かわいい僕のシロツメクサよ
 
 
 
 
 
*        *        *
 
 これほど気に食わないと思ったのは、久しぶりだ。
「どうしてダメなんですか」
 私がこの言葉は口にするのは、もう百回や二百回ではきかないだろう。私もよく飽きないなと思うけれど、素直に承服できないのは仕方ない。
「だから、何度も言っただろう」
 山辺さんはほとほと疲れたという表情――を見せてもいい所なのに、憮然として強固な姿勢を崩すことはなかった。私が我侭を言うと分かっていればこその対応だ。
 これまで何度、同じやり取りをしただろうか。これだけ言っているんだから、そろそろ折れてもいい頃じゃないかと思う。
 だけどそれが儚い願いであることは、この私が一番良く知っている。それはほぼ九十九パーセントの確立で、私の要望は叶わないからだ。
「今回は、外国なんだ。大体ご両親が許可しないだろう?」
「それは何とかなるわ。手段を選ばないなら」
「だからダメなんだ。嘘をついて、それがバレた時はどうするつもりなんだ」
 ああ、このやり取りもいつも通り。にっちもさっちもいかないって、こう言う時に使うのだろうか。
 私がこうしてごねているのは、他でもない化石発掘の旅の為だった。それも海外。今までだって何度も彼は私を置いて海外に渡ったけれど、その度私は悔しさでいっぱいになる。
 好きな人が好きな事をやっているのを傍で見ていたり、一緒にそれに熱中するのを願って、何がいけないと言うのだろう。好きな人が好きな事を理解しようとするのは、自然なことのはずなのに。
 ただの一回の例外を除いて、彼は私の同行を許さなかった。それは危険だから、というよりも、日帰りでいける場所には発掘しに行こうとしなかったからだ。
 今まで一度だけ、日帰りでいける発掘のスポットに付いて行った事があったけれど、あれはきっと私に「化石発掘は地味でつまらない」という感想を抱かせる為だったのだろう。
 その日は初夏というより真夏日で、それはもう慣れない私にとって過酷という言葉以外に形容のしようがない日だった。それで何も見つからなかったら私もこれだけしくこくならなかったのだろうけど、幸か不幸か見つけてしまったのだ。ごろんと転がってきた塊の中に、痩せこけた貝殻を。
 山辺さんはその貝の種類で、「これは大体六百年ぐらい前の物だろう」と教えてくれた。その瞬間、三センチ郭にも満たない貝殻に、言いようもない郷愁とか、愛着を感じてしまった。江戸時代が始まるより早く、この貝殻はここにいたんだと思うと、山辺さんが化石発掘にのめり込む理由が分かった気がした。
「あんまり困らせないでくれ」
 そんな言葉も、もう何度聞いただろうか。そう言っても、化石への興味が更に加速してしまったのだから仕方ない。
 山辺さんが化石発掘にいく。それについて行きたいと願うのは、純粋に化石発掘がしたいのか、ただ一緒に居たいからなのか、問われれば答えに窮する。どちらかと言えば、後者の理由からだからだ。
「……」
 本当に、気に食わない。拒む山辺さんよりも、ゴネてきかない私の方が、気に食わない。
「……分かりました」
 どうしてこういう時に、「気をつけて行ってきてね」って可愛らしい微笑の一つも浮かべられないのだろう。ムスッとして納得したと言って、山辺さんが気兼ねなく海外にいけるはずないのに。
 昔からなんでも卒なくこなしてきたつもりだったけれど、どうも彼の前ではダメらしい。困らせるのが好きなんて、そんなつもりはないのに。
 
