■ First Christmas
 
 
 
 
 
「ただいまー」
 
 そう言って玄関の扉を開けると、部屋の中からはいい匂いがした。バイトで疲れた身体を一瞬で元気にさせてしまうこの匂いは、志摩子さんの手料理から立ち昇るものに間違いない。
 私は早くキッチンに顔を出したい衝動を押さえるように靴をそろえて脱ぐと、フロストガラスの扉を元気よく開け放った。
 
「おかえりなさい、乃梨子。今日は――」
「鶏肉の芥子焼き、でしょ?」
 
 志摩子さんの得意料理を、忘れるはずがない。ひょいと覗き込んで見れば、予想通りの料理が並んでいる。
 
「うわ、美味しそう。いつもより上手く出来てるんじゃない?」
「だって、今日は特別な日でしょう?」
 
 はて、特別な日。私が志摩子さんとの特別な日を忘れるはずがないと思うけど、思い当たる節がない。
 志摩子さんは鶏肉が焼きあがると、それを切って盛り付けていく。その間私はずっと考えていたけれど、答えに行きつくことは出来なかった。
 
「答えはね」
 
 志摩子さんは、優しく私の頬に手を触れさせながら言った。
 
「今日はあなたと私が一緒に暮らし始めて、ちょうど百日目なのよ」
 
 

 
 
 私と志摩子さんが一緒に暮らし始めたきっかけは、大学に進学したことが大きな理由と言えた。
 私は当初の希望通り、某有名国立大学へ。そして修道院に入るはずだった志摩子さんは、両親たっての希望でリリアン女子大に進学した。住職も可愛い娘を手放したくなかったのだろう。しかし、ルームシェアに対しては大きな抵抗はなかったのだから、物理的な意味ではなく、精神的な方向で手放したくなかったのだろうな、と私は予想している。
 
 ――そう、ルームシェア。
 それはちょうど世間的にもブームだっというか、非常に合理的な手段だと認められ始めた時期だったということもあったのだろう。私が「今の居候先のままでは通学時間がかなり長くなってしまう」、という話を志摩子さんにした時から、このルームシェアの話はどんどん具体的になっていき、ついには今の状況に、というわけだった。
 結果として私は今の大学に近いところから通うことができるし、志摩子さんも自宅に比べれば随分とリリアンに近くなった。仕送りを貰ってはいるけれど、一人で住むよりずっと安上がりだし、住職の言う「志摩子の花嫁修業」という名目には適っている。その発言は、冗談だと思いたいけど。
 
「今日はいつもより遅かったわね」
「うん、代わりの子が遅れてくるって連絡があって。結局一時間以上伸びちゃった」
 
 私は志摩子さんからお茶碗を受け取りながら、何だか本当にお嫁さんみたいだな、と思った。エプロン姿が似合いすぎて、お疲れさまと微笑むその仕草が可愛すぎる。
 これは一層、バイトに力入れていかないとな、と思った。普通ルームシェアは、共同生活する両方の人に一定の収入がないといけないけど、学生への特別な処置がある為それはクリア。しかしそれで全てが免除されるわけもなく、定められた額以上の収入がないといけないから、こうして私はバイトに精を出している、というわけだった。
 志摩子さんには不自由な生活をさせたくないし、なるべくやりたいことをやって欲しい。だから一緒に住む前から行っていた修道院や教会への手伝いを辞めて欲しくなくて、その分私が頑張る。それを労ってくれるのが志摩子さん、家に帰って待っていてくれるのが志摩子さんというだけで、持ちつ持たれつなのだ。
 
「本当に悪いわね、乃梨子にばっかり頑張らせてしまって……」
「そんなこと!」
 
 もちろん志摩子さんは、今の現状にすまなさそうにすることも少なくない。だけど、面と向かってはいけないけれど、志摩子さんがそこにいてくれるだけで、私の方が恵まれているぐらいなのだ。
 
「いつも言ってるでしょ。私は好きでやってるんだって。それに毎日志摩子さんがご飯を作ってくれるだけで、十分なんだ」
 
 ね、と私が笑いかけると、志摩子さんは表情を柔らかくして――しかし次の瞬間には、その顔には陰りが差していた。
 
「でも、ごめんなさい。明日は少し遅くなるの」
「あ、……そうなんだ」
「ええ、ご飯は作って置くから、温めて食べてちょうだいね」
 
 その言葉に、思わず笑顔が引っ込んだ。
 しかし、こう言ったことは、ままあるのだ。学年も学校も違うのだし、それに。
 
「もう十二月だもんね。やっぱり教会の手伝いが忙しいの?」
「……ええ。私が好きでやっていることで悪いのだけど」
 
 それに志摩子さんには、教会の手伝いがある。ボランティアだけど、こうして着実に修道院や教会での生活を勉強していっているのだ。
 それは志摩子さんの希望する将来のためにあることなんだから、私はそれを極力優先したい。それが私と志摩子さんの距離を、遠ざけることになっても。
 
