当は怒りではなく、まず恥ずかしさが先にあって、それが、ああもう!
「言いたくないなら別にいいよ」
聖の声が頭の上のほうから聞こえる。蓉子はベッドに横になったままうつむき、つまり向かい合って横になっている聖のTシャツに書かれている菱形のマークとフランス語のロゴしか見えていないのだが、
「夢にもいろいろあるからね」
あまりに恥ずかしくて、何か言い返してやりたくて、蓉子は栞、という名前を出しそうになったが思いとどまり、
「海よ。海の夢を見たの」
「海か・・・夏だね」
「・・・夏ね」
蓉子は頭を上げ、聖の顔を見る。いつも聖はこういうとき、容赦なく茶化してくるのだが今日はそうでもない。穏やかに笑み、蓉子を見つめている。蓉子は聖の優しい視線に耐えられなくなり、またうつむいてしまう。タオルケットをつかんでいる左手が震えている。
聖が蓉子のアパートに来ることは去年からあった。お茶を飲んですぐ帰って行くこともあれば、テレビを見ながら寝てしまい、翌日帰ることもあった。今年に入ってから回数が増え、今月に至っては毎週来ている。昨日だって、お菓子やら飲み物や映画のDVDを何枚も持ってきて、一緒に見ていたら眠いと言って勝手に蓉子のベッドで寝てしまって。聖と同じベッドで寝るのは初めてではないし、だからといって今更どうということはないはずだが、あの夢が決定的だった。動揺していた。蓉子は聖がここからいなくなってしまうのではないかと思った。だから。
「蓉子って、かわいいよね」
「なっ・・・」
蓉子はきつい目で聖を見返すが、
「前から、そう思ってたんだ」
聖に言われてまた目をそらしてしまう。
「蓉子」
聖は蓉子の左の手首をつかむ。
「蓉子」
「・・・聖」
蓉子は聖の目を見ることができない。
「今何時?」
「えっ?」
「だから、今、何時?」
蓉子は聖の顔を見ると、聖はさっきの声の調子とはかけはなれた明るさで笑っている。どうもかつがれたみたいだと蓉子は悟ったが、それとは別に部屋の明るさから言って明らかに朝ではない。蓉子は上半身をあわてて起こし、振り返って時計を見る。
「二時半・・・」
「ちょーっと寝すぎたみたいだよねー」
聖が横になったまま言う。何が「寝すぎたみたい」だ。ドキドキして損した。聖のバカ。心配したのに。
「コーヒーでも飲もうよ」
「あなたがいれてちょうだい」
「はいはい」
聖は起き上がると、蓉子をまたいでベッドから飛び降り、寝室から出て行く。
 
 
「実はね、」
キッチンの小さなテーブルで、蓉子と向かい合って座る聖はコーヒーを一口すすり、
「私も夢を見たんだ」
「どんな?」
「それが、海なんだよね」
蓉子はカップを落としそうになる。
「そういうわけなんで、今日海に行かない?」
「これから?」
「そう。とりあえず出かけて、外で何か食べよう。それから海に行こう」
「近くに海はないわよ」
「水族館の先に海があるじゃない」
いわゆる海水浴場は近くにはないが、見るだけなら、それほど遠くないところに海がある。
「夏休みに海なんだからちょうどいいじゃない。あそこはすいてるはずだよ」
「そうね」
蓉子はカップを置いて、聖を見る。聖のTシャツに描かれた青い菱形は細長く、蓉子は聖の後ろの青空を、飛行機が白い軌跡を残して横切るのを思い浮かべる。
「よーし、決まりね」
聖が笑う。聖の背後に広がる青空の下にいるあの少女は笑っている。蓉子は少しだけ、あの白いワンピースの少女の微笑みの意味がわかったような気がする。
 
 
 
 
 
