■ 祐巳の好きな紅茶
 
 
 
 
 どこからか吹く風が鳴く秋口。銀杏並木は衣替えをするように葉の色を変え、夏の緑は色褪せて行く。あれほどうるさかった蝉は、もうどこにも見かけることが出来ない。
 今年もまた学園祭直前という、皆の心が浮かれる時期がやってきた。しかも今年は、瞳子にとって初めての高等部の学園祭。しかし、だからと言って素直に浮かれることの出来ない理由はいくつもあった。
 まず始めに、演劇部でのいざこざ。二つ目に、山百合会の劇までこなさなくてはならないこと。三つ目に、その上では福沢祐巳という人とどうしても関わらなければいけないこと。
 
「あ……」
 
 そんなことを考えていた矢先に、祐巳さまの姿が見える。掃除か、それとも何かの用事の帰りなのか、薔薇の館に向かうには見当違いの方向に向かって歩いていた。
 幸か不幸か、祐巳さまはこちらに気付いていない。こんな時、瞳子にある選択肢は二つ。気付かなかったフリをして通り過ぎるか、用事があれば話しかけるかだ。
 そして今日は、後者に当たる。明後日の練習には参加できない旨を、伝えておかなくてはならない。
 
「――」
 
 すぅ、と息を吸い込む。逡巡が緊張に変わらないうちに、声を出す必要があった。
 
「祐巳さ――」
 
 と、その時だった。
 
「祐ー巳ちゃん」
 
 瞳子の声に被さるように、もう一つの声が祐巳さまを呼び止める。……いや、抱き止める。
 大学校舎側の並木から飛び出してきた人影は、確かに祐巳さまを抱きしめていた。
 
「うわぁっ! せ、聖さま、いきなりなんですか!」
「あっれー、今日は怪獣の子供じゃないんだ。ちょっと期待外れ」
「もう、そんなことのために私を驚かせたんですか」
 
 祐巳さまは怒った風に言いつつも、顔はすっかりと笑顔を浮かべている。ああ、その綻んだ表情も可愛くて素敵――じゃなくて、どうしてあんな緩い顔が出来るのだ、あの人は。ええ、別に見とれてなんかいませんとも。
 
「あらあら、怒っちゃってー。本当は久しぶりに会えて嬉しいクセに」
「聖さまってば、それを自分で言っちゃうんだもんなぁ」
 
 ウリウリ、と頬擦りされて、祐巳さまは呆れながらもまた表情が緩まる。何か気に食わない。特に先代白薔薇さまこと、佐藤聖さまが。
 大体祐巳さまも祐巳さまなのだ。瞳子の声にはちっとも気付きもせず、紅薔薇のつぼみにあるまじきあの腑抜けた表情。そういうところが瞳子は大嫌いで大好き……じゃなくて大嫌い。
 
「なーに、結局嬉しいってことでしょ。ほらほらー」
「ちょ、ちょっと聖さま!」
「いいじゃないの、他に人もいないんだから」
 
 いや、ここに居るんですけど。とは口に出せない。何故なら咄嗟に木陰に隠れてしまったから。
 それにしても聖さま、いくらなんでもベタベタしすぎだ。瞳子だって抱き締めたいのに……ではなく、むしろ抱き締められたい――じゃなくて! あんな風に甘やかされるから、祐巳さまはああなのだ。辟易するほどの平和主義は、なるほどこんな所に問題があったわけだ。
 
(おのれ、佐藤聖さま)
 
 瞳子が「キィィ」とハンカチを噛み締めている間も、聖さまは祐巳さまを可愛がりまくっているのだった。
 
 

 
 
 一週間で調べはついた。現白薔薇さまや、黄薔薇さま、それに祥子お姉さまに聞けばたちまちその正体は知れたのだ。
 曰く、『佐藤聖さまはセクハラ親父で祐巳ちゃん大好き』であるらしい。すなわち敵だ。誰がなんと言おうと。
 そしてその敵は、こちらから向かわずとも自らやってきた。
 
「あれ? ドリルちゃん」
 
 そんな、不躾極まりない台詞と一緒に。
 
「……佐藤聖さま」
「お、私のこと覚えてたか。これじゃ悩める少女に重要なアドヴァイスを残して去っていく謎の女子大生が演じられないじゃないの」
 
 一体何を言うつもりなのかは知らないけど、何が『悩める少女に重要なアドヴァイス』だ。おこがましいことこの上ない。
 そんな牙剥き出しの感情を笑顔の裏に仕舞い込んで、瞳子は聖さまを見上げた。
 
