■ 小笠原パンダ
 
 
 
 
 拝啓、お父様、お母様。
 祥子は今、パンダでいます。
 
 

 
 
 事の始まりは、終わりから始まることになる。
 その日祥子と山百合会幹部一行は、花寺学院の学園祭の手伝いの為、お隣の男子校へと出向していた。去年の祥子は極度の男嫌いからその行事への参加を拒否したが、今年度は生徒会長の立場。サボるわけにもいかずその男の園へと身を投じ、学園祭の終盤になって迷子になっていた妹が見つかったのがつい数分前の出来事だったはずだ。
 
「パンダ……」
 
 そう、パンダ。それが今祥子の目の前にある、着ぐるみの元になった生物の俗称だ。目の周りが化粧の濃い女のように黒くて、笹を平然とした顔で貪り喰う、なんとも頼もしいやつ。
 一体なんの偶然か、ロッカールームとして空け渡されたその部屋には、その着ぐるみがあった。祐巳が着ていたそれはいささかデフォルメが過ぎていたが、パンダと名乗るにはしっかりとその特徴を捉えた物だ。
 この状況で祥子の脳裏を過ぎたのは、想像に難くないものだ。歯に衣着せぬ表現をするなら、はぁはぁくんくんするのである。くんかくんか。
 
(そんな事をしたら、私は)
 
 立派な変態だ、と思った時には、その着ぐるみに頬を擦り付けていた。飛び掛る勢いは、獲物を捕らえる時のライオンと伯仲するほどだった。傍目から見ればパンダが可愛らしくて頬擦りしているお嬢様の図であるが、その中にある真実は語るべきではない事ばかりだ。
 
「ああ、祐巳の匂い……」
 
 祐巳の温もり、祐巳の染み付いた汗、祐巳の幻影……と見えてはいけないものまで見えたその時に、悪魔は現れた。
 
「……祥子」
「なっ……」
 
 幸か不幸か、その秘密の儀式を見てしまったのは、同級生の令だった。ミス宝塚は、パンダを頬擦りをする超お嬢様の超異常行動を見て、超固まっている。
 
「何やってるの……って訊くのは、野暮だよね」
「……違うのよ、令。私はただ、パンダの着ぐるみってどんな感じが確かめたくて」
 
 そこまで行った祥子に、令は片手を突きつけてその先を制した。それ以上言うなと、首を横に振る。
 
「あのさ、祥子。……それ、着る?」
 
 長い沈黙の後、令はそう言った。その目は夕日に照らされ、燃えるように赤かった。
 暫く見詰め合った後、祥子は目を伏せた。見れば見るほど、心の裏まで覗かれてしまいそうな瞳だった。
 
「……いいの、かしら」
「ちょっと着るぐらいならね」
 
 令の提案に、祥子の心は揺らいでいた。ついさっきまで祐巳が着ていた物を着る。またも歯に衣着せぬ表現をするなら、中年親父が脱ぎたてパンティーに興奮するようなものだ。最低の表現である。
 祥子の中に、迷いは確かにあった。この着ぐるみはもう一人外からチャックをしめる人がいないと、完全に着ることは出来ないからだ。つまりこれは危機であると同時に、チャンスでもあった。
 
「じゃあ、お願い」
「祥子……最近素直になったね。これも祐巳ちゃんのお陰かな」
 
 二人は清々しい笑顔を交わしてその着ぐるみの装着作業に入ったが、やろうとしている事はある種変質的な欲求を満たすだけの行為である。
 祥子がいそいそとパンダの着ぐるみに腕を通すのを令が手伝い、最後に背中のチャックをしめて、パンダの頭をかぶせた。これで見た目は、中身にどれだけ凄い美人が入っていようが、ただの『パンダの着ぐるみを着た人』である。
 
「似合ってるよ、祥子」
 
 着ぐるみに似合ってるも似合ってないもないだろうが、令は満面の笑みでそう言った。そして腕を組んで満足そうに頷いた後、踵を返す。
 
「ちょっと、令。どこに行く――」
「パンダー! パンダー! 祥子のパンダー!」
 
 令は「うっひょーい!」と両手を挙げて叫びながら廊下を走って行った。祥子が見事にはめられたと分かったのは、それから五秒経った後だった。
 
「一体何事?」
 
 更にタイミングが悪いことに、そこへやってきたのは花寺学院の中を散策していたはずの山百合会メンバーだった。その中には、祐巳の姿もある。
 
「あれ、祐巳さん……?」
「私はここにいるよ」
 
 パンダの着ぐるみを見た由乃は、まさかまだ着たままなのかとぐるりと周囲を見回し、祐巳と目が合った。勿論の事ながら、着ぐるみの中身は祐巳ではない。
 
「じゃあ、あれは」
「――っ!」
 
 乃梨子が事の真意を確かめようと一歩を踏み出したところで、祥子は脱兎の如く駆け出した。突撃してくるパンダをよける様に道を作った山百合会幹部たちの間を、祥子は駆け抜けた。
 ――悪夢。
 それは眠りに落ちた時にしか見れないわけではない事を証明する、一連の出来事が幕を開けた。
 
