■ 構築式ウルトラハッピー prologue−構築式42番 この猫に餌をあげるたびに乃梨子は祐巳のことを思い出す。 ふわふわな小さな頭を撫でることに、彼女も撫でていたその白い指先を思い出す。 猫が無愛想に鳴くことに、乃梨子は彼女の優しい微笑を思い出した。 相も変わらずゴロンタはムシャムシャと前時代的な擬音とともに乃梨子が買ってきた缶詰を食べている。喉を転がしてご機嫌そうな可愛くない顔。 もう、この猫に餌をあげることは乃梨子にとって一つの日常となっていた。 毎日ではないけれど。気が向いたとき。気が付いたとき。思い出したとき。 それは日常になっていた。 だから乃梨子はとても悲しかった。 乃梨子はこの猫に餌をあげるたびに。 ずっとこの猫に餌をあげていた先輩のことを思い出すのだ。 今では私が彼女の代わりに餌をあげている。 □□□□□□ そして。また。結局のところ。 乃梨子は祐巳のことが好きだった。 祐巳は乃梨子のことは別に普通かなぁと思っていた。 これはまぁ、そういう乙女チックで胸キュンなパラダイスストーリーではある。 ―――ハッピーになりたい。 構築式ウルトラハッピー
1−地球周回軌道症候群 胸が痛むのは何も二日酔いの時だけではない。胸がドキドキしちゃうのは100mを一生懸命走った後だけではない。頭とか瞳とか、そういうのがトロンとしちゃうのは媚薬とかでトリップしちゃってる時だけじゃない。 欝になったらデパスでもドグマチールでも飲めば病は右肩上がり。 快方に向かうのも医者のお墨付き。そういう医療大国なこの国。 さてそのような情況で、胸が痛くてドキドキして頭も瞳もトロンとしちゃうのは一体何の病なんだろうなぁと乃梨子は思う。ただ思う。 祐巳さまの前に立つとそんな病症が自分の身体を蝕んでいくのだ。 だから乃梨子は瞳子に相談してみた。 「病院行った方がいいかな?心臓病とかかもしれないし」 「カマトトぶるんじゃありません」 オーケー。了解しました。 そんな病気はない。治す薬もない。草津の湯でも治せない。 だってこれは恋だからと乃梨子は思った。 二条乃梨子は福沢祐巳に恋しちゃってるのだ。 自分が恋に恋しちゃう乙女なのかは解らない。自分が恋に憧れているのかどうか、果たして初恋を現在進行形でしちゃってる自分なので先例がない。 先例がない諸問題の解決はかなり難しい。 それでも何でもいつだって。乃梨子は祐巳に恋してるんだから、このままでいいわけがないと思った。だってこのままじゃ、ずっと胸がドキドキしたままで、そうしたら何かもう死んじゃいそうになっちゃうのだ。 空はいい。青いから。 雲はいい。白いから。 恋はいい。何だか知らないけどすげー嬉しい気持ちになっちゃうから。 気持ちは日増しに乃梨子の心を侵食していく。始めはテレビのリモコンくらいだったこの気持ちは、今では地球の直径周回軌道くらいの大きさに膨らんだ。 もう無視できないこの心持ち。 恋はいい。何だか知らないけどすげー嬉しい気持ちになっちゃうから。 恋はいや。何だか知らないけどすげー不安な気持ちにもなっちゃうし。 恋は。この恋が実ったら自分はどうなってしまうんだろう。 片思いの気持ちだけで死ぬほど舞い上がったり、死ぬほど死にたくなるものなのに。 こんな地球周回軌道の気持ち。マジで死ぬまで忘れそうもないこの気持ち。 私は今、福沢祐巳に死ぬほど恋しちゃっているのだ。 □□□□□□ 祐巳さまは時々よく解らないことを話のネタに振ってくる。 「ねぇ、乃梨子ちゃん。すごーく怖い話してあげようか?」 「怪談話ですか。夏の風物詩ですね」 「悪の十字架っていう話なんだけどね」 リリアン女学園というところはいい意味でも悪い意味でもお嬢様学校である。 これは別にお嬢様がよく入学するとか、お嬢様を育てようとかという意味合いではなくて。お嬢様のような側面を持つ生徒を育ててしまうことがあるという意味で。そういう風に言われても仕方がない、ということだ。 例えば。そこら辺の小学生が知っていそうなことを知らなかったりする。 中東の情勢からウィンドウズのソフトまで。そういった社会性がある情報は確かにリリアン女学園という箱庭にいる学生たちは耳にしているし、知っている。 テレビでもラジオでも、社会に繋がっているメディアから流れる情報を彼女たちはちゃんと知っている。でも彼女たちは。エスカレーター式に幼稚舎から育ってきた彼女たちは、ある意味都市伝説的な情報にはめっぽう弱い。 例えば。そう、悪の十字架とか恐怖の味噌汁とか。そういうことだ。 