■ 福沢祐麒、人生最大の作戦
 
 
 
 
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 季節は夏真っ盛りで、みんみんと五月蝿い蝉の鳴き声が鼓膜にダイレクトに響いて来る。
 首筋といわず背中といわず、じっとしていても徐々に湧き上るように噴き出てくる汗に、例え様の無い不快感に襲われ、汗の所為で肌に張り付くTシャツの生地が、より一層その不快感を助長してくれる。
 
 なけなしの涼を求め、ベッドにもたれながら、冷たい(ような気がする)フローリングの床に座り込んでいる俺──福沢祐麒は、凄惨なまでに灼熱の日本の夏を、全身全霊で実感させられていた。
 
「──夏、だなぁ」
 
 薄っすらと陽炎立ち昇らんばかりの俺の部屋の室内温度は、現在、35.5℃。例え、「冬だなぁ」、と呟いた所で、室内温度が劇的に目減りする訳でもない。開き直って、「夏だなぁ」、と呟いてみたが、しかし心頭滅却火もまた涼し、の境地には到底辿り着けそうも無い。
 
 『記録的な猛暑』、だとか、『観測史上最高の──』、などといった煽り文句と共に、今年の夏を襲った殺人的な猛暑をアピールするニュースが日々、引きも切らさず垂れ流され、海の家やプールは大勢の家族連れで賑わい大繁盛。売り上げは鰻上りに潤って、対してつい先ごろエアコンが故障した俺の部屋は、サハラ砂漠の如き干からびっぷりを如何なく発揮している。
 
 近所の個人経営の電気屋は、家族揃っての旅行とか何とかで長期留守中。それならばと街の大型家電店にエアコンの故障を訴えれば、同じように冷房機器の修理にサービスマンは日々狩り出されているとかで、福沢家のエアコン修理の対処は、早くても一週間後、という無慈悲極まりない解答を叩きつけられたのである。
 
「嗚呼──」
 
 熱い。暑い、ではなく、正確に真なる意味で、この部屋は熱い。
 無論俺とて、馬鹿の一つ覚えに灼熱にこの身を焦がす気なぞ毛頭ない。睡眠時やテレビを見るときなどはリビングで過ごし、それ以外の時間は、お隣の、正常稼動するエアコンにより快適空間が形成されている年子の姉──福沢祐巳の部屋にお邪魔する事もまま有る。
 
 しかし、自分の部屋以外の場所とは、基本的に落ち着かないものである。リビングには大抵母親が居るし、かといって祐巳の部屋では、俺以上に彼女の方が落ち着くまい。
 現在は夏休み。長期夏季休暇中であり、友人どもの家にお邪魔する機会は無くはないし、冷房がキンキンに効いた店などに出向く事もあるが、しかし最も長く居座る機会の多いのは、言うまでも無く自室。エアコンの故障した、果ての無い六畳間の砂漠地帯なのである。
 
「暑いぜーーー」
「……」
 
 隣に居るであろう祐巳に故意に聴こえるようにして、この理不尽な現実を訴える。聴こえていない筈は無いだろうが、壁一枚隔てた向こう側からのレスポンスは皆無。暑さの所為だろうか、ちょっとしたことに詰まらない意地が湧く。
 
「祐巳よ……」
「……」
 俺は一度、そこで大きく息を吸い込んだ。呼吸器官が生温い空気に浸され、一瞬の嘔吐感に襲われる。
「俺の部屋は、暑いぞー。そりゃもう、深刻なほどになー」
「知ってる。同情するよ」
 
 同情するよ、という壁越しのくぐもった声は、しかし一欠片も同情や労りを孕んだものではなかった。むしろニュアンス的には投げやりに近い。
 年子の姉が居るという事で、クラスの連中にはシスコンだのリリアンのアイドルを独り占めだの、様々な邪推をされるのだが、現実など所詮こんなものだ。
 
「……なあ祐巳、夏休みの宿題で、ちょっと判らない所があるんだよ。ちっとばか教えてくれよ。な? ちょっとでいいから、こっちに来て、宿題見てくれよ」
「暑いから、ヤ」
「うおっ、こんな所に五千円札が落ちているっ。一体いつ俺は落としたのだろう……。おーい祐巳、今日は寿司だ寿司。俺の部屋で一緒に寿司食おう」
「暑いから、ヤ」
「……なあ祐巳、暑い暑いじゃあ話は進まないよ。ほら、よく言うだろ?暑さ寒さも彼岸まで、って。ぱっと見俺の部屋は暑そうに見えるけど、これがどっこい、中々に快適で……」
 
「──暑いから、ヤ!」
 
 隣室から轟いた叫びが、決して薄くはない壁を震わせた。彼女がここまで声を荒げる事も珍しいのだが、もしかしたら取り込み中だったのだろうか。だとしたら申し訳ないことをした。例え血を分けた姉弟だろうと踏み越えてはいけない境界線は存在する。
 誰も好き好んで姉弟喧嘩なぞしたくはない。姉には姉のプライベートがあり、そして俺は、暑い。リリアンと花寺。隣り合う学校に、それぞれに通う二人。姉はエアコンの効いた部屋で快適に夏休みの宿題をこなしていき、そして俺は、暑い。
 