 

 
 
「なあ、聞いたか」
「え、何が?」
「なんでもさ、さっきまでリリアンの子が着てた着ぐるみが、盗まれたらしいんだよ。それも着ぐるみを着た状態で」
「うわ、何だそれ。そんな変態、この学校にいたのかよ」
「その上、薔薇さまの一人が行方不明なんだと。事件の可能性もあるって、先生たち真っ青でさ。片付け終わったら捜索手伝えって、さっき片岡先生が言ってたぜ」
「マジかよ……。あ、でもその薔薇さまって呼ばれてるお嬢様見つけられたら、ひょっとしてこれは中々ドラマティックな出会いになるんじゃないの?」
 
 それはない、と変態呼ばわりされた祥子は、掃除用具入れの影で顔を引きつらせていた。世の男どもの想像力というのは、なんとも幸せなものだ。
 かれこれ必死の逃走を始めて、三十分が過ぎようとしている。とっくに花寺を後にする時間は過ぎていて、行方不明となっては今頃家や学園に連絡が行っている頃かも知れない。絶対絶命とは、この時に使わずして一体いつ使うというのだろうか。
 
「ふぅ……」
 
 花寺の生徒たちが立ち去ってから、祥子はその姿のまま廊下に出た。周囲に人影はない。
 それにしても、厄介な事になった。祥子はパンダの手をパンダの顎に当てて、ううーんと唸る。考える人ならぬ考えるパンダ。
 しかし考えていても、いずれ見つかるだけだ。ここは話の分かる人、いやもう祐巳以外の山百合会幹部ならば誰でもいい。味方に会いさえすれば、この状況から抜け出せる。消えていた時間の言い訳は、後から何とでもなるだろう。
 
「あっ」
 
 そう思って、歩き出した矢先だった。廊下の先の角から曲がってきた男子生徒が二人、祥子パンダを見て硬直した。
 
「こ、こいつは……」
「よっしゃ、覚悟しろ、この変態コソ泥野郎」
 
 一人は怖気づいていたが、もう一人の男は強気だった。じりじりと威嚇するように祥子に詰め寄ってくる。
 しかし祥子に向かって先ほどの発言は、失言どころか暴言だった。平たく言えば、コソ泥呼ばわりされてプチ切れした。やってることは、確かにコソ泥と変わりないのに。
 
「その首もら――うっ」
 
 強気だった男が襲い掛かってくる前に、祥子は延髄蹴りをかました。着ぐるみを着ても、格闘技慣れしていない素人に蹴りを決めるのは、さほど難しいことではなかった。小笠原式護身術・心得その一、やられる前にやれ。
 祥子が構えを解かないままもう一人の男に向き直ると、気弱そうな男子生徒は後ずさりする。
 
「誰が変態コソ泥破廉恥コスプレマニアの百合教狂信者ですって?」
「ひっ、お、俺じゃないっ! っていうか誰もそこまで言ってな――」
「連帯責任っ!」
 
 祥子は目にも止まらぬ速さで男子生徒の背後を取ると、思いっきり肩の関節を外した。
 決まった――小笠原式護身術奥義その一、脱臼プリンセス。肩の関節が外れた男の鳩尾に手刀を入れると、かよわき花寺の生徒はあっけなく眠りに落ちた。
 
「全く、失礼ね」
 
 小笠原祥子が只今行った行為は失礼を通り越して明らかな暴力行為であるが、お嬢様なので全て正当防衛となる。いつの世も金で世界が動いているのだ。
 祥子は肩をいからせながら、誰か山百合会のメンツはいないものかと花寺の校舎を徘徊する。――と言っても、まだ片付けで多くの生徒が残っているので、そんなに自由には動けない。気性と鼻息の荒い花寺の生徒の事だ。またさっきと同じ事が繰り返されるだろう。
 
 なんとか身を潜めながら別の棟へと移動すると、廊下の曲がり角の向こうから人の話し声が聞こえた。思わず祥子は身を硬くさせたが、そうさせたのは人の気配があったからではない。その話し声の片方に、聞き覚えがあったからだ。
 