「乃梨子」
 
 志摩子さんはテーブルの向かいに座ると、乃梨子の手に触れて言った。
 
「次の日曜日、前言っていたお店に行きましょう。あの美味しそうなケーキ、どうしても食べてみたくなってしまって」
「あ、うん」
 
 次の日曜日。何もなくても一緒にいるのだろうけど、そう言う予定が私には嬉しかった。
 ただ。
 ただ少し、取り繕うな態度が、志摩子さんらしくないなと思ったけれど。
 
 

 
 
 次の日の、夕暮れ時だった。
 
「それは贅沢」
 
 私は親友の言葉に、紅茶に落としていた視線を拾い上げた。
 
「乃梨子は贅沢なのよ。瞳子だって、お姉さまと住みたいぐらいなのに……」
 
 ブツブツと愚痴をもらしながら、瞳子は顎の下に垂れ下がった縦ロールを指に絡めた。もう高く結い上げられていない髪は、指で弄るにはちょうどいい位置にある。
 リリアン女子大校内の喫茶店は、今日も何も変わらない。システムも値段も、昔のまま。
 変わっていくものがあるとすれば、利用する人間。つまりは、私たちだけだ。
 
「いい? 卒業して、それもそれぞれ違う大学に行って今なお一緒にいられるなんて、本当に恵まれているんですからね。瞳子なんて、同じ大学にいてもそれほど構って貰えないっていうのに。……この前お姉さまに直談判したことがありましたの。『瞳子にももっと構って下さい。最近のお姉さまは冷たい』って。そしたら何て言ったと思います? 瞳子は高等部の時沢山構ってあげたでしょ、って、それだけなのよ?」
 
 瞳子はまくし立てるようにそう言うと、はぁとため息を吐いた。
 つまり、瞳子はこう言いたいわけだ。一緒に住めるだけ、毎日会えるだけ羨ましい。それでも最近一緒にいれる時間が少ないなんて悩みは贅沢だ、と。
 
「でも、その次の休みは瞳子のために空けてくれるんでしょう? それならいいじゃないの」
「それは、……そうですけど」
 
 瞳子は口ごもると、縦ロールをピンと指で弾いた。回答に困った時の仕草だ。
 そう、なんだかんだで気にしてもらえるのならいい。私だって、日曜日には志摩子さんと出かける約束があるのだし。当日はミサが終わってからになるから午後だけだろうけど、それはいつも通りだから言わないことにする。
 
「そう言えば。可南子が言っていたわよ」
 
 瞳子が、会話の流れを変えるように言った。
 
「最近乃梨子に電話しても出てくれない、って。そんなに忙しいんですの?」
「ああ、ごめん。バイト先のロッカーに携帯入れておくとね、電波悪いみたいなんだ。だから着信すら入ってなかった」
「そう……なら今度会った時、伝えておきます」
 
 そう言って、ふと二人揃って外を見た。いい色に焼けた空は、時間の経過を嫌でも教えてくれる。
 腕時計に視線を落とせば、もう喋り始めて二時間も経っていることが分かった。
 
「ごめん、そろそろバイトの時間だから、行くね」
「言われてみれば、そんな時間ね」
 
 私は「うーん」と伸びをしてから席を立つ。瞳子も、同じく。
 椅子に引っ掛けていたコートを羽織ると、カップを返却口に置いてから外に出た。横殴りの十二月の風が、早くコートのボタンを閉めろと言っている。
 
「それじゃ――」
「待って」
 
 校門を出て手を振りかけた私に、瞳子が言った。
 
「最後にこれだけは言っておくわ。乃梨子と志摩子さまの時間が合わないの、あなたが忙しいせいもあるんですからね」
 
 それは仕方のないことでしょうけど、と瞳子は続けて、少しだけ目を伏せた。
 そんなことは、重々承知だった。だから、誰のせいでもない、自分のせいというのが大きい。頼まれて、断りきれなくて、必要以上に働いているのだって。
 
「ありがと。またね」
 
 私は答えになっていないかなと思いつつも、そう言って手を振った。
 瞳子も「また」と言って手を振ったから、私たちは今度こそ背中を向けあった。
 
 

 
 
