■ 海岸線を南に走る ふと目が覚めた二十六時に、時計の音と自らの吐息を聞いた。 暗闇は全ての形を許さず、まるで宇宙に放り出されたような錯覚の中、肌とシーツが触れ合う感覚だけが現なのだと知らせてくれる。 はあ、と冴えない頭を回転させてから身を捩ると、冷たい外気が首筋をさらった。身震いを一つして、シーツを引っ張る。 (まただ) 近頃よく夢をみる。決まって眠りに落ちる前に強く想っていた人が出ては、私の心をかき乱していくのだ。 夢の内容なんて、日常が始まれば押し流されてしまう。ただ漠然といい夢だったか悪い夢だったかは判っていて、いつまでもその感覚が抜けない日はあった。 ――早く朝がくればいいのに。 朝がくれば、きっと忘れられる。きっと記憶の片隅に押しやれる。陽の光が、私をリセットしてくれるはずだから。 綻んでいた花が散り、葉すらもどこかへ四散したこの季節。済んだ空気の向こうに跳ねる房を見つけたのは、珍しく早く登校した時のことだ。 人というのは精密なもので、例えば質感や僅かな振れの違いでその相手を特定することができる。詰まるところ、人並みに隠れ髪の一房しか見えなくても、私は彼女の存在を認知することができたということだ。 『祐ー巳ちゃん』 高校時代、つまり一年ぐらい前ならそう屈託なく言って抱き締めることができた。しかしだ。もしこのままでは、『大学生になっても何も変わらない聖さま』になってしまう。 久しぶりに怪獣の子供の声を聞きたかったけど、我慢して後ろについた。そのまま二つ縛りの髪の一房を握ると、彼女は「ひゃっ」と声を上げた。 「聖さま……」 「やっほー、祐巳ちゃん。最近よく会うねぇ」 「もう、たまには悪戯以外で声をかけてくれないんですか? 聖さまったら、いつまで経っても変わらないんですから」 折角バリエーションをつけたのに、軽く怒られた。祐巳ちゃんの顔を見れば今朝の憂鬱な気分を拭えようかと思ったけど、逆に凹んだ。 「最近祐巳ちゃんは忙しそうだね」 私は気を取り直して、祐巳ちゃんの歩幅が大きくなっている件について問いかけてみた。 「そりゃ年末ですから」 「もうすぐクリスマスだもんねぇ」 「聖さま……もしかして誕生日プレゼントをねだってます?」 「え? そんなつもりなかったけど、くれるの?」 「去年も渡さなかったのに、今年渡すと思いますか?」 「くれないんだ、ちぇっ」 「でも、差し上げないとまでは言ってませんよ?」 そこで祐巳ちゃんはやっと笑った。やっぱり喋りかけてみてよかったと思える笑顔だった。 「祐巳ちゃんのチューが欲しい」 「上げません。二度も同じプレゼントは上げませんよ」 「ふーん、じゃあもっと凄いこと?」 「残念ながらこの福沢祐巳、キスより凄いことを存じ上げておりませーん」 「それはいいこと聞いた、お姉さんが教えて上げよう」 いいえ、結構です。笑って答えられ、遠慮しないでもいいのにと頭を撫でた。祐巳ちゃんは幸せそうだった。 まったくこの子は、最近私をあしらうのが上手いのだ。私がいいようにつついていた頃に比べて、随分と成長した。 「ところで聖さま、一体どこまでついてくるんですか?」 「おそらく地の果てまでは」 「地の果ては、二年松組の教室で終りですよ」 「うーん、いや、もっと遠くまで行きたいなぁ」 私はどこか彼方を見ようとして、不意に背の低い木に目を奪われた。暗緑色の葉から涙のような夜露が伝い落ち、意味が分からないぐらい切なくなった。同時に、どんな些細な物事にも感動できる人こそが、逆境下で一番生きながらえることができるのだという話を思い出した。我ながらチグハグだったけれど、つまり私にはバイタリティがあるようだった。 「聖さま、大学に遅れますよ」 「残念ながら時計を見ずに出てきて、早く来てしまっただけなのさ」 「それは胸を張って言うことじゃありません」 「うん分かってる。いってらっしゃい」 祐巳ちゃんの後ろに回りこんで、ぽんと肩を押した。もう、と彼女は言って、行ってきますと笑顔を見せた。 ――出来ることなら、祐巳ちゃんの夢が見たかったのに。 会うたびに、そう思う。夢で祐巳ちゃんに会えたら。夢でもいい、祐巳ちゃんになれたら。――そう思うほどに、伸ばした手が宙を掴むような感覚に心が満たされ、不意に虚しさを呼んだ。 「行ってきまーす」 振り向いて、もう一度。人目も憚らずにもう一度声をかけられ、その言葉が私の中を柔らかく満たしてくれる。 いってらっしゃい。私もそう言って背を向けた。