記憶の赤
 
 
 
 
 
*        *        *
 
 そう呼ばれる度に安堵と甘やかな気持ちに満たされたのは、一体いつまでだっただろう。
「さっちゃん」
 その声に目を開ければ、もうトンネルを抜けていた。規則的に並んだオレンジの代わりに、時間の感覚を麻痺させるような灰色の空がある。
 相変わらず、ロードノイズは耳にうるさい。どうしてまたわざわざ快適性も何もないような車を好き好んで乗るのか、私にはきっと分かる日など来ないのだろう。
「もうすぐ着くよ」
 ハンドルをわずかに左に傾けながら、優さんはそう言った。ええ、と少しだけしゃがれた声で応える。
 
 美術館に行こう、と言い出したのは彼の方からだった。どうして、と訊くのが不自然になるぐらい、自然にそう言った。
 日曜日に二人で出かけるのは、数年前まではよくしていた事だった。ただ婚約を解消してから、いやもっと以前から、そんなお誘いとは無縁だったのだ。私の方が、完全にシャットアウトしていたから。
 優さんがそう言った後見せた入場券には、私のよく知る名前が書いてあった。私がまだ習い事ばかりしていた頃、絵画を教えて下さっていた先生の個人展だった。
 断れないのを分かって誘ったのか、それとも両親の差し金だったのかは、今をもってしても分からない。訊くつもりもないし、行くことに変わりはなかった。
 高速道路を降りた車はいくつかの角を曲がった後、ゆっくりと減速して個展の開催されているビルの駐車場に入った。バックで駐車して優さんがサイドブレーキを引いた後、私は促される前に助手席のドアを開けた。
 車を止めたのは、ちょうど個展の開かれている五階だった。そのまま会話らしい会話もなく入場口まで行き、優さんは同然のように二人分のチケットを出して渡す。
 一歩個展の中へと踏み込めば、そこにはダウンライトと間接照明しかなかった。流石に作品には照明を当ててはいるけれど、普通こういう展示会ならば隅々まで光を行き渡そうとするものだ。だけどそれをしなかったのは先生の意向で、いつもバーのように薄暗い作られている。それは光と影に重点を置いている先生の作風そのものだと、アート系の雑誌で褒めちぎっていた文を読んだことがある。
「懐かしいな」
 そう言って優さんが見上げたのは、先生の初期の作品だった。確か初めて海外のコンクールで賞を取った作品で、私も練習にと先生に内緒で模写をしていた事がある。先生が自分の作品を模写しろとは、一度として言わなかったからだ。
「さっちゃんも描いてたね、これ」
 優さんは目を細めて、高原から見下ろす銀糸のような小川を見ていた。吸い込まれそうなほど、美しい絵だった。
「よく覚えているわね」
 そう言う私も、優さんに模写した絵を見せたことは覚えている。というか、ちゃんと完成させたほとんど全ての絵を、優さんに見せているのだ。
 それはただ優さんが見たがった、というのもあるのだけど、一番大きかったのは、私が優さんに見て欲しいと願った事だろう。
 あの頃は、なんと純粋にそう思った事か。呆れるぐらいに眩しいその気持ちを、今でも覚えている。本気でそう思っていたのだから、隠しようもない。
「こっちもだ」
 奥に進むほど、見覚えのある、新しい作品が展示されている。先生の作品を全て見ているわけではないけれど、そのほとんどが見たことがあって、ひとつひとつに思い出がある。
 今優さんが見ている絵も、そうだ。目の前にある絵は、両親から優さんが婚約者であると教えられた日の数日後に見た絵。ほのかだったはずの恋心がひとつの形を模って、目の前にいた――珍しくうかれ調子だった時に見た絵だったから、よく覚えている。
 あの頃の舞い上がりぶりときたら思い出すだけでも恥ずかしい。私にも素直な時があったんだと思える、きっと最後の思い出だ。
「これは……見たことあったかな」
 次に見たのは、マグリットを思わせるような色使いで断崖絶壁を描いた作品だった。この絵を見るのは私も初めてのはずなのに、何故だかその絵の構成には見覚えがある。
 凄く、むず痒い。デジャヴュとも違う感覚で、思い出せそうで思い出せない。それが何故だか気に食わなくて、その場を動こうとしなかった私に優さんは目で「待つ」と告げた。
「あ」
 やっとの事で思い出して声が出た瞬間、私はそれを後悔した。それ、とは声が出てしまった事ではなく、思い出してしまった事に。
 この絵の構成に見覚えがあるのは、先生が私に絵を描かせている横で、いたずら描きのようにその構成の原案を書いていたからだ。その時の私は何をしても手がつかなくて、見かねた先生は「絵を描くって楽しい事なのに」とおどけていたずら描きを続けたのだ。
「どうかした?」
 そう、この声に私は告げられたのだ。――君を愛する事はできない、と。
「いえ……ちょっと別の事を考えてたの」
 それはかろうじて嘘ではなかった。絵よりもずっと鮮烈な印象で、今思い出すだけでも心が抉り取られそうなのだから。
 あれほど泣いた日々は、祖母を亡くした日を除けば他にないだろう。自分が傷つくなんて露にも思ってなかった時に負った傷は、今尚深い。
 胸はいつも苦しくて、食事も喉を通らない。終いには男であるだけで嫌悪を抱き、父と会話をする事でさえ億劫だった。私はあの歳にして、愛と憎しみは表裏一体なんて言葉の意味を、身を以って理解してしまったのだ。
 それなのに、今平然として私の隣に立っている人の存在が不思議でならなかった。一体いつから、どうでもいい、過去の事と区切りを付けられるようになったのだろう。
「気分が悪くなったのなら、そういいなよ」
「大丈夫よ、そういうのではないから」
 きっと顔に出てしまったのだろう。優さんは耳慣れた優しい声でそう言うけれど、一体だれのせいだと思っているのか。
 考えても、きっと栓のない事だ。
 全て、終わってしまった話なのだから。
 
*        *        *
 
 私は個展の会場を出た後一言無沙汰の挨拶をしようと先生に電話をかけた後、また赤い車に乗り込んだ。日はしっかりと傾き、サンバイザーを下げてもまだ漏れてくる赤に目を細める。
 シートに座って五分もすると、ゆるやかに疲れが舞い降りてきた。それほど人が多い所に出向いたわけでもないのに、一体どうしたというのだろう。
 目を瞑っても、目蓋に先生の絵と、それに付随する記憶がチラつく。記憶を堰き止めている堤防に亀裂が出来たみたいに、溢れ出す記憶が止まらない。
「疲れたかい?」
「……少しね」
 時々、いやごく稀にだけれど、こう思うのだ。優さんが優しすぎて、余りにも優しすぎて残酷になって、私に大事な事を偽ってまで自由にしてくれたのだとしたら。
 もしも私が考えている事が正解で、あの一件がなかったら、今はどんな風に映るのだろう。こうして隣にいるだけで、胸が破裂しそうなぐらいに幸福感に満たされるのだろうか。
 
 私はその考えを追い出すように、ぎゅっと目を瞑った。
 差し込む赤い日差しを侵入を許さぬように、強く。
 
 
 
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