真夏の陽炎
 
 
執筆:月華(砂漠の薔薇

 
 アスファルトから上がる熱気。そう、今は夏。
 薔薇の館の中にも、その熱気は入り込んでいた。各々ノートをうちわ代わりにパタパタとさせ、アイスティーの氷は溶けかけている。これ以上は耐えられない、と誰もが思った時、祥子の一言が厳かに響いた。
「今日はこれくらいにしておきましょう」
「そうだね。こう暑いと集中力も続かないよ」
 令が賛同すると、皆はホッとした表情を浮かべる。
「では、続きは月曜日でよろしいですか?」
 志摩子だけは、熱気など感じていないような涼しげな表情を浮かべていた。
(志摩子さん……暑くないのかな)
 志摩子の妹だからといって、涼しげな表情などできる訳もない。本当に、今日は暑いのだ。
「いいえ、月曜日は校内に清掃業者が入るらしいから、次は水曜日にしましょう」
「やった!」
 思わずつぶやいた声は、ちょっと大きかったようで。皆一斉に乃梨子の方を向いた。
「あ、すみません。大声出しちゃって」
「いいえ、めずらしいと思っただけよ。……そうね、水曜まではゆっくりできるわね」
 祥子はちらりと祐巳を見ると目配せしあう。
 
 ―― その時。
「きゃっ」
 志摩子が滑って床に転んでしまった。
「志摩子さん!」
 言って乃梨子は「お姉さま」と呼ばなかったことに気づいたが、今は緊急事態である。すぐさま志摩子の元へ向かい、様子を見た。
「ちょっとごめんね」
 令が横に座る。志摩子は転んだ時に足をひねったようで、右の足首を押さえていた。
「ひねったみたいだね。保健室は……開いている訳ないか」
 令はかばんの中からコールドスプレーを取り出し足首へとふる。
「黄薔薇さま、これを……」
 乃梨子は持っていたハンカチを令に差し出した。
「ああ、ありがとう。テーピングを持っていたらよかったんだけど」
 慣れた手つきでハンカチを巻いた令は、志摩子に「立てる?」 と声をかけた。
「すみません。ありがとうございます」
 テーブルを支えに立つ志摩子。見ていると痛々しくて、言わずにはいられなかった。
「お姉さま、家まで送っていきます」
 
 
 片付けは自分たちが、と言う祐巳と由乃に頭を下げ、2人は薔薇の館を後にした。
 ……乃梨子の使命は、志摩子を無事家まで送りとどけること。
 
 
 
 
 
「真夏の陽炎」
 
 
 
 
 
 広大な小寓寺の門を潜り、志摩子の住む自宅の玄関へと向かう。ひょこひょこ、と歩く志摩子が後に続く。
「家に家族の方がいるなら、すぐに病院に行った方がいいよ」
「今日は、誰もいないの」
 きょうは、だれも、いないの。
 その一文が乃梨子の頭にこだまする。
 きょうは、ふたりきりなの。
 違った意味に変換され、真夏の暑さだけではない汗が流れ始めた。心臓が口から飛び出しそう。
 志摩子が持っていた鍵で玄関を開け、「おじゃまします」と言って部屋へ上がる。部屋は綺麗に整頓され、いつものように良い匂いがした。
「志摩子さん、鞄ここに置くね」
「ええ」
 志摩子は、自分の不注意で怪我をしてしまったことに多少のショックを受けているようだ。いつもより表情が沈んでいる。
 乃梨子は勤めて明るく笑った。ひまわりのように、志摩子さんの心に染み込んでくれるといい。そう、思いながら。
「まず制服を脱がなきゃね。あ、着替えはどこ?」
「ええと……。いえ、着替えくらい自分でするわ」
「何言ってるの。私と志摩子さんの仲でしょう? 気にしないで」
 ここかな? 志摩子の部屋には古い木のタンスがあって、乃梨子は1番上の段を引いてみた。
「あ……」
 固まる乃梨子。こ、これは……。
「きゃ! 乃梨子、そこは下着……」
 あまりの衝撃に飛び上がりそうになった。しかしポーカーフェイスの得意な乃梨子のこと、苦笑しつつ「ごめんね」と言う。
「着替えは、どこにあるの?」
「上から3段目よ」
「分かった」
 乃梨子は上から3段目の引き出しを引いた。
「志摩子さん……」
 そこにあったのは、和服である。これは……浴衣?
「志摩子さん、パジャマじゃないの?」
「そうなの。藤堂家のしきたりで、夜は浴衣なのよ」
 この時乃梨子は志摩子から見えない位置で右手をグッと握り締めた。こういう事もあろうかと、菫子に着付けを教わっていたのだ。
「じゃあ、志摩子さん。この藤色にするね」
「乃梨子、着付けは出来るの?」
 乃梨子は力強い笑みを浮かべ「もちろん!」 と言う。
「その前に、制服を脱がせるね」
 タイへ手を伸ばした。
 