「聖さま、どうされたんです? わざわざ用もないはずの高等部の近くまで来て」
「あらあら、随分なご挨拶だこと。別にいいでしょ、通りがかったって。それとも何、またこの前みたい『大好きな祐巳さま』を横から取られるのが嫌?」
 
 聖さまの言葉に、こめかみがヒクつくのを感じる。あの時、聖さまは瞳子の存在を知っていて祐巳さまを抱き締めたのだ。
 悔しいけど、そのことについては否定できない。ただ、一つの間違いは指摘できる。
 
「別に、『大好きな祐巳さま』なんてことありません」
「ふーん、じゃあ何?」
「『愛しの祐巳さま』です!」
「なんかランク上がってない?」
「はっ!」
 
 女優・瞳子、一生の不覚。
 
「なななな、何なんですか、誘導尋問みたいなことをして! 瞳子は別に祐巳さまのことが好きとかそんなワケないじゃないですか!」
「いや、誘導尋問って言うか、ドリルちゃんが勝手に墓穴掘ったんじゃん」
「お、おお、オケ○を掘るだなんて! 汚らわしい! 瞳子はそんな趣味持ってません!」
「あのさぁ、瞳子ちゃん。耳と頭大丈夫? ドリルがギュンギュンうるさくて、言っていることをちゃんと聞き取れてないんじゃない?」
「きぃぃー! 言っていいことと悪いことがございましてよ!」
 
 仕舞いにゃ自慢のドリルで穴開けんぞタコ、と言い出しかねない瞳子に、自分自身でブレーキをかける。
 いけない。こんな挑発に乗っては、ますます泥沼にはまっていくばかり。瞳子にはちゃんと、聖さまに伝えなければいけないことがあるのだ。
 
「コホン……。それはともかく、聖さまにお願いしたいことがありますの」
「ふーん、何。言ってごらん」
 
 聖さまが瞳子の両サイドの髪を弄ってくるのは無視して、毅然と言い放った。
 
「祐巳さまに関わるの、学園祭が終わるまではご遠慮いただけませんか。劇の練習も忙しい時期ですし、日が近づくに連れナーヴァスになっていくものですから」
「へぇ……。あなたが祐巳ちゃんの何を知っているって言うの?」
 
 その言葉とともに、にわかに聖さまの表情が変わった。ヘラヘラとした薄っぺらい笑顔ではなく、試すような目つきが瞳子を射抜いている。
 
「し、知っていますわ。祐巳さまのことなら、大抵は」
「ふーん、私の方が知っていると思うけどね」
 
 聖さまの余裕綽々という表情に、また瞳子のこめかみが反応する。
 自慢じゃないがこの瞳子、祐巳さまに関する情報を集めたメモ帳(通称『祐巳帳』)は五冊におよび、数字で表せるデータならば全て暗記しているのだ。聖さまに遅れを取りはしない。
 
「では第一問」
「はい?」
「祐巳ちゃんのこと知ってるんでしょ? じゃあこの問いに答えてみなさい。ずばり、祐巳ちゃんの好きな紅茶は?」
 
 聖さまの言葉に、瞳子は「はっ」と笑った。こんなの、簡単すぎる。
 
「答えは『瞳子の淹れた紅茶』ですわ」
「ぶっぶー、はっずれー。正解は『私が淹れた紅茶』でした」
「なっ、お、横暴ですわ! 瞳子の淹れた方が美味しいに決まっています!」
「ふーん。じゃ、直接本人に訊いてみましょうか」
「はい?」
 
 本人? と疑問符を浮かべながら振り向いたその先には。
 
「え……?」
 
 明らかに引きつった顔をした、祐巳さまがいた。
 
 

 
 
 祐巳は、「しまった」と思った。自分から声をかけようとして、しかし咄嗟に隠れてしまった直後に相手に見つかるなんて、あまりいい状況ではない。
 それに聖さまと瞳子ちゃん、お世辞にも仲がよさそうには見えなかったのだ。聖さまはまだ表情に出ていないけど、瞳子ちゃんなんて凄い剣幕。祐巳に向かって歩いてくる今この時ですら、威嚇するみたいだ。
 