「調子に乗るなよ、祐巳」
 その矛盾に気付かされた時点で、踏み越えてはいけない境界線は霧散した。
 
「祐巳、お前は小さかったからよく覚えてないだろう。死んだひい爺さんが、いまわの際に息も切れ切れにこう言っていた。八月六日、つまり今日だな。今日から一週間、俺と祐巳は部屋を交換しなければ、福沢家は末代まで祟られるという……」
「私とアンタは、同い年っ」
 
「祐巳、お前は福沢設計事務所を舐めている。俺の部屋の壁には、一つのでかい掛け軸が掛けられている。お前の部屋にもあるだろう。その先は壁ではなく空洞になっててな、そこからお前の部屋のクーラーの冷風を……」
「そもそも掛け軸なんて無いっ」
 
「祐巳、お前は……」
 
「──五月蝿いっ……!!!」
 
 自室の壁に張り付いてダンダンと壁を叩きながら本能に任せて叫んでいたら、俺の部屋の扉が、何の前触れも無く暴力的な勢いで開かれた。すわ何事かとそちらに目をやると、そこには髪を下ろしてノースリーブのシャツに、下はハーフパンツという、非常に開放的な格好に身を包んだ姉が、さながら鬼女の如き形相を浮かべ立っていた。
 まあ、上はランニングシャツ下はトランクス一枚。そして顔中汗だくな俺の開放っぷりには、いささか及ばないようであるが。
 
「何よそのだらしない格好……って、うわー暑いなにこれ狂ってる。この部屋、人の住める環境じゃないわね」
「このアマ、よくも他人事のように──」
「ストップ。だからって今日は私の部屋に来ないでね。今日は志摩子さんと由乃さんが泊まりに来るから、けだものは私の部屋に近づけたくないの。夜はリビングでおとなしく寝てね」
「志摩子さんと、由乃さん……?」
 
 面識は無いのだが、その二人が祐巳の仲の良い友人だと云うことは俺も知っている。恐らくは向こうも、祐巳に年子の弟がいることぐらいは知っているだろう。
 父親と母親は、とある地方都市の花火大会を見に行くと8月の2日から家を空けており、そのままその界隈に住む共通の友人の家に、来週の日曜日、つまりは8月7日の夜まで滞在してくるとのことだ。
 約一週間ほど両親が家を空けているわけで、何処から聞きつけたのか小林の奴は、「一週間も祐巳さんと二人きり……」、などと呟いていたが、無論小林の空想の世界などどこまで行っても空想で、現実はただ暑いだけである。
 
「祐麒が居るって二人には伝えてあるけど、二人はそれでも構わないって言ってくれたよ。志摩子さんと由乃さんの恩を、仇で返すような真似しちゃ駄目だからね」
「そんな気は毛頭ない」
 それは嘘偽りなき事実である。今の俺は、彼女よりもクーラーが欲しい。切実に。
 生暖かいベッドにごろんと転がって、手をひらひらさせながら言う俺に対して、祐巳はやや肩透かしでも食らったかのような顔を一瞬だけ浮かべたが、本当に俺にその気が無いと悟ったか、「ふーん」、と面白くなさげに呟くと、裸足の足をひたひたとさせながら、俺の机の方へと向かっていった。
 
「何する気だ?」
「どうせなら、ついでだから」
 そう言うと祐巳は、机の上に置いてあった辞書に手を伸ばし、それを無造作に掴んだ。
「何のついでなんだ? 辞書ぐらいいくらでも貸してやるぞ」
「だって、こんな暑い部屋に来るのは一度きりにしたいもの。……でもほんと暑いね。リビングでゲームでもしてれば?」
「もう飽きた」
「小林君ちでもお邪魔してくるとか」
「昨日行ってきた」
 やる気ないねえ、と人事のように呟き祐巳は、辞書を片手に部屋を出ようとする。おい、「辞書貸して」、の一言も無いのか。
 普段なら気にも止めないのだが、こうも暑いと、この最低限の礼節すら弁えない姉に一矢報いてやりたくなる。
 
「おい祐巳」
 なあに、と振り向く祐巳。同時に彼女のつつましやかな胸が申し訳程度に揺れる。
「いくら家の中だからってノーブラは止めとけ。胸のポッチが透けて見える。そんなんじゃ志摩子さんと由乃さんに幻滅されるぞ」
「……デリカシーなし。焼け死んでしまえっ」
 毛虫でも見るような目でこちらを一瞥、その後、入ってきたときと同じように乱暴に扉を開くと、肩を怒らせて姉は部屋を出て行ってしまった。
 
「ふぅ……」
 ベッドに大の字で伸びながら溜め息を一つつく。吐く息も熱い。
 季節は夏真っ盛りで、みんみんと五月蝿い蝉の鳴き声が鼓膜にダイレクトに響いて来る。
「夏……だなぁ」
 俺の独り言に答える者など、言うまでも無く飽きもせずに鳴き続ける蝉たちばかりである。
 