呆れるぐらい一つの色しか示さない蒼穹のように、その一言で気分は晴れやかになっていた。 最近祐巳ちゃんの様子がおかしいみたいなのよ。 ろくに孫の顔を見に行かない蓉子が、電話口でそう言った。年末の忙しい時期、だけど暇な学生の身柄同士の会話である。 「へぇ、蓉子は最近祐巳ちゃんに会ったんだ」 『ええ、ブックセンターの前でね、偶然逢ったのよ』 偶然。 その単語が妙に耳にひっかかった。ならばこの年末になるとやたらと私に構いたがるのは、偶然なのだろうか。 「それで、どんな様子だったの?」 『元気がなかったわね。ちょっと声をかけるのを戸惑ったぐらい』 「ふーん。で、その元気のない原因は?」 『訊かなかったわ。訊けるような雰囲気ではなかったし、訊かなくても分かったから』 その言葉を聞いて、もう一度ふーんと言った。肝心な時だけ『お祖母ちゃん』なことを言うのだ、蓉子は。 そう言えば、あの日以来祐巳ちゃんには会っていない。声さえ聞かなくても何の違和感や寂しさを覚えないのは慣れなのか、そんな自分が些か薄情に思えたが仕方ない。多分こういう性格なのだ。 「それで」 私は無性にその話題を変えたくなって、急いで言葉を紡いだ。 「蓉子、なんの用件で電話してきたんだっけ?」 『え? ああ、大晦日に鐘を衝きに行きましょうって話よ』 「そうそうそれ、渋くていいねぇ」 『あなたは煩悩が多そうだからね』 「余計なこと言うな。……で、一番煩悩が多いだろう江利子は誘ったの?」 『一応ね。でもあの家族が、真夜中に外出を許すと思う?』 「ああ、過保護だもんねぇ。それを言ったらうちもだけど」 私の言葉に、蓉子は「え?」と訊き返した。気付けば二十分ほど前には湯気を立てていたカップに、黒い染みがこびり付いている。 「この前一人暮らししたいって言ったら、猛反対された」 『それはあなた、一人暮らしのつもりで家を出て、そのまま日本一周旅行とかに行きそうなんだもの。聖ならやってもおかしくないわ』 「いいね、言われるまで気付かなかった。春休みにでも行ってみようかな」 『ちょっと聖、悪い冗談よ』 蓉子まで過保護、と笑いながら遥かな旅路を思い描いた。 高い空、輝く雲。ハーレーで風を切って海岸線を駆けるのだ。サイドカーには祐巳ちゃんが乗ってビクビクしている。いい、楽しそうだ。 ――フリー! きっと私は日本の端に辿り着いた時、そう叫ぶ。いや、スケールが小さい。世界のどこか、素晴らしい最果ての土地でそう叫ぶのだ。 「バイクが欲しいな」 『聖、やめてってば』 冗談だってば。そう言ってから三十分ぐらい話をして、お互い眠くなったところで電話を切った。 その日の夢では、聖と蓉子が額に汗しながらバイクを磨いていて、目覚めは妙な気分だった。 年が明けた。予定通り、大晦日にはお寺の鐘を力の限り衝くというストレス発散イベントがあったけど、そう言えば一年前ぐらいに祐巳ちゃんと来たな、でもあれは神社だったなと思い出して煩悩は増えた。 リリアン女子大の冬休みは短い。高等部とほとんど変わらない長さで、年が明けて早々に授業がある。寒いから家にいたいけど、加東さんと一緒に授業に行く約束をしてしまった。落としたらまずい単位の授業を、うっかりサボってしまわないための共同戦線――ではなく、私の一方的な命綱だ。その上その協約は私の方から頼んだのだから、頭が上がらない。 「あれって」 不意に加東さんが言った。授業が終わって、大学の玄関から少し歩いたところだった。 「おー、祐巳ちゃんだ」 しかも今日は元気そうだ。蓉子から聞いた様子から想像したような感じではなく、去年より髪の房がぴょこぴょこしている。 「加東さんも弄ってく?」 「遠慮するわ。今日はすぐ帰って、弓子さんとお茶する約束なのよ」 せめて顔だけでも見せてあげれば、と引きとめたが、会って一分二分で退散するようでは忙しくて嫌だと返された。彼女と話す時はゆっくりがいいと、少しだけ表情を緩めて言われたから、私もそれを受け入れた。 ――さて。 今回も上手く後ろに回りこんだ。珍しく一人下校しているのが幸いして、誰に指摘されることもない。 「うり」 今度は髪の房を二つとも掴んでみた。祐巳ちゃんの身体がびくっと震え、振り向く前に「聖さま」と言った。 「もう、普通に話しかけて下さい」 祐巳ちゃんが笑っていて安心した。だけど元気そうだからという理由でちょっかいをかけたのなら、私は卑怯者だとも思う。話しかける前、そんな気持ちがどこかになかったのかと、問いかける自分が少し嫌だ。 