■ 二条家の変
 
 
 
 
 メイプルパーラー、と言えば、この近辺で通じないことはない。子供からお婆ちゃんまで、庶民からお嬢様まで、世代や人を選ばず、愛され続けているお菓子屋さんだ。
 斯く言う乃梨子も実はと言えばメイプルパーラーのファンで、菫子さんが買ってくる度、よろこんでご相伴に与っている。菫子さんは、これを言ったら怒るのだろうけど、あの歳になってもまだ甘い物が大好きで、乃梨子がファンなら彼の人はリピーターだ。菫子さんが幸せそうにしている時と言うのは、メイプルパーラーのお菓子を食べる時以外、あまり知らない。
 とにもかくにも、あんなお婆ちゃんになっても食べたくなっちゃうほど、絶品お菓子を出すお店なのだ、メイプルパーラーというのは。
 
「確かに」
 
 美味しい。口をもごもご動かしながら、乃梨子は一人で頷いていた。とある帰宅後のことである。
 今日は菫子さんが「いい蟹を貰ったから期待しときなさい」と言っていた。そんな時に限って菫子さんは仕事が遅くなって、いつもの夕食の時間から数えてもう一時間半も待たされていた。
 一時間経った頃、つまり今から三十分前、痺れを切らして噂の蟹をキッチンに並べて見た。蟹をさばいたことは、自慢じゃないが全くない。
 何か専用の道具があるはずだ、と棚を漁っていたところで、コレを見つけてしまったというわけだ。蟹はさばけないけど、メイプルパーラーのお菓子の箱の開け方なら、子供だって知っている。
 お腹の方は、もう限界。多分乃梨子の意思でではなく、本能でその箱を開けてしまったんだと思う。初めて見る箱の中には、初めて見るクッキーが並んでいた。
 
「……」
 
 そのクッキーを見た瞬間、くー、っとお腹が鳴ってしまった。菫子さんがいたら大笑いされるところだ。
 そして光景を思い浮かべて見ると、迷いはなくなった。どうせ一緒に食べるのだろうし、少しぐらい先に頂いていてもいいだろう。
 
「うーん、美味しい」
 
 それにしても、一体いつこんな新商品が出たのだろう。上品な甘さで、ほのかに香るナッツがいいアクセント。これで安かったら大ヒット間違いなしの、びっくりするほど美味しいクッキーだった。
 テレビを見ながら、一枚。一枚。もう一枚。喉が渇いたから、キッチンにあった緑茶を淹れて、紅茶じゃなくても合うんだなと思いながらまた一枚。ゴールデンタイムと呼ばれる時間帯にやっている番組は往々にして面白くて、何をしていてもついつい見入ってしまう。そうして気付いた時には、クッキーの半分以上を食べてしまっていた、というのが現状であるわけだけど。
 
「あ……」
 
 これは、マズイ。流石に半分以上食べてしまっては、菫子さんも怒るだろう。
 どうしたものか――と腕を組んだところで、勢いよく玄関の扉は開かれた。
 
「ただいまー。いや、悪いね、つい仕事が長引いちゃって――」
 
 リビング兼キッチンの扉を開けると菫子さんは言った。言っている途中で、固まった。
 
「……あんた、それ」
 
 こういう時、何か上手い言い訳はないものだろうか。そう考えて出てきた答えは、これだ。
 
「えっと、私の誕生日、実は今日で――」
「嘘を言いなっ! あんたの誕生日はあと三ヶ月先だよっ!」
 
 怒られた。というか、キレられた。それにしても菫子さん、乃梨子の誕生日を覚えていたとは意外だ。
 
「リコ……あんた、よくも、よくも……っ」
 
 ジロリと睨み上げる菫子さんの目は、相当怖い。まるで巨大な爬虫類に睨まれているようだ――なんて言ったら、菫子さんはまた怒るだろう。というか、今は何を言っても怒られるような気がする。
 
「えっと……凄く美味しかったよ、これ」
「当たり前だよっ! わざわざパリ支店のを送って貰ったのを、あんたはパリパリムシャムシャゴックンって食べてしまったんだからねっ!」
 