 
 その後祐麒は部屋の暑さに耐え兼ねて、階下へと降りていき、夕刻まで昼寝をしていた。彼が目を醒ますと既に7時半過ぎで、丁度藤堂志摩子と島津由乃が福沢邸に到着した所だった。
 慌てて身づくろいを整えた祐麒は、とりあえず形だけでもと、彼女らと挨拶を交わしそして、姉の部屋へと向かう三人を見送った。
 どうやら姉は既に夕飯を済ませたらしく、台所の流しは、何らかの料理でもした形跡があった。何か作ったなら俺のことも起こしてくれよ、と一抹の寂しさが彼の胸をついたが、そこはそれ。歳の近い姉弟の現実などこんなものだと自分に言い聞かせて、カップラーメンでも作ろうかと戸棚を漁り始めたときだった。
 彼、福沢祐麒は、自分の冒してしまったとんでもないミステイクに気付いた。
 慌ててキッチンを飛び出して、今さっき彼女たちの上った階段を見やるも、すでにそこには誰の姿も無く、冷房の効いた姉の部屋に引っ込んでしまった後だったらしい。
 
「まずいな……万が一ということもある」
 
 祐麒は未開封のカップラーメンを手で弄びながら一人呟く。彼の懸念が現実化してしまえば、客人である志摩子や由乃、そして言うまでも無く姉、福沢祐巳と今日以降気まずくなってしまうのは必至である。
 可能性は決して高くない。だが、だからといって無視できるほど低いものでもない。
 そして、その可能性が発現してしまったときのリスクは、計り知れない。
 
「むむむ……こいつはまずい状況だぞ」
 
 キッチンで一人、彼は腕組みをして思案する。何か手を打たなければならない、と。
 カップラーメンを探す前にコンロにかけておいたヤカンが忙しく蒸気を吹き上げ始めても、しばらく祐麒はそのままの姿勢で一人、思考に埋没していた。
 
 
 後の世に、”福沢祐麒、夏の乱”、と称される、彼にとっては孤軍奮闘だった戦いの火蓋が、切って落とされた瞬間でもあった──。
 
 
 
 
 
『福沢祐麒、人生最大の作戦』
 
 
 
 
 
 志摩子さんと由乃さんは、めいめいに持ち込んだ手荷物を祐巳のベッド脇に置くと、なんだか煮え切らないような面持ちで顔を見合わせた。明るい顔とは言いがたく、かといって暗い顔でもない。
「どうしたの、二人とも」
 堪りかねて祐巳は二人に声をかけた。
 今日、祐巳の部屋に集まる事に決まったのは、今週の水曜日にあった山百合会の夏季休暇中の集まり、それがつつがなく終了した後のことだった。
 言い出しっぺが誰だったのかは定かではないが、場所を提供したのは他ならぬ祐巳である。両親が暫く留守にしているから、よかったらうちでどうかな、と。
 そのときは二人ともすこぶる乗り気だったのだが、今の彼女たちの表情を見るに、乗り気とは程遠いように思える。
「どうしたって言うか……ねぇ」
「……ええ」
「???」
 
 はてなマークを飛ばしまくっていた祐巳に、由乃さんが普段の歯切れのよい口調とはうって変わった、不確かな物言いで説明してくれた。
 ──曰く、なにか良からぬ気配がする……と。
 
「……なあに、その、良からぬ気配、って」
「祐巳さんは感じないの?」
 逆に志摩子さんに聞かれて、祐巳は精神集中をする振りでもしてみた。これといって霊感に自信など無いが、何か感じ得るものでも見つかるかもしれない……と思ったが、祐巳が感じ取ったのは隣の家のテレビの音と、遠くを走る電車の音だけだった。
「わかんないよ」
 祐巳がさじを投げると、
「ちょっと志摩子さん、祐巳さんが感じ取れないのは当たり前でしょう。だってこの気配は……」
「……ああ、そうね。祐巳さんはきっと、この気配に慣れているのでしょうね」
 何故か妙に共感する二人だった。
 すると今度は二人、祐巳の部屋の壁を見据えて、難しい顔を浮かべる。その壁一枚隔てた向こう側には、エアコンの故障した弟の部屋がある。
 
「伝わってくるものなのよ、こういうのは。祐巳さんは日がな一日一緒に居るから麻痺してるんでしょうけど、私……私たちは、そういう気配をビシバシ感じる」
「隣の部屋からなのよね、明らかに」
 と、頷きあう二人。
「……それって、もしかして」
 もしかして二人は、祐麒のことを言っているのだろうか。
 
 両親は留守にしているが、弟は在宅している、と事前に伝えてある。その弟が年子の一つ下で、花寺に通う二年生だということも、二人は事前に知っている筈である。
 つい先ほど挨拶を交わしたときには、不穏な空気などはなかった。祐麒は近頃夏バテ気味で、こちらに気を配る余裕などなかったようだから、今日明日はおとなしくしてくれて丁度いいかな、などと密かに楽観視していた。
 
「あらかじめ断っておくけど、別に私は弟君を嫌ってるわけではないわよ。ま、初対面で好きも嫌いもないけどね。そういうの、男の子ならしょうがないかな、って許せるし。ねえ、志摩子さん」
「そうね……でも、祐麒さんが、何を狙ってるのかは、気になるわね……」
「何を、というか、誰を、でしょう? 祐巳さんを狙うってのは有り得ないから、いやま、それはそれで面白そうなんだけどさ。この場合やっぱり、志摩子さんか私になるわけよ」
「どちらなのかしらね」
「さあ?」
「あ、あの」
 さっきから共感しっ放しな二人に、祐巳はおずおずと声をかけた。祐麒がよからぬことを企んでいる事が、既に決定事項になりつつある。庇い立てするわけでもないが、身内が無実の罪で不当に糾弾されているようなこの状況には、流石に一寸待ったを入れたい心持ちである。
 
