■ in Flower 鼻をつんざくような煙の匂いを、今でも覚えている。 あれは確か中等部のころ、いつもの避暑地でのこと。父に連れられ、祥子は納涼花火大会を見に行ったことがあった。 最初はもちろん、嫌がった。人の多い所は苦手だから頑なに拒んでいたけれど、それほど人もいなくて見晴らしのいい場所があるから、と誘い出されたのだ。 ドーン、と、花火が開いてから遅れてやってくる音。その音はお腹に響いて、最初は顔をしかめて見ていたものだけど、ものの五分としない内に気にならなくなった。それほど、その花火の華麗さは鮮烈だった。 「まだあるぞ」 その言葉に手を引かれ、私は高台から降りて人の多い場所に移る。少し眩暈がしたけれど、距離をとってその状態から抜け出す。 人の密集した場所から十メートルぐらい離れたところだっただろうか。小さなジェット機のような音がしたかと思ったら、火花が天に舞っていた。それが生まれて初めて見た、手筒花火だ。 父はそれに目を細めながら、花火にまつわる話を幾つかしてくれた。打ち上げ花火には一発何十万円もする物もあるということ。たった数秒のために、花火師が長い時間をかけて制作していること。だから、あんなに綺麗に咲くのだということ。 『物事は刹那的であるほどに美しい』 そう説いたのは誰だっただろうか。白眉の家庭教師だったか、それともブランデーグラスを傾けた父の言葉だったか。 どちらにせよ、今ならその意味を理解できる気がした。美しく咲く花は短命であるように、父との時間もまた短いからこそ大切なのだろう。 「そろそろ帰ろうか」 繋ぎたくて、繋ぎ止めたくて延ばした手は、しかし虚しくも宙を掴む。 大切な時間は、いつも唐突に終わる。 祐巳さんは向日葵みたい、と言われたことがあった。 「だって、そうじゃありませんか?」 由乃ちゃんはカップを片付けながら、視線は手元に落としたまま言った。手術を終えてからというもの、このところの彼女は饒舌だ。 「なんだか笑顔が大きいって言うか。……すいません、抽象的すぎますね」 「いいえ、いいのよ」 そう言いながらも胸に微かな不快感がよぎる、そんな放課の後のこと。 由乃ちゃんの表現は、悪くないと思った。だけど向日葵は季節の花だ。薔薇のように四季咲きではない。 花は必ず散ってしまうから。嫌いではないけど、好きにもなれそうにない。 「由乃ちゃんは」 「はい……?」 そんな祐巳のことを好き? と訊こうとした時だった。 「ごきげんよう」 開くビスケットの扉と、聞こえるその声。視線を動かさなくても誰かは知れたけど、一応その姿を瞳に捉らえた。 「あ、お姉さま。今お茶を――」 「いいわ、もう頂いたから」 言って、祥子は髪を左右に揺らした。祐巳には流しで洗いものをしている由乃ちゃんの姿が見えなかったのだろうか。 やっぱり、抜けている。大仰に溜息を吐くとそれだけで祐巳は縮こまってしまったから、一々注意する気にもならない。 「それでは、私はこれで」 由乃ちゃんはそう言うと、カップを仕舞う棚の扉を閉めた。私はこれで、って、紅茶を入れて片付けただけではないか。令はまだきていない。 「由乃ちゃん、あなた――」 「もうそろそろ、お姉さまの部活も終わる頃だと思いますので」 しかし祥子がそれを言う前に、由乃ちゃんは鞄を手に取った。 「ごきげんよう、祥子さま、祐巳さん」 いつもと違った調子の「ごきげんよう」に、祥子はそれ以上言うのを止めた。彼女の好きにすればいい。 そして残ったのは沈黙。さて、今日はどんな話題を振ってくるのだろう。最近はそれが、少し楽しみでもある。 「お姉さま、今日は早かったのですね」 「あなたが遅かったのよ」 「あ……はい、そうでした。日誌を書くのに手間取ってしまって」 そう言って軽く笑った祐巳は、おそらく何でも正直に書き過ぎるのだろう。省略していいことまで頭を抱えながら日誌を書いている祐巳を想像すると、これほどしっくりくるイメージはない。 言ってしまえば、祐巳は要領が悪かった。簡単な仕事でも、必要以上に時間がかかることがある。もちろん祐巳が真剣にやっての結果だから、みだりに怒ったりはしないが。 「今日は皆さん、来ないんでしょうか」 「用事がない限り、こないでしょうね。何の集まりもない日だもの」 「そう、……ですよね」 祥子が言うと、祐巳は少しだけ寂しそうな顔をして、それでもすぐに笑顔に変わった。二人きりが嬉しいと、その『百面相』が語っている。 祐巳の笑顔は、いつも無防備だ。純粋で、打算がなくて、心の裏側をくすぐってくるかのようで。しかし、つられて笑顔を見せようものなら、姉としての威厳もなにもあったものではない。 「何をヘラヘラしているの」 「あっ、……すいません」 分かっている。祐巳に惹かれているなんていうこと、とうの昔から自覚している。 だけどそれが何故なのかは、いくら考えても分からなかった。しかし多分、その気持ちを止められないだろうということは、何となく予想ができている。それでも抗うのは祥子の悪い癖なのだろう。思ったことをはっきり言えなかった時と同じぐらい、重篤な悪癖だ。 「あの、お姉さま」 沈黙で部屋が満たされないように、五秒と待たずに祐巳が言った。 「花はお好きですか?」 唐突な質問に、私はハッとなって祐巳を見た。 ――あの日の煙の匂いが、ふと脳裏をよぎる。 「好きでも嫌いでもないわ。……どうしてそんなことを訊くの?」 「あ、いえ。今日、花壇で綺麗なサザンカを見つけたもので、つい」 祐巳の言いたいことは、分かっていた。祐巳が優しい子であるということと同じぐらい、理解できた。 だけど私は、花を好きになるということはないと思う。咲いた後を考えて、胸を締めつけられる思いをするのはもう沢山だから。 「花は散るために咲くのかしら……」 それは不意に、自分ですらも予想出来なかった言葉だった。 祐巳はその言葉に少しだけ考え込み、祥子がその発言を打ち消すように何かを言おうとした時、はっきりと。 「違います」 祐巳は、はっきりとそう言った。 「花は生きるために咲いているんですよ。正確には子孫を残すためですけど。……だってそうじゃなかったら、枯れるために咲いているみたいで嫌じゃないですか」 祥子が何かを言って、明確に否定されるのはこれで二度目だ。一度目は、ロザリオを受け取りなさいと言った時。二度目は、今日この時。 「あ……。すいません、偉そうなことを言って」 「いいえ」 分かっている。祐巳に惹かれているなんていうこと、とうの昔から自覚している。 ――そして今やっと、その理由が分かった。 「祐巳」 そっと触れた髪の房は、柔らかく手のひらをくすぐる。その感覚にふと頬が緩みそうになり、――しかしそれに耐えようとすることは、もうあまり意味がない。 「花壇に行きましょうか」 「えっ……?」 「何、私を花壇に誘いたかったのではなくて?」 「い、いえっ。あ、はい!」 しどろもどろになって答える祐巳に、また一つ笑みが零れた。それは本当に自然に、笑うことができた数少ない瞬間だった。 終りはまだ怖い。だけど、その笑顔の先には何があるのだろう。花は咲いた後、何になるのだろう――。 「行きましょう、お姉さま」 そして祐巳はビスケットの扉を開く。 それはまるで、停滞していた空気を追い払うかのように。
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