反則勝ち
 
 
執筆:万屋和菓子店

 
 蝉がうるさく鳴いて、陽射しが強い。肌を曝せば一気に焼けて赤くなるか黒くなる。スイカとカキ氷が美味しいそんな季節の、お腹がいっぱいになって、丁度眠たくなってくる午後の昼下がり。
「………………」
 にも関わらず、整った容姿を持つ黒髪の大学生は、エアコンが良く効いた、しかし低過ぎない温度と丁度良い湿度に設定された快適なリビングで自主学習に励んでいた。
 部屋には座り心地の良さそうなソファーがあったが、ソレには座らず、ソファーの前に腰を下ろして、机と身体の位置を近くにし、黙々とペンを走らせ、本のページを捲っている。時たま手を止めては、ペンのノック部分を顎に当て軽く思案し、何ページか戻っては、確認するかのようにさっと目を走らせ、納得するかのように小さく頷くと、またページを捲ってペンを走らせる。
 誰にとっても模倣になる真面目な優等生、水野蓉子はこれをもう二時間強も続けていたりする。
「よぉ〜こ」
 そんな蓉子の後ろのソファーにうつ伏せに寝転がりながら、退屈そうな声を出しているのは、珍しくもヘアバンドを付けず、美しい額に髪を下ろした、何でも卒なくこなすが、気紛れで変わり者の大学生、親友兼半同居人状態の鳥居江利子。
「…………」
 蓉子は江利子の呼び声に返事をせず、と言うか完全に無視をして自主学習を続けている。
「よぉ〜こぉ〜……」
 しかし江利子は飽きずに蓉子を呼び続けている。
「…………………………」
 
 今日のお昼ご飯の献立は冷やし中華だった。丁度テレビを付けたら変わった味付けの冷やし中華の作り方を紹介していたので、折角だから作ってみたら、
「この味付け好きよ。また作って?」
 と言って、半同居人は喜んで平らげてくれた。
「あなたの為に作ったんだから当然でしょう?」
 なんて、普段だったら絶対に口にしないのに、江利子の笑顔が可愛くて思わず口が滑ってしまって(しかも自分でも自覚出来るほどの満面の笑顔で)、更に江利子を喜ばせ、そして散々からかわれたと言うエピソードがあったりしたり、なかったり。
 それから昼食の後片付けをして一息つき、蓉子は自主学習を始め、江利子は、いちいち赤くなる蓉子をからかった満足と手料理で満腹で、幸せいっぱいな顔をしながら、ソファーでゆったりまったりしていた。
 しかし一時間弱した頃には、江利子の蓉子をからかった満足は無くなり「蓉子かまってぇ〜」と猫のように強請り始めたのだ。始めのうちは江利子の申し出を断り続けるも、返事だけはしていた蓉子だが、それも次第に億劫になり、到頭完全無視を決め込んで現在に至るわけであった。
 
「よぉこ〜、たいくつぅ〜……」
 正に猫撫で声と形容される声音で、遊んでぇ〜。と長い両足をパタパタさせながら強請る江利子。
「…………」
(無視よ、無視……)
 江利子のそんな様子が可愛い。そんな事を思っているくせに、まるで自己暗示をかけるかの如く蓉子は心の中で繰り返す。
 元来から世話焼きで、基本的に江利子に甘い蓉子。そして江利子の遊んで光線は半端なモノではない。
(ちょっと………辛い、かも…………)
 江利子の遊んで光線に着実に追い込まれているようだったが、蓉子は返事をするのさえ我慢して、必死に勉強に集中しようとする。しかし、もう内容は頭の中に入ってこなくなっていた。
(我慢よ、蓉子。昨日だって少しくらいいいだろうと思ったら……結局、好き放題されたんだから……)
 好き放題。
 それは本当に色んな意味を含んでいて、蓉子は表面には出さずに心の中だけで紅くなった。
 言葉だけじゃなくて、声や、指先や、唇や………その他もろもろの躰の各部分で、全身を弄られ、しつこく愛された。
 そんな事を思い出して、一瞬だけペンを走られる蓉子の手が止まってしまったが、江利子に悟られないよう思案顔を作ってやり過ごす。
「蓉子………」
 江利子の猫撫で声が変わる。親友を呼ぶ声でも強請る声でもない。それは恋人を呼ぶ声だった。
「――――!」
 江利子は何の前触れもなく、蓉子の黒髪にそっと手を差し入れる。
(もしかして今の気付かれた?)
 突然頭部に感じた温もりに、思わず声を出しそうになったが、蓉子はペンを持つ手に少し力を入れて、なんとか耐える。
「夏休みくらい、優等生なんかやめなさいよ………」
「…………」
 江利子はうつ伏せから少しだけ体勢を横向きにすると、髪の中に入り込んだ手は優しく髪を梳いて、頭を撫でる。優しい温もりを感じて、それ以上はペンを動かせなかった。
「それに………」
「っ…………!」
 髪を梳いていた手が、首に下りてきて、項をなぞって、首筋を撫でた。
 反射的に身を竦めてしまった蓉子を見て、江利子は喉の奥で「くす」と笑う。耳許に唇を寄せ、低い声で、
「……教科書とか、参考書とか………そんな詰まらない物より………見詰めるべき相手がいるんじゃない?」
 と囁いて、撫でていた首筋に引き寄せ、唇を押し付けながら、耳の中に吐息で吹き込まれる。
「っ!」
 なんて殺し文句をなんだろうか、と、思わず心の中で溜息が出てしまう。
 
