忘れ物
 
 
執筆:柚田 実咲(STORY*GARDEN

 
 うつ伏せになり、だらりとのびた腕の先、骨ばった手首の下にそれはあった。
 何も知らない人から見れば、誰かに差し出すために首から外し、手のひらで握りしめているように見えるかもしれない。
 音を立てないように注意し、すぐ傍の椅子に腰を下ろす。残念ながら知っている。目の前にある鎖の付いた十字架は、私が何度言っても、むしろ言えば言うほど、彼女の手から離れないだろうと。
 決して薔薇の館へ向かなかった足が、当たり前のように今ここにいる理由と同じだ。彼女を動かせる人など、今は世界にたった一人しかいない。
 図書館の机。シャープペンシル。広げられた夏休みの課題。まるで不似合いなこの場所で、唯一彼女らしいといえば、人の気配に気付きもせずに眠っていることだけだろうか。
 そして、それさえも失われてしまう。
「……ん……しお……、よ、蓉子?」
 かたり、と椅子が小さく音を立てる。
 ばちりと目を開けた聖が、明らかに驚いていることに安堵する。
「ええ、ごきげんよう。ずいぶん熱心なのね」
 勉強のことを言ったつもりだったが、聖は眉間に皺を寄せたまま視線を逸らす。そして、ゆっくりと体を起こし、軽く目をこすってから溜め息をついた。
 聖の体から離れたロザリオが、机の上に置き去りにされている。
「そちらもずいぶん熱心に、人を追い回してるみたいだけど」
 微笑みながら攻撃的な言葉を返されるのは休みに入る前と同じなのに、私はぎくりとする。
「追い回す?」
「夏休みまで私の行動を監視して、説教をしに来るなんて」
 そうではない。今朝、聖の家に電話をかけて、ほとんど毎日学校へ行っているのだと聞き、胸騒ぎがして来てしまったのだ。
 でもそう言ったところで、電話までかけて確かめたのかと言われるだけだろう。
「説教するつもりはないわ」
 本当だった。ここまで来たというのに、一体何を言えばいいのか分からなくなっている。
「へえ。じゃあ、今日は山百合会の会合でもあるわけ?」
「……いいえ」
 ふっ、と聖は笑う。
「心配、だったの」
 その言葉しか思いつかない。
 聖は笑わずに、私をまっすぐ見据えて尋ねる。
「何を心配して、つきまっとっていらっしゃるの? 蓉子さんは」
 さっきまで腕の下に半分隠れていた課題プリントが、しっかりと書き込まれていることに気付く。勉強を遠ざけることはしないと、決めたのは聖自身だろうか、それとも。
「特定の下級生と親しくすることを、悪いとは思わないけれど」
「名前を言えば? 知っているくせに」
 聖は私の言葉を遮って言う。
「栞、さんと親しくするのはいいけれど」
 小さく頷いて、私は続ける。喉の奥が痛い。
「それ以外のことをすべて遠ざけるなんておかしいわ」
 腰の辺りがじわりと熱く、ここへ来るまでにずいぶん汗をかいたことを思い出した。ただ胸騒ぎがしただけで制服に着替えてここへ現れ、聖にこんなことを言っている私もおかしいのだろうか、と思う。
 何を心配しているのか、聖の問いに答えていないことに気付いたが、聖は何も言わない。
「栞さんと親しくしながら、白薔薇さまや、山百合会や、他の皆とうまくやっていくこともできるはずよ?」
 こんなことを言いたかったのだろうか、と思ったが、言葉を止めることができない。制服のスカートの奥で、膝の裏に汗が流れたのが分かった。隅から隅まで冷房で整えられているはずの場所で、私の体はいつまで熱いままなのだろう。
「ああ、妹にしろって言ったのは、そういうこと」
 聖が言って、プリントを折り畳む。
「山百合会公認で、いちゃいちゃできるってこと? 蓉子と祥子みたいに」
「何ですって?」
 反論しようとして言葉を止める。聖は私を故意に怒らせようとしているだけだ。
「私は、蓉子とは違う」
 隣の椅子から鞄を持ち上げ、プリントと筆記具をしまいながら聖が言う。約束の時間なのか、私から逃げたいだけなのか分からない。
「私たちは、そういう関係を望んでいるわけじゃない」
 鞄を閉めて聖は続ける。あ、と視線を走らせた先が、机に置かれたままのロザリオだと気付いた。
「栞さんは、望んでいるかもしれないわ」
 聖が、のばしかけた手を止める。
「栞、が?」
 私は頷いた。そうならばいいのに、となぜか思った。
「栞が、ロザリオを、欲しがっていると?」
 ふっ、と聖は笑う。
「あなただって、白薔薇さまからロザリオを受け取ったじゃないの」
 ぼん、と小さくも強い音を立て、聖は指先で机を叩く。そのまま、腕を弾ませるようにしてロザリオの鎖を引き寄せた。音もなく。
「なるほどね。そういう理屈か」
 手に取ったロザリオを首にかけず、聖は腕を持ち上げる。掲げられた十字架がきらりと光り、カーテンの隙間からこぼれる光がここまで届いていると気付いた。昼間の図書館は、これほど明るかっただろうか。
「きれいね」
 無意識にそう呟いていた。私はこれと同じぐらい美しいものを、もうこの手に持っていないのだと、どうしようもなく強く思う。
 しん、と静まったこの場所が、一瞬、薔薇の館であるような錯覚に襲われる。おそらく聖がロザリオを受けた、あの扉の前。
「蓉子、ロザリオ、あげようか」
「え?」
 目の前にある十字架の向こう側で、聖はじっとこちらを見ていた。のばそうと思った手は、膝の上に貼り付いたように動かない。
「何、言ってるの」
 かろうじて出た声が、震えている。
「そうすれば、私を心配する理由ができるわよ」
 はっと息を飲んで、聖を見つめた。
 炎天下の銀杏並木を歩き、影一つない校内をひたすら歩き回り、図書館に入って聖を発見した瞬間、私は泣き出しそうになった。その場に座り込みたいほどに。ああ聖がいてよかった、と。ちゃんと存在していてよかった、と。
 それを、そんな。
「――やめて」
 聖が腕を下ろした。
 かたり、と音がしてロザリオは再び机の上に置かれる。
「ごめん」
 聖の小さな声が耳に届く。
「蓉子の言っていることは分かる。でも、どうしようもないんだ」
「――じゃあ、どうして」
 がたがたがた、と椅子が大きな音を立てる。
 一体何が起こったのか分からず呆然としている私の横で、聖は驚くべき勢いで立ち上がる。鞄をつかんだ拍子に机がぐらりと揺れ、私の膝に衝撃が伝わった。
「しお、り」
 え、と私は呟いたまま、聖の視線を追いかけたが、聖の背中はもう、本棚の間をすり抜けてはるか遠くにあった。
 足が震えていて、私は椅子に腰を下ろす。そうするまで、自分が立ち上がっていることにさえ気付かなかった。
 もしかして聖が見ていたのは私ではなく、本棚の隙間から僅かに見える図書館の入口だったのだろうか。最初から最後までずっと。
 置き去りになっていたそれを持ち上げる。渡すつもりもないのになぜ首から外していたのかと、尋ねるつもりだった。忘れて走り出してしまうほど、聖にとっては小さなものなのだろうか。
 そして私は思い出した。同じものを確かに姉に授けられ、妹に授けたのだと。この重さと、この輝きを。一番好きな人に。
「――返さなきゃ」
 栞に渡すべきだと思った。そうすればきっと聖も分かるに違いない。両手で抱きしめるようにロザリオを持ち、私は図書館を出た。
 
