夜空と地上のスキマには
 
 
執筆:滝(流れ落ちる何か

 
 花火を観にいかない? と訊かれたのは、夕食をとっている最中のことだった。
 はい? と祐巳が口をモゴモゴしながら聞き返すと、「食べながら喋らないの」と、小さい頃お母さんに言われたような注意が飛んでくる。
 でも、仕方がないではないか。ビックリしたのだから。信じ難いぐらい、嬉しいのだから。
「まさか夜までゴロゴロ転がっているつもりではないでしょう?」
「それは、そうですが」
 そう、祥子さまの別荘に滞在できる時間は、もうとっくに一日を切っている。昼間さんざんゴロゴロして本を読んでいたから、夜まで本を読む気にはなれない。
 ならばまたトランプか、と思っていたけれど、流石にそれも飽きてくる頃。だから、というわけでもないけど、祥子さまからの申し出は嬉しかった。折角こんな素敵な場所に滞在しているというのに、夏らしいことはあまりなかったから。
「でも、いいんですか?」
「いいって、何が?」
「花火って、打ち上げ花火ですよね。お腹にドンドン来ますよ」
「知っているわよ。打ち上げ花火を観るのは、初めてじゃないわ」
「でも、きっと込みますよ。お姉さま、人ゴミはお嫌いでは」
「……あなた、もしかして花火が嫌いなの? 行きたくないの?」
「まさか、そんなっ」
 祐巳は大きく顔を横に振った。こんなチャンス、逃してなるものか、って。
「心配ないわ。込まない場所を知っているから」
「なら、よかった。行きます。絶対行きます」
 お姉さまと、花火。一度でも思い描かなかったかと問われれば、頷くほかない。
(やった、やった)
 外はまだ、ほんの少しの明るみを持っている。ここのところ毎日、日が沈むのを惜しんでいたけど、今日ばかりは待ち遠しい。
 早く食べれば、時間も早く進んでくれるだろうか。そんなはずもないのに、祐巳が食事のスピードを速めると、祥子さまは「本当に落ち着きのない子ね」と目を細めた。
 
*        *        *
 
 込まない場所を知っている、とは訊いていたけれど。
「あの、お姉さま」
「何?」
「後何分ぐらいですか?」
「五分ぐらい、かしら」
 まさか、こんな場所を通るとは。祐巳は名前も知らない草木を掻き分けるように、道無き道を行っていた。
 祥子さまが別荘を出て向かったのは、当然込み合いそうなメインストリートではなかった。そう、祥子さまは、正反対の方向である山中へと足を向けたのだ。
 出かける前、スカートは止めておきなさいと言ったのは、そういう意味だったのか。ジーンズを右の手の平で抑えて、そう反芻する。
「もうすぐよ」
 その声に「はい」と返すと、少し掠れているのに気が付いた。もう息が上がってきているらしい。
 獣道のような場所を進んで行くと、やがて木で出来た急な階段が姿を現す。きぃ、きぃ、と薔薇の館の階段と同じぐらい急なそれは、しかし軋む音だけは違っていた。
「着いたわ」
 その言葉に顔を上げる。足元の階段は、まだ続いている。祐巳の手を取る祥子さまの背後には、白く瞬く星達がいた。
 綺麗。――花火なんて観なくても、このままなら充分に幸せなんじゃないかって、割りと本気で思う。
「ほら、早く登って」
 夢から覚めるように、祥子さまの手が高台へと、現実へと引き上げた。見渡してみれば、ここは展望台のような場所らしい。眼下には別荘たちとメインストリートの明かりが、星よりも強く輝いている。
 生い茂った草は、ほとんど手入れをされていない証拠。だけれどここから見える天空の星と地上の星を望めば、展望台としては一級品だと言えた。
「もうすぐよ」
 祥子さまが、懐中電灯の光を腕時計に向けて言った。微かに、草の青い匂いがする。
 ひゅるる、と、大気を切り裂く細い音がした。パッ、と開く火の花。ドォンと重たい音が、遅れて聞こえてくる。
「始まりましたね」
「ええ」
 祐巳は、祥子さまの手を握った。遮る物がないせいで、展望台は少し肌寒い。
「ここで観るのは、久しぶりだわ」
 花火が七回ほど上がったところで、祥子さまは言った。
「何年ぶり、ぐらいですか?」
「六年かしら。いいえ、七年かしら」
 指折り数えるように、祥子さまの手が動いて、祐巳の手を抱き締める。
「花火自体は、一年ぶりなのだけど」
「……というと?」
「去年、蓉子さまたちと観に行ったことがあったから」
 そうなんですか、という声は、小さすぎて花火の音に紛れた。花火の音もまた、会場からは遠いせいで小さいはずだというのに。
「楽しかったですか?」
 聞きたい、知りたい。そんな気持ちが前に出て、祐巳は尋ねた。
「ええ」
 祥子さまは、幸せそうに言う。
「楽しかったわ」
 