 なんてことだ、とでも言いたげに、菫子さんは両手で顔を覆った。通りで、美味しかったわけだ。
 それを知ると、途端に申し訳ない気分になってくる。菫子さんが大のメイプルパーラーリピーターだとは知っていたし、それなら相当楽しみにしていたことだろう。今更ながら、自分の行動の軽薄さを後悔した。
 
「えーっと……」
「この恩知らず!」
「その……」
「本当に、信じられない子だよ、あんたはっ!」
 
 悪い、とは思っている。思っているから、少しぐらい罵倒する口を閉じて、謝る時間を分けてくれないだろうか。
 
「あの、菫子さん……」
「あーもう、本当にあんたがこれほど憎ったらしく思ったことはないわよ。人が仕事で疲れて帰ってきた時、しかもご馳走を用意するって言ってあった日にこんなことするなんてね」
 
 その点については、もはや弁解の余地もありません。そう言いたいところだけど、菫子さんはそれを言わせてもくれない。
 何か口を開くたび、恩知らずだの、信じられないだの、挙句の果てには「あんたなんて犬に食われちまいな」とまで言い出す始末。流石にそこまで言われては、こっちだってムッとしてしまう。
 
「ちょっと! 何もそこまで言うことないじゃない。たかがクッキーのことで」
 
 言った後、しまった、と思った。たかがクッキーと発言した瞬間、菫子さんの怒りの炎は、二階建ての家が全焼しそうなぐらい燃え上がる。
 
「たかがクッキーですって? 本当におバカな子だねリコは!」
「あぁそうです、私が悪ぅございました! そんなおバカな子より、クッキーの方が大事ですもんね」
「んまぁ! 大体人が怒ってる時に怒り返すじゃないわよ。あんたそう言うの何て言うか知ってるかい? 割礼って言うんだよ!」
「それを言うなら逆ギレよ! バカはそっちじゃない!」
 
 ちなみに割礼について一切の知識を持たない方は、決してその意味を調べちゃいけない。これ、二条乃梨子との約束。
 
「もー怒ったからね。あんたは晩御飯抜きだよ!」
「ふ、ふん、別にいいわよそんなの。クッキーでお腹膨れちゃったもんね」
 
 いや、実は別によくはない。中途半端に食べたせいで、むしろお腹が減っている。それに元から、甘い物は別腹だし。
 しかしこの展開は、非常にマズイ。ついつい逆上してしまって、引っ込みがつかなくなってしまっている。悪いのはこっち、とは分かっていても、とてもじゃないけど謝れるような状況じゃない。
 
「きぃー、なんて憎たらしい。リコ、それ以上口をきいたら、実家に送り返すからね!」
「べーだ!」
 
 とりあえず、この場にいてはどんどん追い詰められるだけだと思って、あっかんべーをして自室に退散した。丸っきり子供の行動だけど、菫子さんにして見れば乃梨子は完璧にお子ちゃま。ならばそれらしい捨て台詞を……って、それが一番いけないのに。分かっててつい言い返してしまう乃梨子は、やっぱりお子様なのだと思う。
 
「はぁ……」
 
 久しぶりにやっちゃったな、と額に手を当てた。ごめんなさい、と頭の中で呟いてみるけど、どうにもすぐに言えそうにない。
 きゅるる、とお腹がなって、妙に切ない気分になった。晩御飯抜きって、これは想像以上に辛い。
 明日になったら、謝ろう。――乃梨子は未だにくーくーと鳴いているお腹を撫でながら、そう心に誓った。
 
 

 
 
「嬉しいわ。一度伺って挨拶をしたいと思っていたの」
 
 時々この人は、全部分かっていてこうしているじゃないか、と思う時がある。
 ――と、乃梨子は志摩子さんの笑顔を見ながら、頭の中でそう言った。とある放課後のことである。
 