*        *        *
 
「何でそんなヤツと付き合ってんの?」
 しまった、と思っても、もう遅かった。その声色でハッとするなんて、我ながら鈍感過ぎた。
「何でだろうね」
 私は頬杖をついて、彼から視線を外した。人もまばらになった教室に、その声はかき消されるように吸い込まれる。
 大学に入って、私には友人と呼べる人がずっと増えた。女も然り、男も然り。彼もそんな友達の一人だった。
「わっかんねーな。鳥居って」
 それはごもっとも、江利子は頷いた。ただ彼は他の男友達と違って、『変わり者』という認識はしていないらしい。言葉尻だけ聞けば変なヤツ扱いかも知れないけれど、行動はそういう風には扱っていないのだ。
 大学に入ってからというもの、私にいい寄ってくる男はそれはもう閉口するぐらいいた。何かと話題を振ってくる中で、彼だけは必要最低限の事しか喋ろうとしなかっただろうか。彼は同年代の中でも年が上のような雰囲気があって、真摯に話を聞いてくれるから話を持ち掛け易い。今日はそれが、仇となったわけだけど。
「うん。私も時々分からなくなる」
 男友達に、恋愛相談なんてするべきじゃなかったんだろうか。彼の話を深めるたびに、彼の声色にどんよりとした雲が立ち込めていく。
「っていうかさ、ちゃんと付き合ってる?」
「ちゃんと、って?」
「休みがあったらデートしたり、平日でも時間があれば飯食いに行ったりさ」
 言われてみて、ここ最近の出来事を思い返す。ご飯ぐらいは行くけれど、改まってデート、というのは最近していない気がする。特に山辺さんの娘と会ってからは。
 山辺さんが娘と会って欲しいと言ってきたのは、複雑な思いはあれ、結局の所は嬉しかった。付き合っているという事実を、やっと肯定して貰えた気がしたのだ。
 だけどそれからはどうだろう。休みの日に二人きりで出かけるのは、少なくなってきている。何だか小さなあの子から父親を遠ざけているような気がして、気軽に誘えなくなってしまったのだ。
 だから休日の予定が合えば三人で。山辺さんが平日休みの時は、私がなんとか時間を作って会いに行く。最近そんなサイクルだ。
「デートはあんまりしてないかもね」
「……やっぱりな」
 なんだかこれじゃ、愚痴ってるみたいだ。本当はこんな風に、山辺さんとの事を話したいわけじゃなかった。
 ため息を隠して息をついて、窓の外の景色に視線をやる。横顔に突き刺さる彼の視線が、何故だか痛い。
 彼が言いたい事は、分かっていた。これでも察しはいい方だし、伊達に大学生活を送っているわけじゃない。自意識過剰と言われれば、それまでかも知れない。
「付き合ってるかどうか分からないヤツと付き合ってるよりさ」
 嫌な予感がした。いつもならこうなる前にさっと話題を替えていたのに、今回はどうにも逃げられない。
「俺と付き合う方が、絶対幸せだと思うんだけどな」
 彼と目が合った瞬間、後悔した。また一つ大切な物を失ってしまった――本気でそう思った。
「……そうかもね」
 本当に、そうかも知れない。大学生同士の方が時間も合うし、きっと寂しいだってしなくていい。彼には人を幸せに出来る素質だって、あると思う。
「だけど」
 違うのだ。
「ごめんね」
 きっと私は幸せが欲しいんじゃない。人並みの物なんて、心から欲しいと思えるわけがない。
「……そっ……か」
 彼の視線が逸れる。沈黙が、重たい。こんな時に優しく笑いかけるのは罪だろうか。
「けど、ありがと。そんな風に思っててくれて、嬉しいのは本当」
 だけれど、それは本心だった。だから私は笑う。いつまでも悲痛な顔をされていたらこっちまで傷ついてしまいそうだから、彼もつられるぐらいに、明るく。
「それなら、いいんだ」
 それが本心とは思えなかった。その目を見れば誰だって分かる。
「ごめん、もう行くね」
 この後特に予定なんてなかったけれど、私はそう言って席を立った。このままこっちに居続けるのと、立ち去るのと、どっちの方が傷つくのか、考えた結果だった。
「うん、また」
 平静を装って手を振る様が、逆に痛々しかった。
 ――なんで私がこんな思いをしなきゃいけないんだ。
 先を急ぐ自分の足音の無機質さにすら嫌になる。恋って面白いぐらい、上手くいかない。
 
*        *        *
 
 映画の中でよく観た景色が、目の前に広がっている。
 大きなスーツケースを転がす男、小走りのサラリーマン、飛行機の到着が遅れている事を知らすアナウンス――。そこでは空港にありふれた光景が、目まぐるしく繰り広げられていた。
「そんなに荷物を持って、帰りはどうするの?」
「向こうで使い切るものがほとんどだよ。それに出てきた物が全て持ち帰れるわけじゃないし」
 山辺さんを空港まで見送りに行くのは、実は初めてだ。そんなわざわざ遠くまで、と彼は遠慮したし、今回もそうだった。それを私が、我侭を言って付いてきただけだ。
 飛び立っていく飛行機を横目で見ながら歩いていると、なんだか自分が誰かの役をやっているような気がしてくる。彼の旅立ちを喜びながら悲しみ、背中を優しく押すことのできる女になんか絶対なれないのに、「行かないで」とさえも言えない。
 寂しいのかと訊かれれば、私はきっぱり「寂しい」と答えられると思う。そう考えて、私は少し安心した。自分の中に血が流れているのを、確認できたような気がした。
「……」
 空港は思ったいた以上に騒々しくて、二人の間を埋めるには丁度よかった。わざわざついてきたんだから何か言う事だってあるだろうに、と自分でも思ったけれど、背伸びしたって本心から遠ざかっていくだけだろう。
「ここまででいいよ」
 出発口につくと、山辺さんは抑揚のない声でそう言った。いいも何も、搭乗券がなければここまでしか入れない。
「いってらっしゃい」
 山辺さんの袖を握ると、ようやく江利子の方を向いた。今日初めて、真正面から向き合った。それが嬉しいのに、上手く笑えない。
 端のほうで立ち止まった私たちを、トランクを転がす人たちは上手くよけていく。私たちと外の世界が、切り絵みたいに浮かされたみたいだった。
「ああ、じゃあ」
 もうちょっと何か言ってもいいものなのに、山辺さんは少しだけ見詰め合った後、そう言って素っ気無く手を振った。江利子に背中を見せた瞬間、視界の端には空高くへと鼻先を向けている飛行機が見えて、本当に行ってしまうんだとその時になって気がついた。
「待って」
 思わず呼び止める。感情が先走って行動に出るなんて、久しぶりだった。
「どうかしたかい」
 少しだけ、ほんの少しだけ心配そうな顔をした山辺さんが、また江利子と向き合った。何故だか涙が出そうだと気付いたけれど、そこまで素直にはなれない。
「山辺さんの背中、イエティみたい」
「は……?」
 何を言っているんだ、という困惑の顔の後、山辺さんはプッと噴出した。予想外の反応だった。
「雪山には行かないよ」
「分かってるけど、言ってみたかったの」
 そうか、と言って一頻り笑った後、山辺さんは目を伏せた。長い一ヶ月が、幕を開けようとしている。
「……手紙、書いてね」
「勿論。写真も送る」
 じゃあね、と手を振った。今度は、ちゃんと笑えた。
 遠ざかっていく背中。結局、言いたい事は言えていない。それでもさっきよりは、ずっとマシな気分だった。
 
 飛行機が、また空へと真っ直ぐに飛んでいく。
 山辺さんの背中が、遠すぎて。抱きしめてしまいたいなんて、きっと言葉にできない。
 
 
 
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