*        *        *
 
 浴衣を着て来なさい。そっちの方が、楽しくなるはずだから。
 それは花火の前夜、電話口での言葉だった。祥子は「何故です」と軽く反駁したけれど、蓉子さまは「いいから」と少し強く言った。
「おー、祥子が浴衣着てる」
 集合場所についてまず言われたのは、そんな一言。一番乗りで来ていたらしい聖さまは、爪楊枝を片手に何かを頬張っていた。
「……白薔薇さま、はしたないですわよ。立ち食いだなんて」
「バカ言っちゃいけない。立ち食いするのは、祭りでの礼儀だ」
 ほれ、と聖さまは焼きそばの入ったパックを押し付けてきた。屋台物の焼きそばというものを、初めて見た。
「蓉子と食べな」
「でも」
「あー、いいいい。その先の言葉なんか、つまらないから聞きたくない」
 貰う理由がない。そう言おうとした矢先にそれを封じ込められて、何だか出足を挫かれたような気分になる。
「そうね、お言葉に甘えてもらっておきましょうか」
 不意に背後から声が聞こえて、お姉さまだと安心した。人通りが多いと、何故だか寂しくなることがある。
「でも、お姉さま」
「いいから。それより祥子、言わなきゃいけないことがあるでしょ」
「……はい。ありがとうございます」
「ん」
 お礼を言うと、聖さまはまた口をモゴモゴさせながら言った。
「そう言えば、令は?」
 蓉子さまは焼きそばを見て「美味しそうね」と言った後、聖さまに訊いた。
「由乃ちゃんの具合、あんあり良くないんだってさ」
 それ故に、令も由乃ちゃんも欠席。聞けば江利子さまは、家族に捕まって出て来れないらしい。結局、黄薔薇ファミリーは揃って欠席だった。
 三人、うち二人は、上級生。取り残されたような気分になるのは、致し方のないことだと思う。
 そんな祥子の心境を、蓉子さまは見抜いていたのだろう。超然としているようで、だからこそ物事や人をよく見ている。だから祥子がそんなことを考え続けないように、「行きましょ」と先を促した。
「花火、何時からだったっけ?」
「八時半から。あなたが言ってたんでしょう?」
「そうだっけ」
 カラン、カランと、下駄の音が二人分。浴衣を着ている人があまりにも多いから、それを自然に受け入れていたけれど、蓉子さまも祥子と同じく浴衣を着ていた。流石に着て来るように言った手前、その本人が着ないのもおかしな話だと思う。
 聖さまはデニムパンツにノースリーブのシャツという、涼しげな格好で先頭を歩いて行く。人いきれなど、気にも留めずに。
 境内に入ると、喧騒は一際大きくなって、人の数もどんどん多くなっていく。カラン、カラン。もうその音は、何人分か分からなかった。
「祥子?」
 蓉子さまが、手首を取った。その手は、妙に冷たく感じた。
「はい?」
「あなた、大丈夫? 顔色がよくないわ」
 その言葉に、先を行っていた聖さまも振り向いた。じゃあこっち、と、人の少ない方向に向かって、また歩き出す。
「いえ、大丈夫です」
 こんなことぐらいで、情けない。そこまで華奢だと思われたくない。そう考えたのは、意地としか言いようがない。こんなところでまで手のかかる子だなんて、思われたくなかった。
「駄目よ」
 蓉子さまが、強い目で言った。駄目。押し付けるように、もう一度。
「まあ、祭りくるのなんて初めてだろうし。待ってな、冷たいもの買ってくる」
 奥まったところにある階段に腰を下ろすと、聖さまはそう言って颯爽と歩いて行ってしまった。
 本当に、このぐらい何でもないのに。しかしそう言うには、普段よりも身体が重い気がした。
「すみません。折角お祭りにお誘い頂いたのに」
「いいのよ」
 でも、残念だわ。蓉子さまがそう続けたから、祥子はほんの少しだけ、身体を振るわせた。まさかそこまで直線的に、「残念だ」なんて言われるとは、思いもしていなかった。誰よりも言葉を選ぶ蓉子さまだから、そんなこと言うはずがないと思っていたのだ。その認識はある意味、蓉子さまに甘えていると言っていい。
「どうして、素直に言ってくれないのかしらね」
「え……?」
 蓉子さまの言葉に、祥子は顔を上げた。論点が違う、と感じた。
「辛かったら、言ってくれればいいのに。気分が悪くなるのは、別に恥ずかしいことじゃないのよ」
「……はい」
 そういう問題じゃない。祥子がそう考えているのも分かっていて、蓉子さまは言っているのだろう。口調の優しさから、それがよく分かった。
「そろそろ、時間だわ」
 蓉子さまがそう呟いて、三十秒もしない内に、ひゅるる、と細長い音が聞こえた。不意に空が明るくなって、生い茂った木の葉の向こうに、花火が観えた。
「綺麗ね」
「はい」
 だったら、もっと綺麗だなって顔をすればいいのに。蓉子さまは、少しだけ口を尖らせて言った。
 