 中庭の芝生の上に、二人はいた。
 並んで座り、互いを見つめながら何かを話している。
「……聖」
 踏み出した足が芝生の上で動かなくなり、私はその場に立ち尽くす。
 忘れ物よ、と言って手渡すつもりだった。友人として、山百合会の仲間として。
 視界に入っているはずの私に、二人はまるで気付かない。陽射しが強く真っ白に見える空の下で、時々風に揺れる緑色の芝生の上で、二人は互い以外に何も見ていない。
 分かってしまった。
 聖はいつも、ロザリオを外して栞と会っていたのだ。
 互いの存在以外に、一緒にいる理由など何もないと思うために。
 目を固く閉じたが、涙は出なかった。
 私は二人に背を向けた。
 聖のロザリオを、ぐるぐると手首に巻きつける。そうしなければ、この手のひらで握りつぶしてしまうかもしれない、と思った。
 
*        *        *
 
 うつ伏せになり、だらりとのびた腕の先、骨ばった手首にそれは巻き付いている。
 音を立てないように注意し、すぐ傍の椅子に腰を下ろす。目の前にある鎖の付いた十字架を、彼女はまだこの手から離していない。
 かちゃり、と音が聞こえ、ビスケットのような扉が開いた。
 私は振り返り、人さし指を唇に当てる。
 志摩子が頷いて、静かに扉を閉めた。
「いい夢を見ているようだから、そっとしているの」
 志摩子が少し笑う。
「よく分かりますね」
 一瞬だけ間を空けて、志摩子が言う。その視線がふわりと揺れて、彼女の手首のそれを捉える。
「ええ」
 一年前の夏の記憶は、この胸のはるか奥にうっすらと残っている。時は私たちの関係に、新しい言葉を与えてくれた。
「親友、だから」
 志摩子が頷く。
「白薔薇さまもそう仰っていました」
 聖はまもなく、このロザリオを志摩子に渡すだろう。
 私にはそれが分かる。
 
 
 
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