「そうだ祐巳さん、弟君の女性の好みとか知らない?」
「ふえ?」
 祐巳が口篭もってる間に、逆に由乃さんに質問されてしまった。
 女性の好み? そういった際どい話題は姉弟で余り交わさないのがお約束だと信じていた祐巳だったから、率先して聞いたことも、逆に教えたことも無い。
「ん、でもちょっと待って。その手の話題、つい最近話した記憶がある……」
 確か、柏木さんの家からの帰り道。駅のホームで、その手の色恋話を申し訳程度交わした覚えが。
 そう、確か祐麒はこう言っていた。
 
 ”顔なんてどうでもいいよ。優しい子がいい。
  あと、明るくて元気、ってとこもポイントかな──”、と。
 
 記憶の糸を手繰り寄せた祐巳が、祐麒があの時言ったはずのセリフを再生すると、何故か志摩子さんも由乃さんも、揃って口を噤んでしまった。
 
「……もしかしたら、狙われてるのは祐巳さんかもしれない」
 
 ことさら深刻そうな顔を浮かべて、由乃さんがそう呟いた。
 
 
 
  ◇
 
 
 
「しかしなぁ……”狙ってる”、とか思われたら、ちょっと嫌だな」
 
 カップラーメンを急ぎ胃の中に流し込み、俺は自室へと引き上げてきた。壁一枚隔てた姉の部屋には、今は姉と、そして姉の友人二人が居る筈である。
 能天気な姉は兎も角、あの二人──島津由乃さんと藤堂志摩子さん、彼女たちは中々に鋭そうだ。祐巳などものの敵ではないが、彼女たちの包囲網を潜り抜けて例のブツを回収するのは、なかなかに骨が折れそうだ。
 ぶっちゃけた話、今から姉の部屋に赴き、ちょっと来てくれと祐巳を呼び出す。そうして例のブツを持ってきてもらえば、全ては解決するのではあるが。
 
「……うーん、何か良い手はないものか」
 
 たかだかあんな物のために、友人が泊まりに来ている姉の部屋に足を伸ばすのは──なんだか、『きっかけ作り』、のように思われそうでちょっとイヤだ。
 
 下心など断じてない。
 俺はただ、日中姉に貸してしまった、あの辞書を取り返したいだけなのだ。
 
 遊びに来ている彼女らが辞書など開く道理はないと思うが、しかしその可能性はゼロではない。泊まりに来て、ついでに宿題を三人で協力して片付ける──などという展開になってしまえばアウトである。
 あの辞書にはとんでもない秘密がある。誰にも明かす事の出来ない秘密が。
 その秘密を、祐巳に見られるのは一向に構わないのだが、あの二人に見つかると、いささか面倒で説明困難な事態になりかねない。
 やはり、可及的速やかに回収する必要がありそうだ。
「連中が部屋を空けている間に、こっそりと侵入する、ってのは、どうかな……?」
 彼女たち、夕飯はすでに済ませてしまった後らしいが、風呂などで部屋を空ける事はこれから先あるだろう。その隙にこっそりと……。
「……いや、それは無理だな」
 彼女らが三人一緒に風呂にはいるなら兎も角、高校生にもなって一緒に風呂だなんて有り得ないだろう。必ず誰かが部屋に残る筈である。
 その際に祐巳一人が残るような展開になれば僥倖だが、それは余りに不確定が過ぎるし、そもそも自分たちが風呂に入る時には、俺には部屋から一歩も出ないよう祐巳にきつく言い渡されている。
 
「そういえば……」
 侵入といえば、俺が花寺学院の中学二年生だった頃に、こんな事件があった。
 クラスメイトの一人に秋山貴則という奴が居て、そいつは兎に角、人と変わった事、妙な事をしたがる癖のある奴だったのだ。
 それほど親しい間柄ではなかったが、彼の奇行はクラス内では割かし有名だったのだ。
 その頃秋山が熱意を燃やしていたのは、『リリアン女学園に侵入する』、ということだった。何がそこまで彼を駆り立てたのかは今となっては知るべくも無いが、「侵入する事に意義がある」、といきまいていた秋山は、妙に輝いていた気がする。
 
 すったもんだの末に、秋山はその悲願を成就させたらしい。幾度とない失敗を乗り越え、呆れる俺たちを尻目に、Xデーの夜に奴は、一人でその大いなる野望に挑戦し、そして見事成功させたのだ。
 見事侵入を果たした秋山は、その侵入成功記念として、リリアンの桜の枝を一本折り、それを持ち帰ってきたのだ。
 そんな大それたことを達成させた秋山の奴は、一躍クラス内では時の人に、大いなる勇者として持てはやされたが、長年の悲願を達成させ燃えつき症候群にでも陥ったか、秋山の表情は、いくぶん呆けたようなそれだった。
 秋山の成した偉業に盛り上がるクラスメイトたちを尻目に、俺は思った。
 ああきっとコイツには、いつかバチが当たる事だろう──と。
 