「悪の十字架・・・ですか」 中途にリリアンに入ってきた乃梨子にとって、その話題はもう小学校の頃から何十回も聞いてきたものだった。はっきりに言って、あまりにオチが読めている。というか知っている。知っている話を聞くことは拷問のようなものだ。 それでもこちらを「ふっふっふ」と乃梨子の恐怖と笑い顔を見たそうな顔をして、今か今かと話を切り出したそうな祐巳を見ると。 それが言えないのもまた事実だったりして。 「それじゃあ、聞かせて下さい」 祐巳にはとても弱い乃梨子なのである。 「ある所に可愛らしい少女がいたのね。8歳くらいの。小学2年生。 彼女は大江健三郎がとても好きな文学少女だったの。どれくらい好きだったかというと、『死者の奢り・飼育』をもう4回は読んでいるくらい好きだった。 本のキャッチが『傍観者の欺瞞』というのも好ましかったし、その短編集の『不意の唖』なんかは少女の感性にストライクでバッターアウトな感じに最高だったの。 ねぇ、乃梨子ちゃん。少女は友達に大江のどこがいいのかと訊かれた時にこう答えたんだよ。厳かにこう答えたの。 『ストーリーは難解なの。読んでいて嫌悪感も溢れるよ。でもだからこそ、そこにあるユーモアに私は小さな希望を見るの。だってそれが文学ってやつじゃない?』 小学2年生の女の子がこう言うなんて私は信じられないな」 「はぁ、そうですね」 「それでね、その女の子はある朝に急にラヴクラフトの全集1巻を読みたくなっちゃったの。解るでしょ?唐突にそれがもの凄く読みたくなっちゃう時って。 それで急いで彼女は自転車をこいで隣町の大型書店まで走ったの。 ほら、ラヴクラフトの本なんて小さな書店では取り扱ってはいないから」 「まぁ、クトゥルー神話なんて普通はあまり読みませんよね」 「それでね、帰ったら始めに『死体安置所にて』を読んで、その後は『壁のなかの鼠』を読んで。とか色々想像して凄くハイになってたのね、その女の子は。 1巻の肝である『インスマウスの影』は最後にとっておこうとか考えてて。 そんな凄くハイになってた彼女が書店に着いてね、そうしてこう言ったの」 「ふむふむ」 「入り口の扉を閉めるシャッターを前に、ずっとずっと家から自転車で30分も掛けて。どうしてもすぐに読みたくて、どの話から読もうかとかも凄く考えてて。 それなのにその書店は何と閉まっていたの。 彼女は言ったの。絶望しながらこう言ったの。 『あぁ、開くの10時か・・・(悪の十字架)』ってね」 「ぎゃふん!」 □□□□□□ 2−環状思考ループ 二条乃梨子の脳みそについて少々。 乃梨子は日向ぼっこをしながらリリアン校舎を道なりに歩いていた。 散歩しながら考え事をグルグルとして。 この恋を貫き通すか。それとも諦めるか。 諦めの感情を勘定しながら環状思考に陥る私。悪循環とも言う。 思考ループにズブズブはまり、それを積み上げて螺旋の思考を作り出す。 これって哲学家みたいだ。何処にも辿り着けない螺旋思考を友として、哲学家らしくいつか毒を煽って自ら死に絶えよう。 それはそれでハッピーな人生かなと考えることが私の病巣なのだろう。何てこった。 諦めの感情は黒い。あくまで私にとっての、という注釈は付くけれど。 二条乃梨子という辞書を引くと「諦め」とは第一義が「ドンマイドンマイ、仕方ないって」であり、第二義が「未熟者よ、汝努力を忘るべからず」とつづき、第三義が「理不尽なこと。自己では解決できません。南無三!」そして最後に注釈として「色は黒い」と書いてある。 諦めを勘定するとループして黒くなる。私が。 まぁ「綺麗な黒髪ね」と言われることもあるわけだし、黒くなっても構わないんだけど。でも逆説的に黒髪なんだから黒くありたくはない、という思考も提出されます。 私から私へ、どうしますか? 駄目だ。諦めとか哲学とか辞書とかとかとか。ゴミ箱にも捨てられないこの感情群たちをどうにかしないと私が、この私が前に進めないのだ。こん畜生。 ため息ついでに深呼吸。吸って、吐いて。吸って、吐いて。視界をクリアにすることから始めよう。左脳OK。右脳OK。眼球共にOK。オールグリーン。 よし、祐巳さまについて考えようと乃梨子は思った。 私にとっての福沢祐巳。私の先輩。みんなの紅薔薇の蕾。福沢祐巳にとっての。 彼女は白い。そう、色は白だ。 腹黒いとか裏がありそうとか、そういう噂って本当に嫌になる。貴様の脳みその方が真っ黒な合成洗剤使用後のスポンジだね、と断言して楽にしてあげたいくらいよね。 来世ではアメンボくらいになれるといいね。水面に浮かぶ感想でも手紙にしたためて送って下さい。破り捨ててあげるから。えっへん。 あぁ、駄目だ。またループする。