 シュル。
 
 脇についているファスナーをこれでもかとばかりゆっくりと下ろす乃梨子。
「ちょっと、固いねこれ」
 少し力を入れるつもりが、手が滑ってしまった。思い切り志摩子の腰に腕をぶつける乃梨子。
「いったぁ……」
 どうやら思ったよりも興奮しているらしい。手には汗がぐっしょりだった。
「ごめんね、志摩子さん。はい、手を上げて?」
「ばんざーい……」
(し、志摩子さ……!)
 今の無意識? 無意識だよね?
 自分でバンザイ言う志摩子は童女のようにぼんやりとしている。
(あ……)
 ひょっとしたら、熱が上がってきたのかもしれない。制服を脱がせ、浴衣を羽織らせるとおでこに触れた。
「志摩子さん、熱あるよ」
 手早く浴衣を着せ、ふすまに入っていた布団を敷き寝かせる。
「ありがとう乃梨子」
 布団からちょこんと出ている志摩子の頭。
 乃梨子は心とは裏腹ににっこりと笑い、「何か食べられるものを作ってくる。台所借りるね」
 と言った。先日訪問した際に間取りは頭に入れている。……そう、鍋の位置さえも。
 
 カラン。
 
 小鍋を取り、炊飯ジャーに入っていたご飯を使い、今日はたまごがゆ。
「フンフーン♪」
 まるで新婚生活の気分に浸る乃梨子。
(幸せ、本当に幸せだよ志摩子さん)
 30分ほど経ってからおかゆをお盆に乗せ志摩子の部屋に入った。
「しまこさ……」
 部屋の主は小さな寝息を立て、眠りについている。
「しまこさん……疲れたんだね」
 机にカシャンとお盆を置き、眠る志摩子の隣に座った。額にはうっすらと汗が浮かび、それをハンカチでふき取る。
 乃梨子はそっと立ち上がり、救急箱と額に乗せるタオルを取りに部屋を出る。
 怪我と熱。全ての処置を済ませた乃梨子は手持ち無沙汰で志摩子の部屋を見回した。
「あ」
 机に自分の写真が飾ってあるのを見て、顔がみるみるうちに赤くなっていく。
 それは自分の部屋の机に飾ってある写真と全く同じものだった。
「きょ、今日は暑いなぁ」
 
 ぱたぱた。
 
 キョロキョロと視線をさ迷わせ、気を逸らすためにタオルを交換しようと手を伸ばす。
 代えたタオルからツ、と落ちた雫が志摩子の唇に落ちた。
 
「……! 志摩子さん」
 その妖しさに乃梨子の理性は吹き飛ぶ。
 
「志摩子さん、足が痛いでしょう? 熱だけでも、私が貰うね」
 志摩子が発する熱を、自分が吸収して、冷やしてあげたい。
 
 乃梨子はおでこを優しくなで、目を閉じた。
 
 ちゅ、ちゅ。
 
 角度を変え、何度も唇を当て志摩子の熱を奪おうとする乃梨子。
 唇の柔らかな感触に気づいたのか、志摩子の目がうっすらと開いた。
(のりこ)
 そうして、志摩子も乃梨子に応えるように首を上げる。
 いつの間にか、乃梨子の右手は布団の中へ忍び込んで……。
「……って、駄目だね。志摩子さんから熱を奪うだけでいいんだ。今は」
 乃梨子は唇を離し、最後におでこへと口付けた。
「早くよくなりますように。明日は病院に行った方がいいよ」
「ええ、そうね」
 
 もどかしい。
 今の志摩子の心中を述べるとその5文字。
 そして、とても切なかった。
 
 ちょうど玄関からガラガラという音が聞こえ、2人だけの時間は終了する。
「じゃあ、来週の水曜日に」
「まって乃梨子」
 志摩子はちょいちょい、と乃梨子へ手招きをする。
 乃梨子はととと、と近づき、志摩子の前へ座った。
「乃梨子、すき」
 志摩子は乃梨子のタイを引っ張り、深く、口付けた。
 私の熱も、心さえうつってしまえばいいのに。
 離れると、乃梨子も切ない表情を浮かべていたから、どうやら心はうつったらしい。
「もう帰らないといけない」
「残念だわ」
「残念。……そうだね」
 志摩子は乃梨子の左手を両手で包み、もう1度「好きよ」とつぶやくと、また布団へと横になった。
 乃梨子は家の主へ挨拶を済ませ、玄関を出る。
 
「あついよ。志摩子さん」
(こんなにも、心があつい)
 髪の毛を耳にかけ、トントン、と靴を履き家路へと向かう。
 外へ出ると、水を打ったらしい地面から、もやもやと陽炎が立ち昇っていた。
 
 
 
 
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