 とまあ、それは兎も角。
 
「……夜に侵入。夜、夜。闇にまぎれて侵入……か」
 
 その瞬間、俺の脳裏に鮮やかに閃くものがあった。こっそりと、誰にも気付かれぬように、闇にまぎれて、目標のブツを確保する。
 こうして侵入だの闇にまぎれてだの、あれこれ画策している自分がまるで、夜這いでも仕掛けようとしてる不埒な男に思えてきてつい苦笑いが零れるが、これは夜這いなどでは断じてない。もっと崇高で、厳かなものなのだ。
 ともあれ、闇にまぎれて侵入し、例の辞書を確保して、すみやかに撤収する。
 しかし、いくら闇とはいえ彼女らが部屋内に留まったままでは、忍者でもなんでもない俺にとっては若干難易度が高い。同時に、連中を部屋から追い出す必要がある。
 そのためには──。
 
「ブレーカーを落とす。これしかない」
 
 
  ◇
 
 
「……ブレーカー、かな」
 狙われているのが祐巳だ、と宣言したのちに、暫く思案顔で黙り込んだ由乃さんは、唐突にそんなことを言った。
「ブレーカーを落として辺り一面暗闇にして、その間に祐巳さんを狙うの?」
 ごくごく当たり前のような口調で、志摩子さんがそれに答える。
「わかんない。ただ、何かを狙うのなら、鍵になるのはブレーカーだと思うのよ。今は夜。ブレーカー落とされたら何も見えなくなる。その隙に祐巳さんを狙うのか、それともそれはブラフで、実はやっぱり私たちを狙うのか……」
「或いは、三人いっぺんに?」
「……可能性は、なきにしもあらずね」
「あ、あの、二人とも?」
 突っ込みたいところが山ほどあって、どこから突っ込んで良いのやら悩むが、とりあえず祐巳は、おかしな妄想に取り付かれている二人に、おずおずと声をかけた。
 そもそも、『祐麒が何かを狙っている』、と思い込んでいる時点で、二人は間違ってる気がする。ことが大げさになる前に、彼女らの被害妄想をどうにかせねばなるまい。
 
「ねえ祐巳さん、今日の弟君、何か態度におかしなところは無かった?」
「へ? た、態度?」
「うん。弟君が、今日に限って苛々してたり、祐巳さんの事をいやらしい目つきで見たり……」
「そんなこと、あるわけが──」
 と言いかけて、祐巳は昼間に弟と交わしたやり取りのことを思い出した。
 
 ”……いくら家の中だからってノーブラは止めとけ。胸のポッチが透けて見える。そんなんじゃ志摩子さんと由乃さんに幻滅されるぞ”
 
「やっぱり……弟君、祐巳さんに欲情してる」
「そんな酷い事言うなんて。祐麒さんのことが、よくわからなくなったわ」
 やっぱり言わなきゃ良かった、と今更後悔しても後の祭り。祐麒に対して抱いていた疑惑は、彼女たちの中で確信に変わったようである。
 
「先手を打って祐麒君をどこかに縛り付けておきたいところだけど、相手は男の子だしね。正面からじゃ三人で掛かっても分が悪いわ。性分じゃないけど、後の先をとって彼を迎撃する。ブレーカー落とされて真っ暗ってことは、つまり向こうもコチラの姿が見えないということよ。勝機はそこにある」
「それに、祐麒さんはきっと、私たちは無防備でいると思っているわ。でも、それは彼にとって致命となるわね」
「ええ。純粋な力じゃ敵わないから、こっちはチームワークと作戦で立ち向かうのよ。せっかくのお泊り会が何だか物騒になっちゃったけど、私たちはただ狩られるだけの羊じゃない。有事には牙を剥くんだ、っていうことを、キッチリ見せ付けておかなくちゃ」
「そうね……それに、祐麒さんは花寺学院の生徒会委員なのでしょう? ここで彼に対して優位に立っておけば、あとあとの学園祭での共同作業が、何かとやりやすくなるかもしれないわ」
「判ってるじゃない、志摩子さん」
「伊達に薔薇さまやってないわ」
 
「……」
 なんなんだろう、この状況は。
 祐巳的には、ただただ楽しく、穏やかに、平和にのんびりと気の置けない友人たちと夏休みの一夜を、お喋りでもして過ごしたかっただけなのに。あれよあれよと対決ムードに。
 祐麒はそんなことする子じゃないって祐巳はハナから信じているけど、けれど祐麒と今日が初対面であった二人は、完璧にあの子のことをケダモノとして扱っている。
 
(祐麒……アンタが夜這いまがいのことするなんて思ってないけど、お願いだから妙なことしないでね。おとなしくしてれば、それだけでいいんだから)
 
 机の上に置いてあった、昼間祐麒から借りた辞書を眺めつつ、祐巳は祈るような気持ちで、今日という日が何事もなく過ぎ去る事を渇望していた。
 
(……って、辞書?)
 