「臨時休業」の張り紙の下で、真美さんを待つこと五分。まだ四時にはならないが、ぱたぱた走ってくる真美さんは白い帽子をかぶっている。
「待った?」
「ううん。今来たとこ」
「蔦子さん、今日は意外な服装じゃない?胸元がちょっと開いてるんじゃないの?」
「真美さんだって何でそんなにヒラヒラなの?」
「蔦子さんに会うのに手抜きはできないわよ」
真美さんの大げさな身振りに蔦子はあきれながらも笑う。肩をすぼめる真美さんは白の袖のないブラウスで、キャミソールのように見えなくもない。肩が全部出ているせいで華奢な肩の動きが強調される。
「肩がエロいよ、真美さん」
「うん。鍛えてるから」
「三奈子さまが見たら悶死するんじゃないの?」
「日出実は死にそうになってた。それより、今日お蕎麦屋さんお休みなの?」
「みたいね」
蔦子は張り紙を指差す。
「ということで、お隣でデザートかな?」
「そうなるわねえ」
お蕎麦屋さんの隣には和風の喫茶店があり、二人で入り口に向かって歩いていく。
 
 
「蔦子さん、何かあったの?」
「何かって?」
真美さんの前には抹茶のアイスクリームをベースにしたサンデーがあって、小豆と小さな大福が一個載っている。
「笙子ちゃんとはずっと会ってたんでしょう?」
「どうして知ってるの?」
「かまかけ」
「まあ多分そんなとこよね」
蔦子は抹茶のショートケーキにフォークを入れる。ケーキの隣にはミルクのジェラートが添えてある。
「今日の蔦子さんの服は今までと違うから、そういう日々の中で何かあったのかな?ってね」
「ああ。別に何も。かわいいでしょ?」
蔦子はフォークを置き、両手で袖をつまんで大げさに笑顔を作ってみせる。
「蔦子さんはいつもカジュアルか、かっこいい系じゃない。なんでそんなかわいいの着る気になったの?」
「聞きたい?」
「非常に」
真美さんの持つクロームのスプーンの動きが止まる。
「実は、笙子とおそろい」
真美さんは目を丸くして、
「うっわーはずかしー」
蔦子は容赦なく真美さんのサンデーに載っている大福にフォークを突き刺して、そのまま自分の口に入れる。
「あーっ!」
「当然の報いよ。あああんこがおいしい」
「ひどーいジェラート分けてよう」
「ダメ」
本当は「おそろい」というのは驚かすつもりで真実を明かしたのだが、どうも真美さんのほうが一枚上手だ。真美さんは息を吐くと笑って、
「ねえ、蔦子さん」
「ダメ」
「そうじゃなくってさ」
真美さんはまた笑う。
「蔦子さん、全部受け入れなくてもいいのよ」
蔦子は目を上げて真美さんを見る。真美さんの微笑みはとても柔らかい。
「蔦子さんってそういうところは几帳面な人だからなぁ」
「無理してるつもりはないんだけど。たまにはいいでしょう?」
「うん。たまにでいいのよ。そこまでやるのは。私なんかお姉さまの言うこと全部聞いてたと思う?」
「思わない」
「でしょう?それくらいでいいのよ」
「笙子と三奈子さまを一緒にするのは議論の余地があると思うんだけど」
「押しの強さは同じくらいよね、結果として。蔦子さんは笙子ちゃんの押しを拾っちゃうでしょ」
人間関係では真美さんにかなわない。他人のことならともかく、自分のことは全然わかっていないことを蔦子は思い知らされる。蔦子はため息をつき、
「ジェラート、あげるわ」
「蔦子さんってものわかりがいいから好きよ」
「どうも」
真美さんは手を伸ばして蔦子のジェラートを半分すくって持っていく。
「ミルキーでおいしいわね、これ」
蔦子は真美さんをただ見ることしかできなくて。
「蔦子さんは距離のとり方知ってるでしょ?だから無理しなくても大丈夫よ」
今蔦子に見えているのは、抹茶のケーキと、半分残ったミルクのジェラートだけで。
「蔦子さん、優しいからさ」
突然そんなことを言うから、泣きたくなるのよ。
 
 
 
 
 