「祐巳さま!」
「は、はいっ!」
「瞳子が淹れた紅茶と、聖さまが淹れた紅茶、どちらが好きなんですか!」
「は……? えっと、紅茶?」
 
 一体何を話していてそんな話題になったのか。いや、そもそも二人のツーショットというだけで珍しい……というか初めてなのに、何故紅茶の話になるんだろう。
 
「祐巳ちゃん、どっち?」
「ど、どっちと言われましても」
 
 そりゃどちらが淹れた紅茶も飲んだことがあるけど、優劣つけがたい。聖さまの方が付き合いが長いから、砂糖を多めに入れてくれたりして祐巳好みだけど、それだと瞳子ちゃんに対して不平等だし。
 正直に言ってしまえば、祥子さまが淹れてくれた紅茶が一番好きだ。でもこの場でそれを言った日には、瞳子ちゃんのバネはブルルン、聖さまは「そうじゃないでしょ」とか言いながらセクハラをしてくるに違いなかった。
 だから祐巳は、あくまで平等を貫かなければならない。
 
「私は……」
「私は!?」
 
 二人が凄い剣幕で迫る。
 
「聖さまと瞳子ちゃん、二人で淹れた紅茶が一番好きかな、って」
 
 えへ、とできるだけ可愛らしくなるように笑うと、二人の目がキラリと光る。この反応は予想外だ。
 
「よしきた」
「分かりましたわ」
「え? え?」
 
 そう言うと二人は、がっしりと祐巳の腕を掴んだ。右に瞳子ちゃん、左に聖さま。
 
「レッツ、薔薇の館!」
 
 いや、何で?
 祐巳がそう言う前に、もう景色は遥か後方へと流れ出していたのだった。
 
 

 
 
 で、これは一体どういう状況なのだ、と祐巳は思った。
 あれから約二十分。最初誰もいなかった薔薇の館には祥子さま、令さま、志摩子さん、由乃さん、乃梨子ちゃん……山百合会幹部が全員出揃い、学園祭の助っ人である可南子ちゃんも列席している。
 最初は、聖さまが「ドリルで茶葉をかき混ぜて」とか、瞳子ちゃんが「その高い鼻で紅茶の温度を測って下さい」とか、仲良くいがみ合いながら紅茶を淹れていた。で、その紅茶を祐巳が美味しく飲み干すと。
 
『で、どっちの勝ち?』
『二人で淹れたんだから、勝ち負けなんてないですよ。美味しいです』
『って、それじゃ意味ないじゃない!』
『キュィーン!』
 
 と二人が騒いだため、なんだなんだと集まってきた幹部メンバー。そこで聖さまが、「ちょうどいいからそれぞれの紅茶を飲んで貰って、みんなに審査員をお願いしよう」、ということになったのだ。
 
「できました」
「はい、完成」
 
 ほとんど同時に入れ終わったお茶は、予備のカップをフル動員して全員に配られる。聖さまの淹れた紅茶は白色のカップ。瞳子ちゃんの淹れた紅茶はクリーム色のカップだ。
 それでは、と、それぞれが好きな方のカップに口をつける。こうも紅茶ばかりがずらりと並ぶと、香りも何も分からないんじゃないかと思ったけど、みんな難しそうな顔をしてフムフムと頷いている。
 それ以来みんな黙り込んでしまったから、祐巳は寸評を訊くべく可南子ちゃんに話しかけた。
 
「ねえ、可南子ちゃん。瞳子ちゃんの紅茶はどう?」
「そうですね……」
 
 可南子ちゃんは、顎に手を添えて言った。
 
「豊かなレモンの香りと、絶妙な甘味……中々ではないでしょうか」
「え……?」
 
 可南子ちゃんの評価に、その場にいる全員が呆気に取られる。
 いや、可南子ちゃんが瞳子ちゃんの紅茶を褒めたからではない。瞳子ちゃんの淹れた紅茶は、レモンの輪切りがのっているわけでもなければ、砂糖だって加えていないのだ。
 
「可南子ちゃん。あなたが飲んでいるのって、瞳子ちゃんの淹れた紅茶よね?」
 
 由乃さんが腕組みしながら訊くと、可南子ちゃんは大きく首を振った。
 
「いいえ、リプ○ンのレモンティーです」
「は……?」
「私、瞳子さんの淹れたお茶を飲む気にはなれませんから」
 
 そう言って可南子ちゃんが冷笑すると、瞳子ちゃんのこめかみに血管が浮かぶ。お願いだからただでさえややこしい状況を、これ以上かきまわさないで欲しい。
 
「あーらま、仲の悪いこと。でもさ、いいから飲んでみてよ。不戦勝だなんて面白くない」
 
 聖さまははやし立てているのかフォローしているのか微妙なことを言うと、「ほら」と可南子ちゃんを促す。可南子ちゃんは渋々といった表情で二杯の紅茶を飲み比べると、顎下に親指を添えて考え込んだ。
 十秒、二十秒、三十秒……およそ一分は考え込んだところで、可南子ちゃんは頬を赤らめて言った。
 