黒さの濃色が厚くなる。病巣が疼くのだ。 祐巳さまだ。ループを脱する為にも黒に白を混ぜて灰色にするしかない。灰色くらいにすれば私だって諦めを遠くに投げられて、あと3日は平和な日々を過ごせるはずだ。平和はいい。とてもいいものだ。いいものは決してなくならない。 そう言った生物学者が幸せになれたかどうかは知らない。興味もない。犬を座布団替わりにするような生物学者のことなんか、爪の垢にして17分割して金魚の餌にしてその金魚の糞を肥料にして美味しい野菜をつくってやる。 大根のためにでも生きて持国天さまにお叱りを受ければいいのだ。「貴方には持国天さまのお怒りが解らないようね!」とか何とか云々。 私は誇りとして仏像オタクではなく仏像マニアだと自負しているけれど、一般人には持国天さまの怒りとか言っても解らないかもしれないな。 それはメギドの終末における炎より恐ろしく、タオパイパイのサイボーグ化された方のスーパードドン波くらい怖いものなのだけど。並みの人間じゃ藻屑よね、これ。 私の平和の生活の象徴の白の紅薔薇の蕾の祐巳さまは、とてもとても人間だ。 これ以上の褒め言葉ってなかなかない。 感覚的な色は白。それで笑顔がとても可愛らしくて、目元が優しい。 目元だけじゃなくて、性格も人間性も優しいんだけれど。でもそれは皆に優しいということだ。私だけに優しいわけじゃない。彼女は皆に優しい。 それは残念で残酷で美しい。 □□□□□□ 諦めようかなぁ。でもでも、諦めたくないしなぁ。 そんなことを考えていると、道なりの先に福沢祐巳がいた。 どうやら猫に餌をやっているようで、優しくその頭を撫でている。 あの猫になりてーにゃーと乃梨子は思った。少しだけ思った。 「ごきげんよう、祐巳さま」 心臓がドキドキとしているのに平静な顔をするのは結構に得意なことである。だから乃梨子は祐巳を前に不自然なほど心臓がエンジンを回して、外にこの鼓動が聞こえるんじゃないかと思えるほどの状況下でも優しく微笑みを形作り挨拶が出来るのだ。 やせ我慢みたいなものだ。 自分に差す影に気付いたのか、それとも声に反応したのか。 祐巳はゆっくりと振り返ると乃梨子を見つめ、また彼女も微笑んだ。 「ごきげんよう、乃梨子ちゃん」 鼻血が出そうなくらい破壊力がある笑顔だ、と乃梨子は改めて思った。 この胸キュンな子猫ちゃんめ、と前時代的なことを乃梨子は思った。 餌を食べ終えたのか、猫が去ると祐巳は近くにある花壇の縁に腰を下ろした。 乃梨子は少しの間、去っていく猫の後ろ姿を見つめていた。 その行為に意味はあるのか?と訊かれたのなら乃梨子は「ない」と答える。 猫の後ろ姿なんて眺めてないで、とっとと祐巳の隣に腰掛けてラブいトークでもした方が余程建設的な考え方だと自分でも解っていた。 ただ何となく。気紛れで。そう、きっと気紛れで、自分は猫が去る姿をずっと見つめているのだ。たぶん、そこに意味なんて高尚なものはない。 「ゴロンタのこと」 祐巳に話しかけられても、その一言ではまず乃梨子は振り返らなかった。 ただずっと、猫が去ってしまった方向をぼんやりと眺めていた。 「ゴロンタのこと、好きかな?乃梨子ちゃんは」 その一言で、やっと乃梨子は祐巳を見やり、またゆっくりとその隣に腰掛けた。 花壇の縁は思ったより冷たく、尻が冷えそうだと乃梨子は覚悟するのだった。 「ゴロンタのこと、好きかな?乃梨子ちゃんは」 「どうでしょうか。そこまで考えたことはありませんね。あの猫に対しては」 「でもさっきはずっと、ゴロンタが走っていくところを眺めていたよ」 「はぁ・・・それはまぁ。そうなんですが」 「ねぇ、聖さまが在学中に時々ゴロンタに餌をあげていたこと知っていた?」 「いいえ、初耳です。あの人そんなことしてたんですか」 それは。残酷で美しい歪みだ。そう乃梨子は思った。 そして。残酷で優しい人なのだ、と祐巳は言った。 「餌をあげてたくせに、卒業しちゃってね。代わりにずっと、時々に、私と志摩子さんが餌をあげているんだ」 「それは知っていました」 乃梨子も志摩子と一緒にゴロンタに餌をあげたことがあった。 変な名前ですね。ゴロンタ。笑いが止まりません。あはははは。 そんな感じ。そんな平和に姉と猫に餌をあげたことがあった。 そして。祐巳がゴロンタに餌をあげているところも何回か見たことがあったのだ。 「それでね、私も残酷で優しい人にいつかなっちゃうの」 それは。 「私が卒業したらさ、ゴロンタに。私の代わりに餌あげてくれない?」 私にも残酷で優しい人になれというのか。 「はい、解りました」 だから事実、祐巳はもう。