我輩は人間だった
 
 
 
 
 我輩は猫である。名はカツラ。苗字はまだない。
 我輩は、人間だった。
 それは本当に昔、きっとそうだったのだと思う。
 
 
 
 ある日気付いたら猫になっていましたと言ったら、誰が信じてくれるだろうか。
 おそらく、誰も信じないだろう。だって私は、猫だから。人間の言葉は喋れない。
「にゃー」
 ほら、こんな風にしか声を出せないのだ。身体を見たって、そこには毛が生えているだけ。
 何かに似ているな、と思って、割れた鏡の破片に自分を映して見たことがある。そしてそこに映っていたのは、校内でよく見かけるあの猫だった。
「なー」
 私は「なんてこと」と叫びたかったけど、そんな鳴き声しかでなかった。にゃんてこった。頭の中まで猫化している。
 そして私はこれからどうするべきか、三日ぐらい悩んだ。まず元の自分はどこにいるのだろうと探してみたけれど、まったく見つからない。次に両親が心配していないか、と思ったけど、あいにく電話はかけられない。リリアンから出て行ったとしても、外は危険で一杯。初等部の時に見てトラウマになっている、ペチャンコの屍骸になるなんてまっぴらごめんだ。
 だから私は、三日悩んだ。出れない、喋れない、ご飯がない。空腹と寂しさで、かなり泣いた。そして泣くだけ水分の無駄だと思ったその瞬間に、食べ物探しが始まった。
「かー」
 それにしても、現実というのは弱者に対して非常に厳しいものだ。
 食べ物を探そうとしたら、危うく食べ物にされるところだった。ちくしょう、カラスのやつ。
「あちゃ、ズタボロだ」
 だけど、この世には鬼ばかりじゃないらしい。私を助けてくれる人は、いた。
「チビちゃんよ、立てるかな?」
 その人は、白薔薇さまだった。恐れ多くも天上人であるその人が、ヨロヨロと立ち上がった私を抱きかかえ、その瞬間猛ダッシュを始めた。
 行き先は保健室。そこに着くまでの間、私は「元は人間だったんです。カツラって、名前があったんです」と訴えたけど、彼女には通じなかった。多分通じても、私の名前なんか知らないだろうけど。
 彼女は保険医に「クラスで怪我をした子がいるから、消毒液と軟膏を貸して欲しい」と言った。とんだ口からでまかせであるけれど、私みたいな猫を助けるのは柄に合わないという、一種のニヒルな矜持なのかも知れない。
「うりゃ、ちょっと染みるよ」
「なー!」
 消毒液は、ちょっとじゃなくてかなり染みた。私は涙を堪えて耐える。白薔薇さまは「いいこいいこ」と言って優しく軟膏を塗ってくれたから、「猫で得したなぁ」と思った。本当に少しだけ、そう思った。
「お前はちっちゃくて弱いねぇ」
 少しの遠慮もなく、彼女は言う。まるで自分自身に言い聞かせるみたいに、目を細めて。
 分かっている、自分がどれだけ無力かなんてこと。私は不貞腐れて、ゴロンと寝転がった。背中の傷が剥き出しのコンクリートに触れないように。だけど正真正銘の猫背である私には、仰向けで寝ることなんて不可能だから、結局そうするしかないのだけど。
「よし決めた!」
 不意に彼女は、手をパチンと叩いた。
「お前の名前はゴロンタだ。可愛い名前でしょ?」
「にゃー」
 屈託なく笑う彼女に、私は大きな声で抗議した。失礼な、私にはカツラという立派な名前がある。……あんまり人に覚えてもらえないけど。
「早く元気になって、大きくなれよー」
 彼女はまたなんの邪気もない笑顔で、私を抱きあげた。
 
 
 
 さて、数ヶ月が経った。その月日で私が得たものは、猫としての生活の営み方と、もう人間には戻れないんじゃないかという諦観だ。
 あれから何をしても、何を考えても、結局私は猫だった。自然界に放り投げられた、たった一匹の猫なのだ。
 ちょっと発狂しそうな時期を乗り越えて、今は結構落ち着いている。もう私猫でもいいじゃん? って感じで、中々潔いスタイルだと、自分自身思っていたりして。
 だってほら、猫でいる方がみんな構ってくれるし、可愛がってくれる。別に人間だった時、寂しい思いをしていたわけではないけど、この生活はわりと楽しいのだ。
「ランチ。ほらおいで」
 例えば、こんな風に。
 今までずっと離れてしまったと思っていた友達も、こうして相手をしてくれる。
「セイさまが卒業しちゃって、寂しいかと思って。ほら、ご飯だよ」
 ユミさんはそう言って、鰹節を取り出した。まったく、ベタなんだから。
「あれ? ランチ……?」
 だけど私は、それを素直に受け取らない。これは元人間としてのプライドだ。ご飯だよー、って言われてすぐ飛びついたら、もはや人間や猫じゃなくて、犬じゃないか。
「ランチったら。ほら」
 私が背を向けて歩き出すと、彼女は追ってくる。わざと角の方へと歩いて、「捕まえた」って言わせるために。
「捕まえた。さあ、食べなさい」
 ほら、言った。私は仕方なしに鰹節をほお張ると、「なんでこんなに美味しいんだろう」と思った。味覚まで猫なのか、私は。
「最近ね、痩せてきたんじゃないかって噂で、心配してたんだ」
 私を撫でながら、ユミさんはそう言った。相変わらず優しい。
「ちゃんとご飯、食べれている?」
「にゃー」
 はいこの通りに、と私は返事をした。本当は最近、自然界の厳しさを身に染みて感じていたところだったけれど。
「そっか。ちゃんと食べなきゃダメだよ」
 しかしユミさんは私の意中を汲むように、発した言葉とは反対の意味を受け取ったようだ。まあ、それは私が猫だから仕方がないことだけど。
 ――あぁ、さっさと人間に戻りたいなあ。
「気持ちよさそうな顔しちゃって」
 ユミさんに顎を撫でられながら、私はそんなことを思うのだ。
 