『……私を見なさいよ…………』
 
 蓉子はそんな江利子の言葉と吐息と声に、内心で恍惚としながら心臓を大きく脈打たせた。
 体温が一気に上昇していくのが自分でも解る。
「蓉子は肌が白いから、キスマークが良く映えるわね………」
 もう何箇所も付けたキスマークを、一つ一つ丁寧に確認するかのように、ゆっくりと唇で触れてくる江利子。
「っ……ん……」
 蓉子はペンを落とし、少しぐぐもった声を洩らした。
「もっ……江利、子………ぁっ、っ……」
 さっきの言葉は反則だ。そして、その低い声も反則。
 そんな濡れたような艶めかしい声で囁かれたら、どうしようも出来ない。
 蓉子は振り返って江利子を止めようとするが、逆に唇を掠め取られてしまって何も言えなかった。
「やっとコッチを向いたわね。ふふ……顔が真っ赤よ……」
 江利子は嬉しそうに微笑んで、蓉子の赤い頬にキスをする。
「っっ、もうやめて、江利子。私は勉強がしたいのっ」
 あんなコトをされれば返事をしたくなくても誰もが返事をしてしまうし、振り返るに決まってる。そう仕方が無い。でも、やっぱり何処か悔しくて、とても恥ずかしくて、江利子の嬉しそうな顔に少し照れた蓉子は刺々しい口調で言った。
「ふぅ〜ん」
 しかし江利子は全く物ともしない。小首を傾げて「だから?」なんて平然と聞いてくる。本当に小憎たらしい。
「だから邪魔しないでちょうだい! いいわね?」
 ちょっと怒ったようにプイッとまた正面を向くが、そんな事で江利子が引き下がる訳が無い。
「蓉子………」
 少し体を乗り出し、両腕を蓉子の首に絡ませ、左肩に顎を乗せてきた。
「暑いし重いわ。それに肩が凝るでしょう?」
 纏わり付いてくる温もりと、江利子のシャンプーの匂いと、頬に当たるサラサラの髪の感触に、心臓が軽いパニックを起こしていて、文句は言えるのに「退いて」とか「離れて」とか「嫌だ」とは言えなかった。
 江利子は蓉子の匂いを嗅ぐように鼻先を首筋に押し当てて、楽しそうに囁く。
「ねぇ、蓉子。動脈が凄い煩いけど、それで集中できるの?」
(誰の所為よ、誰の!?)
 心の中で悪態をつきつつ右を向いて口を尖らせた。
 江利子は楽しそうに小さく笑って、大袈裟に残念そうな、悲しそうな口調で言った。
「冷たいわね、蓉子。人が恥を忍んで精一杯言った殺し文句もスルーだったし………」
(自分で殺し文句なんて言わないでよ………)
 そう思ってまた江利子の言葉を頭の中で蘇らせてしまい、一人で顔を耳まで紅く染めた。
 正直ちょっと、いや、かなり恥ずかしい言葉だったと思うけど、でも、かなり、いや、凄く嬉しい言葉であったコトも確かだった。
 次に甘い言葉を囁かれたら、きっと、もう堪えられない。そう思って蓉子は少しだけ目を伏せた。
「ねぇ、蓉子。お互い違う大学に通ってるし、私の方は兄貴たちが口煩し、それでなくても、逢える時間なんて物理的に限られてるわけでしょ? 私は蓉子に逢えないのは淋しいし、逆に逢える時は凄く嬉しいわ。でもソレは私だけなの?」
 江利子は綺麗な微笑を称えて問う。しかし蓉子は顔を紅くするばかりで何も答えない。否、言葉が出てこない。
「もしかして、私のこと……もうどうでもいいの? ………寧ろ………嫌いになった?」
「!?」
 なんてコトを言うのだろうか!?
 蓉子は信じられないものでも見たような顔で、体ごと勢い良く江利子の方を向く。
 その問いだけには黙っているわけにはいかなかった。無視をするわけにはいかなかった。
 しかし見てみれば江利子の表情は満面の笑みで、瞳には絶対的な自信があるかのような光。
「………」
 本当に、江利子はズルイ。
 その問いに私が絶対に出さない答えがあると解ってるくせに。
 その問いに私がどんな風に答えるか解ってるくせに。
「っ……もう……卑怯よ、江利子………」
 悔しくて、切なくて、半ば泣きそうになりながらも、口を少し尖らさせてなんとか言う。
「ふふ じゃぁ、私の反則勝ちね♪」
 楽しそうに囁かれて「ちゅっ」と軽く唇にキスを落とされる。
 そのまま優しく抱き締められながら、もう一度キス。今度は長いキスだ。
 たっぷりとキスをされて、漸く解放される頃には、蓉子は顔を朱に染め、目を潤ませ、肩を大きく上下させていた。
 潤んだ瞳がやけに可愛くて、唇の端から零れた唾液がやけに扇情的で、江利子はその唾液を自分の舌先で拭いながら、床に座る蓉子をソファーの上に引き摺り上げて、フカフカのソファーの上に蓉子を押し倒す。
「はっ……もぉ……っ、江利、子………」
 力は入らなくて、脳はもう蕩け始めていると言うのに、そんな状態でも蓉子は少しだけ反抗した。勿論、口だけの。
「ねぇ、蓉子……」
 しかし今度は江利子が無視をして、至極楽しそうに問い掛ける。
「……アナタの答えは?」
 
 
 
「私のこと、好き?」
「……もう、江利子のバカ…………」
 
 蓉子は真っ赤で、江利子は楽しそうで。
 蓉子は江利子を抱き寄せ、肩に顔を埋めると江利子にしか聞こえない、小さな小さな声で言った。
 
 
――――江利子のことが大好きよ――――
 
 
 
 
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