*        *        *
 
「楽しかったわ」
 そう言った祥子さまの瞳には、透明で幸せな色が浮かんでいた。その声は、祐巳に語り掛ける時よりも尚、優しい気がした。
 ああ、なんだろう、これは。
 梅雨のあの時期に感じた、ズドンを重たい痛みなんかじゃない。胸が不意に締め付けられて、痛みはチクッと鋭い。
「その時の話、聞きたい?」
「……いいえ」
 祐巳は首を振ると、また一つ花火が夜空に弾けた。空が赤く、青白く光る。
「あなたは素直ね」
 ふふ、と祥子さまが笑った。何が、どこが素直だと言うのだろう。本当は聞きたい、でも、知りたくない。
「いいのよ、それで」
 耳元で声がした。祐巳が俯いている間に、祥子さまは背後に回っていたらしい。
「何もよくありません」
 こんな気持ち、どうすればいいのか。不意に甘えたくなって、けれど気持ちは遠ざかる。
「本当に、あなたは素直ね」
 祥子さまのほっそりとした指が、祐巳の頬を撫でた。ああ、また百面相しているんだなって思ったけど、隠す気も沸いてこなかった。
「祐巳」
 祥子さまの顔(かんばせ)が、祐巳のそれと並んだ。長い髪が、首筋を滑る。
「どうして、そんなに幸せそうな顔してるんですか」
 どうして、祐巳はそんなことを言うんだろう。走り出しそうな感情を宥めるように、祥子さまはもう一度「祐巳」と呼んだ。優しく、優しく、色んな物が詰まった声で。
「あなたが隣にいるからよ」
 その呟きに覆いかぶさるように、音が弾ける。
 祥子さまの幸せそうな顔、優しい微笑みが、溢れそうな顔。
 火の子が夜空を滑り落ちる様が、無為に目に染みた。
 
 
 
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