「海と言えば花火よね」
真美さんに手を引っ張られながら歩く蔦子は、駅ビルのおもちゃ売り場にいる。
「本当に海に行くの?」
「行く行く。花火買ってさ、ぱーっと打ち上げましょうや、旦那」
「この辺に海はないんじゃなかったかのう越後屋」
「あるわよ。水族館の先」
「ああ、あの電車でちょっと行ったとこか。でもコンクリートで固められてるんじゃなかったっけ?」
蔦子は花火セットを手に取る。結構いろいろなタイプの花火が入っている。真美さんは打ち上げ系の円筒形の花火を見ながら、
「あの先にちょっとした砂浜があるのよ。知ってる?」
「いや、知らない」
「見たらちょっとびっくりすると思うわ。穴場よ」
真美さんが持っている筒状の打ち上げ花火には「パラツュート」と書いてある。日本製ではないらしい。
「そういうのやっても平気なの?そこは?」
「それはもちろん大丈夫。忘れられた市有地みたい。誰もいないし」
「パラツュート」を持ったまま、真美さんは隣の棚の花火を見はじめる。真美さんの帽子が、蔦子の目に留まる。
「真美さん」
「何?」
「帽子、少し貸してくれない?」
「いいわよ」
と言って真美さんは花火を置くと蔦子と向かい合って立ち、帽子を被せてくれる。
「ふーん」
「何よ」
「蔦子さん、いい感じよ。ワンピースと帽子と、とても合ってる」
「そ、そう?」
「いい感じ。へえ、蔦子さんもこんな感じにかわいくなるんだ」
「いやそれは一応、乙女だから」
「普段女子高生の写真撮りまくってるような人でも?」
「うんそれは乙女の範囲内だから」
真美さんは笑って、
「でもどうして帽子なの?」
「ちょっとね」
「ちょっと何?」
「少しね、」
「少し?」
「なんでもない」
蔦子はそのまま横を向き、花火の棚に目を落とす。花火は視界に入っているけれど、ちょっと上の空。
「蔦子さんはぁ、照れてるんでしょう?」
と言って真美さんは顔を近づけてきて、
「ねえ」
「べっ別に」
「普段着慣れないの着て、でも意外といけてるとか思ったでしょう?」
困った。困ったぞよ越後屋。
「ねえねえ」
「だからちょっと隠れようかなって思っただけよ」
「ふーん」
と言って真美さんは目を細め、
「じゃしばらく貸してあげる。でもせっかくかわいいんだから、堂々としてるほうがいいわよ」
そのあと真美さんは花火の棚に向き直り、ロケット花火を物色し始める。蔦子は視界に線香花火やねずみ花火があるのに気づき、そしてふと思いつく。話題を変えたかった、というのももちろんある。
「真美さん、ライター持ってる?」
「持ってない」
「もしかして水もいる?」
「あの砂浜には水道は無いわね、多分」
「バケツとかも必要?」
「花火やるんだからそれぐらいあった方がいいわよね」
真美さんは考えながらあたりを見回して、
「あそこの100円ショップでいろいろありそうな感じ」
「うん。いいと思う」
蔦子は真美さんと選んだ花火をもちよって会計を済ませる。少し歩いて次は100円ショップに行き、バケツやライター、ミネラルウォーターのボトルを買う。蔦子の心境としては、線香花火でしんみるするのも悪くはないと思っているのだが、真美さんとしてはドカンと行きたいみたいで、袋に入れもらったやつの中で、「2m吹き上がりますので4m離れてください」というような注意書きがあるものもみかけた。
案外面白い花火大会になるかもしれない。
 
 
 
 
 