 夜の冷たさが染み込んだ部屋は、まるで人の存在を拒絶するかのようだ。
 温かい光を漏らしているはずのフロストガラスも、フローリングの床も、ただ冷たい。
 
「はぁ……」
 
 私は鞄を床に放り出すと、ソファに身を沈めた。
 あれから数日。志摩子さんの帰りは、このところずっと遅い。最近は朝もあまり顔を合わせられないから、書き置きとメールだけが二人のやり取りだった。
 だけどまあ、と私は思う。明後日――日曜日になれば、ゆっくりと話すことができる。全部その時に訊けばいいことだ。
 
 私は眠りかけの身体にムチを打って、キッチンにあるテーブルに近づく。その上には、いつも通りのメモ、端正な文字。『温めて食べて下さい』という一文が、このところ冷たく感じてしまう。
 メモの上に置いてある皿の中には、ビーフシチュー。空のお皿がもう一つと、ツナサラダが置いてあることから察するに、ハヤシライスにして食べろと言うことらしい。
 電子レンジがうなり声を上げている間、私はなんとなくそのメモを見つめていた。端正な文字、私にだけ宛てられた文章。
 
「あれ……?」
 
 ふと私は、紙の表面に凹凸があることに気がついた。まるで裏からも何かを書いたかのように、紙面が膨らんでいる。
 私は胸騒ぎを覚えながら、紙を裏返した。電子レンジが、高い音を立てる。
 
『ごめんなさい。日曜日は用事が入ってしまいました』
 
 メモがにわかに、クシャという音を立てて歪んだ。まるで私の気持ちを道連れにするみたいに、紙は皺くちゃに。
 私はメモを胸元に抱きかかえると、必要以上に鼓動が跳ねていることに気づいた。たった一つ、いくらでもあるような約束が、消えただけなのに。
 
「何で……?」
 
 分からなかった。どうして気づくか気づかないか分からないところに、こんな一文を書くのか、理解できなかった。
 そこには確かな後ろめたさが滲み出ていて、私には堪えた。今朝だって、五分ぐらいは一緒にいる時間があったのに、それを言ってもらえないことが酷く悲しかった。
 いや、今朝家を出てから決まったことという可能性もある。それでも明日伝えればいいことなのに、と、頭の中で小さな理不尽を叩いた。
 
 私は携帯を取り出すと、GPS機能のメニューを開く。双方の合意によって利用できる、位置情報確認サービスだ。
 画面に『武蔵野』と表示されているのを見るに、まだ学校か、修道院の手伝いだろう。修道院の手伝いでこの時間まで、というのはあまり考えられないから、学校で何かやっているのか。
 思えば、私は志摩子さんの大学生活について、何も知らなかった。志摩子さんから聞く学校の様子以外知ろうとしなかったし、志摩子さんを信頼しているから、それほど心配もしていなかったのだ。そのことが、今更ながら悔やまれる。
 
 ひっそりと、心が離れて行く気がした。私の方からではなく、志摩子さんの方から。
 分かりきっていたことなのに、それが辛い。いつかは離れ離れになるなんて、了解していたはずなのに、心の裏側が足掻くのだ。
 
「志摩子さん……」
 
 小さな声はいつまでも部屋に木霊して。
 その響きが空間を満たしていく感覚に、私は押し潰されそうだった。
 
 

 
 
「乃梨子ちゃんは、利口すぎるのよね」
 
 それは、髪をかき上げながらの一言だった。
 最近ストレートパーマをかけたの、と言った彼女の段カットは、さらさらと綺麗だ。
 
「と、言いますと?」
「出来のいい妹が、過ぎるって言うの。志摩子の重みにならないことばかり、考えているでしょう?」
 
 そう言うと祐巳さまは、ブラックのコーヒーを一口飲んだ。さて、彼女がそれを飲めるようになったのはいつからだっただろう、と思い出そうとしても、残念ながら記憶にない。
 近頃の祐巳さまは、随分と聖さまに似てきている。髪形だって聖さまの真似だって言っていたし、嗜好だってそうだった。
 そして髪をかき上げた時に見えた、ピアスも。――つい最近あった聖さまは、確かあんなようなピアスをつけていた。
 
「祐巳さま、ピアスするようになったんですね」
「ああ、これ? 誕生日プレゼントで貰ったんだけど。……そっか、もう半年以上会ってなかったからね。志摩子から乃梨子ちゃんの様子を聞いていたりしていたから、あんまりそんな感覚はなかったんだけど」
 
 そう、実に八ヶ月は、祐巳さまと会っていなかった。大学が違うし、お互い忙しいから仕方のないことだけれど。
 そんな祐巳さまに話を聞いて貰おうと思ったのは、他でもない「一緒にいることを望まれる人」だからだ。望む人と、望まれる人、その両方の意見を聞くことは、私にとって有意義なはずだ。
 