「初恋の味がする」
「もうええわい」
 
 由乃さんはどこから取り出したのか、ハリセンでスパァンと可南子ちゃんの頭を叩くと、一気に場の緊張が解けた。何を考え込んでいたのかと思えば、ボケを考えていたんかい。
 
「で、由乃ちゃんはどっちだと思うの?」
 
 仕切りなおし、と言わんばかりに、祥子さまが訊いた。
 
「私は……どちらも選ぶことができません」
「まあ、それは何故?」
「どちらも祐巳さん分が足りないからです」
「ゆ、祐巳分……?」
「はい。こう、祐巳さんが淹れた紅茶に篭る愛情とか温もりとか香りとかパッションとか出汁とか、そういうものが感じられないんです。だから私に取ってこの紅茶は紅茶であって、紅茶でないんです」
「……よく分からないけどれど、令は?」
「由乃分が足りない」
「もうええわい」
 
 祥子さまは由乃さんからハリセンと受け取ると、容赦なく令さまを叩いた。ちなみに令さまは基本的にMだから「あひん」なんて言って喜んでいる。
 ……もうヤダ、こんな山百合会。
 
「し、志摩子さんはどう思う?」
「そうね……私の場合、お姉さまにとっては『身内』になるから、平等な意見にはならないんじゃないかしら」
「そっか……じゃあ乃梨子ちゃんは?」
「強いて言うなら、志摩子さんの淹れた紅茶が飲みたいです」
「『強いて言うなら』の意味が分からないね」
 
 黄薔薇さんちも白薔薇さんちもダメ、となったら当然残るは祥子さま。
 祐巳が期待を込めた目で見ると、祥子さまはそっと睫を伏せて言った。
 
「祐巳分が足りないわ」
「既出です、お姉さま」
「……そうだったわね」
 
 あらイヤだわ、と祥子さまは右手を頬に添えた。もういいから、ボケなくていいから。
 そんな祐巳の願いが通じたのか、祥子さまは真面目な表情で二杯の紅茶を飲み比べる。そして考えること三十秒。祥子さまは実に優雅な手つきで、聖さまの紅茶に瞳子ちゃんの紅茶を注ぎ、スプーンでかき混ぜた。
 え? とみんなが見守る中、祥子さまは言った。
 
「やっぱり、ブレンドの方が美味しいわね」
「ああ」
 
 そこでみんな、思わず息を漏らす。聖さまと瞳子ちゃんは、それぞれ違う茶葉を使っていた。コーヒーでもそうであるように、紅茶もまたブレンドするとバランスがよくて美味しいのだ。
 
「ね、ね? やっぱり二人で淹れた方が美味しいんですよ」
 
 これは上手くまとまりそう、と思って祐巳が言うと、瞳子ちゃんはまだ渋い表情。だけど聖さまは笑って、「うん、そうだね」と言ってくれた。
 
「まあ、私たち意外と相性合うのかもね」
「な、ちょ、ちょっと聖さま!」
 
 聖さまはそう言うやいなや、さっそく瞳子ちゃんにちょっかいを出し始めた。
 バネ髪を「ふぅ」と息で揺らし、両腕でその身体を抱き締める。しかし、みんな「一見落着」と安心したところで、聖さまがカッと目を見開いた。
 
「こ、この感覚は……」
「はい?」
「蓉子のようなツンと祐巳ちゃんのプニをブレンドしたこの感覚は!」
「あ、あの……聖さま?」
「ツンプニ! ツンプニなのよこれは! 素晴らしい! グラマラス! ハラショー・トゥンプーニ!」
 
 グラマラスて、瞳子ちゃんがグラマラスて。
 聖さまはそんな意味不明なことを言いながら、「ちょっと借りるね」と言って瞳子ちゃんの手を引っ張っていく。
 
「せ、聖さま!? あーれー」
 
 あーれー……って、流石は女優。素でそんなことを言っている人を初めて見た。
 バタン、と閉められるビスケットの扉。祐巳は何だかよく分からなかったけれど、とりあえず「瞳子ちゃん、ファイ! オー!」と声なきエールを送っておいた。
 
 

 
 
 あの日以来、聖さまと瞳子ちゃんのツーショットを見かけることはなくなった。
 そしてあの後何があったのか聞こうとすると瞳子ちゃんはカタカタと歯を鳴らし、『聖さま』という単語を聞くだけで怯えながらすがってくるのである。
 
「祐巳さまぁ」
 
 そう言いながら瞳子ちゃんが祐巳の腕を掴んでくる時、聖さまのセクハラもそんなに悪いものじゃないな、と祐巳は思うのだ。
 
 

 
 
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