残酷で優しい人なのだと乃梨子は感じた。 □□□□□□ 3−私の在り方、私の在り処 「祐巳さんはね、お姉さまのことが好きだったの」 と藤堂志摩子は言った。姉はそう言って泣きそうに笑った。 「だからゴロンタの世話をしているのね。ゴロンタを見て、お姉さまを思い出しているんだと祐巳さんは言っていたものね」 乃梨子はそんな姉の微笑を見やりながら、姉も聖さまのことが好きだったのだろうなと思った。佐藤聖、すげーモテモテだなと思った。すげー羨ましかった。 「だから乃梨子。祐巳さんは簡単には堕ちないわよ」 「どうすればいいのかな?」 「解らないわ。だって私は恋なんかしたことないもの」 この嘘つきめ、と乃梨子は思ったけれど。 実際にそれはあらゆる意味で真実なのかもしれないなとも思った。 恋って一体何なんだ。そういう思春期的な哲学が乃梨子の左脳で渦を巻く。 たぶん、哲学に答えなんてものが存在しないとしても。それを求めることこそに意味が紡がれていくのだとして。 私が求める答えを与えてくれるのは、福沢祐巳ただ1人なのだろう。 「笑いなさい」 姉はそう言う。笑っている乃梨子は可愛らしいわよと。 だから乃梨子はニシシと笑って。 アルカイックスマイルを世界に決めるのだ。 どうして姉にこの恋を相談したのかという発端は瞳子にあった。 「妹は姉に頼るものでしょ。姉が妹を導くのが姉妹制度でしょうに」 「でも恋に対して導くって、いささか不純すぎないかな?志摩子さん呆れないかな?将来に教会に入るかもしれない、鋼鉄の処女って感じの人だよ?」 「でも妹を大事に思っている鋼鉄の処女って感じの人でしょう?白薔薇さまは」 「そうだよ。志摩子さんは私を大事にしてくれている鋼鉄の処女って感じの人だよ」 「それならやっぱり、そのアイアン・メイデンに相談すればよろしいじゃありませんか。きっと何かしらの答えに気付くでしょう」 「そうだよね。うん、そうするよ。ありがとう、ドリル!」 「・・・何の脈絡もなく悪口を言わないで下さい」 「感謝してるんだ」 「どうして感謝してるのにドリルなんて言うんですか!?」 「・・・え?ドリル好きでしょ?浪漫なんでしょ?」 「アイアンを通り越してダイアモンドクロォーー!!」 「ちょ、痛い!頭潰れるって!でも瞳子の髪型の方がより痛い!ドリルって!」 「やっぱり馬鹿にしていますわね」 「はわぁー、この痛みが私を強くするぅー!」 祐巳さまに恋する痛みに比べれば、瞳子のアイアンクローなんて目やにみたいなもんだ。 「目やにとか言うなぁー!」 「ぎゃふん!」 □□□□□□ 祐巳さまは今でも聖さまが好きなのだろうか。 欝(うつ)だった。気だるかった。 激しく欝だった。もう何だか二条欝子という感じであった。 気分というのは沈んでも必ず浮上するものだと思っていた今までの私。さようなら。そして激しく欝な私。ごきげんよう。 挨拶なんかしたくもなかったのだが、もし仮にこれからこんな気分と末永く付き合っていかなくてはならないのならば、これは折り合いをつけるしかないのかもしれない。 それは嫌すぎる未来予想図だったが。統合的に考えこのような欝でダウナーな気分は原因から鑑みて今日だけの突発的なものでなく、寝て起きてごきげんようしたら元気一杯っス、とかになるわけもなく。 最低の最悪を想像しろ、とは聞くもので。人生万事オッケーで右肩上がりに生きていけるなら誰も文句は言わないわけで。乃梨子もハッピーになりたいとか言わないわけで。 テレビをつければ眼鏡のお兄さんがビシッとスーツ決めて殺人事件を世に報せもしないこと。乃梨子の財布の中に福沢諭吉という祐巳の弟の分身のような人はおらず、野口英世が印刷された紙っきれが一枚。悲しそうに収まっているだけのことはないはず。 つまり人間っていうのは自分の財布を見ただけで、世界という機構は人に優しくないことが理解できるわけなのだ。不本意ながら。人生上手くいかない。 ということで、乃梨子のこのダウナーな気分が明日にはすっかり晴れ渡り、台風一過の青空の如く燦々と輝くなんていう。ケーキより。クッキーより。砂糖菓子より。 そんな有象無像なんかより。全然甘い考えなんかは夢の島にでも投擲してしまいたい。 それでも。諦めの感情なんて勘定したくはないのだ。 思考がぶれる。身体が重い。 もうドグマチールでもデパスでも飲んで夢の世界へ羽ばたいてもいいとは思えるのだけれども、もしかしたらとも思う。 もしかして。こんな気分を欝とは呼ばず。地球で呼吸してる殆どの人間はこんな状態になったことがあって、それでも我慢して頑張って世界の歯車回しているのかもしれない。 