「ほら見て。普段は見えないけど、裏側、オシャレでしょう?」
 
 そう言ってめくられた祐巳さまの耳たぶには、小さなクロスがついていた。普段は淡いピンクのピアスにしか見えないけど、近づいて見てみれば、というやつだ。
 嬉しそうに話す祐巳さまの表情から察するに、贈り主はすぐ分かった。それが少し、いやかなり羨ましくもある。
 
「……っと、脱線しちゃったわね。それで、乃梨子ちゃんが利口すぎるって話だけど」
 
 祐巳さまは私に近づけていた顔の位置を戻すと、軽く髪を払った。
 そして、目元は優しいけれど、射抜くような視線が私に向けられる。私も薔薇の名を冠したことのある人間だけれど、この人の貫禄には一生敵わないのではないかと思う。
 
「乃梨子ちゃんは、志摩子のことを考えすぎているから何も言えないんでしょう?」
「それは……、あるかも知れません」
「でしょうね。それがあなたたちのいいところであり、悪いところでもあるんだわ」
 
 祐巳さまはふぅとコーヒーの湯気を吹き飛ばすと、瞳に少しの憂いをのせた。
 
「はっきり言えれば、一番いいのよ。うちの瞳子みたいに。でもそれをするには、やっぱりぶつかり合わなくちゃいけないのよね。私が、祥子さまが、そして瞳子がそうしたように」
「……私たちに、大喧嘩をしろってことですか?」
「そう取って貰っても構わないわ。でもあなたたちは少なくとも私たちよりは器用だと思うから、きっと分かりあえると思う」
 
 祐巳さまはコーヒーの入っていたカップを空にすると、苦そうに眉間に皺を寄せた。
 やっぱりまだ、飲みなれていなかったのかも知れない。そんなところが、高等部のころの祐巳さまの面影を残している。
 
「しかしまあ、変わらないわよね、私たちも。乃梨子ちゃんだったら、さり気なーく彼氏を作っていそうだと思ったんだけどね」
「残念ながら、会話のレベルが合わなくて。……それに初めて連れて行かれた合コンで、『バッファローゲーム』とか、『チクビーム』とかされた日には、もう」
「あはは、共学のところに進学するとそんな洗礼があるんだ?」
 
 思い出すだけでも嫌悪感が募る出来事だと言うのに、祐巳さまは気楽に笑い飛ばした。祐巳さまだって、いつかは経験する時がくるかも知れないのに。リリアンでは合コンの話とか、ないのだろうか。
 
「知ってる? 由乃は来年の春を待って同棲始めるんだって。……って、『妹』が増えるかも知れないってのに、この辺りの情報はまだ詳しく聞いてないんだけどね」
 
 私ってばお姉ちゃん失格、と笑う祐巳さまに、私は「まったくです」と頷いた。この人がこんなにも鷹揚な態度を取るようになったのは、一体いつからだっただろう。
 高等部三年の後半ぐらいだったか、それとも大学に進学してからだったか。何しろ急激に人格が変化したわけではなかったから、はっきりとは分からない。ただ言えることは、始めてあった時の祐巳さまの印象は、もうほとんどないということだ。
 時には聖さまのように飄々と、時は祥子さまのようにビシっと締める人。けっして完璧超人とは言えなかったけれど、畏怖を覚えるほどのカリスマを持っている、私がもっとも一目置いている人物の一人……というか、尊敬できる人の一人だった。
 
「っと、また話が脱線気味ね。久しぶりに会うと、止まらないわ」
「いえ、私もそういう話を聞くのは楽しいですから」
「そう? じゃあもうちょっと付き合ってもらおうかしら。……といきたいところだけど、これから予定があるのよね」
「はぁ」
 
 もしやと思って、私は「コレですか?」と言いながら指を立ててみると、祐巳さまは声を上げて笑った。
 
「残念ながら違うわ。家族で外食」
 
 それじゃそろそろ、とコートを手に取った祐巳さまは、颯爽と立ち上がる。
 
「祐巳さま、今日はわざわざありがとうございました」
「いいのよ。今度は志摩子も一緒に、ね」
 
 祐巳さまがコートを羽織ると、その動きでピアスが見えなくなる。それが何故だか、私には残念に感じた。
 
「乃梨子ちゃん」
「はい……?」
 
 私も合わせるように立ち上がると、祐巳さまは両肩に手を置いてきた。
 愛らしい瞳は、しかし尚も射抜くような鋭さ。心を見抜かれているような気がして、私は一歩も動けなかった。
 
「もっと遠くを見なさい」
 
 それじゃ、ごきげんよう。
 それだけ言って、祐巳さまは大学内の喫茶店を後にした。
 
 

 
 
