■ きっといつかの夏になる
 
 
 
 
 蝉しぐれ。
 風の凪いだ森林の中には、その声だけが聞こえていた。時折思い出したように吹く風はさわさわと緑葉を掠らせて、半袖から伸びた腕を撫でる。
 すでに陽は高い。生い茂った木々の作る陰を選んで山道を進んできたけれど、額には玉のような汗が滲んでいる。元々汗をかき難い私がそうなのだから、隣を歩く乃梨子はもっと汗をかいているのでは、と思って見たけれど、すでに拭った後なのかそんな様子はない。ただ生き生きと、足を前に進めるだけだった。
 はっ、と短く息を吐いて、天を仰いだ。陽炎の向こうには延々と道が続き、緩さかなカーブは悪戯に目的地を隠していた。
 
「どのぐらいまで来たのかしら」
「うーん、半分ぐらいじゃないかな」
 
 地図ではなく、腕時計に視線を落として言った。乃梨子はふと立ち止まると、私の手首を掴んで瞳を覗きこんでくる。
 
「志摩子さん、疲れた?」
 
 咄嗟に大丈夫と答えそうになって、口を結んだ。火照った頬は、確実に嘘を教えるだろう。
 
「そうね、少し疲れたわ」
「うん。それじゃ休憩にしよう」
 
 手頃な木陰を見つけて、私たちは足を休めることにした。買ってすぐは汗をかいていたペットボトルも、すっかりぬるくなってしまっている。
 乃梨子がこくこくと喉を鳴らしてお茶を飲むから、思わず笑ってしまう。何? 何でもないわ。乃梨子は不思議そうな顔をして、やがて笑う。
 木が騒ぐたびに身体にこもった熱が奪われるから、その音を待った。風が凪ぐたびにそうしていたから、会話は途切れ途切れだった。
 
「ねえ、何か聞こえない?」
 
 木々が静かになった時、不意に乃梨子が言った。言葉に耳を澄ますことで答えると、確かに風ではない音が聞こえた。
 せせらぎだ、と分かったのは、葉の擦れる音とはかけ離れているという理由だけではない。あたまの片隅で、そんな涼しげな音を求めていたからだと思う。
 
「川だ。志摩子さん、川が流れてる」
 
 少しトーンを上げれば感嘆符がついてしまいそうな声で、乃梨子が言った。木陰を作っている木の向こう側には、確かに陽の光を跳ね返す川がある。
 行こう。乃梨子が言って、石に切り取られた小さな道を下って行く。私はワンピースの裾に気を付けながら、乃梨子を追う。
 川幅三メートルと言ったところだろうか、ゴロゴロと転がる石をレールに、川は流れている。真っ白な光が、目に痛いほどに。
 
「サンダル履いてきてよかった」
 
 乃梨子は嬉しそうに笑って、躊躇いなく川に足を突っ込んだ。気をつけて。そんな言葉に、大丈夫と返しながら。
 膝上の丈のスカートを穿いて来た彼女が少し羨ましくなる。そう思って、私は果たしてそんなスカートを持っていただろうかと、疑問が沸いた。多分気恥ずかしさから、あっても穿かないだろう、とも思った。
 
「志摩子さんも、おいで。ちょっとスカートを摘み上げれば、入ってこれるよ」
「いいえ。私はここでいいわ」
 
 大きな石にハンカチを置くと、私は腰を下ろした。ミュールを脱ぐと、足首まで川に浸す。ひんやりとした冷たさに、一度だけ足を引っ込めてから。
 
「上品な冷たさね」
「うん。気持ちいいね」
 
 一連の動作を見ていた乃梨子が、ふふっと笑った。浸かってみれば、水はそれほど冷たくはない。
 裾をまくったスカートを左で握りながら、右手で水をすくう。零れ落ちていく水の向こうで、乃梨子が小さな飛沫を立てた。
 川を蹴って遊ぶ乃梨子を見ながら、幸せは失って初めて気付くという言葉が浮かんだ。そしてそれは、私に置いては当てはまらないと、そう思った。
 思うに、失くして気付くのはその幸せの重みなのだろう。それは喪失感という絶対的なものと比例して、その身に染み込ませる。
 ハンカチを水に浸けてから絞る乃梨子を見て、心から可愛いと思った。そして今感じている幸せが、酷く儚いとも。
 
「志摩子さんっ」
「きゃっ」
 
 いつの間にか近づいていた乃梨子は、濡れたハンカチで私の頬を押さえた。そう認識するまで、三秒はかかった。
 
「もう、乃梨子っ」
「きゃっ、だって。志摩子さん可愛い」
 
 にへへ、と乃梨子は珍しい笑い方をしたから、私も思わず笑う。ふふふと、声を漏らして。
 風が吹いて、汗はもう乾いていて、驚いて離してしまったワンピースの裾は、少しだけ濡れている。
 
「ねえ」
 
 そんな風に笑われたら、私は思わず言ってしまう。言わずに済んでいる、言わなくても伝わる気持ち。それは暑さから涼を求めるように、自然に。
 
「私は乃梨子のこと、凄く」
 
 ――蝉しぐれ。
 季節の声は、やがて過ぎ去るものだと切に訴えていたけれど、でも。
 水に濡れた体温がまだ、私の頬に触れている。
 
 

 
 
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