 不意に、その辞書の存在が気になり始めた祐巳であった。
 
 
  ◇
 
 
「……やれやれ。たかが辞書一つで、どうしてこんなに俺は疲れてるんだか」 
 
 懐中電灯を懐に忍ばせて、俺は玄関までやって来た。見上げればそこには黒色の電気機器。俺にとっては鬼となるか仏となるか、玄関の壁の上方に備え付けられたブレーカーを睨みつけた。
 30アンペア、と記載されている。20アンペアのブレーカーは夏場や冬場、電力の消費が大きくなる季節には、比較的落ちやすいと聞く。だが、ここまできて後には引けない。
 
「秋山よ、今ならお前の気持ちが判るぜ」
 
 リリアン女学園に侵入して、何かをしでかしたかったわけではない。ただ奴にとっては、侵入する事その過程、そして、侵入したという事実が大事だったはずだ。
 今の俺も、それと似たような境遇に置かれている。
 あの辞書を、闇にまぎれて侵入し、見事取り返したい。
 
 俺は、綿密に組み上げた作戦を反芻する。
 
 先ず、ブレーカーを落とす。
 冷蔵庫の中身がこんな季節だから心配だったから先ほど確認したが、なんと氷と麦茶とマーガリンしか入ってなかった。祐巳の奴、明日両親が帰ってくるのをいいことに、全てを使い切ったらしい。
 ブレーカーが落ちれば、言うまでもなく家中の照明が落ちる。連中は驚くだろうが、やがてブレーカーが落ちたのだと気付くだろう。
 そのとき、あの三人は固まって行動するだろう。真っ暗な部屋の中に残るメリットはないし、祐巳はメカに弱い。一人でブレーカーをいじる事に抵抗が湧くだろうから、志摩子さんと由乃さんを伴う筈だ。
 それ以前に、俺の事を頼るかもしれないが、ちょっと懐中電灯を探してるとごまかして、彼女たちとは別行動を取ればいい。
 そこまでくれば勝ったも同然。悠々と祐巳の部屋に侵入し、辞書を確保する。あとは何食わぬ顔をしてブレーカーを上げてやればいい。
 
「……うし!」
 
 作戦の決行は、ニーイチマルマル。21時きっかりに、本作戦をスタートさせる。
 俺は腕時計を確認する。デジタル表示式のそれは、20時55分を示していた。
 
 
 
  ◇
 
 
 
「……ただいま20時55分。そろそろ何かが起きるはずよ。志摩子さん、準備はいい?」
「本当に9時ぴったりに始まるの? どうにも、眉唾ものなのだけれど」
「向こうは素人よ。……まあ、私らも素人だけど、プロだったら10時、あるいは8時半には動く筈だわ。そこがプロと素人の差ね。9時はぴったり過ぎる。ぴったりならば、自分にとっては判りやすいけど、それはイコール相手にも判りやすいということよ。プロはぴったりを避ける。素人は、無意識にぴったりを求める。それが私の推理」
 自信満々に言う由乃さんに対して、慎重派な志摩子さんは、不安げな面持ちだ。
「だってほら、気配が消えてるわ」
「……確かに。今、祐麒さんの部屋には誰も居ないみたい」
 壁一枚隔てた弟の部屋は、なるほど確かに静まり返っていて、人の棲む気配は感じられない。
「たぶん、今ごろ玄関のブレーカーの前でしょうね。よし、最終確認するわよ」
 やおら立ち上がった由乃さんは、まるで女性将校のように喋りだした。
 
 敵──福沢祐麒の作戦開始は、ニーイチマルマル。午後の9時と推測される。
 その瞬間、ブレーカーが落とされてあたりは闇に包まれるだろうが、ここでいきなり行動をおこしてはいけない。しばらくは戸惑い、恐れる振りをして、少なくとも一分は経過してから行動を起こす事。
 福沢祐麒は自室には居ない。二階の何処かに居る気配も無い。
 恐らくはブレーカーを落とした後は、リビングあたりに潜んでいると思われる。
 私たちは三人で降りていく。なぜなら、それが自然だからだ。
 ブレーカーのある玄関までの何処かで、福沢祐麒と遭遇するだろう。その後福沢祐麒は、私たちとは別行動を取ろうとする筈だ。
 志摩子さんが福沢祐麒の後をつける。どこで福沢祐麒が祐巳さんを襲うかまでは判らないから、「そのための怪しい行動に出た」、と志摩子さんが判断した時点で、福沢祐麒に声をかける。現行犯、という奴ね。そして、しばらくは会話をして時間を稼ぐ事。一対一で挑んでも勝ち目は薄い。なるべく大きな声で喋って、存在をアピールして頂戴。
 それから私が行くから、そこで挟み撃ちにする。
 首尾よく福沢祐麒を捕虜とした後は、尋問する。その結果によっては釈放、あるいは然るべき対応をする。
 
「了解」
「志摩子さん、もしかしたら貴女が一番危険な任務かもしれないわ。でもね、これは貴女にしか出来ないのよ。祐巳さんと祐麒君を二人きりには出来ないし、私はきっと、尾行には向いてないから」
「任せて頂戴。こう見えても私、薔薇さまなんだから」
「……ありがと、志摩子さん。貴女の骨は私が拾うから」
「勝手に殺さないで」
 
(やれやれ……。まあ、やりたいようにやらせてあげようかな。由乃さんはいつも通りだし、志摩子さんも妙に乗り気だし)
 