「う、うん、菫子さんも、一度志摩子さんをうちに連れて来なさいって言ってたから、喜ぶと思うよ」
 
 そう、確かに菫子さんは、以前そういうことを言っていた。だからって、何も今日じゃなくてもいいんじゃないか、と乃梨子は思う。
 だけど、こうなってしまったのは仕方がない。いつもは色々と予定を立ててからでかける性質の志摩子さんが、今日に限って急に乃梨子のうちに来たいと言うのだ。少しだけ申し訳なさそうに、嫌ならいいのだけど、という志摩子さんのお願いを断ったら、それはもう二条乃梨子じゃない。別の誰かである。
 一応菫子さんには、学校にいるうちに志摩子さんが来ることを連絡してある。タイミングの悪いことに、菫子さんは本日お休みを取っていた、という不運も重なってのことである。
 
『あっそう、連れておいで』
 
 志摩子さんが遊びにくるから、と言った乃梨子に対して、菫子さんは非常に機嫌が悪そうにそう言った。そして昨日のことを謝ろうと思ったその瞬間に、菫子さんは無言で電話を切った。このままの態度で志摩子さんを迎えられては、堪ったもんじゃない。
 
「ここが乃梨子の住んでいるマンション? 綺麗なところね」
「ええ。まあ」
 
 しかし、時間は待ってくれない。乃梨子の恐れていた時間は、すぐそこまで来ている。
 エレベーターで部屋のある階まで上がると、そこにはもう見慣れた景色が広がっている。内心ちょっとドキドキしながら、菫子さんの待つ、説明するところの居候先の扉を開けた。
 
「……ただいまー」
「お邪魔します」
 
 小声でそう言った乃梨子に対して、志摩子さんはよく通る大きな声でそう言った。
 バカッ、そんな大声だしたら敵に気付かれるぞ! 今の乃梨子はそんな気分である。
 
「ああ、おかえり」
 
 敵地視察、とばかりにそろりとリビングの扉を開けると、菫子さんが乃梨子を見てニンマリと笑った。予想外の展開に、冷や汗がたらりと落ちる。
 
「失礼します」
 
 そんな乃梨子の心境は露知らず、と言った感じで、志摩子さんはリビングへと入ってきてしまった。途端に菫子さんの表情は大切なお客さまを迎える時用の、柔らかい笑顔に変わる。
 
「ああ、志摩子ちゃん。待っていたわよ、お会いできて光栄だわ」
 
 菫子さんは大仰にそう言って、なんと志摩子さんにハグをかました。欧米かっ、と頭の中で突っ込んでいる場合じゃない。菫子さんは乃梨子が三度の飯よりも志摩子さんが好きなのを知っていて、わざとそうしているのだ。志摩子ちゃん、って呼び方だって、乃梨子を挑発しているに違いない。
 
「さあ、おかけになって」
 
 菫子さんは客人用の椅子を用意していたらしく、いつもはテーブルに対して二つの椅子が、三つに増えていた。当然のように、お茶も用意されている。
 そして勿論お茶請けも準備してあるわけで、いつも使っているお菓子用の皿には、昨日のクッキーが載っている。本当に、これみよがしに。
 
「どうぞ召し上がって。パリに行っている友人から送ってもらった、美味しいクッキーなのよ」
「まあ、そんな貴重なものを頂いてもよろしんですか?」
「もちろんよ。さあ」
 
 席に着いて、よくよく見て分かったことだけど、乃梨子の目の前に置かれているクッキーは、菫子さんや志摩子さんの前に置かれているあのクッキーではない。表面上平和を装ってはいるけど、対菫子さん戦線は熾烈を極めていると言っていい。
 進められるがまま志摩子さんはそのクッキーを食べると、小さく動いていた口を抑えて、「まあ」と微笑んだ。そう、そのぐらい美味しいよね、あのクッキー。
 
「本当に美味しいですわ。突然お邪魔させて頂いてしまったのに、こんなに美味しいクッキーをいただけるなんて、本当に何と申したらいいのか」
「あらあらいいのよ、じゃんじゃん食べてちょうだい……って言いたいところだけど、食い意地の張った乃梨子ちゃんが昨日ほとんど食べてしまってねぇ」
 