 
 
 そして私が猫になって、どれだけ月日が経ったのだろう。数ヶ月なのか、数年なのか。猫である私には、時間の感覚はあまり意味をなさない。
 だけど時々見知った顔に合うというのは、少なくとも『本当の私』はまだ卒業していないってことだ。今でもユミさん、それにシマコさんまで、私に構ってくれるし、他の子だってそうだった。
 しかし、結局私は猫だ。人間に戻るのを諦め始めているし、元の日常も、人の名前も、どんどんと忘れていっているから悲しくなかった。悲しいと言えば、そのことこそが悲しいのかも知れないけれど。
「ランチ」
 ああ、またその名前が呼ばれる。そう、私はもうカツラではなくランチなんだ。もう、それでいいや。
「お前は気ままだねぇ」
「なー」
 そうだよ、私は気ままだよ。ところであなたは誰だっけ? 一度ぐらい、同じクラスになったと思うんだけど。
「最近、どう?」
「にゃぅ」
 どうもなにも、私は猫だよ。今までも、これからも。
「元気そうだね」
 そう言って彼女は、私の顎の下を撫でる。止めて欲しい。ついつい和んでしまうじゃないか。
 ところで、彼女は本当に誰だっただろう。色の薄い髪の毛が軽そうで、綺麗な女の子。
「それじゃ、またね」
「なー」
 ちょっと待って、という私の声も聞かず、彼女は去っていく。私が彼女の名を、思い出せないまま。
 
 
 
 あれからどれぐらい経ったか。そんなに長くはなかったと思う。
「ランチ、久しぶりだねー」
 彼女はまた、私の目の前に現れた。校舎裏、私の縄張りに勝手に立ち入って。
「それにしても、変わらないね。もうちょっと太った方がいいんじゃない?」
「にゃー」
 レディなんだから、痩せていた方がいいの!
 私はそう言ったけど、自然界じゃやっぱり太っていた方がいいのかも知れない。最近は長期休暇なのか、生徒の姿を見かけないから、当然おこぼれを預かれなくなる。いや、もっと分かり易く言おう。私はハラペコだ。今とても、食べ物が欲しい。
「そうでしょ、お腹減っているでしょ? よかったね、休みでも部活があって」
 彼女は私の心の中を透かし見たようにそう言いながら、キャットフードを取り出した。そうか、部活だから彼女は休みでもここにいるのか。そういや制服じゃないものね。
「ねぇ、ランチ」
 彼女が呼びかけたから、私はキャットフードをモシャモシャと食べながら視線を上げた。ご飯、メチャクチャ美味しい。
「みんなランチとか、メリーさんとか、別々の名前で呼ぶけど。本当の名前は何なんだろうね?」
「なー!」
 だから、カツラだってば。気付いてよ。私はあなたのこと知ってるよ、名前は思い出せないけれど。
 だって、仕方ないのだ。もう猫になって随分経つし、猫に人の名前なんて大して意味を持たないのだから。
 私が彼女について知っている情報は、一度同じクラスになったかな、というぐらいだ。あと、下級生より上級生から人気があるらしい。髪型はありがちだから、あまり記憶検索条件に役立たなかった。
「ねえ、私が本当の名前を当ててあげようか?」
「にゃー?」
 そんなこと、あなたに出来るの?
 私が訊くと、彼女は迷いながら言う。
「えっとね、カ――」
 ――まさか。
「カオル、なんてどう?」
「にゃー……」
 にゃんじゃそりゃー、と私はひっくり返った。芸を教え込まれた猿並みに上手い演技だったと思う。
「キミコ、とかかな。それともエリザベス?」
 何かもう、適当な名前ばかりだ。もちろん、カツラという名前が稀有であることは認識しているけど。
「なー」
 それより、あなたの名前は何なのさ。休みの間でも私のことを忘れずにご飯をくれるような優しい人を忘れるなんて、恩知らずもいいところだけど、もう名前を聞いたら忘れないって約束する。本当に感謝しているんだよ、ねぇ。
「なー、なー?」
 ごちそうさま、あなたの名前は何ですか?
 私は肉球を合わせて、そう訊いた。すると全く別の声が、その問いに答えた。
「桂!」
「あ、……お姉さま」
 そうか、彼女は。――彼女も、「かつら」って言うのか。
「探したわよ。練習試合、もうすぐ始まるわ」
「すいません、お手数かけてしまって」
「いいのよ。ほら、早くいきましょう」
 手を取り合って駆けていく、かつらさんとそのお姉さま。
 私はその背中を、何故だか温かい気持ちで見送る。
 
 
 
 我輩は猫である。そして我輩は、人間だった。
 いつか、――いつか人間に戻れる日がきたら。
 私はかつらさんのようになりたいなと、そんな風に思っている。
 
 
<FIN.>
 
 
 
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