「で、その年の甘茶がいつもと違っていて……」
 
 祥子は廊下のくぼみに身を隠すと、耳をそばだてた。声で判断するに、乃梨子と高田マッスルの二人であるらしい。そう言えば顔合わせの時に仏像の話でプチ盛り上がっていたな、と祥子は思い出した。おそらく、学院にある仏像を見せてもらっていたのだろう。
 
「へぇー、じゃあ今度そのお茶を」
「とぅっ!」
 
 祥子は高田きんにくんと乃梨子がくぼみを通り過ぎた瞬間、筋肉質な方の延髄に手刀を入れた。小笠原式護身術奥義その二、即討エレガント。いくら身体を鍛えていても、人間弱い部分は弱いのである。
 
「なっ……」
 
 驚いて振り向いた乃梨子を、祥子はすかさず羽交い絞めにして口を塞いだ。悲鳴を上げられると面倒だからである。
 
「んぐっ……んー!」
「動かないで。私よ、乃梨子ちゃん」
 
 ぴくりと固まった乃梨子から、祥子はゆっくりと力を抜いていった。どうやらパンダの中が誰であるか、理解したらしい。
 
「な、何やってるんですか」
 
 ようやく開放された乃梨子は、祥子パンダに向かってそう言った。真っ当な人間の、真っ先に言うべき台詞である。
 
「祐巳が、このパンダの着ぐるみを着ていたのよ」
「はぁ」
「と言うことは……分かるでしょう?」
「いえ、全然分かりません」
「鈍い子ね。可愛い祐巳が着ていたものを、ちょっとクンクンハグハグしたかったんじゃないの。乃梨子ちゃんだってあるでしょう? そういう気持ちは」
「いいえ、私は志摩子さんが着ているのをそのままクンクンハグハグしますので、その気持ちは理解しかねます」
「嘘おっしゃい。というか、満喫してるじゃないの」
 
 やはり乃梨子も薔薇ファミリー。危険度数は似たり寄ったりである。
 しかしながら乃梨子は自身の重篤さには気付いていないらしく、祥子を見る目は冷たかった。まるで腐った卵をぶちまけたボロぞうきんがビタビタのままベランダに干してあるのを見るような目つきである。
 
「な、何か言ってちょうだい」
「変態コソ泥破廉恥コスプレマニアの百合教狂信者」
「あんま調子にのんなよ一年坊主」
 
 祥子が乃梨子の首を絞めると、か弱き一年生は「ギブ、ギブ」とその腕を叩いた。危うく小笠原式護身術奥義その三、致死セレブをかますところであった。
 
「けほっ、けほっ……何するんですか」
「ごめんなさい。ちょっと殺意が沸いてしまって……」
 
 祥子はしょんぼりと可愛らしく反省して見せたが、その衝動は通り魔と大差がない。
 
「で、私はそろそろこれを脱ぎたいのだけど、背中のチャックを開けて貰わないと脱げないのよ」
「はぁ」
「生返事はおよしなさい。さあ、背中のファスナーを下ろしてちょうだいな」
「……」
 
 祥子は居丈高にそう言ったが、乃梨子は締められた首を摩りながら冷たい目をしている。その瞳には、不満がありありと浮かんでいた。
 
「パンダさま」
「祥子よ。何」
「物には頼み方ってものがあるんじゃないですか?」
 
 そう言った乃梨子の顔には、おおよその彼女からは想像も出来ないような、それはもう意地悪な笑みが浮かんでいた。弱者が強者の弱みを握った瞬間に見せる、下克上魂が宿っている。
 
「どういうことかしら」
「三遍回ってワンと言ったらファスナーを下げて差し上げると申してい」
「うらぁっ!」
 
 目に見えぬ速さで鳩尾へとめり込む祥子の握り固めた拳。決まった。小笠原式護身術奥義その四、消沈メルセデス。乃梨子は祥子に倒れ掛かるようにして気を失うと、その腕の中でクンクンハグハグしていた。夢の中でまで、志摩子とイチャついているのであろうか。
 
「はっ、しまったわ」
 
 祥子はついうっかり、折角見つけた山百合会メンバーをやっつけてしまった。本当、ついうっかり。
 祥子の中に眠る野生が活発になっているのは、このパンダの着ぐるみも関係あるに違いない。祥子はそう決め付けると、とりあえず廊下で伸びている高田マッスルの横に寝かせて腕枕をさせて置いた。上級生をバカにした罰である。
 