 ぶっ、と乃梨子は、飲んでいた紅茶を拭き出しそうになった。なるほど、謝ろうと思っている乃梨子を完全に退けて、正面衝突してやろうってことか、これは。
 
「まあ、乃梨子ったら」
 
 おほほほほほ、って志摩子さん、笑っている場合じゃない。あなたの妹は、そのせいで「犬に食われろ」とまで言われたのだ。
 乃梨子は口の周りを布巾で拭きながら、「ついついお腹が減って」とありのままのことを話した。今更いい言い訳なんて、出てきもしなかった。
 
「ところで志摩子ちゃん、ちょっと訊きたいんだけど。学校でのリコはどんな感じなんだい?」
 
 と、ここで菫子さん。何ともありがちな質問だけど、何だか裏があるのは気のせいか。
 対する志摩子さんは、「リコ」という呼び方にむず痒いような表情をしてから、紅茶のカップに指をかけて言った。
 
「そうですね……。大人しい時は大人しくて、元気がいい時はとことん、という感じです。山百合会の仕事でも、よく動いてくれて」
「あらまあ、うちでのリコとは随分違うんだねぇ」
 
 ああ、ほらやっぱり。折角志摩子さんの評価に胸を打たれているところなのに、菫子さんは台無しにしてくれちゃう気なのだ。
 カッ、とカップとソーサーが音を立てて、それがやたらと上機嫌になっていることを伝えているような気がした。
 
「リコったら、家では『志摩子さん志摩子さん』って言ってばっかりで」
「ぶっ」
 
 言ってない、断じて言ってない。言っているのは頭の中だけである。
 
「この前なんてね、裁縫の課題で『志摩ちゃん人形』なんて作って来たのよ」
「は、はぁ……」
「最近はその人形が無いと眠れないらしいのよ。もうあれよね、ドン底ってやつよね」
 
 それを言うなら『ドン引き』だ。ドン底というのも、今の状況を言っているならあながち間違いではないけど。
 
「寝言でも『志摩子さん志摩子さん』、起きてからも『志摩子さん志摩子さん』、通りがかった猫にも『志摩子さん志摩子さん』、ご近所の中年男性にも『志摩子さん志摩子さん』。今度病院に連れて行こうと思うのだけど、どこかいいところ知らないかしら?」
 
 一体それはどこの志摩子さん病患者だ。それにしてもこの婆さん、ノリノリである。
 
「志摩子さんがいなきゃ生きていけないって、そりゃもう毎日呪詛のように――」
「ちょっと菫子さん! いい加減にして、何で嘘ばっかり言うのよ!」
 
 ついに耐え切れなくなって、乃梨子は叫んだ。
 
「あらまあ恥ずかしがっちゃって。志摩子さんが好きで好きで仕方ない、っていつも言ってるじゃない」
「ない! 一度もない! どうしてそんな嘘ばっかり出てくるのよ……」
 
 そうがっくり肩を落とした後、乃梨子はやっと気付いた。
 菫子さんが、意地悪そうに笑っている。志摩子さんが、乃梨子を見て悲しそうな顔をしている。――ハメられた。
 
「乃梨子……」
「ち、違うの、志摩子さんが好きじゃないって意味じゃなくて、その」
「あらあら志摩子ちゃん、心配しなくてもいいのよ。この子はほら、ツンドラ気候だから」
 
 それを言うなら『ツンデレ』だ。いい加減にしろ。
 
「あ、あの、小母さま。話題を変えさせて頂いてよろしいでしょうか?」
「ああ、いいよ。何かあるのかい?」
「はい、乃梨子の小さい頃の話を、お聞かせ願えますか?」
 
 ああ、なんてこと。ロクに弁解する暇もなく、今度は志摩子さんによって話題を変えられてしまった。明日から志摩子さんと顔を会わせるのが怖い。むしろ会わせてくれないかも知れない。
 そんな乃梨子の心配をよそに、菫子さんはクッキーを全部食べてから、穏やかな口調で語りだした。
 