 辞書を携えた祐巳は、盛り上がる友人たちを横目に、心の中でそう一人ごちた。
 
 
  ◇
 
 
「……20時59分30秒。あと30秒だ」
 ブレーカーのオンオフのノブに手を添えて、祐麒は一人、はやる心を押さえつける。
 
 
  ◇
 
 
「……20時59分50秒。さあ、みんな立って。最優先事項は祐巳さんの貞操を守る事。いざとなったら私と志摩子さんで、身を呈して祐巳さんを守るのよ」
「言うまでも無いと思うけど、私、房事には疎いわよ」
「……いや、そーいう意味じゃなくて……」
 祐巳は一人、辞書を握り締めてそのときを待つ。
 
 
  ◇
 
 
 ──そして
 
 
 ──ブレーカーのノブが、かちりと下ろされて
 
 
 ──福沢家は、真の闇に覆われた
 
 
 
 
 闇の中、一人の少年と、三人の少女が、蠢く。
 
 
 ドアを開ける音。
 
 
 誰かが廊下を歩く音。
 
 
 階段を数人で下りる音。
 
 
 ブレーカーが落ちたの? という声。
 
 
 ああ、そうらしい。ちょっと懐中電灯を探してくる、という声。
 
 
 まっくらで怖いわ、という声。
 
 
 誰かが階段を上る音。
 
 
 それを、息を殺して追いかける気配。
 
 
 誰かがごくりと唾を飲み込んで、祐巳の部屋のドアのノブに手を伸ばす。
 
 
 息を殺していた気配が、動く。
 
 
 ……。
 
 
 
 
  ◇
 
 
「動かないで、祐麒さん」
「!!?」
 唐突に声をかけられて、俺は一瞬立ち尽くした。祐巳の部屋のドアを開けようとした瞬間に、暗闇の中からの声である。
 俺はジーンズのポケットにねじ込んでいた懐中電灯を引っ張り出し、それを点灯させる。
 声のした方に懐中電灯の丸い光を当てると、そこには厳しい顔を浮かべた藤堂志摩子さんの姿があった。
「こんなところで何をしているんですか、祐麒さん」
 志摩子さんの声色は柔らかなものだったがしかし、俺には冥府からの呼び声のように聞こえてしまった。
「志摩子さん……何って、別に何でもないさ。ここは俺の家だ。自分の家の何処にいたって、別に不自然じゃないだろう」
 しかし、志摩子さんは俺の声など聞いていなかったような風に、
「……私は最後まで信じていました。祐麒さんは絶対にこんなことをする人じゃない、って。今日が初対面でしたけど、それぐらいはわかります。でも……」
「でも……何だよ」
 
 
「──でも、アンタはやっぱりシスコンだったってことよ! 福沢祐麒!!」
 
 
 今度は唐突な大声だった。声のした方を振り向くと、直後、懐中電灯の光が向けられて、反射的に目を瞑ってしまう。
「ついに馬脚をあらわしたわね福沢祐麒。マリア様が許しても、この私が許しはしないわよ」
 微かに目を開けると、そこには明らかに怒りの形相を浮かべた島津由乃さんが、あたかも懐中電灯を日本刀のように携えながらたっていた。
 
「……つーか、この状況って、一体何?」
 どうやら俺がブレーカーを下ろす事は彼女たちにばれていたらしいが、だからといって今日が初対面の由乃さんに呼び捨てにされる覚えは無い。志摩子さんに軽蔑される理由も、勿論ない。
 もしや、すでに二人とも、あの辞書の中身を見て──?
 
「大丈夫だよ。辞書の中身は誰にも見せてないし、はい、これ」
 怒り冷めやらぬ由乃さんの背後から、ゆっくりと誰かが現れる。左右に飛び出した髪房に、俺とよく似た顔を持つ年子の姉、福沢祐巳だった。
「……辞書ってお前、気付いてたのか?」
「んー、何となくね。逆に、これぐらいしか思いつかなかったから。それでね、一応辞書の中身を見てみたら、あんな写真が挟んであったから。ああ、これを狙ってたんだ、って。昼間は結局辞書使わなかったから。もっと早く開いておけばよかったね」
「……」
「ちょっと呆れちゃったけど、でも嬉しかったよ。とっくに捨てたものだと思ってたから」
「……」
「って、どうして泣いてるの、あんたは。別に泣くようなことは、何も──」
 
 ふと気付けば、俺は祐巳のことを抱きしめていた。いきなりのことに、俺の腕の中で一瞬祐巳はもがくようにしたがしかし、俺の事を振りほどこうとはしなかった。
 言うまでも無いが、愛しいわけじゃない。シスコンなわけじゃない。とめどなく涙が溢れてくるのは、孤軍奮闘の中でようやく出会えた味方は、やっぱり俺の事を一番良く判ってくれている人物だったから、嬉しかったのだ。
 こうして抱きしめているのだって、人恋しいだけだ。たった数時間の孤立無援の寂しさが、いまだに俺の中にわだかまっているだけだ。
 ただ、それだけだ。
 
 
 