「おい、いたぞ!」
 
 祥子が乃梨子をゆっくり床に寝かせた、丁度その時だった。背後から、祐麒の声が聞こえたのは。
 その大きな声が廊下に響いて数秒後には、もう反対側からも花寺の生徒が現れる。背の高いあの二人は、日光月光と呼ばれた双子である。
 
「ここは通さんぞ!」
 
 祐麒から走って逃げようとした祥子の先に、日光月光は金剛力士像のように立ちはだかった。しかし祥子は構わずに二人の方へと駆けて出した。その勢いは、パンダの装束も相まって相手を気押すには充分だった。
 
「お退きなさい!」
「そうはさせブッ」
「ブッ」
 
 祥子の両膝がそれぞれの顎を押しのけると、兄弟は非常にカッコ悪いやられ音を発して倒れた。小笠原式護身術奥義その五、飛膝コンフォート。祥子の奇跡的跳躍力から生み出される動エネルギーは、兄弟を退けるのに充分な威力であった。
 
「う、うわっ、こっちきた」
 
 日光月光の後ろで情けない声を上げたのは、騒ぎを聞きつけてやってきた小林だった。坊ちゃん刈りが、恐怖に震えている。
 
「退きなさい、メガネ!」
「へぶっ!」
 
 祥子はスピードに乗ったまま身体を旋回させて、小林にラリアットをかました。小笠原式護身術奥義その六、旋激サロン。小林は芸人ばりにメガネをすっ飛ばされて廊下に口付ける。
 そのままの勢いで、祥子は駆けた。騒ぎに呼び寄せられた人間、目の前に立ちふさがる人間のことごとくを跳ね飛ばし、まさに『ちぎっては投げちぎっては投げ』の状態だった。
 しかしその快進も、長くは続かなかった。慣れない場所で上手く逃げ続けられるほど、映画の中のように上手くいきはしない。祥子の目の前には、行き止まりを示す壁が立ちふさがっていた。
 
「もう逃げられないぞ」
 
 振り返れば祐麒だけではなく、いつの間にか復活していたらしい高田マッスルや他の生徒たち。それにあろうことか、祐巳や由乃たちの姿まで見えた。四面楚歌、である。
 パンダの中の祥子は、冷たい汗が流れるのを感じた。ぞくぞくと集まってきた人によってできた壁は、突破するには厚過ぎた。
 
「きっとこの変態が、祥子さまをさらったのよ。許せない」
 
 祥子パンダを見て、由乃が吐き捨てるように言った。由乃の推理は、事実と若干の違いがある。祥子がさらわれたのではなく、祥子がパンダをさらったのだ。
 
「さあ、観念しろよ」
「――待って」
 
 息巻いた祐麒を、祐巳が腕を伸ばして制した。まさか、という想いが祥子の脳裏をよぎる。
 
「お姉さま」
 
 そのまさかが現実になって、祥子は硬直した。祐巳には、姿かたちは違えど分かるのだ。祥子がパンダの着ぐるみをきた祐巳を見破ったように、その逆もまた。
 
「祐巳」
 
 そのやり取りを観ていた人々から、驚きの声が上がった。何かが終わり、そして始まった気がした。
 もう体面など、保とうとする意味がない。だけど目の前の絶望感とは別に、嬉しさも感じていた。祐巳が見つけてくれた、その事実が嬉しかった。
 
「私は、大変なことをしてしまったわ」
「いいんです、お姉さま」
 
 祐巳は優しくそう言うと、祥子の後ろに回り込んだ。そっと背中に触れた手が、祥子の手の届かないところにあったファスナーを下ろしていく。
 祐巳によって、解放される。それは久しい感覚だった。まるで祐巳が祥子の心を解かした時に感じた、あの感触に似ている。
 
「祐巳、聞いてちょうだい。私、ちょっと着ぐるみをクンクンハグハグしたかっただけで――」
「お姉さま」
 
 祐巳はそう言って、かぶりを振った。何も言わなくても、分かっていると言う顔だった。
 やがて着ぐるみの中から祥子が抜け出すと、それと同時に何かが首にかかった。その感触も久しく味わうものであることが、祥子には分かった。
 
「とりあえず、ロザリオ返して置きますね」
 
 そう言って祐巳は、満面の笑みで親指を立てた。
 
「ノーーーー!!」
 
 パンダから脱皮した祥子の叫びは、男子の園に高く響き渡る。
 
 ――小笠原パンダ式、心得その一。
 やった分だけ、自分に返ってくる。
 
 

 
 
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