「残念ながら、それは私がつまらないから嫌だ」 「私は吃驚するからいやです」 「でもきっと、どうしようもならない」 「それは、そうかも知れません」 普通に話しかけられた方が驚いちゃうかも。屈託なく笑って、だけどその表情の向こうには決意めいたものがある。変わったな、と、痛切に感じた。人間は精密だから、『感じ』で解る。 「うん、元気そうで安心したよ」 「え? 元気そう?」 「前ね、蓉子が『祐巳ちゃんの元気がない』って言ってたんだ。もう去年のことだけど」 「ああ、はい」 その返事は、全て飲み込んだような返事だった。つまり去年の年末は気分が優れず、今は精神衛生上良好であることを示唆している。 「よーし、快復祝いだ。大学のカフェで何か奢ってあげよう」 「あの、知っての通りかと思いますけど、高等部の校則では下校時での飲食店への立ち入りは――」 「あー、はいはい言うと思ってた。でも学校内だから下校中じゃないのよ」 詰まらない口実は流して、ぐいと引っ張っていく。祐巳ちゃんは「家に帰りつくまでが下校なんです」とか言っていたけど、やっぱり笑って聞き流した。 カフェはいつも通り、込んでもいなければガラガラでもない。空気と一緒に時間が停滞しているような雰囲気が、夕焼けのこの雰囲気が好きだった。 「紅茶? カフェオレ? それともコーヒー?」 「紅茶はさっき飲んできたので、カフェオレがいいです」 了解、と応じて、私は二百六十円を券売機の開いた薄目に入れていった。私は久しぶりにブルーマウンテンを飲むことにして、カップを二つ持って席についた。 ありがとうございます、という言葉に軽く手を振り、砂糖はセルフでお願いねと笑う。祐巳ちゃんは頷いて、角砂糖を一つだけ放り込んだ。 「外は寒かったねぇ」 「そうですねぇ」 両手で持ったカップと、喉を通る熱さが身体を温めてくれた。不意に目を落としたコーヒーの水面に、幸せという文字が浮かんだ気がして気恥ずかしくなる。 もしも私が祐巳ちゃんだったら、その幸せを素直に受け止めることができたのだろう。もっと素直に笑って、甘ったるいカフェオレをもっと好きになるのだろう。 だけど私はそんな風になれない。経験や歳の差なんかではなくて、もう何もかも根本的に違うから。 そう思い出すと無為に言葉はなくなって、長い長い沈黙があった。祐巳ちゃんはそれに何も言わず、やはり幸せそうにカフェオレを飲み干した。 「聖さま、私」 彼女が口を開いたのは、店に入ってきた時よりもずっと太陽が傾いた時だった。 「そろそろ妹を持とうかと思ってます」 「ほう」 決心を滲ませる顔で、祐巳ちゃんはそっと言葉を置いた。誰、なんて訊くつもりもなかった。 祐巳ちゃんの言葉に驚きはない。だけどまだ少し残っていたコーヒーから幸せの文字が消えていたのに、些かの驚きを覚えた。 「本気で人を守りたいって思いました。一度断られたんですけど、やっぱり諦め切れなくて」 語尾が震えていた。決心はそのままに、感情だけが揺れていた。 私にはもう、抱き締めることはできない。今抱き締めたら、きっと彼女は弱くなる。きっと積み上げてきた物を、崩す結果になる。 「それでいいんだと思うよ」 だから今の私には、気の利いた言葉なんかない。 「奪い取るぐらいの気持ちでぶつかっていけば、どうにかなるって。難しいことじゃない」 代わりに。 抱き締めて上げられない代わりに、私は祐巳ちゃんの手を取った。残っていたカフェオレの熱が、少しだけ伝わってきた。 「ありがとうございます」 また聖さまにお世話になってしまいました。彼女はそう言ったけど、私は首を振った。 祐巳ちゃんは、私なんかの後押しなしでも前に進んでいただろう。もう巣立ちは済んだのだ。 (頑張れ) 握り締めた手に力を込める。 次は祐巳ちゃんが誰かの手を取って、抱き締めて上げられるように。 眠りに落ちる前、強く想っていた人が夢に出る。 その法則は今日という日にも当てはまり、私は祐巳ちゃんの夢を見た。私自身が、祐巳ちゃんになる夢だ。 高い空、輝く雲。ハーレーはないけど、私はただ駆けていた。砂の海岸を、裸足で。 「フリー!」 高らかに声を上げ、祐巳ちゃんの感覚を味わった。そうか、こんなにも彼女は軽いのか。私の作り上げたイメージの中でそう納得する。 遠くへ。もっと遠くへ。 頬を伝った熱いものは、きっと喜びの涙だから。駆け出した足は止まることも疲れも知らず、私はひたすらに光の向こうへと走り続けた。
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