食事をして、街をうろうろして、水族館につくころにはもう日がかげりはじめている。そのまま水族館を通り過ぎて少し歩くと海に出るが、砂浜はなく、コンクリートに波が打ち寄せている。
「岸に沿って歩こう」
「そうね」
蓉子は聖と並んで歩く。このあたりまではいつか来たことがある。そのうちコンクリートの岸が斜めに海に浸かっている場所に出る。
「この辺なら海に入れるかな?」
「ちょっと無理じゃない?」
「花火だけじゃなくて水着も買ってくればよかったかなぁ」
「だから無理よ」
聖はこちらを見て、
「蓉子のビキニを見たかった」
「聖もビキニ着るなら着るわよ」
「本当?」
「なんでそんなにうれしそうなのよ」
「いや別に」
「変なの。ビキニぐらいいつでもなるわよ」
「じゃ次はぜひ」
「お付き合いさせていただくわ。できれば海外がいいわね」
「さいですか」
沖に防波堤でもあるのか、波はとても小さい。ここから先は、蓉子も行ったことがない。しばらく歩くと突然コンクリートが終わっていて、砂浜になっているのが見えてくる。
「砂浜があるの、知ってた?」
「知らなかったわ」
「多分市有地だと思うんだけど、ろくに管理されてないみたいなんだ、ここ」
こんなところに砂浜があるなんて知らなかった。周辺から隔絶された砂浜。高等部にあった古い温室と妙に印象が重なる。聖はこの場所を、いつから知っていたのだろう。
「いやっほぅ!」
聖が走り出した。
「待って、聖」
蓉子も走り出す。足に伝わる感覚が、硬いコンクリートから砂に変わっていく。そのとき、蓉子は見た。白いワンピースの少女が砂浜に立っているのを。夕暮れの砂浜に、浮き上がるように立っているのを。今朝の、あの少女だ。蓉子は驚いて立ち止まる。が、自分と少女の間に聖がいるのに気づき、あわてて聖に向かってまた走り出し、少し離れて立っていた聖に飛びつく。聖はここにいる。確かに蓉子の腕の中にいる。
「どうしたの蓉子」
「だって」
「シーズンだけど、幽霊じゃないよ。誰だろう?」
聖の声が遠くから聞こえるような気がして、蓉子は夢に出てきたあの少女と同じ人影だと思った。しかしもう一人別の少女が現れ、二人とも白い服を着ているが二人とも髪は長くないことに気づく。ウェストを絞ったワンピースで帽子をかぶっているのは最初に気づいた一人で、後から現れたもう一人は肩の出ているキャミソールのような服だ。
聖が歩き始めるので、蓉子は聖の腕をつかんだまま側をついて歩く。ワンピースの少女が帽子をキャミソールの少女に渡した。ワンピースの少女はこちらに気づいた様子だ。眼鏡をかけている。少女の服装に惑わされていたが、蓉子は思い出した。
「蔦子さんじゃない?写真部の」
「カメラちゃん?隣は?」
「真美さんよ、新聞部の」
「ああ、築山三奈子の妹か」
二人の少女はこちらに向かって歩いてくる。栞さんじゃない。夢とは違う。それでも蓉子は聖をつかむ腕に力が入ってしまう。
「ごきげんよう、聖さま、蓉子さま」
蔦子さんが声をかけてくる。この距離までくれば、間違えることはない。蓉子は腕の力を緩める。
「ごきげんようカメラちゃん。何?デート?気合入ってるけど」
「真美さんが変なこと言い出したので、こんな具合ですけど」
「デートです」
「奇遇だなぁ。こっちも実はデートなんだよ」
「奇遇ですねぇ」
真美さんが蔦子さんの腕にしがみつく。それを見て、蓉子は自分が聖の腕をつかんだままなことに気づく。
「暗くなってきたから、花火やろうか。いっぱい買って来たんだよ」
「海といったら花火ですよね。もちろん私たちも買ってきたんです」
「花火と言えばロケットだよね」
「いいですよねロケット。ロケットはロマンです」
「話がわかるねぇ、真美さん」
「実は打ち上げパラシュートも買ったんです」
「それは暗いと見えないんじゃ?」
 
 
 
 
 