 夜の冷たさは相変わらず、私を拒絶しているかのようだ。私が放り投げた鞄の響く音が、やけに大きく聞こえて嫌になる。
 年はだんだんと暮れ、もう十二月の二十三日。冬休みに入れば、なんて考えは甘かったらしく、志摩子さんはこのところ本当に急がしそうで、顔を合わす機会すら減ってきている。忙しいのは私も同じで、バイト先のオーナーにせがまれ、変則的に仕事に出ているのも、すれ違う原因と言えた。
 
 ――もっと遠くを見なさい。
 
 あの日から暫く経ったというのに、その言葉が頭の中に残響を残したまま消えてくれない。
 遠くって、一体どこを見ろと言うのだろう。遠くとは単なる例えで、もっと冷静にことを見ろという話だろうか。
 冷静に、冷静に。そう自分に念じながら、この現状を整理する。
 そもそも私が悩む原因は何なのかと突き詰めれば、志摩子さんと一緒にいたいという願いだけ。言い換えれば、独占欲という子供じみた欲求だ。それなら、何故その欲求は沸き起こるのだろう。どうしてこんなにも、惹かれるのだろう。
 仕草か、容姿か、その笑顔か。どれが欠けてもいけなくて、そのどれでもないと思う。ただ存在が眩しくて、鮮烈で、そんな人が私を見てくれているのが嬉しくて、私は欲求を覚えるのだ。
 
 一体いつから、志摩子さんは私の一番になったのだろう。守りたいなんて、思うようになったのだろう。
 好きだという気持ちに嘘をつきたくなかったし、それが間違いとは思わない。思いたくない。人を好きになることに、罪があってなるものか。
 
 私はキッチンのテーブルに近づくと、その上に何もないことを確認する。書き置きがないということは、近いうちに帰ってくるということだ。
 胸に手を沿え、深呼吸する。大丈夫、ちゃんと言えるはずだ。
 それから十分としないうちに、玄関が開く音がした。そして靴を脱ぐ音、廊下を歩く音、扉を開ける音――。
 
「乃梨子……? ただいま。帰っていたのね」
 
 すぐにご飯を作るから、と言って、向けられる背中に、私はまず何と言えばいいのだろう。
 まず明日の予定を訊く? それとも全く関係のない話から?
 そんなことを考える自分が、酷く空しく思った。その逡巡は、私たちはこんなに離れてしまったんだと教えてくるようで、心臓を撫でられるような不快感をもたらす。
 
「志摩子さん」
 
 エプロンの紐を結ぶ手に、私は声をかけた。
 
「明日、一緒にでかけない? 私、無理言って休みとっちゃったんだ。だから――」
「ごめんなさい」
 
 空気が凍るとは、こういう状況のことを言うのだと思う。
 
「知っているでしょう? 明日はクリスマスのミサがあるの。それからなら、と思ったけれど、お食事の誘いをどうしても断りきれなくて――」
 
 ずっとお世話になっている方で。だから、ごめんなさい。
 志摩子さんの唇は確かにそんな言葉を紡ぎだしたけれど、私はそれを解することができなかった。頭が理解することを拒んで、だけど私の願いが叶わなかったことはしっかりと認識している。
 
「そっ……か。そうだよね」
 
 私は、背を向ける。
 
「乃梨子……? お夕飯は?」
「ごめん、お腹空いてないんだ」
 
 これ以上この場に居続けることが辛くて、私は自室の扉を開いた。何度も「私のバカ」と、心中で呟きながら。
 バタン、と扉を閉めると、倒れるようにベッドに飛び込む。涙が零れるより早く、そうする必要があった。
 
(祐巳さま、駄目でした)
 
 結局、私はあれ以上願い請うことはできなかった。志摩子さんがどれだけ教会や修道院で可愛がられているか想像するのは容易だったし、そんな人たちからの誘いを断りきれないだろうことだって理解している。
 だから私は、利巧と呼ばれるバカなんだ。志摩子さんに嫌われたくないから、わがままも何も言えずにただ苦しんで。これでは祐巳さまのアドバイスを、何ら活かしきれていない。
 
「どうして……」
 
 どうして、私だけこんな気持ちになるのだろう。志摩子さんはどうして、私を優先してくれないのだろう。
 答えは明白すぎて、痛いぐらいに胸を締めつける。選ばれなかった、いくら想っても届かなかった。――それだけのことだ。
 堪えようとしても出てくる涙に、視界は滲む。真っ暗で、冷たくて、空虚に満たされた部屋。その中に差し込む外灯の光に、私はゆらゆらと舞う影を見た。
 