自分だけが臆病にも「欝です」なんて可哀想なこと言ってる勘違い野郎なのかもしれない。うわー、それって滅茶苦茶格好悪いね。涙出てきそうだわ。 だってさ。誰だって恋をするんだから。 好きな人に好きな人がいるかもって知らされて。実際その人が甲斐甲斐しく猫の世話なんかをしていたら、落ち込むのも仕方がないわけで。 だから誰もがこんな思いを胸に抱いたことがあるのかもしれないと思えれば。 何とも心強いかもしれないなと乃梨子は思った。 誰もがこんな思いを乗り越えて歯車を回しているのかもしれないのなら。 自分だって格好悪いこと言ってられないじゃないか。 とか何とか言いながらも、実際。それは。かなり落ち込む話だなと乃梨子は頭を下げるのだ。祐巳はまだ、彼女のことが好きなのだろうか。 祐巳もまた、こんな思いを抱いて歯車を回しているのだろうか。 謎だ。この身勝手な世界は謎ばかりをばら撒いて伏線を回収しやしない。 謎を解く名探偵は何処にもいない。ベイカー街にも。ソヴェール王国にもだ。 よくこの世界は破綻しないもんだと、乃梨子は下げた頭でクツクツと笑った。 □□□□□□ 4−左巻キ式ハラキリブレード 緑色なのに黒板という認識にはもう誰も文句をつけはしなくなった。 緑色なのに青信号という規格に口を挟む人間は狂人だ。 太陽が地球の周りを回っているんだという人間は禁固刑。 逆説を唱えて死んだガリレーオ・ガリーレイに謝りなさい。えっへん。 そのような空間において、緑色なのに黒板という板切れにチョークは踊る。 授業中にはよく教科書に落書きをする。 乃梨子は板垣退助に鼻毛を書いて、フランシスコ・ザビエルの頭に髪の毛をフサフサと増やしてあげた。織田信長の薄っぺらい額に「肉」と書いて吹き出しを付けて「キン肉ドライバー!!」と叫ばせてもみた。 弱そうな顔の織田信長はこれでかなり強くなった気がした。 そのどれもが、全く意味のない行為だったけれど。そうでもしないと落ち着かないというのが現状でもあった。 乃梨子は今日。祐巳に告白しようと決めていた。 □□□□□□ 絶好の告白日和であった。 空は雲ひとつなく晴れ渡り、気分も緊張と不安と期待で程よく解れている。 今日を逃してなるものか、という気概さえ浮かぶくらいの。 いや、特に今日じゃなきゃ駄目だとう理由はなかったのだけれど。 昨晩にベッドの中で祐巳のことをたくさん考えていたら心が溢れてしまったのだ。 今まではまだ、よかった。 ただ好きで。恋してて。一喜一憂するだけだったから。 それでも。ゴロンタの世話を頼まれた日から。 姉から祐巳さまがどうしてゴロンタの世話をしているのか聞いた時から。 丸を描いていた気持ちは段々に歪んで、穴が空いてしまったのだ。 決壊した穴を理性と倫理で補修して、元の気持ちに戻そうとしたけれど。 小さな小さな、引っかき傷のような穴が残ってしまった。 だから心が溢れてしまうのだ。もう。黙っていることなんか出来なかった。 壊れてしまった。 呼び出したのは温室だった。 熱気が篭る場所だったけれど、そんなものとは関係もなく乃梨子の身体は熱かった。 胸がドキドキするのは走って来たからではない。 恋してるからだ。 頭の中が真っ白になっていくのは酸素が足りないからじゃない。 混乱しているからだ。 瞳がトロンとしているのはトリップしているからじゃない。 彼女が自分に微笑みかけてくれているからだ。 「遅れちゃったね、ごめん。乃梨子ちゃん」 陽光を背に輝いている彼女が幻想だと思った私の馬鹿。 息を切らして肩で呼吸をしている彼女に淡い期待を持つ私の未熟者。 コツコツとローファーを鳴らして近づいてくる彼女の瞳の輝きが泣いているようで。 少し曲がっているタイが何処かしら彼女の性格を表していて。 二つに結んだ髪の毛が彼女が歩くたびに揺るぐのが微笑ましくて。 乃梨子はゆっくりと祐巳の片手を取って目を合わせた。 世界は完全に時間を停止させていた。心臓が止まっている気がする。 頭はこれ異常なくクリアで、知覚が広がって彼女の睫毛の一本さえ視認する。 「祐巳さま」 声は全く震えていなかった。予想外にも。膝も全く笑っていない。 ゆっくりと息を呑みながら、乃梨子はずっと隠していた爆弾を吐き出した。 人間関係を粉微塵に吹き飛ばすかもしれない、時限式の高性能な告白。 「――好きです」 好きになっちゃったんだから仕方がなかったのだ。 □□□□□□ 下らない超幻想をリライトしたかったのは誰だったのか。 果たして青空の下、二条乃梨子は福沢祐巳に完膚なきまでに振られた。 