 ……恥ずかしげもなく抱き合う福沢姉妹を、しばらくは飽きもせずに懐中電灯で照らしていた由乃だったが、ふと我に帰ると、一体私は何だったんだ、という凍てついた現実感に襲われて、静かに力なく、懐中電灯を下ろした。
「一件落着、ね」
 福沢姉妹に気を遣って、こそこそと由乃の傍まで来る志摩子。
「一件落着って、全然落着してないじゃない。辞書って何よ。私ぜんぜん知らない。というか、あんたがそんな風に落ち着いてることが、一番気にくわない……」
 気に食わない、という割に、由乃の声色は余りに力ないものだった。
「ええ……なんとなく、気付いてたから。祐巳さんも妙に落ち着いてたし、これは何か裏があるかな、って」
「気付いてたなら、教えなさいよ。私一人が馬鹿みたい。ぜんぜん納得できないわ……」
「まあまあ。たまにはいいじゃない。それとも、私たちも対抗して、抱き合う? 一緒にお風呂入る?」
「それこそ納得できないわ……」
 由乃は力なく溜め息をつくと、志摩子の手を引いてブレーカーを上げに向かった。
 
 
 
 
 エピローグ
 
 季節は夏真っ盛りで、みんみんと五月蝿い蝉の鳴き声が、閉め切られた窓越しに微かに聞こえてくる。
 ほどよくエアコンの効いた快適な自室で、俺は一人、ベッドに仰向けになり、おだやかなまどろみを楽しんでいた。
 夕べは結局、由乃さんのすさまじい追及をかわすのに必死だった。風呂に入って体内温度が上昇したせいか、あの後由乃さんは劇的な復活を果たし、やれ辞書を見せろ写真を見せろ、見せなければ祐巳と抱き合っていた事をバラす、などと脅迫まがいの追及を受けた。
 写真を見せる事は許されないから、「この辞書に重大なヒントが隠されている」、と嘘八百でっちあげて、ようやく眠る事が出来た。
 一晩中辞書とにらめっこしていたらしい由乃さんは翌朝──今日の朝か、「この借りはいつか返させて貰うわ」、と凄むと、投げ捨てるように辞書を俺に渡し、寝不足のままにふらふらと、志摩子さんに抱えられるようにして去っていった。
 
 その後、どういう経緯なのか知らないが、エアコンの修理を頼んでいた業者がいきなりやって来て、俺の部屋のエアコンをあっさりと直していった。一週間は待ってくれと言われていたはずであるが、まあ、こういうことも世の中あるだろう。
 
「ははは」
「なに一人で笑ってるの、祐麒」
 
 ノックもなしに俺の部屋に入り込んできたのは、俺の姉、福沢祐巳だった。左手に持ったお盆の上に、麦茶の入ったコップを二つ乗せている。どうやら俺の部屋に暫く居座るつもりらしい。
 
「いやね、あんな写真があそこまで大事になるなんて、思ってなかったな、ってね」
「潔く処分しなかった祐麒が悪いよ。私だってあの写真の存在を忘れてたのに」
「捨てたつもりでいたさ。でもこないだ部屋を掃除してたら出てきてね。今となっちゃ懐かしくて、捨てようか捨てるまいか迷って、結局辞書に挟んでいたのさ」
 
 まあ、それほど大した写真でもないのだが。いわゆる過去の過ちである。
 その写真には、中学の頃の俺と祐巳が写っており、それだけの要素では、何の変哲も無い姉弟の写真である。別に誰に見せても恥ずかしいものでもない。
 しかし、その写真が他と一線を画しているのは、俺と祐巳の格好が入れ替わってるところにある。
 ちょうど、こんな時期に撮られた写真だったらしい。
 俺が、祐巳の浴衣を着せられていて、逆に祐巳は、俺の男ものの浴衣を着せられていた。
 多分両親が遊び心を発現させた所為だったのだろうが、祐巳は妙に乗り気で俺の腕に手を絡めてきてるし、対して俺は、なんとも情けない表情を浮かべていた。
 顔と体格はそれなりに似ているが、髪型はそのままだったから、一種異様な違和感を醸し出していた。
 
「これ、お父さんが沢山焼き増ししてて、あの時あんた、片っ端から捨ててたんだよ」
「あれ、これ一枚じゃなかったっけ?」
「ううん。多分十枚くらいあったと思う。片っ端からあんたが焼いたから、お父さんが結構寂しそうだった」
「親不孝だな、俺。ま、過ぎちまったことは仕方ない。この写真の流出を防げただけで僥倖さ」
「あはは。そうかもね」
 
 二人、どちらからともなく床に置かれたお盆の上の麦茶に手を伸ばす。そして、
 
「それじゃ、乾杯!」
「……何に乾杯するんだよ。写真を守れた事か? 由乃さんに復讐宣言されたことか?」
「んーとね……」
 
「──福沢祐麒、人生最大の作戦の成功に乾杯……かな?」
 
 チンッ、とよく冷えた麦茶の注がれたグラスが、軽い音を鳴らした。
 
 
 
 ……幸いにも今回は辛うじて写真の流出は防げたが、しかし数ヵ月後に福沢姉弟は思い知る事になる。
 リリアンの学園祭の劇にて、結局自分たちが取り替えられてしまうという屈辱を。
 エアコンの効いた快適な部屋での、平穏な姉弟水入らずを享受している今の二人には、その事実を知る術はなかった。
 
 

 
 
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