「一日、早いっていうの」
 
 窓の外では、雪がちらちらと舞い降りている。外灯を舞踏曲にして、ただひたすらに。
 昔、悲しみを降り積もる雪に例えた歌手がいた。私はそれを、信じたい。
 ただ悲しみは織り重なり、いつしか世界を真っ白に染めて。そしていつか雪解けがくればいいと、私は一筋の光に祈りを捧げた。
 
 

 
 
 次の日、つまり十二月の二十四日。私は初めて、志摩子さんとの共同生活に措いての約束を破った。
 
『外出の際は、行き先を明示するか、事前に伝えること』
 
 そんな大切な約束を放り投げて、私は真っ白な世界に飛び出した。志摩子さんが起き出す前に、そうしたかった。
 別にどこか行き先があるわけではない。ただ教会へ行くために家を出る志摩子さんを、見送る自信がなかった。いつも会いたいと願っているのに、今日ばかりは顔を合わせたくなかったのだ。
 小鳥の囀る早朝。白い息の向こう、燦然と光を撒き散らしながら太陽は上がる。眩しすぎるその光は雪に乱反射して、脳の活性化を促した。
 
 そして私は日中、ただ彷徨した。目的があって歩いたのなんて、こんな状態でも空いてしまうお腹を満たしてやる時だけだ。
 日は昇り、傾き、やがて沈む。積雪はそこそこあったらしく、夜になっても日陰になっていた部分にはまだ雪を残していた。
 夜になれば、輝きだす街。ジングルベルは鳴り響き、クリスマスソングは音量を上げる。明滅を繰り返す電飾は煌びやかに冬の木を飾り、夜の帳を跳ね除けるかのよう。
 
 住宅街を通った時、温かそうな家の中から、子供の笑う声がした。カフェの前を通った時、優しい照明の中で、笑い合うカップルを見た。幸せそうに、ただ幸せそうに笑う声を、何度も聞いた。
 私が欲しかった幸せは、こんなに近くにあるのに。手の届かないもどかしさに、その事実に、ふと涙腺が緩みそうになる。
 雪解けのアスファルト。水分を含んだそれは光を飲み込み、輝きを倍化させる。夜の冷気に澄んだ空気の中、涙に滲んだそれが眩しすぎて、私は逃げるように華やぐ街を後にした。
 
『神様は信じるものしか救わない』
 
 果たしてそれは、誰の言葉だっただろう。ひねくれた学友だったか、それともテレビの討論番組に出ていた中高生だったか。
 私は、まさにその通りじゃないかと思った。キリスト教を信仰しているわけではないけれど、私が志摩子さんに向ける感情は、その行為は教えに背くものだ。そしてその感情から遠ざけるように、志摩子さんが神に仕え、束縛されていく。こんな分かり易い話、他にあるだろうか。
 気づいたら私は、薄暗い公園いた。少しだけ盛り上がった丘の上、だけど回りを木々が覆っているせいで全然夜景スポットという感じではない、寂れた公園。
 私には、お似合いだと思った。もし街の光が見えたりしたら、きっと私は温もりを求めてしまうだろうから、だからこの寒い場所でいい。
 
「はぁっ……」
 
 ベンチに腰を下ろすと、自然とため息が出た。吐いたその息さえ凍りつくかのように、夜の闇は冷たい。
 早く家に帰れと、震える身体が叫ぶ。でももし、家に帰った時、志摩子さんがいなかったらどうすればいいのだろう。その時はきっと、私は押し潰されてしまう。孤独に耐え切れなくなって、正気すら保てなくなるかも知れない。
 小さな公園、照らすたった一つの外灯。ところどころに雪が残っていて、寂しそうに煌き返す。
 かじかむ手を握りこみながら、温もりが欲しいと願った。きっと今は、どこかで誰かに向けられている笑顔。それだけが、私を温めてくれる。
 
「ああ」
 
 まだ私は志摩子さんを求めているのだと、改めて認識した。私は選ばれなかったけれど、志摩子さんに惹かれる気持ちは消えてくれない。
 会いたい、会えない。帰りたい、帰れない。
 ここはあまりにも寒すぎて、雪でさえ温かそうに見えてしまう。皚々としたそれを見ていたくなくて、私はベンチの上でうずくまった。
 
(会いたいよ――)
 
 会って、ここから。冷たくて寂しすぎるここから、どうか救い出して欲しい。白い指で、柔らかな笑顔で、私を温めて欲しい。
 サンタクロースがいるなら、ここに志摩子さんを届けてくれればいいのにと思った。星の川を、シャンシャンと鈴を鳴らしながら、私の元へ。
 