そこに救いを見出すことこそが文学だと小学2年生の女の子は言った。 人生は文学だ、と赤いランドセルを背負って妄想の少女は語る。 大江健三郎の本を読みながら。ラヴクラフトの本を肘の枕に使って。 ポッキーを齧りながら彼女は言うのだろう。 「よかったじゃない。恋できて。ハッピーじゃん」 このようにしてハッピーとは出来上がるものなのかと乃梨子は幻想した。 祐巳の与太話もたまには役に立つ物だと笑った。 救いはたぶんに。彼女の残酷な優しさが与えてくれた喜劇のようなものだった。 □□□□□□ 好きだと乃梨子が言うと、祐巳は幾らかの間黙ってから目線を落とした。 だから乃梨子はそれが駄目だよというサインなのかもしれないなと感じた。 私は振られてしまったのだろうなと感じた。 何だか地面を蹴って、掘って、そこに1時間くらい埋もれていたい気持ちだった。 乃梨子が垂れた祐巳の前髪を見つめていると、彼女は少しだけ。それでも勢いよく顔を上げて乃梨子の目を見つめ返してきた。 一体どうしたのだろうと不安になると、だから彼女は口を開いた。 「もちろん、私も乃梨子ちゃんのこと好きだよー」 「・・・へ?」 祐巳は優しく微笑んでいた。 優しい目元とその輝く瞳が泣いているように見えたのは。 「あと、お姉さまも好きだし。志摩子さんも好きだし。皆大好きだよー」 乃梨子が思ったのは。 あぁ、この話のオチはそういうことなのかというメタなことだった。 □□□□□□ pre//epilogue−エルボーダイブ 乃梨子は姉に膝枕をしてもらいながら、銀杏並木を見つめていた。 「・・・振られました」 「・・・そう」 志摩子はそう言って乃梨子の頭をナデナデした。砂糖菓子のように甘い姉なのだ。 「泣いた?」 「泣いて1kg体重が減った」 「玉砕ダイエットね」 「志摩子さん、それ全然笑えない」 全然笑えなかったけど、でもやっぱり可笑しくて笑ってしまった。 「ねぇ、志摩子さん」 「どうしたの?」 「何か面白いことして」 「そうね・・・」 世界の歯車を回すのは本当に大変だった。 振られてもまだ彼女のことが好きで、でもどうしようもなくて。 完璧に乙女になっちまったと乃梨子は思った。リリアン女学園は本当に乙女の園なんだ。 「ぼくドラえもん」 「・・・は?」 「しょうがないなぁー、乃梨子ちゃんは。パパパパン!タケコプター!」 「・・・ぷっ!似てないね、志摩子さん」 「面白かった?」 「パパパパン!って効果音を口で言うところが一番面白かった」 「ルパーン、三世ぃー!」 「だから、似てないってば」 「ふ〜じこちゃ〜ん!」 そう言ってルパンダイブをしてくる志摩子さんが楽しくて。 私はケラケラ笑いながら抱きしめてくる姉に微笑んで。言葉を紡ぐ。 「慰め方が非常に微妙です!」 □□□□□□ epilogue−優しさのテーゼ 好きだと乃梨子が言うと、祐巳は幾らかの間黙ってから目線を落とした。 だから乃梨子はそれが駄目だよというサインなのかもしれないなと感じた。 私は振られてしまったのだろうなと感じた。 何だか地面を蹴って、掘って、そこに1時間くらい埋もれていたい気持ちだった。 乃梨子が垂れた祐巳の前髪を見つめていると、彼女は少しだけ。それでも勢いよく顔を上げて乃梨子の目を見つめ返してきた。 一体どうしたのだろうと不安になると、だから彼女は口を開いた。 「もちろん、私も乃梨子ちゃんのこと好きだよー」 「・・・へ?」 祐巳は優しく微笑んでいた。 優しい目元とその輝く瞳が泣いているように見えたのは。 「あと、お姉さまも好きだし。志摩子さんも好きだし。皆大好きだよー」 その優しさと残酷さが。 二条乃梨子はだからこそ、目一杯に笑って祐巳に言った。 「はい。私もみんなのこと愛してます」 温室の外は若干の肌寒さを感じさせた。 中に残ると言った祐巳を置いて、乃梨子はゆっくりとその温室の扉を閉めていく。 少しの暗闇の中、泣いている彼女と目が合った。 「ごめんね、乃梨子ちゃん」 と彼女が呟くので。乃梨子はちゃんと彼女に言うべき言葉を残せた。 「ありがとうございました、祐巳さま」 たぶん、あの人はまだ聖さまのことが好きで。 どうしようもないくらいの誤魔化しを乃梨子の告白にしたわけで。 乃梨子の気持ちを真正面から否定しなかっただけで。 それは或いは責め上げてもいいくらいの誤魔化しだったけれど。 彼女の答えと。その優しさが解ったなら、乃梨子には何も言うべきことはなかった。 ただ、何とも残酷な人だなと。優しくて、だから残酷だ。 そう思ってからまた、扉を閉めて校舎へと戻っていった。 ――私は振られてしまったのだ。 □□□□□□ re//epilogue−ウルトラハッピー 乃梨子は志摩子のことを僧む(そうむ、と読む。108つの煩悩さえ押さえ込む仏僧ですら気持ちを抑えられないくらい人を憎むという動詞:乃梨子語)ことを止められなかった。 何とあの人、ルパンダイブして乃梨子を抱きしめた時に調子にのって思いっきりエルボーを乃梨子の顔面に決めてくれたのだ。 乃梨子はあまりに嬉しくて涙が出そうだったが。 涙の代わりに鼻血がドクドクと出てきたので泣くのは止めて姉の後を追うことにした。 姉は乃梨子にスマッシュエルボーをかましてからこう言った。 「わざとじゃないのよ。ごめんなさい」 「一発は一発だよ志摩子さん」 「自分を探しに旅に出ます!さようならっ!」 乃梨子は志摩子がここまで運動神経がいいことを知らなかった。 というか、天然っぽかったので何にも無い所でこけるというドジな属性さえ持っているのではないかとよく疑っていたのだけれど。 去っていく姉の後姿は疾く消えて。たぶん姉は100mを12秒くらいで走れるんじゃないかと呆れた。もっと違う姿で姉の運動神経のよさ、その勇姿を見たかったものだなぁとまた呆れる。あの人どんどんオチャメになってくなぁ。 たしかマリア像の方へ逃げたはず。 乃梨子は鼻血を片手で拭いながら姉の存在を追っていた。 妹なので多少の姉レーダー的な勘は持っていて、その直感スキルが「志摩子、マリア像、いる。エルボー、かます」と片言に乃梨子にその所在を教えてくれる。 走りながらも鼻で呼吸できないことが苦しい。 今鼻で呼吸をすると酸素と一緒に鼻血も吸い込んで、それが喉を通って胃に入ってと想像するだけで鳥肌が立ってしまう。酸素は口からだけ。 運動をしているので鼻血も一向に止まる気配を見せない。 垂れては拭い、垂れては啜る。途中で通り過ぎていく学生たちが「白薔薇の蕾が鼻血だしながら全力ダッシュしてるよ!」なんて顔をしていたが、もう乃梨子は志摩子に一発エルボーをかますことしか頭の中になかった。 意地になっていた。世の中辛いことばっかりじゃないか。鼻血止まらないし。痛いし。涙出てくるし。呼吸し難いし。姉逃げるし。 祐巳さまには振られるし。 マリア像の前には誰かと仲良く話している姉が気楽に妹に背を向けて立っていた。 今だ!と乃梨子は思った。殺った! 「どりゃぁーー!!」 何だか全ての出来事が理不尽にさえ思えて。 全部が全部自分の夢の中の出来事だったならいいと思えて。 怒りも不安も期待も喜びもドキドキもワクワクも何もかもを込めて、乃梨子は飛んで、志摩子のがら空きの背中にとび蹴りを入れてやった。 滞空時間5秒という、乃梨子の人生の中でも一番の出来のとび蹴りだった。 もはやエルボーとか鼻血とかはどうでもよくなっていた乃梨子だった。 吹っ飛ぶ志摩子の背中を慣性の法則通り、その方向エネルギーを逆に貰って蹴り飛ばし乃梨子はお行儀よくストンとアスファルトに着地して微笑んだ。 「ごめんなさい、志摩子さん。でも一発は一発だよ」 志摩子は仰向けに横たわって、地面に擦りつけたのか鼻血を出していた。 乃梨子の鼻血もまだ止まっていなかったのでこれで姉妹でお揃いだった。 「乃梨子ちゃん、酷いことになってるよ」 そう言われたので自分の身体を見てみると、なるほど鼻血を拭った制服の袖口が血で赤く染まり固まっていた。タイも垂れた鼻血で真っ赤。鼻の穴の下も鼻血が固まっているのか、唇を動かすとカピカピしていた。 知らない人が見たら誰かを殺してきたみたいに見えるのかもしれない。 「誰か殺してきたの?」 案の定そう言われた。 さっきから誰が話しかけてきているのだろうなぁと乃梨子は思った。 血を見てハイになっていた頭が冷えてくると、周囲の情況をやっと確認できた。 マリア像の前には、やっぱり佐藤聖が立っていた。 乃梨子は鼻の穴の下で固まった鼻血のカスを指でポリポリと擦り取りながら聖の言葉を聞いていた。志摩子はその隣で鼻血を拭いながら空を見上げていた。 「ゴロンタに会いにきたんだ」 佐藤聖はそう言った。 「祐巳さんに会いに来た、の間違いじゃないんですか?」 と藤堂志摩子はそう言った。 「何で今頃になって会いに来たんですか?」 と二条乃梨子は指に付いた鼻血のカスをデコピンで飛ばしながら訊いた。 「元気・・・かな、と思ってさ」 耳たぶを引っ張りながら気まずそうにそう言う聖を乃梨子は格好いいなぁと思った。 耳たぶが揺れる度、彼女の髪がサラサラと揺れて。太陽の光に照らされたその髪はキャラメルみたいに輝いて見えた。とてもとても綺麗だった。 「祐巳さんはゴロンタじゃありません。