異音
 
 
執筆:のくた(のくた庵

 
 ――きゅんきゅん
 
 嫌な音。
 歯ぎしりにも似た、耳障りな異音。
 ああ、嫌だ。あの音だけはどうしても慣れることが出来ない。何とかならないのだろうか。
 確かに、この暑さも嫌だ。回りを見ることはできないけれど、湿度と温度の高さだけは肌でわかる。あ、いや、肌の感覚も怪しいかも知れない。
 身体にまとわりついているのは着慣れたリリアンの制服。それだけは見えなくてもわかる。だけど、この制服を最後に脱いだときが思い出せない。いつだろう。いつから、この制服を着たままなのだろう。
 制服を着たまま。
 目隠しをされたまま。
 猿ぐつわを噛まされたまま。 
 両手足は縛られたまま。
 いや、違う。正確には違う。
 目隠しをされているような気がする。
 猿ぐつわを噛まされているような気がする。
 両手足を縛られているような気がする。
 それぞれ、
 回りを見ることができない。
 声が出せない。
 身体が動かない。
 ことから類推しているに過ぎないのだ。
 
 ――きゅんきゅん
 
 何の音だろう?
 祐巳は父親に聞いてみた。
 ポンプの音だよ。と父親は答える。
 どうしてうちにポンプが?
 床下に地下水が染み出てくるからね、それをかいだしているんだ。それにしても、こんな小さな音が聞こえるなんて、祐巳も結構神経質だったんだな。
 そんなに笑わなくてもいいでしょ、お父さん。私だって、少しはナーバスになるんだからねっ。
 はははは、ごめんごめん。

 ――きゅんきゅん

 また、嫌な音。この音がするたびに頭痛が酷くなるような気がする。
 頭痛はここに連れてきてこられたときからのお馴染みの感覚になっている。
 初めてここに連れてこられたとき、こう聞かれた。
「貴女の名前は?」
 すでに目隠しをされていたので質問者の顔は見えない。でも、声に聞き覚えはあった。
 質問に答えた瞬間、衝撃が頭に響き、そして嘔吐した。
 殴られたのだと理解するまで少しかかった。
「貴女の名前は?」
 答えると殴られた。少しして、わからないと答えることを学んだ。
 その後、自分の名前を呼ばれた。その時は、返事をしただけで殴られた。そして、名前を忘れることを学んだ。
 どうしてこんな事をするの? そういって、相手の名前を呼んだ。
 一瞬の沈黙は、小さな後悔を一気に増幅させた。自分の名前も相手の名前も呼んではならない。吐き気を伴う鈍痛の中で、それを学んだ。

 ――きゅんきゅん

 何の音だろう?
 やっぱり気になって、音の出所を探してみる気になった。
 学校から帰った姿のまま、音の聞こえる先へと進んでいく。
 それは思ったよりも近くにあって……

 ――きゅんきゅん

 痛みには慣れた。というよりも麻痺している。これが殴られた痛みなのか、汗と排泄物にまみれた異臭による吐き気なのか、闇の中に放置された精神が病んでいるのか。
 どれであろうとも、慣れた。
 この、嫌な音以外は。
 止めて欲しい。この音を。
 それが駄目なら、いっそ耳を。
 異音に神経を尖らせていると、突然前置きもなく、冷め切った粥のようなものが口に押し込まれる。
 食事という名の給餌の時間。
 一日三食……だと思う。時々、間隔が妙に開いたり、食べ終わったと思ったらすぐに次の食事が来たり。こちらの時間感覚を狂わせる目論見ならば、それは非常に成功していると言えるだろう。
 もう、わからない。今が何日目なのか。

 ――きゅんきゅん

 珍しく、全員がほとんど同時に薔薇の館に到着していた。必然的に、皆で順番に二階へと上がっていく。
 暑いね。
 夏だもの。
 他愛のない会話をかわしていると、
「何の音かしら?」
 最後尾を乃梨子と歩いていた志摩子が辺りを見回して、首を傾げる。
「一階から聞こえたみたいだけれど」
「ああ、それなら……」
 令の隣の由乃が訳知り顔に頷いていた。
「一階のポンプの調子が悪くて変な音がするけれど、心配しなくていいからって、さっき用務員さんに言われてたわ」
 その横で令が呆れたように言う。
「由乃、そういうことは早く言わないと」
「だって、そんなに重要な事じゃないと思って忘れてたのよ。現に今だって、志摩子さんが気付かなかったら誰も何も言わなかったじゃない」
「それはそうだけれど、伝言なんだからちゃんと皆に伝えないと」
「令ちゃ……お姉さまは神経質すぎるのっ」
「うふふ、ごめんなさいね、由乃さん。私が余計なこと言ったみたいで」
 ニコニコと笑う志摩子に、由乃が慌てて言う。
「違うのよ。別に志摩子さんのせいだなんて……そういう意味じゃ……もお、お姉さまのせいで変なことになっちゃったじゃないのっ!」
「でも、この音にはなんだか聞き覚えがあるような」
 それらのやりとりを無視しているわけではないのだけれど、祐巳はさっきから別のこと気になっていた。
 この音、聞き覚えがある。どこだろう?
「あ、そうだ。確か、お姉さまの家でこの前……」
「そういえば、そうだったわね」
 祥子がテーブルに向かっていた足を止めて、顎に指を当てて考える。
「確かあの時は……そうそう、うちの裏庭にある井戸の電動ポンプの調子が悪かったのよ。それで祐巳が遊びに来ていた間、ずっとこんな音が聞こえていたのよね」
 
 ――きゅんきゅん
 
 …止めるわけないでしょう? と声は嘲るように笑う。
 …だってこの音は必要なんだから。
 必要? 必要って?
 …いいのよ。貴女は知らなくても。
 
 ――きゅんきゅん
 
「ああ、そう言われてみれば、私も同じような音を聞いたことがあるかも」
「まあ、乃梨子もなの?」
 志摩子が微笑む。
「実は私も、寺の裏にある井戸のポンプが似たような音を立ててるなと思ってたの。きっと、紅薔薇さまのお宅と同じメーカーなのよ」
「うーん。私は、井戸には縁がないよ。何しろマンションだから……あ、そうだ」
 乃梨子が嬉しそうに立ち上がった。
「思い出した。マンションの地下でこんな音が聞こえるんだわ。やっぱり同じメーカーのポンプでもあるのかしら」
「そういえば、道場の裏にもあったような気がするな、井戸が」
 令が言うと、由乃も頷く。
「あったあった。昔、危ないから近づいちゃ駄目って怒られたっけ」
「怒られたのは由乃だけじゃなかったっけ?」
「お姉さまッ!」
 
 ――きゅんきゅん
 
 あからさまな異音。聞こえていれば誰もが不審に思うはず。
 不審に思ったから、様子を見に来た。
 そうだ、思い出した。
 自分は、異音を確かめるためにここに近づいたんだ。
 そして今、ここにいる。
 この異音と共に。
 でもいなくなった自分を捜してくれる人がいるはず。
 …いないわよ
 そんなことはない。
 …だって貴女、いなくなってないもの。
 …代わりに、私がいるからいいの。
 代わりなんて!
 …いるの。
 突然明るくなる視界。
 そして目の前に、自分と同じ顔の少女が。
 …ね?
 
 ――きゅんきゅん
 
 薔薇の館では、もうこの異音を話題にする者はいない。
 
 
 
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