「乃梨子……」
 
 私の、元へ。
 
「乃梨子!」
 
 シャリ、と不意に雪を踏みしめる音がして、そして私を呼ぶ声がした。
 
「志摩子……さん?」
 
 半信半疑で紡ぎだす声、あげる顔。
 少しだけ涙に歪んだ視界に、確かに『その人』はいた。
 
「どうして、ここに……?」
 
 外灯の光の下、はっきりと現れるその姿。走っていたのか、息も髪も乱れて、足元は溶けた雪で濡れている。
 来てくれた――。それは嬉しい事実であるけれど、その前にはだかる疑問がいくつもあった。
 
「だって、今朝起きたら姿が見えないし、行き先も書いていかなったから。それに居場所もころころ変わるから、心配で」
 
 息をつく志摩子さんを見ながら私は「居場所?」と首を傾げ、はたと思い出す。携帯のGPS機能は、こういう時の為にあるのではないか。
 
「ミサを抜けてきたの」
 
 その言葉に、私は志摩子さんの目を直視する。
 吐いては霧散していく白い息の向こうで、私を見つめ返すその瞳は。その青い唇は、それが本当なのだと雄弁に物語っている。
 
「あなたのことが心配で、心配で仕方がなかった」
 
 その言葉は私の心に溶けて、どこまでも温かく広がった。
 嬉しい。志摩子さんが、心配してくれて。志摩子さんが、来てくれて。志摩子さんの中に、確かに私がいることは、この上ない喜びで。
 
 ――そして嬉しいのと同じぐらい、悲しかった。
 
「駄目、だよ」
「え……? 乃梨子――?」
「駄目だよ、志摩子さん。神聖な儀式をないがしろにしちゃ。それに今だって、本当なら食事しているはずの時間でしょ?」
 
 結局は私は、利巧ぶっているだけのバカだ。改めてそう思う。
 勝手な私情で行方をくらまして、心配かけて、大切なミサまで抜け出させてしまって。これほど自らの浅慮を憎いと思ったことはない。
 志摩子さんの将来は神の下に約束されていて、それを阻むなんて許されることじゃない。だけど私は、来てくれて嬉しいだなんて。――未来へと続く道を邪魔して喜んでしまうという、卑近な人間なんだ。
 
「私なんかに構っている場合じゃないでしょう。今からでも遅くないよ。ちゃんと事情を話せば、分かってくれると思うし」
「……何を、言っているの」
「私は大丈夫だから、行ってよ。きっとみんな、心配してる」
「――乃梨子」
「私はね、志摩子さんの邪魔したくないの。荷物や、足枷なんかになりたくない。だから――」
「乃梨子――!」
 
 志摩子さんが、叫んで。
 乾いた音が鳴り響き、伝わる衝撃。熱い頬。
 もう一度正視したその瞳は、ポロポロと涙を零していた。
 
「……乃梨子のバカ」
 
 そう言って抱き締めてくる腕を、私は払いのけることができない。できるはずがない。
 ごめんなさいと言う私を、志摩子さんはただ強く抱き寄せて、もう一度だけ「バカ」と言った。私は頷き、涙を堪える方法を忘れて、志摩子さんに縋りつく。
 
「……ごめんなさい」
 
 何度も、そう繰り返しながら。
 
 

 
 
 玄関で靴を脱ぐと、私は問答無用にお風呂に放り込まれて、それから出ると今度は志摩子さんの部屋に閉じ込められた。
 白いシーツの、清楚なベッド。私はそれに腰かけ、宙を見つめる。
 何なのだろう、この状況は。シャワーで感情まで洗い流してしまったかのように、悲しみも嬉しさも消えている。ポカンと心に穴が開いたようでスースーするのに、私は何故だか落ち着いていた。
 
「……乃梨子」
 
 やがて開く扉。部屋に入ってきた志摩子さんは、ゆっくりと私の隣に腰を下ろした。
 聞いて、と私の手に触れる、白い指先。こんな風に触れ合ったのは、一体何日ぶりのことだろう。
 
「うん……」
 
 志摩子さんの言葉に頷き、私は全て受け入れようと思った。もし、万が一このことで見限られようと、ちゃんと受け入れようって。
 手に振れてくる志摩子さんの指が、しっかりと私の指に絡む。湯上りのそれは、私の指よりも温かく感じた。
 
「ずっと迷っていたの」
 
 それから志摩子さんは、ぽつぽつと語り始めた。
 
「いつからだったか分からないのだけど、シスターになりたいっていう気持ちが曖昧になってしまっていた。以前ははっきりとシスターになりたいと思っていたのに、それが薄らいでしまっていたの。……だから私は父に勧められるがまま進学して、そしてあの時の気持ちを思い出そうと、修道院の手伝いを申し出た」 
 