猫じゃありません」と志摩子は自分の昔の姉、その人の目をしっかりと見つめてつづけた「猫じゃありません。だから、餌をあげて。卒業して。それで終わりにしないで下さい。時々に元気か、なんて言って会いに来ないでください。私は祐巳さんの友達で、聖さまの妹です。どちらも大切な人です。だったら、だから、猫じゃないんですよ、祐巳さんは」 「・・・・・・そうだね」 乃梨子は姉と、姉の姉が言っていることの半分も解らなかったけれど。 何だか怒りがふつふつと沸いてきて、聖の鼻を思いっきり殴って鼻血を出してやろうかと思った程だった。新旧白薔薇姉妹が揃い踏みで鼻血を出すというのもなかなか格好いいじゃないかと本当に思った。 でも殴らなかった。傷害罪とかで捕まりたくなかったし。 ・・・祐巳が好きなこの人を殴っても事態は解決しないことも解っていた。 「祐巳さんは今でもお姉さまのことが好きですよ」 「・・・知ってるよ」 「それなら決着を付けて下さい。振るか付き合うかそれ以外でも」 「うん、それは解ってるんだけどね」 どうしたらいいのか自分でも解らないんだと彼女は言った。 祐巳の言うおとり、この人は残酷で優しい人なのだと乃梨子は思った。 祐巳がそう言ったのだから。乃梨子はちゃんと聖にも言って欲しかった。 私も残酷で優しい人になると言った彼女は、ちゃんと乃梨子を振ってくれた。 だったら残酷で優しい人の聖も、ちゃんと何かしらをするべきだと乃梨子は思った。 短絡的でも。安易にでも。単純でも乃梨子はそう思って、怒りを感じた。 怒りと愛しさを感じた。それは同じような感情だった。 優しさと残酷。怒りと愛しさ。鰻と梅干し(乃梨子の好きな食べ物と嫌いな食べ物) 「ちゃんとして下さい!」 乃梨子は言った。興奮して言ったのでまた鼻血がタランと垂れた。 全然締まらない女の子なのだ。 聖が何を悩んでいるのかは知らないが。乃梨子はきっちりと決着を付けるべきだとそう思った。ずっと祐巳に恋してきて、それで振られて。だからこそ、その経験が乃梨子にそう言わせたのだと思う。 あんなドキドキも。ワクワクも。不安も。喜びも。 恋はいい。相手を思うことは楽しい。恋はいや。相手に思われないことは辛い。 それでも祐巳の何処にも辿り着かないあの気持ちを。 乃梨子は幾らか、本当に幾つかの欠片だけでも理解できているつもりだった。 此処にはいない相手を、会えない相手を猫の世話をしながらずっと思っていた彼女と。 此処にはいない誰かを、ずっと見ていた彼女を思っていた自分。 「ちゃんとして下さい、聖さま。だってほら」 志摩子と目が合うと彼女は乃梨子に向かって微笑んでくれた。 だから乃梨子も無理して頬の筋肉を上げて。思い出すと涙が出そうになる。本当に泣きに泣いて1kg体重が減ったのだ。1kgってことは1?も泣いたのだ。 それでも今でも、彼女を思い出すだけで乃梨子は幾らでも泣けそうだった。 それでも何でも、乃梨子は無理矢理に頬の筋肉を上げて目を力づくで細めた。 「だってほら。私は祐巳さまに振られちゃいましたけどこうやって笑っていられます」 だから聖さまもちゃんとして下さい。この私の姉の姉で、私の自慢の姉の志摩子さんの姉でもあるんですよ。乃梨子は泣いているのか笑っているのか解らないとても不細工な顔だった。 泣きたいのに笑えるっていうのは最強なことなのだ。 「踏ん切りが付かないんだったら私と志摩子さんが殴ってあげます。皆で鼻血を出したらきっと馬鹿々々しくなって、何だって出来るようになりますよ。きっと」 聖は。泣きたいのに笑えるっていうのは本当に最強だと思った。 佐藤聖は目を瞑って笑った。 どうして目を瞑っていたのかは解らない。泣いていたのかもしれないし、外宇宙の真理についてでも考えていたのかもしれない。どっちでもいいことだ。泣いても、真理でも、どっちでも答えは出そうなものだから。 だから隣で聖さまに打つエルボーの練習をしている姉を止めないとなぁと思った。 聖はゆっくりと、校舎の方へと歩いていった。 志摩子は顔に付いた鼻血をハンカチでゴシゴシと落としていた。 乃梨子は鼻血を出しすぎて、もう頭がクラクラしていた。 鼻血を出しすぎて鼻が痛かったし、その痛みのせいで泣いちゃいそうだった。 だから空を見上げて、その青い壁面にそっと溜め息をついた。 ハッピーでは全然ないけれど、まぁなかなかの日常だと乃梨子は思った。 [don't watch me,Miss Maria :closed]
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