「そうだねぇ……。本当、活発な子だったから、ミニスカートばかり穿いて動き回ってたよ。真冬でもニーソックス穿いてね。えーと、その間に見える太もものことを何て言うんだっけ? 領海侵犯?」
 
 それを言うなら『絶対領域』だ。こんな言葉ばっかり知っている自分が嫌になるけど、これが時代というヤツである。
 
「あたしに言わせりゃ、あれは男を誘ってたね」
「ぶっ!」
 
 今度こそ、乃梨子は吹いた。この期に及んで何を言い出すんだ、この婆さん。
 
「今思えば、男の子ばかり遊んでいたのも頷けるわ」
 
 ちなみに、菫子さんの言っていることは九割ぐらいは合っている。ただ、ミニスカートを穿いていたのは幼心にそれが可愛いと思ったからだし、誘っていたわけではない。
 男の子と一緒に走りまわっていることが多かったのも事実だけど……菫子さんの話が真実だとは思いたくない。
 
「ああああのね、菫子さん」
「あら、顔真っ赤にしちゃって。全部本当のことじゃない」
「乃梨子……」
 
 菫子さんは口だけを動かして『ドン引き?』と言った。違う、これが『ドン底』である。
 
「あ、あのね、志摩子さん。菫子さんたら、冗談が好きで」
「いいのよ、乃梨子」
 
 一体菫子さんの話に何を思ったのか、志摩子さんは目を伏せて首を振った。
 そしていつも乃梨子を見守ってくれる、あの綺麗な瞳をこちらに向けて、小さく微笑んだ。
 
「私は、今の乃梨子がよければ、それでいいから」
「ちっがぁぁぁぁうっ!!!」
 
 その言葉が今でなければ、どれほどよかっただろう。志摩子さん、勘違いしっぱなし。寛容で理解力のある姉というのも、中々困ったものである。菫子さん、もの凄い笑い堪えてるし。
 
「もう一つ、話してあげましょうか。これはこの子の両親に聞いた話なんだけどね、小さい頃のリコはお風呂上りにすっぽんぽんで逆立ちしては――」
「菫子さんっ!!」
 
 その叫びの残響が残っている間に、乃梨子は悟った。
 自分の小さい頃を知っている人間を、敵に回しちゃいけないって。
 
 

 
 
 さて、あれから一週間と少し経った。
 乃梨子VS菫子さんの闘争は膠着状態で、和解にはまだ壁がある状況、と言ったところだろうか。晩御飯にキャベツの千切りがあるべき所にキャベツの葉が二、三枚置いてあるだけだったり、妙に筋ばかりのお肉を食べさせられたりと地味な嫌がらせは続いているが、激しい言い合いになることはない。
 志摩子さんには、あの日の次の日に、今ある状況を正直に話してあるから、特に酷い誤解は解けたと言ってもいいだろう。その際に、仲直りの道しるべとして示されたものが、今目の前にある。
 
「ああ、やっと来てくれた」
 
 自室に入ってまず目についたのは、白い紙で梱包された郵便物だ。千葉の実家に居た頃、近所に住んでいたお姉さんがパリに留学中だと聞いて、無理にお願いしたのである。
 中身は勿論、メイプルパーラーのクッキー。乃梨子がムシャムシャと食べまくってしまった物とまったく同じ物が、この手の中にある。そしておそらく、これが一番誠意のこもった謝罪の仕方なのだろう。
 
「ただいまー」
 
 まさにその時、というべきグッドタイミングで、菫子さんは帰宅したらしい。リビングの扉が開く音が聞こえた後、乃梨子は自室を飛び出した。
 
「おかえり、菫子さん。あの、これ――」
「え? ああ、それね」
 
 菫子さんは乃梨子が大事に抱えている荷物を見ると、何故だかおかしそうに笑った。
 
「美味しかったわよ」
「……へ?」
 
 この時ほど、二条の血というのを、強く感じたことはない。
 言われてやっと気付いたのだ。荷物の梱包に、開けられた後があるということに――。
   
 

 
 
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