 志摩子さんが、繋いだ手に力を込める。
 
「けれど、駄目だった。居心地が悪いわけではないけれど、あの場所にいれば罪悪感ばかりが募って、心が剥がれ落ちていくみたいだった」
 
 虚空を見つめていた瞳が揺れて、その中に泣きそうな表情の私が映り込む。
 繋がれた手に添えられた、もう一つの手。血色のよくなった唇が、はっきりと、動く。
 
「あなたと一緒にいたい」
 
 瞳の中の私が表情を崩して。そして一筋、涙を零す。
 
「ごめんなさい。私ったら迷ってばかりで、自分勝手で。……でももうあなたに、悲しい顔なんてさせたくない。ずっとそばにいて、そして笑っていて欲しいの」
「――志摩子……さん」
 
 温かいものが顎から伝い落ちて、それが合図だったかのように縋りつく。優しくなんて出来なくて、怖い目にあった子供が母親に抱きつくように、強く。
 私はどうして、こんなに近くにあった幸せに気がつかなかったのだろう。答えはこんなに近くにあったのに。私がただ、こう言えばよかったのに――。
 
「私は、志摩子さんが、好きなの。……出会ってから、今まで、ずっと」
 
 嗚咽に途切れ途切れになる言葉に志摩子さんは頷いて、声にならない泣き声を。
 私たちはお互いの肩を濡らしながら、ただ感情の波にさらわれる。爪を立てるように背中を掻き抱いて、掠れる言葉を連ねて。
 
「私も、あなたが好きなの。何より、誰より、あなたのことが」
 
 ただそれだけを伝えるために、私たちはどれだけ回り道をしてきたのか。どれだけ心を擦り切らせてきたのか。
 今はただ、志摩子さんを感じていたかった。その存在を、この心で、受け止めたかった。傷を舐めあう行為でもいい。今まで味わってきた苦しみと、今から味わう苦しみを、分け合いたいと願った。
 
「――乃梨子」
 
 永遠のような、いつかの時が過ぎて。
 志摩子さんは私の瞳を覗きこみ、右手で首の裏に手を添える。左手は『何か』を握りこみ、そっと私の腕を滑り落ちた。
 
「クリスマスプレゼント。受け取ってくれるわよね?」
 
 そう言って開かれた左手にのっているのは、小さな二つの指輪。どちらもデザインは同じで、小指にしかはまらないサイズ。
 
「左手につけて」
 
 そっと私の手を取ると、その指輪がはめられる。その輝きは白金で、私はそれで今までのすれ違いの理由を理解した。
 本当に私はどこまで愚かなんだろう。志摩子さんはここまでしてくれたのに、それをただ拒絶されたと思っていたなんて。
 きつすぎず、ゆるすぎず収まった指輪は、尚も眩い輝きを放ち、それが私にはこの上ない喜びだった。二ヶ月前、とある店で試しでつけてみた指輪の号数を、志摩子さんは覚えていたのだ。
 
「指輪には、色々な説があるけれど。知っている? 幸せは右手の小指から入ってきて、左手の小指から出ていくんですって」
 
 だから左手に指輪にするのよ、と言いながら、志摩子さんも自らの手に指輪をはめる。
 
「もう決して、乃梨子を離したりしないように。この指で、あなたを受け止めたいの」
 
 それなら、それなら――!
 私はこの指輪を、決して手放したりしない。この輝きを失わないように、磨きをかけながら、いつまでだってつけていよう。志摩子さんと私を繋ぎ止めるように、ずっと。
 
「……けど、ごめんね。志摩子さん」
 
 しかし私には、一つ謝らなければいけないことがある。
 
「せっかくこんなにいい指輪をもらっちゃったけど、私は何も用意してなかった。本当に、ごめんなさい……」
 
 目を伏せれば、その指輪の輝きさえ弱くなるようだった。
 本当に私は、後先を考えていない。今日一日中さまよい歩いていたクセに、志摩子さんへのクリスマスプレゼントを忘れている。
 
「いいのよ」
 
 けれど志摩子さんは、小さく首を振って言った。
 
「プレゼントは、あなたの心でいい」
 
 そう言ってズームアップする端正な顔に、私は抗う理由と術を持たない。
 唇に熱い吐息を感じて、私はそっと目を閉じた。交差する唇は柔らかく、狂おしく、ひたすらに愛しい。
 
「んっ……」
 
 閉ざされた部屋に音はなく、差し込む光は月か外灯か。
 柔らかな光の中、私たちは愛しさを抱き締めあう。飽きることなく、永遠を願うかのように。
 
 鈴の音は、サンタクロースはやってこない、そんな聖夜。
 うっすらと開いた視界の向こうで舞い飛ぶ雪が、まるで初めて出会った日の桜のよう。
 たった二人の、たった二人で過ごす初めてのクリスマスが、すぐそこに迫ってきている――。
 
 

 
 
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