聖は真美さんと花火を持って歩き出し、少し離れたところにしゃがみこんで、手で砂を集めている。ロケットの発射台を作るんだと言って。
「ここがロケットランチャーになるわけです」
「なるほど。ところで、通は「ロケラン」って言うらしいね」
「ロケラン、ですか?」
「昨日見た映画でやってた。それは肩に担いで撃つやつだったけどね」
真美さんが砂で平たい四角の台のようなものを作って、聖はロケット花火を並べて、ロケットの後ろに突き出している安定棒を砂の発射台に斜めに刺していく。
発射台から少し離れて立つ蔦子さんは、蓉子の隣で一緒にロケット発射準備を見ている。理由はわからないが、蔦子さんがなぜあの夢の少女と同じ服装なのかが気になる。聞くべきかどうか迷うが、蓉子は蔦子さんに尋ねてみる。
「かわいい服ね。どうして今日はそういう服を選んだの?」
「変ですか?」
「いいえ、変じゃないわ。もちろんかわいいけど、蔦子さんのイメージと少し違うな、と思って」
髪型と眼鏡を除けば、袖も、ウェストの絞り具合も、少し広がったスカートも、あの夢と似ている。しかし、帽子がないとあまり似ていない。似ているのは服だけで、帽子も真美さんのものだったようだ。
「真美さんを驚かそうと思って、いつもと違う雰囲気にしてみただけなんです。実は先日一回だけ着て、もう着る機会はないと思っていたんですが」
蔦子さんには蔦子さんの事情があるようだ。もちろん蓉子が見た夢とは無関係な。
「これで本当にもう着れなくなっちゃったかな」
「そんなことないわよ。いいと思うならやってみればいいのよ。私は蔦子さんの全てを知ってるわけじゃないし、写真部のエースっていう先入観があるから、イメージがどうとか、そう思うだけで」
「でも今日試した限りでは、あまりウケが良くないようで」
「あら、ごめんなさい。でも支持してくれる人もいるんでしょう?」
「約一名だけですが」
「それならその人のために着たらいいわ。無理しなくていいのよ」
「そう、そうですよね」
「そうよ」
そうよ。夢の中の栞さんだって笑っていた。怒っても泣いてもいなかった。遠くで、でも確かに笑っていた。今でも聖の中の青空の下、波打ち際で笑っているのだろう。聖の中から栞さんを追い出すなんてできない。蓉子はただ、聖を支えてあげたいだけ。もっとも、今となっては蓉子が聖をささえているのか、聖に支えられているのか、よくわからなくなりつつある。それでも、あの少女は笑っている。今でも、聖のどこかで、笑っている。
「よーし点火だ。イグニッション・シーケンス・スタート!」
聖がライターで砂の発射台に並んだロケット花火に火をつけ始める。
「聖さま、火をつけるのはそこで大丈夫なんですか?」
「説明書を読んだから大丈夫。さあ、離れて」
真美さんが先に発射台を離れ、火をつけ終わった聖もこちらに戻ってくる。聖は蓉子の隣に立つと、蓉子の手を握ってくる。
「聖」
「始まるよ。一緒に見よう」
最初の一発が火を噴き、一筋の光が弧を描く。あっと言う間の出来事。そして次々にロケットは舞い上がり、暗くなった空にオレンジ色の光の弧を幾重にも描く。
「きれいね」
「うまくいった」
蓉子は聖とつないだ手に少し力を入れる。
「さあ次はパラシュート打ち上げるわよ」
「ねえ真美さん、パラシュートは夜は見えないんじゃないの?」
「じゃあ別のをやる。蔦子さん一緒に来てよ。パラシュートは最後にする」
「最終的にはやるんだ?」
「やる」
真美さんは蔦子さんを引っ張って発射台に歩いていく。蔦子さんが振り向いて笑う。あの笑顔と同じ笑顔で。でも蓉子はもうその笑顔には驚かない。それどころか、前を歩いていく二人が微笑ましくて、笑みを浮かべて小さく頷く。この二人は生涯の親友になるだろう。蔦子さんと真美さんは発射台に着くと、筒型の花火を立て始める。そのうちしゃがみこんでいた二人の白い服の少女が立ち上がって発射台から離れる。二人は手をつないでいる。砂の発射台が一瞬光り、光の束が大きく吹き上がる。赤、青、緑、オレンジの光の粒を撒き散らして。
花火の光の筋と、それに照らされて浮かび上がる白い服の二人の少女を見ながら、蓉子は聖にたずねてみる。
「ねえ、聖」
「何?」
「私たちこれから、どうなるの?」
「どうにもならないよ。多分ずっと一緒じゃないかな。少なくとも蓉子のビキニを見るまでは」
「バカね」
蓉子はつないだ手を離し、聖の腕をとって抱き寄せる。
 
 
 
 
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